58 明るい知らせとクソ野郎
最初の商隊が雪崩の災に遭い、急ぎ組み直された二陣の商隊がクォルタールを発ってから、一ヶ月と少し。
今日、その二陣の隊が都から帰ってきたようだ。
『ようだ』、と曖昧なのは、隊を直接出迎えたわけでもなく、先ほどふわっと人から聞いて知ったことなので。
午前中街に出て奉仕活動をしてきたシスターたちから、昼食の時に聞いたのだった。
移動の乗合馬車から、帰ってきた隊の姿をチラッと見かけたのだと。
その話を聞いて、レジーナは心からホッとした。
今度は何事もなく、無事に帰って来られたのだと安心した。
そして同時に、胸の片隅が少しだけチリチリと痛んだ。
商隊の一陣も何事もなければ、こうしてなごやかに帰ってきていただろうに。と、どうしてもそんなことを考えてしまって。
その中に、ルカの姿もあっただろうに、と。
(――って、わたくしはまた『もしも』の話なんて考えて……こんなことばかり考えていたら、ルカに怒られてしまうわ)
午後の仕事――修道院の廊下を掃除しながら、レジーナは首を振った。
もし、出発日が別の日だったなら。
もし、時間がずれていたなら。
もし、レジーナが家出なんてしなければ……
なんて、どうしてもそういうことばかり頭をよぎってしまう。
雪崩の災から一ヶ月半が経とうとしている今でも、こうしてふとした瞬間に『もしも』を考え、堪えがたい胸の苦しさに襲われる。
現実主義なルカには怒られてしまいそうだから、なるべく考えないようにはしているけれど。なかなか上手くいかないものだ。
石造りの廊下を箒で掃きながら、窓から外を見る。
今日はここ最近では珍しく、雪の降っていない日だ。
雪雲も薄くて、ところどころから天の光が地上へとこぼれ注いでいる。
クォルタールで暮らし始めてからは、すっかり珍しくなってしまった日の光をぼんやりと眺める。
――と、視界の端に、のそのそ揺れるオオツノジカの巨大な角が見えた。
おや? と、視線を空から地上へと戻す。
鹿の後には、黒塗りに金の装飾がほどこされた立派なソリ。
これはヘイル家のソリだ。
ほどなくして鹿は足をとめ、修道院の門前にソリがとまった。
廊下の窓から遠目にその景色を確認すると、レジーナは箒を握り直す。
サッと塵取りへゴミを掃き入れると、改めて、よくよく窓から様子をうかがった。
(商隊が帰ってきたということは、わたくしの物語に関して何かお話があるのかもしれないわね)
手紙の知らせでも良いのだけれど、と思うのだが、エイクは忙しさの合間を縫っては何かと直接訪ねてくるのであった。
縁談を断ってしまってからも、新しい物語などの打ち合わせと銘打ってレジーナの様子を見に来る。
気を遣わせてしまっていることに申し訳なさを感じつつも、彼の誠実さには心救われる思いがした。
あの悪魔のようなルカのことを、ありのまま話せる人間はエイクしかいないので。
彼の思い出話を、気兼ねなく語り合える人が側にいるということは、レジーナにとって大きな支えになっている。
エイクはルカのことを友人、もしくは弟のように思っていたらしい。
ヘイル家は女子ばかりの家だそうで、エイクは男兄弟が欲しかったのだとか。
これも、ルカの思い出話をする中で聞いたことだ。
長く交流できていたなら、エイクとルカはそれなりに太い縁を築けていたかもしれない。
なんて話をして、エイクと二人、くしゃりと苦い顔で笑い合ったのも、数日前の話だ。
箒を抱えて、レジーナはヘイル家のソリを見つめる。
そろそろソリの主が出てくることだろう。
そうしたらいつも通り、きっと自分にも呼び出しがかかるはず。
その前に玄関に向かって、彼を出迎えることにしよう。
――と、動きかけた時。
ソリの扉はガシャンと思い切り大雑把に開け放たれ、中からエイクが飛び出してきた。
いつも紳士的な所作の彼からは想像もつかない動きに、レジーナは思わず目を丸くする。
エイクはそのまま風のように、修道院の玄関に走り込んだ。
そして離れた場所にいるレジーナにも聞こえるくらいの、大声を発したのだった。
「レジーナ嬢!! レジーナ嬢――――ッ!!」
静かな修道院に、大声で呼ばれたレジーナの名が響き渡る。
何事か、と神父や修道女長、シスターたちが慌てて出てきて、玄関先は騒然となっていた。
名を呼ばれた当人、レジーナも驚いて箒を投げ出し、大急ぎで玄関へと向かった。
修道服のスカートを持ち上げて小走りで廊下を抜ける。
廊下の端から玄関ホールへと顔を出した瞬間、目ざとく見つけたエイクが、全力疾走で駆けてきた。
(ひっ……!?)
