9 出会いの思い出とお守り
――七歳の頃。
レジーナとルカは、祖父の執務室で初めて顔を合わせた。
一ヶ月ほど前に、祖父からは話があった。
同い年の男の子を一人、預かることになった、と。
(どんな子だろう。仲良くなれたらいいなぁ)
などと、幼いレジーナはワクワクしながら、その日を待っていたのだった。
当時はまだ自分に異母妹がいることなど、つゆほども知らなかったので、レジーナは初めて兄弟ができるような心地で嬉しかったのだ。
そんな浮き立つ気持ちで迎えた当日。
祖父に呼ばれて執務室に入り、レジーナはついに、その少年の姿を目に映した。
高い本棚が並ぶ、厳めしい執務室の中……場の雰囲気から浮くように、キラキラと華やかな子がいたのだった。
背はレジーナと同じくらい。
金糸の髪と透き通った青い目は、まるで宝飾品のよう。
痩せてはいたけれど、その容貌は高価な人形さながらだった。
(わぁ、なんて綺麗な子! この子はもしかして、天使じゃないかしら……!)
きっと背中には白い羽が生えているに違いない!
なんて、疑いもなく信じ込んでしまうほど、少年の容姿は美しかった。
そして、どこか別の世界から来たような、独特で不思議な空気をまとっていたのだった。
レジーナが目を輝かせて歩み寄るのと同時に、祖父がその天使の背を押した。
「ほらルカ、挨拶なさい」
祖父に命じられ、そっぽを向いていた少年はレジーナに視線を向ける。
宝石のような青い瞳がレジーナをとらえ、その美しい唇が動き――……
「は? なんで俺がこんな、パンに生えたカビみたいな女の相手しなきゃいけねぇんだよ」
……――とんでもない悪態が飛び出してきた。
レジーナは思わずポカンと口を開ける。
まったく想像していなかった事態に、脳が凍りついた。
(……あ、あれ……? 今わたくし、天使に、悪口言われた……?)
パンに生えたカビ、というのは、もしかしてレジーナの銀の髪色を馬鹿にしたのだろうか。
祖父はやれやれといった顔で、口元に整えられたグレーの髭を撫でる。
これは祖父が深く考え込む時の癖だ。
その間にも、ルカと呼ばれた少年の憎まれ口は続く。
「おいカビ女。これ以上こっち来んなよ気持ち悪ぃ。カビがうつる」
レジーナの凍り付いた脳は、二度目の悪口で急速解凍された。
頭の回転が戻り、瞬時に認識が改められる。
(……こ、この男の子……天使どころか、悪魔だわ!!)
この少年は、悪魔だ。
レジーナはそう断定した。
だって初対面の女の子相手に、悪びれもせずにこんなことを言うなんて。
心に悪魔が宿っているとしか考えられない。
(……――そうと決まれば、わたくしだって、それなりの挨拶をしてやるんだから……!)
髪色を馬鹿にされ、幼い負けん気に少しばかり火がついた。
持ち前の機転をきかせ、レジーナは自己紹介のセリフを、脳内で素早く組み立て直す。
本当は、『ずっと楽しみに待っていたの。あなたと会えて嬉しいわ』なんて、澄ました挨拶をするつもりだったのだけれど。
無礼な悪魔が相手なら、対応も変わってくる。
ルカの口から、三度目の悪態が飛び出ようとした時。
レジーナは売られた喧嘩を、笑顔で買ってみせたのだった。
「カビ女、というのは、わたくしの髪色を例えたの? そうだとしたら、あなたは金髪だから、毛虫男って呼んであげる。わたくし、あなたによく似た、妙ちくりんな金色の毛虫を見たことがあるもの。毛虫男くん、これからよろしくね」
今度はルカが、ポカンと口を開けた。
それからは悪口の応酬だった。
二人とも七歳とは思えないほどの語彙を駆使して、お互いを罵り合った。
祖父は渋い表情でその様子を見守り、初日の喧嘩は夜遅くまで続いたのであった。
これが、レジーナとルカの勝負の始まりである。
結局、二人の喧嘩に区切りがついたのは、なんと一週間後のこと。
両者共にのどを痛めて、すっかり声が嗄れてしまったので。
あえなく休戦となったのだった。
レジーナは一時休戦を迎えたその日、庭掃除に駆り出されていたルカの元を訪ねた。
痛むのどを無理やり動かし、掠れた声でルカへと声をかける。
「……ねぇ、ルカ。今回の喧嘩はいったん終わりにするけれど、わたくし、負けるつもりはないから……のどが治ったら、あなたを打ち負かしてやるわ」
「……まだ続けんのかよ……俺もうお前と喋りたくねぇんだけど」
「じゃあ、あなたの負けね!」
「は!? 負けてねぇし!!」
思わず熱が入りかけるが、二人とものどの痛みに呻いて、無言になる。
けれどその沈黙は、さっさと破られた。
レジーナはスカートのポケットから小瓶を取り出し、ふたを開けて、ルカへと差し出す。
小瓶の中に入っているものは、金色の飴玉だ。
「これ、あげるわ」
「……なんだよこれ」
