起7
起7 融通の約束
沢渡は胸ポケットに指を伸ばすと、警察手帳と同じサイズの小さなノートを取り出した。表紙の角が擦り切れ、ところどころに油染みのような跡が見えるそのノートには、「卵白は泡立てすぎないこと」「温度180度、焼き時間は25分(機械によって異なるのでこまめに確認)」など、細かな料理のメモがびっしりと書かれている。
定年が間近に迫る沢渡は、ひそかに料理教室へ通っていた。同僚どころか、家族にも内緒だ。入会手続きの際には「女房に捨てられたときのためです」と冗談めかして言ったものの、実際には、退職後に妻に料理をふるまい、娘や孫には手作りケーキを贈る、そんなささやかな夢を持っていた。絆創膏が貼られた指先でページをめくりながら復習していると、背後から声がかかった。
「沢渡さん、お待たせしました」
黒川だった。沢渡はノートをそっと閉じ、無造作に胸ポケットへ戻す。
「ああ…その会社まではどれくらいかかる?」
「◯◯駅で乗り換えて、△△駅までなので…20分ってとこですかね」
現場へのルートや乗り換えは、いつも黒川に任せている。沢渡が方向音痴というわけではない。ただ、捜査以外の細かい準備に煩わしさを感じる性分なのだ。黒川のようにスマホで手際よく調べてくれる相棒は、まさに気の利いた助手だった。
黒川の言葉通り、二人はおよそ20分で目的地へと到着した。【本多】という人物が勤めているはずの会社だ。エントランスの受付には女性が二人。沢渡が要件を告げると、すぐに問い返された。
「失礼ですが、その者の下のお名前や部署はお分かりになりますか?」
「申し訳ない。そこがわからないんです。苗字だけじゃ難しいですかね?」
受付の女性たちは視線を交わし、わずかに困ったような顔をした。
「上の者に確認いたしますので、どうぞおかけになってお待ちください」
ロビーのテーブル席に案内され、二人が腰掛けて間もなく、中年の男性が現れた。
「お待たせしました。人事部の佐伯と申します」
手渡された名刺には「佐伯和彦」とあった。警察と聞くと身構える人も少なくないが、この佐伯は終始にこやかで、物腰も柔らかかった。
「当社に勤務する本多という者についてお尋ねと伺いましたが…」
「はい、ある事件に関係している可能性があり、その方から話を聞きたいのです」
黒川が簡潔に事情を説明する。
「重ねてお伺いしますが、部署やフルネームなどは…?」
「ええ、そこまでは分かっていないんです。この会社には本多さんが何名いらっしゃいますか?」
佐伯はポケットから一枚の紙を取り出し、デスクに広げた。
「3名ですね。こちらがそのリストです」
「3人なら一人ずつ話を聞けば見つけられるかもしれませんが、全員が外出の多い部署に所属しています。事前に確認してみましたが、あいにく本日は3人とも不在でして。中には出張中の者もおります」
黒川が眉をひそめた。
「そうですか…今日は難しそうですね」
「ご事情は存じ上げませんが、力になれず申し訳ありません。社会の安全のためならご協力を惜しむつもりはないのですが」
沢渡は短くうなずいた。
「分かりました。今日のところは引き上げます」
沢渡がすっと立ち上がると、黒川もそれに続いた。
「次回お越しの際は、事前にご連絡いただければスケジュールを調整いたします」
佐伯は営業マンのように口角を上げ、軽く頭を下げた。最後まで実に人当たりのいい男だった。
エレベーターへ向かおうと背を向けかけた沢渡だったが、ふと立ち止まり、振り返る。
「何度も同じことを伺って申し訳ない。こちらの会社に【ホンダ】さんは、3名だけなんですね?」
佐伯は一瞬の間も置かずに答えた。
「はい。本多は3名でございます」
そのまま再び背を向け、沢渡と黒川はロビーを後にした。会話の最後に口を挟むことなく、沢渡の表情は無言のままだったが、その目は確かに、何かを見透かしていた。
佐伯は沢渡と黒川の背中がエレベーターに乗り込んだことを見届けた。佐伯から営業的な笑顔が仮面を外すようにすっと消し去る。静かにスーツの内ポケットへ手を入れ、スマホ取り出す。周囲を一瞥し、誰の視線もないことを確認すると、手早くとある番号に発信した。
「……私だ」
声は先ほどの穏やかさとは打って変わって低く、抑えられた調子だった。
「そっちの言ったとおり、警察が来たよ。ああ、適当にごまかしておいた。詮索されても問題ない程度の受け答えはしてある。約束どおり融通してくれるよな」
通話の向こうの相手に何かを言われ、佐伯の眉間がわずかに寄る。
「……わかってるよ。悪かった。そういうつもりで言ったわけじゃない。ただ、約束は守ってほしいだけだ。融通さえしてくれれば、それでいい」
しばしの沈黙のあと、彼は短く頷いた。
「ああ。無くなったら、また連絡する」
通話を切ると、スマホをポケットに戻し、何事もなかったかのように踵を返した。先ほどの営業スマイルを再び口元に貼りつけ、佐伯は静かに自分のオフィスへと戻っていった