あまりの勢いに、レジーナはその場に固まりたじろぐ。
彼の姿は、まるで突進してくる大型犬のようだ。
エイクは猛烈な勢いのままレジーナの元へ飛び込み、そのままガバリと抱きついてきた。
「ひえ――っ!? 何何!? 何です!? エイク様、どうしてしまったのですか!?」
突然覆いかぶさってきた黒い大型犬に、レジーナは動揺を隠さぬまま悲鳴を上げる。
大型犬、もとい、エイクの方も、半ば叫ぶように声を上げた。
「レジーナ嬢!! 良い知らせです!! とんでもなく良い知らせがあります!!」
「なっ何でしょう!? 何があったというのでしょうっ!?」
力一杯抱きしめられながら、レジーナはエイクの腕の中で叫び返す。
エイクはようやく腕の力をゆるめ、レジーナの両肩に手を添えた。
キラキラと輝く紫の目をまっすぐに向けて、とんでもなく良い知らせとやらを、大きな声で言い放った。
「生きていました!! 生きていましたよっ!!」
「…………へ……?」
「ルカくんです!! 都で見つかりました!!」
レジーナは、目を見開いた。
生きていた?
都?
ルカが……?
エイクの言葉が、頭の中に反響する。
グワングワンと鳴り響き、なんだか意味が理解できない。
呆けてしまったレジーナに構わず、エイクは弾んだ声音でポンポンと言葉を続けていく。
「ルカくんは雪崩の災を抜け、都にたどり着いていたようです! ヘイル家の別邸へ荷と書状を託し、見事に命を果たしてくれていたようで! 二陣の商隊が都に到着した頃には、もう商談が順調に進んでいたそうですよ!!」
目をまんまるくして人形のように固まったまま、レジーナは震えるのどで声を絞り出した。
「……生きてた…………ルカが……? ……別の、良く似た他人ではなくて…………?」
「二陣に配していた私の従者が確認したところ、ルカくんに間違いない、とのことです。その従者は私と共にルカくんに殴られた――遊んだことがある仲ですから、間違えようもないかと思います。それにあの目立つ容姿に似ている人など、世間にはあまりいないかと」
なお、信じられないといった面持ちで固まるレジーナに、エイクは満面の笑みで続ける。
「何より、すでに書状が渡り、商いが当初の予定通りに進んでいたことが、何よりの証拠です。小説は印刷屋で量産されて、狙い通り都の貴族たちの間で大流行りしているそうですよ! 近々都の大劇場で戯曲の公演も始まるそうです!」
玄関ホールに、エイクの朗らかな声が響く。
傍で聞いていた神父と修道女長も、二人の元に歩み寄ってきた。
周りで様子を見守っていたシスターたちも口々に、『なんてこと!』『良かった……!』と言葉をこぼし、肩を抱き合って喜んでいる。
未だ身じろぎもできずにいるレジーナの肩を、エイクはポンポンとやわらかに叩いた。
あやすような動作のまま、底抜けに明るい声でペラペラと喋りかけてくる。
「春が深まって雪が薄くなったら、ルカくんを迎えに行く使いを出しましょう。彼も一陣の他の隊員同様、怪我を負っているようなので、様子を見てしばらく都に滞在する必要もあるかもしれません。遠出にはなりますが、レジーナ嬢も見舞いついでに都観光などいかがでしょう。私は例の崩れた山小屋の修復もありますし、ここを離れられないのですが、信頼できる付き人をお貸しするので――……レジーナ嬢!? 大丈夫ですか!?」
