ありふれた農村-1
ピューッという鳥の声に、リンシャは空を見上げた。雲ひとつない青空をいくつもの黒い影が通り過ぎていく。
サタナドリの群れだ。
リンシャは編んでいた藁を放り出すと、素早く家から狩りの弓を持ち出しサタナドリの群れを追った。
サタナドリは体が小さく警戒心が強いが、長く飛び続けることができない。
彼らが羽を休めようと水辺に身を寄せる瞬間は、狩りの絶好の機会なのだった。
村を出て道を駆けることしばし、リンシャは村の南西に広がる森にたどり着いた。耳をすませば、ピューッというサタナドリたちの声がかすかに聞こえる。
いつもの泉で間違いない。リンシャは足音を立てないよう、そっと森に足を踏み入れた。
太陽の白い光がこぼれ落ちる森の地面はデコボコとしており、人ではない生物の気配であふれていた。森特有の湿った土の匂いが鼻孔をくすぐる。
森は豊かで、危険で、変化に満ちている。リンシャは幾度となく歩いた勝手知ったる木々の隙間を足音に気をつけながら歩いた。
リンシャは退屈な農村の生活よりも、森での狩りを好んでいた。
しばらくすると木々の向こう側に小さな泉が見えた。水面がそよ風に吹かれてゆらゆらと揺れている。白い太陽が反射してキラキラと輝く泉に、リンシャは目を細めた。
泉の周辺には、ピューピューと鳴きながら水を飲むサタナドリたちがいた。
リンシャは彼らに気取られないように木の陰に隠れ、肩にかけていた弓に矢をつがえた。
静かに息を吐き、そっと弓を引く。
ヒュッ。矢が風を貫いて、一匹のサタナドリに突き刺さった。驚いた周囲のサタナドリたちはがたたましく喚きながら飛び去っていく。
その場には矢が突き刺さったサタナドリとリンシャだけが取り残された。
仲間に見捨てられた一匹のサタナドリはジタバタと暴れ、黒い羽を散らして逃げようする。しかしやがて力尽きたのか、弱々しく羽をバタつかせるだけになった。
矢傷から赤い血が流れ、小さな黒羽と湿った地面を赤く染めた。
5月とはいえ、死んだ動物の腐敗は早い。
仕留めたサタナドリを回収しようと、リンシャが泉へと歩み寄った時、木々の隙間から声がした。
「いい腕だね」
弾かれたように顔を上げたリンシャの目に、一人の青年が映る。
いつからそこにいたのか、彼は少し離れた木の陰に立っていた。
黒色の髪を高いところで一つにまとめた、背の高い男だった。生気のない肌は白く、一度だけ訪れたことがある街の教会の漆喰の壁を連想させた。目は髪と同じく黒かった。
どこの地域の人間だろうか。
生まれ育った農村を離れたことがないリンシャには、その顔立ちも身体を構成する色彩も、見慣れないものだった。
「あなた誰?」
リンシャはすぐに弓を構えられるようそろりと弓に手を伸ばした。
その警戒を見取ったのか、青年は苦笑して両手を上げる。
敵意がないことを示すためだ。
「僕はルザ。ルザ・ハ・イール。旅をしている。君の名前は?」
リンシャが今までに聞いたことのない名前だ。やはりこのあたりの人間ではないのだろう。
大きな荷物を背負っていることからも、彼が旅人というのは本当なのだろうと分かった。
しかし、こんな辺鄙な何をしに来たのかという疑問が残る。しかも森の中に。
いくら旅人といえど、道なき道(それも知らない森の中を!)旅する訳ではないはずだ。
「あたしはリンシャ。そこの農村の人間よ。あなたはなんで森の中にいたの?」
「故郷の森に似ていたから」
彼は気が抜けた表情で、いい場所だなぁ、と言って森を見回した。
その仕草はいかにも凡庸で穏やかそうな人間に見えた。
年の割に落ち着いているようで、彼からは村の男衆たちよりは、じっさまやばっさまに近い雰囲気が感じられた。
「……? そういうものなの?」
「なにが?」
「……旅ってもっと、こう、危険なものじゃないの!? 一歩進めば盗賊と魔物、帰ろうとしたら死喰い族の群れに襲われて、道を歩けばドラゴンが飛んでくるって……」
「うーん、反応に困るな……」
数年に一度リンシャの農村を訪れる行商人は、始めて行く地域では街道を通るときにも護衛を雇うと言っていたのに!
