起2
起2 全力を尽くす
気づけば、時計の針は3時間を回っていた。背中に張りついたような鈍い痛みを引きはがすように、黒川は椅子から腰を浮かせ、ゆっくりと身体を伸ばした。口元から漏れた大きなあくびが、疲労の色を濃く映す。
データをすべて洗い出すには至らなかったが、治療費が異様に高額なものや、過去にクレームの記録があった飼い主の情報は選り分けてプリントアウトした。
束ねた紙を脇に置き、ふと、沢渡の分に手を伸ばす。パラパラとめくっていくと、ふと手が止まる。そこにあったのは、あまりにも「普通」なカルテだった。高額な治療もなければ、トラブルの記録もない。
「沢渡さん、これは?」
沢渡は目頭を親指と人差し指で抑えながら、黒川が差し出したカルテに目を落とす。
「あぁ、それか……飼い主の名前、篠崎美月って書いてるだろ?」
「はい。ご存知なんですか?」
「たまたま、今日耳にしたばかりなんだ。朝、姉が警察署に来たんだよ。妹がここ数日、行方不明だって」
「失踪……?」
黒川が思わず訊き返す。
「ま、まだ一週間も経ってないし。生活安全課は『旅行でも行ってるんじゃないか』って言ってたけどな」
「たしかに、それだけなら事件ってほどじゃ……」
「ただな、姉の話によると、その妹は猫を飼ってるらしいんだ。しかも、よっぽど溺愛してるらしくて──黙って外泊なんて絶対にしない、ってさ」
その言葉を聞いた瞬間、黒川の表情が変わった。
「あっ……!」
沢渡が無言で頷く。
「な?“あっ”ってなるだろ?」
カルテに添付された画像。そこに写っていたのは、灰色の毛並みをした小さな猫だった。
「名前は……グリ、か」
黒川が呟くように読んだ。
「明日、そのグリちゃんのとこ──篠崎美月の自宅に行ってみるか」
沢渡はそう言って、椅子にもたれながら身体を伸ばした。
翌日。
朝からの蒸し暑さに汗をにじませながら、沢渡と黒川は動物病院の通院記録をもとに、患者宅を一件ずつ訪ね歩いた。だが、どの家も平穏で、事件に結びつくような話は何ひとつ出てこなかった。
「次に近いのは…例の、失踪した女性のところですね」
リストをめくりながら黒川が言う。
沢渡は首のタオルで額をぬぐい、軽くうなずいた。
「ああ、猫のとこか」
2人は、都内の中規模なマンションの前に立ち止まった。エントランスのインターホンに手を伸ばす。
「オートロックのマンションで人さらいは現実的じゃないな」
沢渡は、半ば独り言のようにそうつぶやいて、周囲の様子を何気なく確認する。
ピンポン——
呼び出し音のあと、しばらく間をおいて返ってきたのは、女性の声だった。
「……はい」
短い返事に、沢渡と黒川が視線を交わす。
「◯◯警察署の黒川です。篠崎美月さんの件で、お話を伺いたく——」
黒川はカメラに警察手帳をかざす。画面の向こうでしばらく沈黙が流れた後、声が返ってきた。
「美月はいま不在ですが……」
「はい。先日、警察署にご相談にいらした方ですか?その件も含めて、少しお話を伺えたらと思いまして」
少し間を置いて、女性は言った。
「……わかりました。どうぞ」
オートロックが解除され、2人はエントランスを抜けてエレベーターに乗った。部屋の前に立ち、インターホンを押すとすぐにドアが開く。
出てきたのは30代前半と思しき女性。柔らかい雰囲気ではあるが、顔色にどこか不安がにじんでいる。
「◯◯警察署の黒川です」
「沢渡です」
2人が警察手帳を見せると、女性は軽く頭を下げた。
「失礼ですが、美月さんのお姉さんでいらっしゃいますか?」
「はい。姉です。……ここではなんですから、中へどうぞ」
招かれて部屋に入ると、すぐ奥に猫用のケージがあった。中では灰色の猫が丸まりながらも、警戒心むき出しの目で2人を見ていた。2人が床に座ると、陽菜はお茶を2人に出し、正面に腰を下ろした。
「お姉さんは、篠崎美月さんと一緒にお住まいなんですか?」
黒川の問いに、女性は首を横に振る。
「いえ。私は結婚しているので、普段は別々です。美月は一人暮らしです。行方が分からないと知ってから、猫の世話のためにときどき来ています」
「いなくなったと“知って”……ということは、どなたかから連絡が?」
それまで黙っていた沢渡が、急に口をはさんだ。
少したじろぎながらも、陽菜は言葉を選びながら答える。
「はい……美月の勤めている会社の方からです。実は、その方、私の大学時代の同級生で。美月のことをとても心配してくれて、いち早く連絡してくれました」
沢渡と黒川の視線が、一瞬だけ鋭く交差した。同級生——。会っておく必要があるなと。
「その……同級生の方にもお話を伺いたいのですが、お名前とお勤め先を教えていただけますか?」
黒川がやや前のめりに聞くと、陽菜は少し戸惑いながらも、うなずいた。
「はい……わかりました」
そのとき、黒川が手元のメモを確認するように視線を落とし、ふたたび顔を上げた。
「お姉さん、北原動物病院という名前に聞き覚えはありますか?」
「いいえ……すみません。初めて聞きました」
「実は、そちらの病院に、こちらの猫が通っていた記録がありまして」
「はぁ……そうですか。」
「その北原動物病院の院長——北原正人が、先日、何者かに殺害されました」
「……えっ!? まさか……妹が、その事件に関係してるってことですか?」
揺れる声に、黒川は静かに答えた。
「今の段階では何とも言えません。それをいま調べているところです」
沈黙が流れた。そしてその沈黙を破ったのは沢渡だった。言葉を選ぶように、慎重な口調で語りかける。
「ご家族が失踪して、不安なお気持ちはよくわかります。そして、この事件のことを持ち出すのは、少し乱暴に聞こえるかもしれません。でも……動物病院に関わった人間の殺人事件と失踪。偶然にして…と、思いまして」
「ええ……」
陽菜は小さくうなずくと、机の縁に指を添え、静かに視線を落とした。
「私たちも、美月さんの捜索には全力を尽くします。ですから、お姉さんも何か思い出したことがあれば、どんなに些細でも構いません。すぐにご連絡ください」
「……わかりました。でも、その動物病院のことは、私は本当に知りませんでした。猫については……以前付き合っていた男性と、ペットショップで見つけたと聞いたくらいで」
「交際していたという男性については、何かご存じですか?名前や勤務先とか」
黒川の問いに、陽菜はしばらく思案し、やがてかすかに首をかしげた。
「ごめんなさい。聞いたかもしれないけど、覚えてないんです。その男性とは、男性の浮気が原因でいろいろ揉めたらしくて、美月もあまり話したがらなかったので……」
沢渡が軽くうなずいた。
「わかりました。ありがとうございます。また何か思い出したら、すぐ教えてください」
2人が立ち上がると、陽菜もすぐに立ち上がって玄関まで見送った。マンションを出て、通りを歩きながら、沢渡がぼそりとつぶやく。
「まずは……同級生の高橋ってやつのところへ行ってみるか」
その目は、もう次の現場に向けて焦点を定めていた。




