6 家出の準備とちょっとした失態
翌朝、レジーナは寒さに身を震わせながら目を覚ました。
昨夜は机にかじりついたまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。
羽織ったままになっていたショールをかき抱き、冷え切った体をさすって温める。
寝ぼけ眼がクリアになってきたところで、机に広げられたままのノートに目を落とした。
ほぼ一晩中、夢中になって執筆してしまった感情整理ノート――もとい、妄想ノート。
「……途中からなんだか楽しくなってきちゃって、結局徹夜で書いてしまったわ。……でもこれ、冷静に読み返してみると、ものすごく恥ずかしいわね……」
ノートには、あられもない夢物語の妄想が、これでもかと綴られている。
筆が乗ってきたあたりからは、飾った言い回しやロマンチックな展開、そして登場させた人物たちのセリフまで追加されている。
特に、ヒーローとして登場させたキラキラの王子様のセリフは、甘ったるくて胸が痒くなってくるほどだ。
『もう僕には君しか見えない、君だけを愛している』『僕が君を幸せにしてみせるよ』『真実の愛を君に捧げよう』、などなど。
「人に見られたら恥ずかしくて死んでしまうわ……このノート、絶対になくさないようにしないと。修道院にも持っていきましょう。実家を出ている間に、部屋に入った誰かに見つかってしまったら、大変だものね……」
一応、登場人物たちの名前は、それとなくもじってあるけれど。
『トマスン』とか、『アドリーヌ』とか。
万が一にも紛失して、実名とあられもないお家事情が流れてしまったら、事なので。
レジーナはノートを閉じると、椅子から立ち上がって一度大きく伸びをした。
寝不足だが、ダラダラしてはいられない。できれば今日中、遅くても明日中には家を出なくては。
籠城作戦の目的地――雪国の修道院を目指して。
山道が本格的に雪に覆われてしまっては、移動のリスクが高くなる。
冬の入り口に差し掛かった今、少しの時間も無駄にはできない。
レジーナは部屋の端に置いてある、遠出用の大きなトランクを持ち出して広げた。
妄想ノートをトランク内部のポケットに丁重にしまい込み、続いて筆記用具や封筒、手紙、数着のドレスに着替え、その他必要なものをテキパキと収めていく。
家出なんて生まれて初めてするけれど、そのわりに荷造りはサクサクと進んでいく。
これはレジーナ持ち前の、人よりも少しばかり良く働く想像力のたまものだろう。
一通り詰め込んで、最終確認のために部屋をぐるりと見回す。
――と、そうしているうちに、トントンと部屋の扉がノックされた。
朝の支度の侍女が来たようだ。
昨夜は妄想の執筆に集中するあまり、侍女による寝支度の手伝いを断ってしまった。
侍女を部屋に通しながら、レジーナはそのことを謝罪した。
「おはよう。昨夜はごめんなさい、部屋の前で追い返すようなことをしてしまって」
「いえいえ、お気になさらずに。……まぁ何と言いますか、その、一人になりたい夜もありますから、ね」
三十代半ばの大柄な侍女に、肩を軽くポンポンと叩かれる。
励ますかのようなその動作に、レジーナは苦笑した。
(これは……昨日の今日で、もうわたくしが婚約破棄されたことが、屋敷中に広まっているようね……)
おそらく、アドリアンヌの侍女あたりから、使用人たちに話が流れたのだろう。
婚約に浮かれたアドリアンヌが、侍女にペラペラと惚気るのは想像にやすい。
遅かれ早かれ広まっていたことなので、まぁ問題はないのだけれど。
侍女は昨日のままだったレジーナのドレスを解き、ポットから大皿に湯をそそぐ。
顔と体を拭い、化粧を整え、新しいドレスを着る。
昨日のドレスは一応婚約者との茶会用ということで、かしこまったものだったのだが、今日は街着のドレスだ。
コルセットがゆるやかで、スカートのボリュームも少ない。
ブルーグレーの簡素なドレスに合わせ、髪を結ってもらう。
髪型も昨日のピシリとした雰囲気とは違い、街に馴染むような、少しゆるめのセットだ。
