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好き  作者: 陸たまき
1/2

好き 前編

「ふられちゃった」

「雨に?」


別れた彼氏が私の所へやって来た。


「うん」


彼は女と別れると必ず、私の所へやって来る。




放課後の第3音楽室。

音楽室と言っても1クラス全員が入れるような広い教室ではなく、生徒が個人練習をするための小さな部屋だ。

その部屋の中央でチェロを構えたまま、私はいつも通りのセリフを口にした。

「残念ながらヤケ酒はないのですが」

「知ってる」

そして彼…高橋英介も、いつも通りの答えを返してきた。

英介は隅に置かれたドラムセットに腰を下ろすと、「はぁ」と大きなため息をついた。

幸せがひとつ逃げていく…いや、もう逃げて行ったのか。

私はぼんやり考えながら楽譜に視線を移し、弓を構えた。

チェロの音が響きだす。



私は、音楽が好きだ。


とりわけチェロの音は最高。

低くて、体を包み込んでくれるような、安心する音。

目を閉じればまるで、温かいお湯の中にいるみたいな。




「奈緒子」

「んー」

手を止めずに私は答えた。

こういう時、英介が言う事は決まっている。

「2人でどっか行かないか。ぱあっと」

「いや」

もちろん私の答えもお決まりだ。

そのまま英介は黙り込む。

……はずなのに、その日はいつもと違った。

「なぁ奈緒子」

「んー」

驚きつつも、私は手を止めなかった。どうせ大した事じゃない。

「俺たちやり直せないかな」

音がひとつ飛び、リズムが狂う。

「きっとうまくいく」


きっとうまくいく―…そんな事が世の中にあるのだろうか?


