59 トーマスの再選択と第二夫人レジーナ (実家サイド)
もうあと一、二ヶ月もすれば冬を抜け、春が訪れる。
人々が冬の終わりを意識し始め、ほんのりと明るい気持ちが芽吹き出す頃。
世間の様子とは裏腹に、トーマス・セイフォルは暗い気持ちに苛まれながら、日々の執務をこなしていた。
散らかった執務机に頬杖をつき、大きなため息を吐く。
トーマスの隣には新婚の妻、アドリアンヌ。
隣にいる、とは言っても、この新妻は仕事を手伝いに来ているわけではない。
執務中だというのに無遠慮に上がり込んできては、世間話に興じてくるのだ。机に向かうトーマスの肩に、胸元をタプリと乗せて……
「ねぇねぇトーマス様ぁ、見てください。この小説知ってますぅ? 今都ですっごく流行ってるんですってぇ!」
アドリアンヌは一冊の本を、ドカリと執務机に置く。
書類の上に置くな、と言いたいところだが、もうそういう細々とした注意ですら面倒で、何も言わずに苦い顔で息をつく。
目の前に置かれた本は、革表紙の綺麗な装丁をしている。
仰々しく重厚な古典文学の本とは違い、どこか女性的で洒落た雰囲気の表紙だ。
椅子に座るトーマスの上半身にベッタリ寄り添いながら、アドリアンヌはうっとりとした顔でその小説を語りだした。
「この物語に出てくるヒーローが、とっても素敵で格好良いんですぅ! ヒロインのことを抱きかかえて、悪いお家からさらって行くんですけどぉ、その時の横抱きが、お姫様抱っこって呼ばれてるらしくてぇ! 社交界で流行ってるんですよぉ、お姫様抱っこ」
「……で、それがどうしたんだ」
密着しながらフワフワと喋るアドリアンヌを見もせずに、トーマスは書類に目を通しつつ気のない返事をする。
その様子に、アドリアンヌはムッとしながらも、言葉を続けた。
「トーマス様ぁ、あたしにもやってくださいませ、お姫様抱っこぉ!」
「……お前は重たいからできないだろう、そんなこと」
「ひ……酷いですぅ! トーマス様がもっとお体をお鍛えになればいいでしょう? 毎日毎日お部屋に籠ってばかりだから、駄目なんですよぅ! この物語のヒーローみたいに――」
「ええい! うるさいな! 仕事の邪魔だから出て行けよもうっ!!」
もうお前は執務室に入ってくるな!
と、怒鳴り声を添えて、アドリアンヌのふくよかな体を押しのけた。
アドリアンヌは二、三歩後ろへよろめき、ブワリと涙を目に溜めた。
うるうるとした顔で、頬を膨らませる。
「トーマス様はあたしとお仕事、どっちが大切だと言うのですかぁ……!」
「仕事に決まっているだろう! 僕は民を抱える領主なんだ! お前の遊びになど、構っていられるか!」
言い放つと、アドリアンヌはさらに頬を膨らませて、プイッと大げさに踵を返して部屋を出て行った。
話題の小説本とやらを、執務机に残したまま。
バタリと閉められた扉を見やり、トーマスはもう一度深いため息をついた。
目の前に置き去られた小説をポイと脇にどける。
同時に、側に控えていた執事のエメットに命を出す。
「まったく……こんなくだらない物語にうつつを抜かして。おい、エメット。その本捨てておいてくれ」
「アドリアンヌ様の物のようですが、よろしいのですか?」
「あぁ、構わない。視界に入るのも鬱陶しいからな……嫌いなんだ、その小説」
トーマスはフンと鼻を鳴らして吐き捨てた。
そう、嫌いなのだ。この小説のことが。
この物語は、気楽に読める新しいタイプの娯楽本ということで、最近都で大流行しているらしい。
都の流行りはじわじわと地方にも流れてくる。
この辺の社交界でも話題にのぼるようになったので、先日試しに冒頭だけ読んでみたのだった。
しかし、その冒頭のシーンになんだか気味の悪さを感じてしまい、すぐに閉じてしまった。
『婚約者と異母妹の浮気現場を見たヒロインが、婚約を破棄される』という冒頭。
物語の内容に妙な既視感を覚えて嫌な気分になった。
というか、そのまま自分のことを書かれているかのような感覚になり、怖くなってしまったのだった。
知らぬ誰かに、自分の過ちを咎められている気がして……
トーマスはエメットに本の処分を命じるとともに、もう一つ指示を出す。
「あと、アドリアンヌを執務室に入れないようにしてくれ。しつこいようなら扉に鍵をかけてもいい」
「かしこまりました。……やれやれ」
エメットはため息をつきながら、早速、執務室の扉の鍵をガシャリと閉めた。
施錠の音を聞き、トーマスはホッと一息つく。
『新妻を閉め出すなんて』と、世間からは非難を浴びそうだが、もはやそんなことはどうでもいい。
暇を持て余したアドリアンヌが押しかけてくるたびに、こうして仕事が中断するのだ。
もう我慢の限界であった。
(もうこれからは日中ずっと、執務室に鍵をかけて過ごすようにしよう……。やることも、考えなければいけないことも山ほどあるのに、いちいちあの女に邪魔をされていては、どうしようもない……)
今年も領地は雪害で大荒れである。
婚姻の儀に気を取られて、対策をおろそかにしてしまったつけだ。
身の丈に合わない、諸侯を招いての盛大な式などするのではなかった。
使った時間と予算が、今になって領地運営を圧迫してきている。
治水工事も後まわしにしてしまったので、このまま春が来れば、雪解け水で水害が起きる可能性もある。夏まで農作ができなくなる土地が出てくるかもしれない。
対策を講じないと、民は領主を見限るだろう。
