水面の手紙
平日の午後。人気のない公園の奥、古びた遊歩道を抜けると、静かな池が現れる。
風は穏やかで、水面には空の色と周囲の木々が、ひっそりと溶け込んでいた。鳥の声も遠く、まるで世界がひとつだけになったような感覚がする。
私はベンチに腰を下ろし、膝の上にノートを広げた。スマホの電源は切ったままだ。ここへ来るときはいつもそうする。誰にも邪魔されないこの時間だけが、本当の「自分」に戻れる気がするから。
最初の一文字を書き出すのに、数分の静寂を必要とする。ペン先を紙に当てたまま、水面を見つめる。ゆらり、揺れる水。風がささやくように草を撫で、鳥の影が水に影を落とした。
私は書く。
心のなかでかたちにならなかった言葉たちを、そっと紙の上に滑らせていく。誰に読まれるでもない、小さな物語。けれど、これはきっと、誰よりも自分にとって大切な一章になる。
「もし今日、あなたがここにいたら」
そんな仮定の言葉から始まった物語は、やがて風景と重なっていく。池のほとりに現れた幻のような誰かと、自分との対話。過去でも未来でもない、今ここにある想いだけを丁寧に描く。
ページが埋まるごとに、胸のなかの重さが少しずつほどけていく。まるで、心の中にあった靄が、風に吹かれて薄れていくようだった。
気づけば、太陽が西に傾き始めていた。光は橙色になり、水面を琥珀に染めている。
私はペンを置き、深く息を吐いた。
静かだ。世界が、今日もちゃんと私のことを受け入れてくれている。
そんな気がして、私はそっと笑った。