好き 前編
「ふられちゃった」
「雨に?」
別れた彼氏が私の所へやって来た。
「うん」
彼は女と別れると必ず、私の所へやって来る。
放課後の第3音楽室。
音楽室と言っても1クラス全員が入れるような広い教室ではなく、生徒が個人練習をするための小さな部屋だ。
その部屋の中央でチェロを構えたまま、私はいつも通りのセリフを口にした。
「残念ながらヤケ酒はないのですが」
「知ってる」
そして彼…高橋英介も、いつも通りの答えを返してきた。
英介は隅に置かれたドラムセットに腰を下ろすと、「はぁ」と大きなため息をついた。
幸せがひとつ逃げていく…いや、もう逃げて行ったのか。
私はぼんやり考えながら楽譜に視線を移し、弓を構えた。
チェロの音が響きだす。
私は、音楽が好きだ。
とりわけチェロの音は最高。
低くて、体を包み込んでくれるような、安心する音。
目を閉じればまるで、温かいお湯の中にいるみたいな。
「奈緒子」
「んー」
手を止めずに私は答えた。
こういう時、英介が言う事は決まっている。
「2人でどっか行かないか。ぱあっと」
「いや」
もちろん私の答えもお決まりだ。
そのまま英介は黙り込む。
……はずなのに、その日はいつもと違った。
「なぁ奈緒子」
「んー」
驚きつつも、私は手を止めなかった。どうせ大した事じゃない。
「俺たちやり直せないかな」
音がひとつ飛び、リズムが狂う。
「きっとうまくいく」
きっとうまくいく―…そんな事が世の中にあるのだろうか?
「この前美由紀に言われたの。佐藤って絶対あんたに気がある。話しかけてみなさいよ、きっとうまくいくからって。でも佐藤には彼女がいた」
「茶化さな―…」
「茶化してなんかない!」
ギ、と耳に不快な不協和音。
とうとう私は演奏するのを諦めて、英介に顔を向けた。
「あのね、今演奏中だから。話しかけないでくれない?」
英介は、軽く肩をすくめて見せた。
私は正面の窓から外を見る。
空はもう日が落ちて暗く、星が輝き始めていた。
夜空を見ると、私はいつも気持ちが落ち着く。心が浄化されるような気がするのだ。
大きく深呼吸をすると、ゆっくりと弓を弦に乗せて、最初の音を弾いた。
流れ出す音楽。
『Someone's waiting for you』
誰かが君を待っている
別になぐさめている訳じゃない。
英介は歌詞なんて知らないだろうし、そもそも曲名を知らないだろう。
知ったらきっと怒り出すに違いない。
私は英介に笑って欲しかった。
失恋から立ち直るだけじゃない、前みたいな英介に戻って欲しかった。
絵が好きだと言った英介に。
夢を追いかけてた英介に。
きっとそこまでの気持ちは、英介には伝わっていない。
でもきっとそれでいいのだ。
音楽は時に、日常の嫌な事を忘れさせてくれる。
人を楽しい、優しい世界に連れて行ってくれる。
本当の心を映し出す。
もちろんそんな深い感動をいつも与えてくれる訳じゃない。
でも足を止めて、一瞬でも耳を傾けてくれるなら。
パチパチ…
英介が手を叩く。
「それ、何ていう曲?」
そう、それで十分。
私の通う大学は芸術系の総合大学で、私は音楽、英介は美術科の学生をやっている。
私と英介は地元の同じ高校出身なのだが、英介は、入学当初…いや、高校時代から目立っていた。
中学の時、絵画コンクールでグランプリを受賞し、その後いくつかの賞で入賞を果たし、その才能を確固たるものにした。
しかし、英介は絵を描けなくなった。
授業では落第しない程度には描いている。でも、それ以上は描かなくなった。
私は悲しかった。英介にだけは夢を諦めて欲しくなかったから。
絵を描いていた英介が、どんなに生き生きしていたか知っていたから。
彼にはどこまでも上を目指して欲しかった。
私なんかじゃ見ることさえ出来ない、もっとずっと高い所へ。
「っくしょん」
隣に立つ英介のくしゃみに、私の思考は遮られた。
場所は駅のホーム。私達は電車を待っていた。
中学が隣だった英介とは、乗る電車も同じ路線である。
「風邪?」
「そうかも」
そのまま私達は黙り込む。
でもそれは決して、居心地が悪いものではない。
むしろ付き合っていた頃より、そのどんな時よりも、今のこの瞬間が1番居心地がよかった。
相手の考えをあれこれと想像する必要も無いし、嫌われないようにと努力する必要もない。
自分は自分。相手は相手。
なのにさっきの…
私は軽く頭を振った。
あの告白まがいのセリフも、ふられた時に英介が言うセリフ集に追加だ。私も、うまい返し方を考えておかないと。
次の日の放課後、私はいつものように第3音楽室でチェロを弾いていた。
曲目は『威風堂々』。今度所属している学生オーケストラでやる曲だ。
−ゴンゴン―
防音扉が叩かれる音に、私は手を止める。
「失礼します」
そう言って1人の男が入ってくる。
「初めまして。俺、染谷と言います」
にこにこと笑いながらいきなり名乗られて、私は困惑する。