手慣れた侍女の仕事によって、レジーナの装いはあっという間に整えられた。
「もう気付いているかと思うけれど、わたくし今日は街へ出掛けてくるわ」
「ご用事ですか? 私もお供いたしましょうか」
「いえ、大丈夫よ。その……一人になりたい気分だから。馬車はルカに頼むから、支度の心配もしないでちょうだい」
「かしこまりました。――あの、お嬢様、ちょっとお聞きしたいことが、ありまして……」
今日の予定を伝えて侍女を見送ろうとしたが、会話の終わりが妙に歯切れの悪いものになった。
レジーナはいぶかし気に聞き返す。
「えっと、何かしら?」
「こんなことをお嬢様にお聞きするのは、大変気が進まないのですが……その、アドリアンヌ様が、トーマス・セイフォル様と新たに婚約を結ばれた、というのは本当なのですよね?」
「えぇ、そうよ」
やはり、話はもう広がっているらしい。
驚くことでもない。が、侍女の質問はまだ続くようだ。
「では、アドリアンヌ様とセイフォル様の婚姻の儀が、領地をあげての、贅を尽くした盛大なものになる、というお話は本当でしょうか?」
「いえいえ、まさか。都の大貴族でもあるまいし、そんなことにはなりませんよ。そもそも、うちにそんなお金の余裕はないもの。セイフォル家も当主が変わって、今は何かと厳しい時期でしょうし。盛大にといっても、せいぜい縁のある家をいくらか招いて、屋敷で軽くパーティを開くくらいじゃないかしら」
どうやら使用人たちの間では、面白おかしく盛られた噂が流れているようだ。
もしかしたらアドリアンヌが、夢物語を侍女に話したのかもしれない。
(わたくしも昨夜、夢物語を散々ノートに書き殴ってしまったから、妄想話で盛り上がるアドリアンヌを笑えはしないのだけれど)
レジーナの答えに、侍女は考え込むような顔を崩さぬまま、部屋を出て行った。
『金の馬車で街をパレードする、なんて噂は、やっぱりでまかせかしらね』なんて、おかしな独り言をブツブツとこぼしながら。
耳に届いたその言葉に、レジーナはもう一度苦笑してしまった。
けれど、この根も葉もない噂話が笑い話ではなくなるのは、もうしばらく後の話である――……
■
「遅い!!」
支度と朝食を終えて屋敷を出ると、敷地の裏手に馬車とともに待機していたルカが、仁王立ちで怒声を飛ばしてきた。
「淑女への礼儀がなっていないわよ、ルカ。まずは『おはようございます、お嬢様。今日もお美しいですね』でしょう」
「はっ、あなた相手じゃ世辞すら出てきませんよ。なんですかその、令嬢らしからぬ田舎娘みたいな格好は。貴族らしい華やかさのかけらもない。見目と身分がちぐはぐで笑えますね」
「あら、それを言うならあなただって。護衛兼、雑用の身分で、今日も顔だけはずいぶんと華やかですこと。えぇ、顔だけは、まるで王子様のようですわね。見目と身分がちぐはぐで、笑えますこと」
もはや挨拶のように罵り合いながら、レジーナは馬車へと歩を進める。
両手で持っていた大きなトランクは、ズカズカ歩み寄ってきたルカによって、力任せに奪われてしまった。
「ちょっと、雑に扱わないでちょうだい! 家出中のわたくしの、全財産なんだから」
「ははっ、これっぽっちの荷物が全財産ですか。貴族家のご令嬢が、聞いて呆れる」
「そういうあなたは、小さな鞄一つじゃない。人として、その荷物の量はどうなのよ……」
大きなトランクと、これまた大きな肩掛けの布鞄と、さらに小ぶりの外出用鞄を持ったレジーナとは対照的に、ルカはほとんど身一つであった。
言い返すレジーナを黙殺し、トランクを大きな四輪馬車へと積み込むと、ルカは早々に御者台へと上がっていってしまう。
(もう、淑女の馬車の乗り降りは、紳士が手を貸すのがマナーでしょうに……)
胸の内でぼやきながら、一人でよいしょと馬車に乗り込む。
まぁ、いつものことなので、もう慣れっこなのだけれど。
扉を閉め終えると、灰色がかった白毛の馬二頭がゆったりと馬車を引き始めた。
レジーナは窓から見える景色を、ぼんやりと眺める。
波打つように、なだらかな丘が連なる農地の中に、ポツポツと三、四軒の家が寄り添う。
