67 愛の約束
この特別な気持ちが、いつから芽生え始めたものなのかは、わからない。
わからないけれど、気が付いた時にはもう、心の中はルカへの想いであふれていた。
交わす言葉や、交わる視線。隣に並んだ時の温度。しょうもない口争いの勝負。ちょっとした悪戯。
楽しいこと、悲しいこと、腹の立つこと。嬉しいこと。
日々の些細でとりとめのない小さな出来事が、一つ一つ心に降り積もっていった結果なのだと思う。
小さな雪の粒が、いつの間にか厚く地面を覆い、一面の銀世界を作り出すように。
心の内は、いつの間にか大きな恋心で占められていた。
レジーナは指先で涙を払って、ルカに微笑みかける。
「わたくしね、あなたの悪魔みたいなところ、実は結構好きなのよ。一緒にいるとなんだか楽で、心地が良いから。だって悪魔相手には、何も取り繕わなくて良いでしょう? 気の利く良い娘を演じなくても、利口な領主家の子を演じなくても、淑やかで男の人に愛される女を演じなくても……悪魔は別に、落胆したりしないでしょう?」
ルカは出会ったその時から悪魔のようだった。
だからレジーナも対抗して、礼儀を気にせず、不躾な態度でこの悪魔に接してやることにしたのだ。
それは無礼な悪魔への、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだけれど。思いがけず、その後のレジーナの心を軽くしたのだった。
「あなたが相手だととても気楽で、自由な気持ちでいられたわ。悪口すら言いたい放題できるんだもの。わたくし悪口なんて、あなたと出会った日に生まれて初めて言ったのよ? ……駄目なことだけれど、結構スカッとするのね、悪口って。いけないことを覚えてしまったわ」
あなたのせいで。
と、ルカを見つめて、レジーナは苦笑した。
「悪口だけじゃない……愚痴も泣き言も、冗談もからかいも、ちょっと下品な話だって。あなた相手には何でも喋れるのが、わたくしはすごく楽しかった」
でも……、と、続ける。
「……この恋心だけは、あなたには話せなかったけれど……」
言いながら、レジーナは視線を落とした。
なんでも話せる相手だったけれど、たった一つだけ、秘密にしてきたことがあった。
「あなたには嫌われていると思っていたし……領主家令嬢というわたくしのこの身分も、自由な恋を許しはしないだろうし」
ルカに対しての特別な気持ち――恋心に気が付いた時には、もうすでに失恋しているような状態だった。
当人からは嫌われているように感じていたし、自分の身分だと、結ばれる相手はどこかの貴族家の子息であることが決まっていたので。
実らないことは、わかりきっている恋だった。
「……だからね、この気持ちは心の宝箱にしまっておくことにしたの」
恋心に由来する、浮き立つ気持ち。苦しい気持ち。たまらない愛おしさ。ふと気を抜けば、宝箱からあふれ出そうになる気持ちの大波。
それをなんとか抑えるために、祖父から感情の整理方法を聞いた。気持ちを言葉にして、心から出すと良いのだと。
祖父にいらない紙をもらっては、想いを走り書くことをした。
そのうち文章を綴ることが少しばかり得意になってしまうほど、たくさん、たくさん気持ちを書き綴ってきた。
……妄想小説の域に達してしまったことは、もはや笑うしかないのだけれど。
「わたくしはあなたと過ごす時間を、あなたへの気持ちを……人生の思い出として大切にしよう、って。そう心に決めて、十八歳の今まで、時を過ごしてきたわ」
眉を下げて、レジーナは気の抜けた笑みを浮かべた。
「実は家出を決行した時、ちょっと心弾んでいたの。勝手だけれど、最後の思い出作りの機会のように感じていて。このまま冬が明けなければいいのに、と思ってしまうほど、あなたとの家出は楽しかった……ずっとこのまま、ささやかな日々が続けばいいのに、って、つい願ってしまったわ」
幼稚な幻想だとはわかっていたけれど。
……どう願おうとも、冬は明けてしまうので。
「……その叶わない願いを、物語に託したの。物語の中では、ルカと永遠の愛を誓い合えるように、って。わたくしの夢を、綴ってみました」
ルカは身じろぎもしないまま、ただただ涙を流して、レジーナに目を向けていた。
濡れた顔を拭うことも、息をすることも忘れたように、呆然と。
レジーナも目に涙をためて、けれど微笑みながら、秘め事の告白を続ける。
「はしたないと思われるかもしれないけれど……わたくし結構、アドリアンヌを羨ましく思っていたの。わたくしも想い人と――あなたと、無邪気に手を絡めてみたかったし、抱きしめてみたかった。口づけをして……肌だって、重ねてみたかった。あなたを思い切り愛して、思い切り愛されてみたかった」
ずっと、何一つ、叶わないことなのだと思っていた。もうとっくに、諦めきっていた。
だからこそ、二人での家出の旅は本当に楽しかった。
