起5
起5 好色な男と猫のおやつ
「高橋くん……」
ペットカメラの映像を最後まで見終えたあと、陽菜は神妙な面持ちで声をかけてきた。
「美月の元カレの話なんだけど……」
猫のグリを一緒に見つけたのがその元彼だという話は聞いている。
「美月から聞いたのを思い出したんだけど……その元カレ、とにかく女性にだらしない人だったみたいで」
それも聞いている。確か、美月自身も「三股されてた」と言っていた。
「……実はね、美月の親友とも付き合ってたんだって」
それは聞いてない。
「……マジすか?」
陽菜は頷く。
「うん。高校のときから仲良かった友達なんだけど、そのせいでもう仲良くできないって……ずっと落ち込んでたの、今ふと思い出して」
もしその親友を見つけることができれば、元カレの手がかりをつかめるかもしれない。 高橋の脳内に、一つの可能性が浮かんだ。
「……それってけっこう重要な情報かもね。ペットカメラの映像もそうだけど、警察に言った方がいい」
陽菜は小さく頷いた。
「うん、この前もらった名刺、どこだっけ……」
そう言いながら、陽菜は引き出しを開けて探し始めた。名刺に記された番号に電話をかけると、沢渡と黒川は思ったより早く美月の部屋にやってきた。部屋に入ってくる彼らの足音を聞きつけ、グリがケージの中から「シャーッ」と鋭く威嚇する。知らない男たちの登場に、グリはますます警戒を強めている。
「見てほしい映像というのは」
沢渡が部屋を一瞥しながら口を開く。
「これなんですけど……」
陽菜は部屋の隅に置かれたアンティーク風の置物を指差した。見た目にはただのインテリアにしか見えない。
「見た目ではわからないんですけど、これって、ペットカメラなんです。録画された映像はスマホやパソコンで見ることができます」
「ということは……」
黒川が口を挟みかけると、沢渡が引き継ぐ。
「美月さんがいなくなった日の映像も残っているということですか?」
その問いに、陽菜はすぐに返事をしなかった。視線を横にずらし、高橋と目を合わせる。助けを求めるような陽菜の目に応えて高橋が言葉を引き取った。
「……美月さんが“連れ去られた瞬間”は、映ってはいませんでした」
「連れ去られた瞬間は…?」
黒川の眉が動いた。「というと、何か別のものが映っていた、そう聞こえますが?」
高橋は一呼吸置いてから頷いた。
「順を追って整理させてください。まず第一に、猫に対する美月さんの溺愛ぶりを考えると、自ら姿を消すとは思えません。そうなると、誰かに連れ去られたという線が濃厚になりますが……」
「それがこの部屋で起きたわけではない、と?」
沢渡が口を挟む。
「はい。その理由ですが、私が預けた仕事の書類が、この部屋に見当たらないんです」
ふたりの刑事が静かに耳を傾けている。高橋は続けた。
「最後に美月さんと会った日、私たちは外回りして、そのまま直帰しました。商談に使った資料を、美月さんが自宅に持ち帰ってくれることになっていたんです。でも、それがこの部屋にない。つまり、彼女はこの部屋に戻ってきていない」
沢渡の表情が引き締まる。
「……つまり、自宅に戻る途中で、何者かに連れ去られた可能性が高いと」
「はい。しかも、スマホやバッグも一緒に消えています。それなら一見、自ら失踪したように偽装することはできる。でも、仕事の書類まで持って行く必要はない。」
黒川は唇の端を引き結びながら頷いた。
「……なるほど、整合性がありますね」
高橋は黙ってパソコンを操作し、あらかじめ準備していた映像ファイルを再生した。
画面に映し出されたのは、薄暗い部屋の中動く猫。高橋はディスプレイを見つめながら、マウスから手を離した。
「これは、私が美月さんと外回りした日の夜。今のところ、彼女が連れ去られたと思われる夜です」
パソコンの画面には、夜の部屋が映し出されていた。照明の消えた室内で、猫のグリがじっと丸まっている。
沈黙が室内を満たす。
「少し、早送りしますね」
映像は倍速になり、グリはほとんど動かないまま夜が更け、やがて窓の向こうに朝の光が差し込む。
「……確かに、美月さんが帰ってきた形跡はないですね」
黒川が呟く。
「そうなんです。でも、本当に見てほしいのはこの日の映像じゃないんです」
「事件当日ではない?」
沢渡の目が細くなる。
「はい。最初に陽菜さんと映像を確認したとき、うっかり日付を間違えて前日の夜を見てしまったんです。でも、そのときに妙なことに気づきました」
高橋は画面を切り替え、事件の前日の夜に映像を巻き戻す。暗がりのなか、再び猫が映る。グリは同じように丸くなって眠っていたが――。
「ここからです」
数分の静寂ののち、グリがピクリと動き、何かに気づいたように起き上がった。身を起こしたグリは、ケージの端まで移動し、しばらく一点をじっと見つめていた。次の瞬間、しっぽをゆるやかに揺らし始める。
「……猫が起きましたね」
黒川が言うと、すぐさま沢渡が重ねた。
「誰かが部屋に入ってきた」
高橋は無言で頷く。
「グリは、誰かの気配に気づいて起きた。そして――」
彼は、今もケージの中で敵意を見せる猫へ目を向けた。
「この映像の中では、まったく警戒していないんです」
黒川と沢渡が同時に表情を引き締める。
「猫が警戒していないということは、馴染みのある人物が入ってきた可能性が高い」
「もちろん、美月さん本人や、ここにいる陽菜さんではありません。ふたりが入ってきたなら、まず照明をつけますから」
高橋は再びパソコンに目を戻しながら言った。
「私はこう考えています。部屋に入ってきた人物は、ペットカメラの存在を知っていて、映らないように動いた。そしてそれができるということは、美月さんと非常に親しい間柄――いや、“親しかった”人間です」
沈黙のなかで、沢渡がぽつりと呟いた。
「元交際相手か」
黒川が眉をひそめる。
「その元彼がこの部屋に来た目的はなんだ? 映らないようにしつつ、部屋に入ったってだけじゃ筋が通らない」
高橋はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「彼は“誰か”に伝えたかったんです。自分がここに来たという痕跡を。……それは美月さん本人か、あるいは、彼女が連れ去られると想定した上で、それを追う誰かに向けてのメッセージだったのかもしれません」
そう言って、高橋は棚の前に立つ。
「カメラの死角で、グリの視線を考慮すると、侵入者が立っていたのはこのあたり。ちょうど、この棚の前です」
黒川も立ち上がり、高橋の横へ歩み寄る。
「黒川、手袋」
沢渡が即座に指示を飛ばす。
白い手袋をつけた黒川が、慎重に棚を開ける。
一歩後ろにいた高橋が気づくよりも早く、ケージの中のグリが反応した。
ピクリと耳を動かし、鼻をひくつかせ、次の瞬間にはまっすぐに体を起こしていた。ケージの柵越しに棚の中を見つめ、先ほどまで敵意に満ちていた瞳が、どこか期待に満ちたものへと変わっていく。
黒川の手元には、猫用のおやつ――“カリカリだニャ”があった。小さな袋に貼られた付箋には、手書きの文字でURLが記されている。
グリは尻尾を揺らしながら、おやつを見つめていた。その仕草には、警戒も不安もない。ただ純粋に、好きなものを前にしたときの素直な喜びだけがあった。