この風景が何度も繰り返され、過ぎ去っていく。
昨夜の雪は積もらずに消えたらしい。
土とレンガと控えめな植物と。空を覆う灰色の雲で構成された、冬らしい彩度の低い風景が、延々と続いていく――……
……――いつの間にかウトウトしていたらしく、ハッと気付いた時には、もう街の中まで来ていた。
馬車のカーテンを開けると、窓からの風景は賑やかなものに変わっていた。
石造りの建物や色とりどりの馬車、そして人々の往来する景色が広がっている。
馬車は大通りの端に止められているようだ。
レジーナは慌てて御者台のルカへと声をかけた。
「ごめんなさい、眠ってしまっていたわ」
「声をかけても返事がないので、この寒さで屍にでもなっているのかと思いましたよ」
今葬儀屋に向かおうと思っていたところです。
なんて、悪態が添えられる。
縁起でもない悪口をたしなめつつ、レジーナはルカへ指示を飛ばした。
「おやめなさいよ、これから本当に凍える季節なんだから。洒落にならないわ……――っと、そんなことは置いといて、ええと、とりあえず先に宝石店へ寄りたいわ。不要な物を売って、準備資金を得たいから。馬車を出してちょうだい」
石造りの道の上を、馬車が再びなめらかに動き出した。
手鏡を出して寝乱れた髪を軽く手直しし、ふと思い至る。
(あれ? そういえばわたくし、居眠りをする前に馬車のカーテンを閉めたのだっけ?)
窓から農村の風景を眺めていたあたりから、記憶がないけれど……
寝起きの頭でぼんやりと考えながら、カーテンを脇にまとめる。
ほどなくして馬車が止まった。
御者台からルカが降り、馬をなだめる。
宝石店に着いたようだ。
レジーナは気持ちを切り替え、隣の座席に置いていた大きな布鞄を肩にかけた。
この中には、引き出し型のジュエリーボックスが丸ごと入っている。
(手持ちのものすべて持ってきたから、良い値にはなると思うのだけれど。万が一、家出資金が足りなそうだったら、ドレスも売ってしまわないと……)
考え事をしながら、馬車の扉を開ける。
大きな布鞄を脇に抱えるようにして、馬車から降り――ようとしたが……
扉の金具に鞄の端を引っかけ、よろめいた。
「わわわっ!?」
こういう時咄嗟に、キャッ、とかいう可愛らしい悲鳴を出せたなら、婚約破棄などされていなかったのかもしれない。
なんて、しょうもない考えが、瞬間的にレジーナの頭をよぎる。
ただでさえ狭くて、身動きの取りづらい馬車の入り口。
大荷物を抱えながら、足に絡むスカートをさばいて、よろめく体を持ち直すことなどできるはずもなく。
レジーナはやむなく、馬車から転がり落ちた。
――と、思ったのに。
少し脇腹の筋をひねっただけで、転倒の衝撃はなかった。
良く見知った、大きな腕に抱え込まれていたので。
「……――ありがとうルカ、死ぬかと思ったわ」
「まったく……お嬢様、運動神経がゴミのようですね。別に落ちたところで死にはしないでしょうけど。メイトス家ご令嬢ともあろう者が、街の真ん中で醜態を晒しては、お祖父様が悲しまれます。……ので、仕方なくお助けいたしました。仕方なく」
ルカは面倒臭そうな顔で吐き捨てるように言い放つと、バッと大げさに身を離した。
舌打ちとともに馬車の扉をバンと雑に閉める。
どうやら怒らせてしまったようだ。
確かに今のレジーナの動作は、少々どんくさかったかもしれない。
(……やっぱり体は素直ね。きっと寝不足がたたっているんだわ。これから忙しいのだから、しっかりしなければ……)
馬車の影に隠れて、両手で頬をペシリと叩き、気合を入れ直した。
背筋をシャンと伸ばして、気を取り直してルカへと声をかける。
「改めてお礼を言うわ、ありがとう。――それで、この宝石店は店主と顔なじみのお店だから、わたくし一人で行ってくるわ。あなたはここで待っていてちょうだい」
じゃあ、行ってくるわね、と言い添えて、目の前の店へと足を進める。
馬におやつをやっていたルカは、返事すら返さなかった。
チラリと見えた横顔は、思い切り不機嫌そうに歪んでいる。
彼のその表情に、レジーナは己の失態を改めて深く反省するのであった。