「え、飴よ、飴。知らないの? のどに良いかと思って。舐めてるとちょっと楽になるから。甘くて美味しいわよ」
ほら、と瓶をルカに向けて傾ける。
ルカは迷ったように手をさまよわせたが、甘い香りに耐えかねたのか、一粒摘まみ上げて口に放り込んだ。
レジーナは、どう、美味しい? と感想をたずね――ようとしたが。
ルカは次の瞬間には、その場から全力疾走で逃げ出してしまったのだった。
突然のことにレジーナは面食らう。
追いかけようとも思ったけれど、その時はなんだか体が、上手く動いてくれなかった。
去り際に一瞬見えたルカの顔が、泣きそうに歪んでいたように見えたので……
そうやって、レジーナとルカの関係は始まった。
その後もルカの暴言は止むことなく続いていたが、人間は何事も、続けば慣れるというものだ。
投げられる酷い悪口も、すっかりレジーナの日常の一部と化してしまった。
『この男は悪魔なのだ』と決定づけてしまえば、すべての悪行に諦めがついたし、気をもむようなことでもなくなった。
猫に粗相をされても、『猫はそういう生き物だから』で済まされる心理に近い。
そうして、なんだかんだと歳月を重ねていった。
出会った七歳当時にはわからなかったけれど、大人になるにつれて、ルカの来歴もなんとなく察していった。
孤児院で容姿を気に入られて貴族に拾われたものの、粗野な性格を嫌われ、家から家へたらい回しにされていたようだ。
そうして最後にたどり着いたところが、祖父の元であったらしい。
乱れた人生を歩んでくれば、性格も悪魔のように歪みきるというものだ。
過去はどうにもできないので、もはや彼の質もどうしようもないのだろう。
そんなひねくれ者のルカのことも、祖父はレジーナと同じように、手ずから教育した。
字を教え、マナーを教え、武術を教え、仕事を教え。
ルカは与えられる全てを、器用に会得していった。
けれどたった一つ、社交だけは修得できなかったようだ。
根本的に、人間嫌いなのだろう。
育ての恩のある祖父以外、メイトス家の一族も、使用人たちも、訪ねてくる客人ですら、彼は嫌っているように見えた。
もちろん、レジーナのことも。
昔はっきりと、この耳で聞いたことがある。
『レジーナお嬢様と縁を切りたい』という、ルカの言葉を。
レジーナは墓標の前に膝をつく、天使の皮を被った悪魔の姿を見つめる。
ふと、その悪魔が身じろいで立ち上がり、視線をレジーナへと向けた。
「なんですか? 人のことを不躾にジロジロ見て。気持ちが悪い」
「ごめんなさい、つい観察してしまって。あなたの背中に、悪魔の羽が生えていないかと、気になってしまって」
吐かれた悪態に、レジーナはサラリと悪口を返した。
それに対してまたグチグチ言い始めたルカを無視して、レジーナは肩に下げた布鞄へと目を移す。
先ほど宝石店で受け取ったビロードの小箱を取り出し、ルカへと差し出した。
「ねぇルカ。これ、あなたにあげるわ」
「……は? なんです、これ」
「宝石よ。ムーンストーン。昨日あなたにハンカチをもらったから、そのお返し。――兼、わたくしの家出に協力してくれた、特別報酬」
ルカの胸に、無理やり小箱を押し付け渡す。
いぶかし気な顔でソロソロとふたを開けたルカは、瞬間、顔を大きくしかめた。
「これ……! お嬢様の首飾りの石でしょう……?」
「あら、粒だけでよくわかったわね。わたくしの物というか、元はお母様の物なのだけれど。もうあなたにあげてしまうから、自由に使ってちょうだい。お金に換えてもいいし、男物の装飾品に作り変えてもいいわ。これ、『愛と幸運のお守り』だそうよ。あなた不幸体質だから、ちょうど良いでしょう?」
最後にしっかり、嫌みを言い添えてやる。
さて、どんな悪態が返ってくるか。
と、言葉を待っていたが、ルカはなかなか口を開かない。
少し待ってようやく、返事が返ってきた。
「……っと、すみません。つい金勘定をしてしまいました。小さくて地味な宝石ですね……値段はたかが知れていそうですが、さっさと売り払って馬の餌にでも換えます」
言い終えると、ルカは乱暴に小箱をポケットに突っ込んで、さっさと歩き出してしまった。
レジーナは軽く息を吐き、大股で歩き去る背中を追って、墓標を後にする。
換金してかまわない、とは言ったのだが。
馬の腹に消えることになるのか、と思うと、少しばかりガクリとした。
ルカへの礼として贈ったのだから、どうせなら酒にでも換えて、彼自身が消費してくれる形がベストだったのだけれど。
(まぁ、わたくしも馬は嫌いじゃないから、それはそれで良いのだけれどね……)
立ち並ぶ白い墓標に見送られる帰り道。
先を歩くルカの、嬉し気にふにゃりとゆるんだ顔を見ていたのは、吹き抜ける冬の風だけであった。