56 ルカへの祈りと秘密の話
どんなに辛く悲しいことが起ころうとも、雪は素知らぬ顔で毎日しんしんと降り続ける。
エイクにすべてを打ち明けてからの日常も、ただ静かに流れていった。
レジーナは心に決めた祈りの生活を続けながら、毎夜、物語を綴っている。
気楽に読める恋愛ものの短編小説や、ラブロマンスに勧善懲悪を盛り込んだ爽快な小説。
愛憎劇や、切ない悲恋の小説まで、色々な物語を生み出していった。
夢中になってノートに字を書き連ねている時は、いくらか楽な気持ちでいられる。
執筆に集中している間だけは、自分の心に素直でいられる気がした。
悲しい感情に任せて悲しい物語を書いたり、欲のままに甘い恋物語を書いたり。叶わぬ願いを、物語に託してみたり。
ペンを走らせている時だけは、自分の立場や体裁を気にすることなく、ひたすら自由でいられる気がして、レジーナは創作活動にのめり込んでいったのだった。
そうして今夜も、物語を綴っている。
夕食後の、消灯までの自由時間。
修道院の小さな自室の中、ランプの灯りを頼りにして。
窓の外、闇の中にはいつもの通り、ハラハラと白い雪が舞っている。
さて、今日はどんな物語を書こうか。と、机に向かう。
あれこれ考えをめぐらせながら、ノートを開いた時――
――カシャン。
と、窓が小さな音を立てた。
レジーナは弾かれたように立ち上がり、窓を開け放った。
目を凝らし、暗い階下を見まわす。
けれど、探した姿はどこにもなく。
輝く金糸の髪も、高い背も……どこにも何も、見えはしない。
「……窓枠から、雪が落ちただけね。わたくしったら、何度同じことを繰り返しているのやら」
ほとんど毎晩のように、同じことをしている。
窓から音がしたら、もう反射のように、雪玉を投げつけてくる不躾な悪魔の姿を探してしまうのだ。
あの悪魔が何かの拍子にひょっこりと顔を出して、また意地悪な笑みと悪口を飛ばしてくるんじゃないかと、そう思って。
そんな淡い期待はいつも、裏切られてしまうのだけれど。
今日もやっぱり姿を探せど、雪を投げてくる人影なんて見あたらなかった。
今日だけではない。明日も、明後日も、この先ずっと。
もう、悪魔が姿を現すことはないのだ。
どんなに強く願おうとも。
(仮にも修道院に身を置く人間が、悪魔の訪れを願ってしまうなんて……なんだかおかしな話だけれど)
レジーナは自嘲の笑みとともに、ため息を吐いた。
窓から離れ、また机に向かい直す。
今日は雪の悪魔を題材にした、童話のようなものでも書いてみようか、と、ペンを握った。
最近レジーナは戯曲や小説だけでなく、子供向けの短い物語も書いている。
こういう童話は、庶民の子供たちに字を教えるのに、とても役立つそうで。
女の子にはうっとりするようなお姫様の話が人気で、男の子には英雄が悪と戦うような話が人気だ。
先日ちょっとした遊び心で、『町娘がお姫様に変身して、悪と戦う』なんて話を書いてみたのだけれど、これもクォルタールの街で結構な人気が出た。
女児男児ともに夢中になっていたけれど、大人でも夢中になる人が多くて、意外な人気に驚いたのだった。
礼拝日の交流で、おじさんたちが早口でお姫様のことを語りだした時には、少したじろいでしまったくらいだ。
きっとルカにこの物語を読ませたら、『お姫様がドレス姿で戦えるわけないでしょ』なんて、ズバリと夢のないことを言われてしまうのだろう。
そんなルカの突っ込みにレジーナが言い返して、また言い返されて。しょうもない口争いが始まるのだ……以前までであったなら。
もうそんなやり取りをする機会は、まるっと失われてしまったのだけれど。
童話の構成を考えながら、ノートにメモを走り書きしていく。
このメモを見ながら細かい下書きをして、明後日くらいには執筆に入れるだろう。
構成の作業が一区切りついたところで、レジーナはおもむろに椅子から立ち上がった。
もうそろそろ消灯時間。
眠る前の日課に向かわねば。
修道服の上にショールを羽織り、自室を出る。