ル……名前の長い旅人は、困ったように眉をよせている。
「そういう危険はない訳じゃないけど、相当不運じゃなければ死喰い族の群れもドラゴンも出てこないよ」
「……ッ!? そう、だったのね!! 父さんもばっさまも嘘ついてたんだ!!」
リンシャが旅に出てたいと言うたびに、その父や村の長齢の者は恐ろしい話を言い聞かせたものだった。
もちろんリンシャを村から出したくないために、大げさに話しているのだろうとは思っていたが……
何度も聞かされる内に、もしかすると本当かもしれないと、リンシャは震える思いをしたのだった。
だが、それも過去のことだ。
リンシャはキリッとした目で名前の長い旅人を見た。
「あなた、名前なんだったかしら」
「ルザだよ。言いにくい?」
「ちょっとだけ……ねえ、あたし旅に出るって今度こそ決めたわ。あなたのおかげよ。それで相談したいんだけど、初めに向かうならどこがいいと思う? やっぱり異国かしら。でも先に王都にも行ってみたいのよね」
つめよるリンシャに、余計なこと言ったかもしれない……とルザが小さく呟いた。
彼はチラリとリンシャの足元に目を向けた。
「……そ、その鳥の処理はしなくていいの?」
「!!」
慌ててリンシャはサタナドリの回収を再開した。
早く血抜きをしなければ、肉が不味くなってしまう。小さな黒い体から矢を引き抜いて、足を紐で縛りながらリンシャは尋ねる。
「あたしそこの村に住んでるんだけど、あなた今日泊まるところあるの?」
リンシャの村は田舎も田舎、隣の村まで歩いて半日かかるような場所にある。
リンシャの村の他に訪ねるあてがあるようには思えなかった。
ルザはのほほんと答えた。
「ないね」
どうやら彼は無計画でここにいるらしい。
リンシャはサタナドリを吊るした紐を木の棒の端に結びつけ、肩にかけた。
「うちの村に来ない?」
「いいの?」
「みんなきっと喜ぶわ。外の人なんかめったに来ないから」
じゃあお言葉に甘えようかな、と言うルザはやはり気が抜けた様子で、こんなので一人旅が成立するのだろうかと、リンシャは不思議だった。
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村に戻ると、一番初めにルザに気づいたのは外れで遊んでいた子どもたちだった。
子どもたちはルザを見るなり騒ぎ始めた。村の外の人間が物珍しいのだろう。少し距離を取りながらルザを囲んではしゃいでいる。
「姉ちゃん姉ちゃん、この人だれ?」
「かみのけ黒い!!」
「なんか弱そう!!」
「なあなあ、名前なんて言うの?」
「ルザだよ。ルザ・ハ・イール」
「聞いたことない!!」
「変な名前ー!!」
「コラッ、失礼でしょ!」
畑と畑に囲まれた道を歩きながら、ルザは子供たちの質問に答えていく。
ルザは無軌道な子供たちの会話に付き合ってくれているようだった。
しゃくしゃくと道草を踏みしめて駆け回っては喜ぶ子供たちを、リンシャは微笑ましく思った。
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騒ぎが聞こえたのだろうか。
村長宅の前に着いたときには、既にばっさまが外で立っていた。
村長宅は古びてところどころ壊れているが、村で一番大きい木造りの家である。
腰が曲がり痩せたばっさまはこの村で一番高齢で、五十年以上生きているという話だった。
ばっさまはルザを見ると、驚いたような声を上げた。
「なんとまあ。浅学な身なれど、五十年も生きていれば大抵のことには驚かなくなりまするが……わたくしのまったく知らぬ容貌をされておられる。この周辺の国の人間ではありますまい。相当遠くから来なさったようで……」
「遠い東の生まれです。ここから歩けば五年はかかろうという場所ですので、お知りにならないのも当然でしょう」
ルザはリンシャと話していたときとは打って変わって、丁寧な口調でばっさまと話している。
ばっさまは話が長く、持って回った言い回しをするのだが、ルザには問題ではない様だった。
「それはまた随分と旅をされたようで……ぜひ話をお聞きしとうございます。このように辺鄙な村です、眠るところにお困りでしょう、わたくしの家に泊まられると良い。わたくしは村長のイヨンです。旅のお方、名前をお聞きしてもよろしいか?」
「ルザ・ハ・イールといいます」