話の途中で、レジーナはその場にしゃがみ込んでしまった。
涙腺が壊れたかのように、ブワリと涙があふれ出てきた。
涙に連動するかのように、唇が、手が、体が震える。
もう堪えきれない嗚咽で、あっという間に、息をするのもままならなくなってしまった。
途端にぐしゃぐしゃになってしまった顔で、しゃくりあげながら、レジーナは声をこぼした。
「…………ルカが……生きてた…………良かっ……良かったぁ…………ルカぁ……っ……」
――生きていた……
――あの悪魔は、悪魔との勝負に勝ったのだ……!
両手で涙を隠そうとしても、指の隙間からボロボロと雫がこぼれ落ちていく。
胸の底からあらゆる感情が噴き上がってきて、苦しくて苦しくて仕方がない。
もうどうにもできずに、レジーナはついに声を上げて泣き出してしまった。
レジーナに合わせて床に膝をついたエイクが、背にそっと手を添える。
修道女長は大判の手拭いを取り出し、レジーナのベショベショの顔へと押し付けた。
幼子のようにわんわんと泣きながら、レジーナは感情の大波に任せて、思い切りルカに罵声を吐いてやる。
「……ルカの馬鹿! あの馬鹿悪魔……っ!! どうしてっ……どうして一人で……都に行っちゃってるのよ……っ!? 皆様に、散々心配かけて……!! どうしてなの!? 何なのよあいつ……!! 大馬鹿者っ!!」
次から次へと流れ出る涙を、借りた手拭いでグイグイと拭く。
もうどうにも気持ちがおさまらなくて、腹いせとばかりに力一杯、愚痴を吐き散らしてやった。
「……はぁ、もうっ! あの金色毛虫め……っ! 怪我は……怪我は大丈夫なの……!? 本当に……もうっ……なんで!? どうして引き返して来ないのよっ! 無茶な旅をして……本当に死んでしまったらどうするのっ!? 本っ当に大馬鹿者なんだから……!! あの野郎っ!!」
ぐしゃぐしゃの泣き顔と共に激しさを増すレジーナの悪態に、エイクは眉を下げて笑った。
周りで見守る神父と修道女長、そしてシスターたちも、普段のレジーナからは考えられない言葉に、思わず苦笑する。
もはや人の目も何もかもどうでも良い。
レジーナは泣き濡れてめしゃめしゃになった顔でしゃくりあげながら、都にいるらしい悪魔に向かって暴言を飛ばしてやった。
「本当にもうっ……! ……ルカの奴!! とんだ無茶苦茶クソ野郎だわ……!! 都に乗り込んで、ボコボコに殴りつけてやる……っ!! あの金色毛虫悪魔めっ……!! 本当に……もうっ…………生きてて……良かったぁ……っ!!」
レジーナ渾身の罵声に、エイクは声を上げて笑っていた。
まだしばらくおさまりそうもない激情に身をゆだねながら、レジーナは泣き震えた小声で呟く。
「……何が、『口争いの勝負は、俺の負けです』よ……。勝負に負けたのは……ずっと前から負けていたのは……わたくしのほうなのに……」
口からこぼれたか細い声は、涙と共にポロポロと、石の床へとこぼれ落ちていった。