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プロローグ2

2 ラスイチ


「歩み寄りは必要ですけど、調整でなんとかいける範囲ですね。はい。先方もシステムの稼働はまだ先ですし、一ヶ月くらいは猶予をもらえています。……はい。明日、設計部と擦り合わせて金額を見直してみます。ありがとうございます。今日はこのまま直帰しますんで、はい。お疲れさまでした」

電話を切った高橋は、長かった一日の終わりをやっと実感した。難航するかと思われた先方とのプレゼンも、終わってみれば及第点。上司への報告も済み、あとは帰るだけだった。

「お疲れさまでした。私が電話対応したときは、けっこう無理難題突きつけられたんで……どうなるかと思ってました」

隣で言った美月の顔には、少しだけ安堵が浮かんでいる。

「そういう人に限って、対面だと急に優しくなったりするもんだよ。落としどころはいくつか用意してたしね」

「さすがっす」

「あざっす」

軽口を交わしながら、2人は並んで駅へと向かう。

「今日の資料、私が持ちますよ。明日、会社に持っていきますから」

「ほんと?助かるよ。……軽く食べて帰ろっか?」

「私はいいですけど……奥さん、ご飯作ってるんじゃないですか?」

「今日の相手は手強そうだったから、夜は外で済ませるかもって伝えてるんだ」

「そうですか。それなら……何系がいいですかね」

駅周辺をざっと見渡し、2人はどこにでもあるようなチェーンの居酒屋に入った。美月が店員に「2名です」と伝えているあいだに、高橋はスマホを取り出し、「外で食べてくね」と妻にLINEを送る。

メッセージはすぐに既読となり、体感で30秒ほどして、了解を示すスタンプと共に画像が届いた。チョコアイスを豪快に頬張る4歳児。口のまわりはべっとりとチョコまみれで、真剣な目つきだけが妙に凛々しい。

歩きスマホでその画像を見ながら、「野生的笑」と妻に返信したところで、美月が振り返る。

「ニヤついてますよ」

高橋は無言でスマホの画面を見せると、美月は「かわいい……」と目を細めた。

「5歳くらいでしたっけ?」

「誕生日くると、5歳だね」

子どもの話題はそれきりで、席についた2人は黙ってメニューを開く。ほどなくして、店員が来て、高橋は「生ビールを一つ」、美月は「ウーロン茶を」と注文した。

枝豆、だし巻き卵、鶏の唐揚げ、そしてシーザーサラダ。注文した料理が届くたびに、高橋と美月は箸を伸ばしていった。

最初のうちは仕事の話が中心だった。プレゼンの反応、明日出社してからの動き、他部署との調整。やがて話題はゆるやかに変わり、隣の部署の男性社員の、時折見せる予測不能な行動についてや、女性社員の間で密かに流行っているちょっとしたブームなど、他愛もない話で盛り上がった。

ひとしきり話して、美月はウーロン茶のグラスを置き、小さく息をついた。そして、ふと真顔になり、目だけがわずかに鋭くなる。

「高橋さんは……」

ひと呼吸、わざと間を置いたような口ぶりで続ける。

「なんで、お姉ちゃんと付き合わなかったんですか?」

高橋は「あー」と曖昧な声を漏らし、少し考えるふりをしてから、「んー、なんでと言われてもね」とお茶を濁した。

美月の姉、篠崎陽菜は高橋の大学時代の同級生だった。サークルは違ったが授業が一緒になることも多く、グループで飲みに行くような間柄だった。帰り道が同じ方向という理由で、何度か実家まで送ったこともある。学祭の準備で、コーヒーを振る舞う企画を立てた際には、篠崎家のコーヒーメーカーを借りに美月の家を訪ねた。美月に初めて会ったのも、まだ高校生で制服姿だった。

「相手の意思もあるじゃない」

そう答える高橋に、美月はじっと目を細める。

「じゃあ高橋さんにはその気があったってことですよね? 高橋さんが告ってたら、お姉ちゃん絶対OKしてたと思うんだよなぁ~」

自信満々で言い切るその顔は、ウーロン茶ではなくてウーロンハイを飲んでるのではないかと疑いたくなる。

「……みんなでワイワイするのが楽しい年頃だったんだよ」

高橋は言いながら、少し目を逸らした。

嘘である。――本当は、けっこう真剣に考えた時期もあった。

ただ、タイミングを測っているうちに、そのタイミングを失っただけ。そんな本音を今さら実の妹である美月には言えるわけもなく、冷静な表情を保ったまま、彼はメニューに視線を落とす。

「次は何飲もうかな」

と、飲み物欄を指でなぞりながら

「陽菜ちゃんは、元気にしてるの?」

高橋は何気ない感じを装って聞いた。学生時代、ほんの少しだけ胸を焦がしていた相手。いまさらどうにもならないとは言え、少し気になる。

「そうですね。子どもいなくて、旦那さんが単身赴任なので、いつもふわふわしてる感じです」

「そうなんだ」

期待していた新しい情報は、特になかった。ふわふわしている陽菜の様子は、大学時代から変わらない気もする。

「お姉ちゃんって、私よりスペック高いのに、なんかこう……マイペースなんですよね。もっと活かせばいいのにって思うくらい」

「まぁ、それが陽菜ちゃんのいいところでもあるけどね」

陽菜については、ふあふあしてるところが長所ということで結論づき、美月と高橋はお互い微笑んだ。

からっぽになったサラダの皿が片付けられ、テーブルの上は枝豆と唐揚げが残る。


そのとき、美月がふっと表情を変えた。

ほんの少しだけ目線は落としたが、さっきと全く変わらない口調で

「……実は、今日の会社。元彼が勤めてる会社なんです」

思いがけない告白に、高橋は思わず手にしていたグラスの動きを止めた。

「……マジで?」

「はい、マジです。ラスイチいただきます」

場の空気を軽くするように、美月は最後に残った唐揚げへ箸を伸ばす。

「ラスイチは渡さん」

高橋もすかさず箸を手に取るが、明らかに“間に合わないタイミング”でその唐揚げに向かって突っ込んだ。出来レースで見事に“ラスイチ”を奪取した美月は、満面の笑みを浮かべたまま、冷めた唐揚げを頬張った。


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