「……ほう?」
一度では聞き取れなかったようだ。リンシャと同じである。
「ルザでも、旅の者でも、自由にお呼びください。どうもこの辺りでは僕の名前は発音しにくいようで……」
「ううむ、そうですな。お言葉に甘えて旅のお方と呼ばせていただこう。……これ、リンシャや、ここまで旅のお方をお連れしてご苦労であったが……先程までお主の父親はお主を探しておったのだぞ。また何も言わずに家を飛び出したのであろう。早く帰ってレイドに顔を見せてやりなさい」
「うっ」
ばっさまの厳しい視線に耐えかねて、リンシャはそっと目を逸らした。
家に帰れば、勝手に狩りに出かけたことを叱られるのは目に見えていた。
しかし、これ以上この場所にいても出来ることが無いのも分かっていた。
ばっさまは遠くから来たルザを気にいったようだったし(行商人が訪れる時も、ばっさまは上機嫌で何日も家に泊める。ものを知るのが大好きなのだ!)、きっと問題はないだろう。
リンシャは気のない返事をすると、ルザに一言告げて帰路をたどった。
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リンシャの家は農村の外側、村の家々の中でも比較的森に近い所に位置している。
建てられてから長い木造りの家の隣には、狩って来た獲物を保管しておくための納屋が建てられている。
そこにサタナドリを置くと、リンシャは恐る恐る家の扉を開いた。
案の定と言ったところか、父親のレイドは怒り心頭といった面持ちで彼女を待ち受けていた。
「リンシャ!! お前、また森に行っただろう!! 仕事を放り出して!!」
父親の怒鳴り声にリンシャは顔をしかめた。
リンシャを探していたという話をばっさまから聞いて、素直に謝るつもりだった。
しかし頭ごなしに叱られると、思わず、ごにょごにょと言い訳じみた返事をしてしまう。
「あ、遊んでた訳じゃないの。サタナドリがちょうど来てたから、それで、ちょっと家を離れただけで、行ったのも森の入口だけだし……」
「そういうことを言っているんじゃない!! 一人で森に行くなと何度言わせるんだ!!」
「ッ、弓だってもう使える、森だって慣れてる!! あたしだってもう子供じゃないんだから、ちょっとぐらい良いじゃない!!」
リンシャには不満があった。彼女と同世代の少年──アドはすでに一人前として、村の男衆たちの狩りに同伴することが許されていることだ。
弓の腕だけであればリンシャの方が上であるというのに!
「なんで一人前だって認めてくれないの!? あたしが女だから!?」
「違う、お前は何もわかっちゃいない!! だいたいサタナドリなんか射て、なんの意味があるんだ!! 肉も羽もまともに取れないんだぞ!!」
リンシャがサタナドリを狙うのは、彼らが小さく素早いからだ。大きくて鈍い動物を射たところで、何もすごくはない。
「あたし決めたんだからッ!! 旅に出るって!!」
「……まだそんな馬鹿なことを言っているのか。お前はまたそうやって、よく知りもしないで……」
「何も教えてくれないからよ!! あたしはもう決めたの!!」
父親との口論に耐えかねて、リンシャは家を飛び出した。
日が暮れ始めた空は赤く染まっている。草むらで虫の音が鳴り始めていた。
大きくため息を吐くと、高ぶっていた気持ちが静まっていくのが分かった。
……嫌われているわけではない。父親はリンシャを心配している。
そして、リンシャもまたまったく父親を嫌っているわけではないのだ。
母親が死んだ後も大切に育ててくれた。狩りに興味を示したときも、子供用の弓と的をわざわざ作ってくれた。
幼いリンシャが、父親が狩りに出かけている間も寂しくないように、と。
リンシャは父親を尊敬している。狩人としても人間としても。
だからこそ、認められたい。
そのためなら、手の皮が剥けるほど弓を練習することも苦ではないというのに。
「なんでケンカしちゃうんだろう……」
頭ごなしに否定されるとカッとなってしまうのは自覚している悪い癖だった。
家を飛び出してしまっては、寝る場所がない。流石に外で眠るのは無用心であるし、一応年頃の娘であるため恥ずかしさもある。
今は旅人のルザがいるはずだが……ばっさまの広い家であれば、部屋の隅くらいは貸してくれるだろう。
リンシャはとぼとぼと村長宅へ向かって歩き始めた。




