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プロローグ1

1 しまっていこう


「私がたまに行く喫茶店があるんで、そこで時間つぶしましょうか?」

プレゼンまで少し余裕があることに気づき、高橋悠人がどこかで涼もうと提案すると、篠崎美月は行きつけの喫茶店を教えてくれた。

「アイスコーヒー補充の時間ですもんね」

少し茶化すように、美月が笑う。

アプリ開発会社に勤める高橋と、彼の六つ下の後輩である美月は、もう二年近く一緒に仕事をしている。外出の機会も多く、自然とお互いの好みや癖にも詳しくなる。

高橋が定期的にアイスコーヒーを補充しないと、仕事のパフォーマンスが落ちることも、美月はよくわかっている。真面目なようで、少し抜けている。そんな彼の「燃料切れ」のタイミングを、彼女は自然と把握していた。

二人で行動することは珍しくない。業務の効率化のため、アプリの作成や提案で様々な会社を回っているうちに、食の好みや昼食のタイミングまで、だんだんと共有されていった。

美月もコーヒーを好むが、どれだけ酷暑でもアイスを選ぶことはない。いつもホット。それも、ミルクだけをほんの少し。砂糖は入れない。

一方、高橋は夏場の外回りにアイスコーヒーは欠かせない。プラスチックのストローが差さっていても、それを無視して、グラスの縁に直接口をつけて飲む癖がある。口には出さないが、美月はその刺さったまま使われないストローを不憫に思っていた。


アプリ開発会社に勤めてはいるものの、高橋自身がプログラムを書けるわけではなかった。最低限、業務に支障のない程度の知識はあるが、コードを組むよりも、クライアントの要望を丁寧に聞き取り、それが実現可能かどうかを見極め、必要な工数や金額を見積もるのが彼の仕事だった。「コードが書けない営業なんて」と、陰口を叩かれた時期もあったが、それも今は昔。

高橋の「これはできる」「それは現実的ではない」という見極めの鋭さは、多くの客からも一目置かれていた。経験と直感が交差するところに、高橋の強みがある。一方で、美月は少し異なるタイプだった。簡単なプログラムなら自分で組むことができる。聞けば、知り合いにプログラマーがいて、基礎からかなり熱心に叩き込まれたらしい。

「まだまだ修行中の身ですから」

美月自身はそう言っているが、彼女のコードは無駄がなく、なにより論理的だった。そのため、高橋は見積もりの際も、美月の見立てをひとつの基準にしている。頭の回転が早く、観察眼も鋭い。頼りになる後輩だった。

さらに高橋には、もう一つ決定的な弱点があった。

方向音痴である。

これはもう、自他ともに認めるほどで、打ち合わせの場所が初めて行く場所であるときは、彼の緊張度が一段階上がる。

そんなとき、地図を見るのが得意な美月の存在は心強かった。Googleマップと街の地理を一瞬でリンクさせて、迷いなく案内できる彼女に対し、高橋は道案内を頼むときだけ、やけに丁寧な口調になる。

「そちらに関しては一任いたします。ご対応いつもありがとうございます。」

「先輩、それマジでやめてくださいってば」

いつものことではあるが、美月は呆れたように笑う。


美月の言っていた喫茶店に着いた。

通り沿いに佇む小さなその店は、どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。木枠の小さな小窓が付いている扉を開けると、冷房の風と共にコーヒー豆の香りが漂ってくる。

店内に入った瞬間、美月はカウンターの奥にいた女性店員に軽く会釈をした。女性は気づいたように小さくうなずきながらこちらへ歩いてくる。

「篠崎さん、いつもありがとうございます」

丁寧な声とともに微笑む彼女は、ふたりを奥の空いている席へ案内する。エプロンの名札には「篠田」と書かれていた。

「店員さんに名前を覚えてもらってるってことは、結構来てるんだな」と高橋が心の中で思っていると、美月が言った。

「私が篠崎で、彼女が篠田さん。同じ篠を使ってますよね?前に名前の話でちょっと盛り上がっちゃって」

「電話で名前説明するとき、“篠”ってどうしてる?って話になって…」

「結論としては“篠山紀信”でしたね」

そう言って笑う美月に、店員の篠田あかりもやわらかく微笑んだ。しかし、その笑顔を見ながら高橋はふとした違和感を覚えた。表情は笑っているのに、目だけが笑っていないように見えたのだ。

「アイスコーヒーと、ホットコーヒーをひとつずつお願いします」と美月が注文すると、あかりは小さく会釈し、「少々お待ちください」と静かに言って、厨房の奥へと姿を消した。

高橋の視線は、扉の奥に消えていく彼女の背中をしばらく追っていた。

「あんまり目で追ってると、通報されますよ」

急所を貫く声が横から飛んできて、高橋は我に返った。

「キレイな女性は目で追わないと喘息になるって、不治の病なんです。」

高橋の言葉を受け。美月はテーブルに肘をつき、細い目で高橋を見る。

「…3回目ですよ、そのネタ。同じ人に同じ話を何度もするのって初老の兆候ですよ」

「初老って……。1回目は“発熱”、2回目は“腹痛”だったよ。ちゃんと症状変えてるよ」

「症状変えてまで言うネタじゃないですよ…ほんと、ダメな生き物ですよね。男って」

そう言ってお冷のコップを手に取る美月の声には、冗談に混じってどこか本音のような響きがあった。高橋は、返す言葉を一瞬見失う。美月の視線は水面に落ちていて、どこか遠くを見ているようにも見えた。

「……今の、なんか含みなかった?」

「さぁ、なんのことでしょう」

美月はあくまで淡々と微笑む。だがその微笑みも、高橋にはどこか作られたもののように思えて、少しだけ胸がざわついた。

アイスコーヒーを飲み干すと、高橋は腕時計に目をやった。

「そろそろかな」

そう言って向かいに座る美月を見ると、彼女もタイミングを合わせるようにカップを傾け、残りのコーヒーを飲み干した。

レジで高橋が2人分のコーヒー代を支払い、席に戻ると、美月は仕事用のバッグを手に取りながら、小さく声を張った。

「しまっていこう」

「……なにそれ?」

「昨日の夜、サマーウォーズってアニメ見たんです。ラスボス戦の前のセリフなんですけど、わかります? あの映画、私好きなんです」

「へえ、なんか意外。アニメとか見るんだ」

「いや、あれは熱いですよ。家族っていいなってなるし」

そう言って、どこか楽しそうに笑う美月に、高橋もつられるように口元を緩めた。

仕事とは関係のない話題で盛り上がりながら、2人はプレゼン先の会社に到着した。


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