「はぁ…」
なんだろう、この人。
「突然なんですが、モデルになって下さい」
「…は」
「モデル。俺、洋画を専攻してるんだけど、今度課題で人物画を描くことになって」
「え、あの…でも」
1度だけ、過去にモデルをやった事があった。英介の絵のモデルだ。
それがきっかけで、私達は付き合うようになったのだ。
「…すみません」
私が断ると、その人はぱん!と両手を合わせ…なんと頭を下げたのだ。
「え、ちょ。や、止めて下さい!」
「このとおりです!伊藤さん、俺のイメージにぴったりなんだ!絶対邪魔はしないって約束するし、時間もそっちに合わせるし!だから、お願いします!!」
「…でも」
「あ、ヌードとか、そんな怪しい事はしないんで!!」
「当たり前です!!」
「お願い!困ってるんです!!」
「…あの、でも…」
「そこをなんとか!お願いします!!」
「…はぁ」
こうして半ば押し切られるように、私は染谷健一のモデルを勤める事になった。
毎週大体週3回、放課後にモデルをする事になった。
音楽室だといろいろ不便なので、美術棟の彫金の部屋で、私は譜面台を立てていつも通りの練習をする。
染谷さん(先輩だった)はそれを少し離れた所で見ながら、せっせと絵を描いている。
2人きりで緊張していたのは初日だけで、弾いてしまえば全然気にならなかった。
先輩も描いている時は他の事に目がいかないタイプで、私の音なんて聴こえてないみたいだ。
緊張しなかったのは多分、先輩のけろっとした性格のおかげでもあったけど。
先輩は不思議な人だった。
「先輩、今度奨学生で留学するってほんとですか?」
「まあね。俺ってすごいから」
その上、とんでもない自信家だ。
「伊藤も将来自慢になるよー。あの天才画家のモデルをやった事があるって」
「…不安にならないんですか。いつか…描けなくなるかもって」
「そう思ったら終わりだね」
終わり…
ぐさっときた。
「でもそこからまた、描けるようにだってなりますよね」
「さぁ」
「さぁって…」
「認められなかったら金にならない。金にならなかったら、芸術家としてやってくのは難しいよね」
先輩の言葉は辛らつだ。けれど、真実だった。
「…弾けないの?」
先輩が、ぽつりと言った。
私は驚いて顔を向ける。
「え?」
「ま、俺に聞かれたってどうしたらいいかなんてわかんないけど」
「ちが、私じゃ…」
「人の心配してんの?」
手を止めて、心底驚いたように先輩が聞き返す。
何故だか責められているようで、私は視線を下げた。
「まぁ、心配するのは勝手だけどさ、結局やるやらないは自分1人の問題じゃん」
「…」
「誰に何を言われても、描けない時は描けない。…と思う、俺はね。まぁ、なったことないからわかんないけどー」
「…自信家ですね、先輩って」
私は楽譜に視線を移した。
『威風堂々』。まるで先輩のために書かれた曲みたいだ。
焦る事も不安になる事もなくて、いつも自分のペースを保っている。
才能があって、自信があって、自分を輝かす術を知っている。
人に妬まれる事があっても、この人はそんなの気にしないだろう。
私なんかとは、大違い。
「比べない方がいいよ」
明るい先輩の声に、手を止めていた私ははっと顔を上げた。
先輩はキャンバスを真剣な顔で見つめている。けれど口元には笑みが浮かんでいて、声の調子もいつもと同じだ。
「誰かと比べるのは止めた方がいい。特にこういう分野は。自分はこれが好きなんだって気持ちを、持ち続けないと」
図星を指された悔しさから、私は思わず声を荒げた。
「比べてなんかないです。私はちゃんと、自分のやりたい事とか出来る事とかわかってるし」
「へぇ。何?」
少し挑戦的な先輩の声。
「オーケストラで弾きたいんです。テーマパークとがミュージカルのバックで」
話ながら、私は心が落ち着いてくるのを感じていた。
そう、私は自分の夢に誇りを持っていたはずだった。これが私の夢なのだ。身の丈に合った夢。
ただ…先輩を見てると、その私の夢がちっぽけなものに思えてくるだけなのだ。
「へーかっこいい。すごい」
やはり先輩はキャンバスから目を離さない。
私は何だか突然、深刻な考え方をしている自分が馬鹿らしくなった。
「子供の頃、遊園地に行ってショーを見たんですけど、ほらあの、バックで楽器演奏してる人いるじゃないですか」
「?うん。あ、しゃべってもいいけど動かないでね」
「そのショーで、舞台の上の端で、ずっと太鼓叩いてるお兄さんがいて。その人がずっと笑顔なんですよ!見てるこっちが笑っちゃうような」
「ふーん。それで、ショーのバック?」
「そうなんです!」
「それってそのお兄さんが格好良かったからだったりして…」
「それもあります」
「あるんかい」
言い切った私に先輩がつっこむ。
子供の頃の夢。今の私の夢。
子供の頃のあのわくわくするような気持ちが蘇ってきて、私はにっこりと笑った。