現にもうすでに、土地を捨てて他の領主家の元に庇護を求めに行く農民が、ちらほらと出てきている。空気に敏感な商人たちも、他領へと繋がりを作り始めているよう。
じわりじわりと、領地の外に人と金が流れ始めているのだ……
険しい顔で頭を抱えるトーマスに、エメットはボソリと小言をこぼした。
「当主夫人がレジーナ様であったなら、あなたの負う荷を半分、受け持ってくれたかもしれませんね」
「あぁ……そうだな……」
エメットの嫌みに、トーマスは反論することもなく返事をした。
『自分は、妻を選び間違えた』
――これはもう、認めざるを得ない事実なので。
婚姻の儀を済ませ、当主夫人として家に入れば、アドリアンヌも少しは自身の立場に責任感が芽生えるかと思ったのだが……
淡い期待は新婚二ヶ月の内に、見事に砕かれることとなった。
結婚後も、彼女は何も変わらなかったのだ。無邪気で、奔放で。幼い少女のような振る舞いのままだった。
女らしく可愛らしいと思っていたその言動には、今や苛立ちしか感じない。
『勉強しろ』『働け』、と、この言葉を、この二ヶ月のうちに何度口にしただろう。
最近はもう諦めて、『とりあえず大人しくしていろ』に指示を変えたのだけれど。
トーマスは眉間にしわを寄せたまま、ボソボソと独り言のような声をもらす。
「はぁ……本当にエメットの言う通りだ……レジーナを娶っておけばよかった。彼女が今、僕の隣にいてくれたら……もう少し気が楽だったかもしれないな」
ポロリと弱音がこぼれた。
レジーナは来るべき雪害に備えて、以前から何やら色々と準備をしていたようだ。
けれど、いらぬプライドを抱えた自分は、他家の女に出しゃばってこられるのを不快に思い、相手にしてこなかった。
このことを今は酷く悔いている。
――と、ここまで考えをめぐらせたところで、トーマスはふと気付く。
(……そうだ、僕は過去の自分の行いを悔いているんだ……。今なら……今の僕なら、レジーナとも上手くやれるんじゃないか?)
思い至り、パチリとまばたきをした。何か、すごく良いことを思いついてしまった気がする。
トーマスは目を大きく見開き、突然冴えだした頭で続きを思考する。
(そうだ、そうだよ。今僕は、心からレジーナを欲している。今ならレジーナを拒絶することなく、側に置いておける……! 執務を分担し、協力し合って暮らしていけるじゃないか!)
自分で考えておきながら、ハッと目が覚めた気分になった。
――別に自分の妻は、アドリアンヌだけでなくても良いのではないか? と、ふいに気付きを得てしまった。
急に上向いた気持ちのままに、トーマスはガタリと椅子から立ち上がった。
何事かと、いぶかしげな目を向けるエメットに、トーマスは力強い表情で言い放った。
「エメット。僕はレジーナを、第二夫人として娶ろうかと思う」
「……は?」
決意に満ちた晴れやかな表情のトーマスとは裏腹に、エメットは渋い顔をした。
「トーマス様、そのようなご冗談はおやめください。どこぞの大貴族でもあるまいし……地方の若当主が見栄を張っていると笑われるか、色好きだと良からぬ噂を流されるだけですよ」
「妻を二人娶るくらいなら、さして目を引くことでもないだろう」
「いいえ、間違いなく、社交で話題に上ります。特にあなたは」
ムッとするトーマスに、エメットはピシャリと苦言をていした。
「流行りの小説の影響もあり、婚約破棄――および、婚約者を乗り換えるなんてことをしたトーマス様からは、今ただでさえ人心が離れていっているのです。世間には純愛を尊ぶ流れが出始めている、というこの時に、そんなあなたが新婚の身で、二人目の妻を迎えるなど……白い目で見られることは想像に易いでしょう」
エメットの言葉を聞き、トーマスは苛立ちをあらわにした。
嫌っている物語の内容と、自分を照らし合わされたので。
トーマスは即座に反論する。
「その婚約破棄した相手であるレジーナとの関係を修復して、結婚し直してやろうというのだから、それほど白い目で見られることではないだろう。むしろ、丸く収まるだけだ」
「……そう単純な問題ではないでしょうに」
「この先、僕とレジーナが仲睦まじく暮らしていけば、離れた人心とやらも戻るというものだろう?」
何を渋ることがある。と、トーマスは言い募る。
エメットは苦い表情を崩さぬまま、口を閉ざした。
論破したとばかりに、トーマスは得意げな顔をする。
「エメット、そう心配せずとも、僕にだってちゃんと考えはある」
考え、というか、勝算がある。
それも確実な。
フフンと鼻で笑いながら、トーマスは自信に満ちた声音で『勝てる理由』を言い切った。
「だって、レジーナは僕に惚れ込んでいたんだ。婚約を破棄した時、チラリと彼女が涙を拭うところを見た。泣くほど僕を慕っていたんだから、謝れば問題なく元の鞘に収まるだろう。彼女もきっと、僕と添う幸せを望んでいるはず。第二夫人として娶るのは、彼女のためでもあるんだ」
恋は結局、惚れ込んだほうが負けなのだ。
惚れた相手の願いであれば、あの頑固なレジーナだって、ほだされるに違いない。
トーマスは久しぶりに前向きな気持ちで、笑みを浮かべた。
椅子に座り直し、机の引き出しから便せんと封筒を取り出す。
便せんに綴る内容は、メイトス家への縁談の申し込みだ。
『――愛しきレジーナ・メイトス様と、今一度、真実の愛の祝福を――……』
サラサラと字を綴り、トーマスはニヤリと機嫌良く笑った。