馬車の乗り降りで手に触れるたびに浮かれてしまったし、幼子のように抱き上げられた時には顔から火が出るほど照れてしまった。
宿での共寝は人生で一度きりの機会だと思い、つい調子に乗ってしまったし、鹿の相乗りはドキドキしてしまって、夜眠れなくなってしまうほどだった。
修道院では、甘いものが好きなルカのために、クッキーをこしらえたりなんかして……もう何もかもが、楽しくて仕方がなかった。
「本当は生涯、この気持ちを口に出すつもりなんてなかったのだけれど……でも、伝えておかないと、後悔するのだと気が付いたわ」
包帯を巻かれ、吊られているルカの右腕にそっと触れる。
「……わたくしには、あなた以上に大切なものなんて、何一つないのだということにも……もうすっかり、気が付いてしまった。領主家の娘の身分も、慎ましやかな淑女像も、世間体も……あなたの存在に比べたら、もう何もかも全部、どうでもいいことだわ」
ルカの左手を取り、レジーナはやわらかく笑った。
「ルカ、わたくしはもう、あなた以外に何もいらない。あなたのことを、あなたに巣くう悪魔ごと、ずっとずっと愛していました。そしてこれからも……ずっとあなただけを、愛していきたいと思います」
出会ったあの時から、心にしんしんと降り積もってきた気持ちを――愛を、ようやく伝えることができた。
言葉の最後は大きく震えて、なんだかふにゃふにゃとしてしまった。ルカが声をもらして泣き始めたから、つられてのどが震えてしまって……
「そんなに、泣かないでよ……つられてしまうじゃない」
「…………っ……」
息を詰まらせながら、ルカはボロボロと大粒の涙をこぼす。
次から次へと落ちていくその雫につられて、レジーナの目元もべしょべしょになってしまった。
庭の花園の中、ぐしゃぐしゃの顔をして座り込む二人。傍から見たら、さぞおかしな光景だろう。
けれどそんな人目だって、もうレジーナにとってはどうでも良いことなのだ。人からどう見られようが、どう思われようが、これっぽっちも気にならない。
レジーナは鞄から大きなハンカチを取り出して、ルカの顔を拭った。
このハンカチは本当は、勝負の決着がついた後――こっ酷く振られてしまった後に、自分の涙を拭う用に、と持ってきたものなのだけれど。
まさかルカの涙まで拭うことになるとは。考えてもいなかった。
拭っても拭っても、ルカの涙はとまる気配がない。
自分の涙も拭いつつ、レジーナは優しい声音で愛の言葉の続きを紡いだ。
「ねぇ、ルカ。またわたくしと一緒に暮らしてくれる? メイトス家ではなくて、別のお家で」
「…………別って……どこで……っ……そんな、場所なんか……」
「暮らす場所がなければ、作ってしまえばいいわ。わたくしね、物語のお金で家を建てようと思うの。あなたと暮らす家。二人で一緒にご飯を食べて、一緒に働いて、一緒に眠る家よ。……どうかしら? わたくしのお家に、あなたは帰ってきてくれる?」
もうレジーナの心から、『実家』という枷はすっかり解け消えてしまった。ルカが帰ってくる家ならばどこでも良いし、どんな家だって良いのだ。
レジーナに顔を拭かれながら、ルカは嗚咽をもらす。
震えて、掠れて、悪魔の呻き声のようになった酷い声音で、答えた。
「……俺も…………レジーナのいるところを……家にしたい…………レジーナのところに、帰りたい……っ」
出ない声をしぼり出しながら、ルカは左手でレジーナの肩をつかんだ。
込み上げる感情の大波に耐えきれず、そのまま崩れ落ちる。
レジーナは抱えるようにして、その背をさすってやった。
華奢な体に縋りつきながら、ルカは震える涙声で続きの言葉を紡ぎ出した。
「……俺……ずっと……ずっとあなたの愛だけが……欲しくて、たまらなくて…………っ」
「わたくしの愛でよければ、いくらでもあげるわ。もう心にあふれてしまって、苦しいくらいだから。代わりに……あなたの愛も、わたくしに独り占めさせてちょうだいね。独り占めじゃないと嫌よ? 約束して」
答えたら、ルカは幼子のように声を上げて泣いた。
崩れた体を、両腕をいっぱいに使って思い切り抱きしめる。
ルカの肩に頬を寄せて、レジーナは笑った。
「ふふっ、そんなに泣いたら、せっかくの麗しい顔が酷いことになってしまうわ」
続けて、いつかの仕返しをしてやる。婚約を破棄されて悔しさで泣いた、あの時の仕返しだ。
「明日のあなたの顔はさぞ酷いことになっているでしょうから、見るのが楽しみね。――明日も、明後日も、これから先毎日、あなたの顔を見ていたいから、ずっと一緒にいてね」
返ってくるのは泣き声ばかりで、ルカの返事はこれっぽっちも聞き取れなかった。
よく晴れた春の入りの日。
澄んだ青空の下、新しい緑と花々に囲まれて。
レジーナとルカは愛の契約を結んだ。
家同士で結ぶでも、書面で交わすでもなく。二人は二人だけの心で、生涯、愛を交わし合う約束をしたのだった。
どうやら、勝負は引き分けのよう。
これから先も、ずっとずっと、続いていくことになりそうだ。