「この前美由紀に言われたの。佐藤って絶対あんたに気がある。話しかけてみなさいよ、きっとうまくいくからって。でも佐藤には彼女がいた」

「茶化さな―…」

「茶化してなんかない!」

ギ、と耳に不快な不協和音。

とうとう私は演奏するのを諦めて、英介に顔を向けた。

「あのね、今演奏中だから。話しかけないでくれない?」

英介は、軽く肩をすくめて見せた。




私は正面の窓から外を見る。

空はもう日が落ちて暗く、星が輝き始めていた。

夜空を見ると、私はいつも気持ちが落ち着く。心が浄化されるような気がするのだ。

大きく深呼吸をすると、ゆっくりと弓を弦に乗せて、最初の音を弾いた。

流れ出す音楽。


『Someone's waiting for you』

誰かが君を待っている



別になぐさめている訳じゃない。

英介は歌詞なんて知らないだろうし、そもそも曲名を知らないだろう。

知ったらきっと怒り出すに違いない。

私は英介に笑って欲しかった。

失恋から立ち直るだけじゃない、前みたいな英介に戻って欲しかった。

絵が好きだと言った英介に。

夢を追いかけてた英介に。




きっとそこまでの気持ちは、英介には伝わっていない。

でもきっとそれでいいのだ。

音楽は時に、日常の嫌な事を忘れさせてくれる。

人を楽しい、優しい世界に連れて行ってくれる。

本当の心を映し出す。

もちろんそんな深い感動をいつも与えてくれる訳じゃない。

でも足を止めて、一瞬でも耳を傾けてくれるなら。



パチパチ…

英介が手を叩く。

「それ、何ていう曲?」

そう、それで十分。





私の通う大学は芸術系の総合大学で、私は音楽、英介は美術科の学生をやっている。

私と英介は地元の同じ高校出身なのだが、英介は、入学当初…いや、高校時代から目立っていた。

中学の時、絵画コンクールでグランプリを受賞し、その後いくつかの賞で入賞を果たし、その才能を確固たるものにした。


しかし、英介は絵を描けなくなった。


授業では落第しない程度には描いている。でも、それ以上は描かなくなった。

私は悲しかった。英介にだけは夢を諦めて欲しくなかったから。

絵を描いていた英介が、どんなに生き生きしていたか知っていたから。

彼にはどこまでも上を目指して欲しかった。

私なんかじゃ見ることさえ出来ない、もっとずっと高い所へ。




「っくしょん」

隣に立つ英介のくしゃみに、私の思考は遮られた。

場所は駅のホーム。私達は電車を待っていた。

中学が隣だった英介とは、乗る電車も同じ路線である。

「風邪?」

「そうかも」

そのまま私達は黙り込む。

でもそれは決して、居心地が悪いものではない。

むしろ付き合っていた頃より、そのどんな時よりも、今のこの瞬間が1番居心地がよかった。

相手の考えをあれこれと想像する必要も無いし、嫌われないようにと努力する必要もない。

自分は自分。相手は相手。


なのにさっきの…


私は軽く頭を振った。

あの告白まがいのセリフも、ふられた時に英介が言うセリフ集に追加だ。私も、うまい返し方を考えておかないと。





次の日の放課後、私はいつものように第3音楽室でチェロを弾いていた。

曲目は『威風堂々』。今度所属している学生オーケストラでやる曲だ。


−ゴンゴン―


防音扉が叩かれる音に、私は手を止める。

「失礼します」

そう言って1人の男が入ってくる。

「初めまして。俺、染谷と言います」

にこにこと笑いながらいきなり名乗られて、私は困惑する。

「はぁ…」

なんだろう、この人。

「突然なんですが、モデルになって下さい」

「…は」

「モデル。俺、洋画を専攻してるんだけど、今度課題で人物画を描くことになって」

「え、あの…でも」

1度だけ、過去にモデルをやった事があった。英介の絵のモデルだ。

それがきっかけで、私達は付き合うようになったのだ。

「…すみません」

私が断ると、その人はぱん!と両手を合わせ…なんと頭を下げたのだ。

「え、ちょ。や、止めて下さい!」

「このとおりです!伊藤さん、俺のイメージにぴったりなんだ!絶対邪魔はしないって約束するし、時間もそっちに合わせるし!だから、お願いします!!」

「…でも」

「あ、ヌードとか、そんな怪しい事はしないんで!!」

「当たり前です!!」

「お願い!困ってるんです!!」

「…あの、でも…」

「そこをなんとか!お願いします!!」

「…はぁ」


こうして半ば押し切られるように、私は染谷健一のモデルを勤める事になった。




毎週大体週3回、放課後にモデルをする事になった。

音楽室だといろいろ不便なので、美術棟の彫金の部屋で、私は譜面台を立てていつも通りの練習をする。

染谷さん(先輩だった)はそれを少し離れた所で見ながら、せっせと絵を描いている。

2人きりで緊張していたのは初日だけで、弾いてしまえば全然気にならなかった。

先輩も描いている時は他の事に目がいかないタイプで、私の音なんて聴こえてないみたいだ。

緊張しなかったのは多分、先輩のけろっとした性格のおかげでもあったけど。


先輩は不思議な人だった。


「先輩、今度奨学生で留学するってほんとですか?」

「まあね。俺ってすごいから」

その上、とんでもない自信家だ。

「伊藤も将来自慢になるよー。あの天才画家のモデルをやった事があるって」

「…不安にならないんですか。いつか…描けなくなるかもって」

「そう思ったら終わりだね」

終わり…

ぐさっときた。

「でもそこからまた、描けるようにだってなりますよね」

「さぁ」

「さぁって…」

「認められなかったら金にならない。金にならなかったら、芸術家としてやってくのは難しいよね」

先輩の言葉は辛らつだ。けれど、真実だった。

「…弾けないの?」

先輩が、ぽつりと言った。

私は驚いて顔を向ける。

「え?」

「ま、俺に聞かれたってどうしたらいいかなんてわかんないけど」

「ちが、私じゃ…」

「人の心配してんの?」

手を止めて、心底驚いたように先輩が聞き返す。

何故だか責められているようで、私は視線を下げた。

「まぁ、心配するのは勝手だけどさ、結局やるやらないは自分1人の問題じゃん」

「…」

「誰に何を言われても、描けない時は描けない。…と思う、俺はね。まぁ、なったことないからわかんないけどー」

「…自信家ですね、先輩って」

私は楽譜に視線を移した。

『威風堂々』。まるで先輩のために書かれた曲みたいだ。

焦る事も不安になる事もなくて、いつも自分のペースを保っている。

才能があって、自信があって、自分を輝かす術を知っている。

人に妬まれる事があっても、この人はそんなの気にしないだろう。


私なんかとは、大違い。


「比べない方がいいよ」

明るい先輩の声に、手を止めていた私ははっと顔を上げた。

先輩はキャンバスを真剣な顔で見つめている。けれど口元には笑みが浮かんでいて、声の調子もいつもと同じだ。

「誰かと比べるのは止めた方がいい。特にこういう分野は。自分はこれが好きなんだって気持ちを、持ち続けないと」

図星を指された悔しさから、私は思わず声を荒げた。

「比べてなんかないです。私はちゃんと、自分のやりたい事とか出来る事とかわかってるし」

「へぇ。何?」

少し挑戦的な先輩の声。

「オーケストラで弾きたいんです。テーマパークとがミュージカルのバックで」

話ながら、私は心が落ち着いてくるのを感じていた。

そう、私は自分の夢に誇りを持っていたはずだった。これが私の夢なのだ。身の丈に合った夢。

ただ…先輩を見てると、その私の夢がちっぽけなものに思えてくるだけなのだ。

「へーかっこいい。すごい」

やはり先輩はキャンバスから目を離さない。

私は何だか突然、深刻な考え方をしている自分が馬鹿らしくなった。

「子供の頃、遊園地に行ってショーを見たんですけど、ほらあの、バックで楽器演奏してる人いるじゃないですか」

「?うん。あ、しゃべってもいいけど動かないでね」

「そのショーで、舞台の上の端で、ずっと太鼓叩いてるお兄さんがいて。その人がずっと笑顔なんですよ!見てるこっちが笑っちゃうような」

「ふーん。それで、ショーのバック?」

「そうなんです!」

「それってそのお兄さんが格好良かったからだったりして…」

「それもあります」

「あるんかい」

言い切った私に先輩がつっこむ。


子供の頃の夢。今の私の夢。

子供の頃のあのわくわくするような気持ちが蘇ってきて、私はにっこりと笑った。 







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