起8
起8 田と多
会社を出たあと、駅までの道のりで、沢渡は一言も発しなかった。黒川もそれを察して口をつぐみ、ただ並んで歩いた。春の日差しはやわらかく、午後のビル街には仕事を終えたビジネスマンたちが歩き始めていたが、ふたりの足取りは静かで重たかった。
やがて駅の改札前に差しかかると、沢渡は立ち止まり、軽く周囲を見渡してからぽつりと口を開いた。
「さっきの佐伯ってやつ」
胸ポケットから名刺を取り出し、指先でぺしぺしと軽く叩く。沢渡がこの仕草をするときは、その相手を調べるつもりであるという合図だ。黒川はすぐに察して問い返す。
「何か、ありました?」
「警察が来ることを知っていた。……知っていたからこそ、あらかじめ“本多”という社員の人数を把握してたんだ。リストも準備していた。外出中っていう話も怪しいな」
沢渡の声には、確信と冷静な怒りが混じっていた。
「たとえ事前に連絡したところで、スケジュールが合わないとか何とか言って、時間稼ぎするだけだ」
「どこで気づいたんですか?」
「漢字だよ」
沢渡は目線を黒川に向けず、そのまま名刺を指で弾くようにしながら答える。
「俺たちは佐伯にも、最初の受付にも“ホンダ”の漢字を伝えてない。にもかかわらず、佐伯は“本多”のリストを出してきた」
黒川の顔に軽い驚きが浮かぶ。
「なるほど……“ホンダ”なら、“田”の可能性もあるのに、最初から“多”で来たと」
「そう。で、“本多が3名”と言いきってきた。もし“本田”の可能性が頭にあれば、そうは言わない。つまり、最初から“本多”と知っていた。俺たちが追ってる相手が、誰かを」
「……さっきのリストにあった3人、どれかが本物っていう可能性は?」
「もちろんある。ただし、どこまで手を加えてるかは不明だ。俺が佐伯なら、追われてる“本多”の名前だけ、わざと一文字間違えておくかもしれない。後でバレても『誤記でした』で済むようにな」
沢渡は一度深く息を吸い、改札へ向かって歩き出す。
「どちらにしても、あの会社から直接“本多”に辿り着くのは難しい。……遠回りにはなるが、先に佐伯を探ったほうが早いかもしれん」
「にしても……まだ獣医の殺害には直接結びつく情報が出てこないですね」
「焦ってもしょうがない」
黒川の言葉に、沢渡は短くそう返し、ふたりは無言のまま改札をくぐっていった。
***
警察署に戻ると、すぐに北原殺害に関する捜査会議が始まった。捜査本部の会議室には、沢渡と黒川のほか、現場の聞き込みやデジタル捜査を担当する刑事たちが勢ぞろいしていた。
重苦しい空気の中、捜査本部長がゆっくりと口を開く。
「現時点での状況を報告してくれ」
最初に立ち上がったのは、近隣住民の聞き込みを担当していた刑事だった。
「近所の住民の話では、被害者はもともと口数が少なく、近所づきあいもありませんでした。トラブルの類も見当たりません」
続いて、別の刑事が資料をめくりながら立ち上がる。
「被害者は一度結婚しており、息子がひとりいます。数年前に離婚し、以降、元妻や息子とはほとんど接触がなかったようです。ただ、養育費は毎月滞りなく振り込まれており、金銭的な問題はなさそうです」
「患者、いや……この場合は“飼い主”になるのか。そっちとのトラブルは?」
本部長の問いに、黒川が立ち上がって応える。
「飼い主との間に大きなトラブルは確認されていませんが……その中の一人が現在、失踪中です。本件と関連があるか、並行して調査中です」
一瞬、ざわめきが走ったが、すぐに別の刑事が重ねて報告を始めた。
「通話履歴の中で、何度も発信されていた番号の1つに、契約者不明の携帯番号がありました。反社会的組織が使用する手口に酷似しており、現在、出所を調査中です」
本部長は腕を組み、ひとつ頷いた。
「防犯カメラの死角を突いてること、人気のない時間帯を狙って確実に殺害してること……計画性が高い。殺すだけの理由がなければ、ここまで緻密な犯行はしないだろう」
一同に緊張が走る。
「逆に言えば、動機さえ突き止められれば、犯人の絞り込みは早い。いいな、引き続き情報をかき集めろ」
その一言で会議は終了した。部屋を出る刑事たちの背には、まだ見えない犯人の影に対する焦りが色濃くにじんでいた。




