転3
転3
沢渡と黒川は美月の部屋を出た。駅へ向かう途中、互いに口数が少なかったのは、違法薬物の売買サイトであの動画を改めて閲覧したせいだろう。
地下鉄へ降りる階段の前で、沢渡が足を止めた。
「帰らないんですか?」
階段を三段ほど下りたところで、黒川は降りてこない沢渡に気づく。
「黒川、今日はここまでにしよう。本部には俺から連絡しておく。お前は先に帰れ」
いつもより早い時間ではあったが、これ以上の聞き込み材料もなく、捜査本部に戻っても形式的な作業だけになる。妥当な判断だった。
「わかりました。今日の報告書は、明日の午前中までにまとめておきます」
黒川が言い終える前に、沢渡は来た道を引き返し、そのまま繁華街の人波へと歩き出した。
「早く終わったからって、飲みすぎないでくださいよ」
黒川の声に振り返ることもなく、沢渡は右手を軽く上げる。やや猫背のその背中は、すぐに雑踏の中へ溶けていった。
黒川は地下鉄の階段を下りながら、今日の捜査内容を頭の中で整理していた。そのとき、ふと、妹の由依のことを思い出す。
黒川には三歳年下の妹がいた。生まれつき体が弱く、青白い顔で、いつも咳をしていた。入退院を繰り返していたため、両親が由依の世話で家を空けることも多く、黒川は一人で留守番をすることが少なくなかった。
兄妹喧嘩をした記憶はない。友人たちが「喧嘩して弟を叩いた」といった話をよく聞いたが、由依に対して兄として威張ろうとは、黒川は一度も思わなかった。
由衣が小学校に入学してから、登下校は黒川が付き添った。病院通いの多かった由依にとって、通学路は楽しい冒険だった。脇道に生える雑草も、雨の日に使えるお気に入りの傘も、翌日にできる水たまりも――すべてが新鮮で、目を奪われるものばかりだった。
小学四年生の黒川は、そんな由依を学校へ連れて行き、そして必ず家まで送り届けなければならない。少しでも目を離すと、ふいに姿が見えなくなる。だから黒川は決して前を歩かず、必ず真横か、ほんの少し後ろを歩くようにしていた。
ある日の下校途中、由衣が急に足を止めた。
「由依、どうした?」
問いかけても、返事はない。由依は帰り道から外れた脇道の奥――一軒の空き家を、じっと見つめていた。
「どうした? なにかいたのか?」
再び声をかけると、由依はその空き家を指さした。
「……なんか、聞こえる」
由依が指す先を黒川が目を凝らしている間に、その視界に由依の姿が現れた。空き家に向かって走り出したのだ。
「待て、由由依!一人で行くな!」
黒川が必死で追いかけると、由依は空き家の前で立ち止まった。
一般的な二階建ての木造住宅。しかし玄関には板が打ち付けられ、中へ入れないようにされている。人が住まなくなったことで劣化は激しく、子どもの黒川には、近づくだけで罪悪感を覚えるほど不気味な建物だった。敷地は二人より高い塀で囲まれていたが門はなく、出入りは自由だった。
由依は塀に手をつき、そっと中を覗き込む。
「なぁ由依、入ったら怒られるぞ」
黒川の忠告を聞かず、由依は首を伸ばして敷地内を見渡す。敷地内は、雑草が鬱蒼と生い茂っていた。
「聞こえたの……鳴き声」
「鳴き声? お兄ちゃんには聞こえなかったぞ」
「でも、私には聞こえたの」
「鳴き声って、そもそも何の――」
ミャア……
その声はか細く、晴れた日の風にすらかき消されそうなほど弱々しかった。それでも確かに二人の耳には届いた。
顔を見合わせ、声のする方へ近づく。敷地に足を踏み入れる罪悪感は、すでに吹き飛んでいる。雑草をかき分けた先にあったのは、なぜか草の生えていない小さな空間と、そこに横たわる、まん丸な茶色の毛の塊だった。
ミャア……
毛の塊は二人に気づき、ゆっくりと顔を上げ、時間をかけて四本の足で立ち上がる。
「猫だ!」
由依が見たままの言葉を口にすると、茶色の猫は「正解です」と言わんばかりのタイミングで鳴いた。
ミャア……