暗く冷えた廊下と階段を歩き、礼拝堂へ向かった。
礼拝堂の重い扉をそっと開け、中へと歩を進める。
アーチ天井の広い空間の最前。
祭壇の前ではいつものように修道女長が、一人静かに祈りを捧げていた。
「修道女長様、夜のお祈りに参りました」
「こんばんは、レジーナさん。では、礼拝堂の鍵をお預けします。いつも通り、戸締りはしっかりとお願いしますね」
「はい、承知しております」
挨拶を交わし、修道女長から礼拝堂の鍵を受け取る。
祈りに訪れたレジーナと入れ替わるように、修道女長は礼拝堂を後にした。
夜の礼拝は、ここ最近のレジーナの日課となっている。
天に昇ったルカへ愛と真心を届けようと心に決めた、あの日からの日課だ。
もう半月ほどは、この祈りを毎日続けている。
冷たく静謐な空気の満ちる礼拝堂で、レジーナは一人、胸の前で手を組んだ。
祭壇を見つめながら、祈りに言葉を乗せる。
「ねぇ、ルカ、聞いてちょうだい。次に書く物語は、雪の悪魔の童話にしようと思うの。ちょっとひねった内容で、悪魔が幸せになるお話でね――……」
レジーナは優しい声音で、語りだした。
祈りはいつも決まって、『ねぇ、ルカ』の呼びかけから始まる。
七歳の頃から、ずっとそうやって話しかけてきたから。
話しかけると、彼は決まって気のない不愛想な顔で対応してきた。
それでも、なんだかんだいつだって、話に耳を向けてくれていたように思う。
レジーナの話の内容が、良い事だろうが悪い事だろうが、長くてもつまらなくても、聞いていてくれたのだった。
まぁ、返ってくる言葉はほぼ、意地悪なものばかりだったのだけれど。
今となってはそんな負の言葉ですら、たまらなく懐かしく感じて、胸が痛くなる。
祈りを通してルカへと語りかけながら、レジーナは眉を下げ、白い息を吐き出した。
「――そういえばね、エイク様との縁談なのだけれど……」
レジーナはふと、ルカに報告し損ねていたことを口にした。
「縁談のお申し出はね、お断りしてしまったわ。……エイク様のお気持ちに添うことができなくて、本当に申し訳なく思うし、お手伝いをしてくれたルカにも顔向けできないのだけれど……。わたくしは修道女になって、祈りの道へ入ることを心に決めました」
ルカの捜索の終了を告げられた後、エイクにすべてを告白した、あの日。
レジーナはエイクの婚約の申し出を、断ったのだった。
「……本当に、本当に愚かでどうしようもない女だって、自分でもわかっているわ。散々、人の気ばかり振りまわして……結局、実りのない場所に終着しようとしているなんて」
胸元に組んだ両手を、強く握りしめる。
「そういう胸の内の罪悪感も含めて、エイク様にはすべてをお話ししたの……彼は受け止めてくださったわ。親しい友達という関係で、このまま縁を繋いでくださるとも……」
エイクはレジーナの告白を真摯に受け止め、頷いてくれたのだった。
彼の誠実さには、感謝してもしきれない。
少しでもこの恩とお詫びの気持ちを返すためにも、戯曲や小説が売れてくれることを願うばかりだ。
自分の生み出すものが、エイクの――ヘイル家とその領地の潤いとなるように。
レジーナは一度祈りの言葉を止め、深く息をつく。
静寂の中、何度かゆっくりとした呼吸を繰り返した。
白い息の煙がこぼれ、宙へと消えていく。
祈りの姿勢を整え直し、レジーナは再び、言葉を紡ぎ始めた。
「エイク様にはすべてをお話しした、と言ったけれど……ルカ、実はね、わたくしあなたにも話していないことを、あの日エイク様に告白してしまったわ」
くしゃりと、泣きそうに顔を歪めながらも、レジーナは微笑んだ。
「ねぇ、ルカ。今ならあなたにも、すべてを話せると思うのだけれど……聞いてくれる?」
あのね、わたくしね――……
と、レジーナは祈りに声を乗せて、語りだした。
七歳の頃から、十八歳の今まで。
ずっと心の奥の宝箱にしまっていた、秘密の話を。
レジーナの凛とした、それでいて甘やかな声は、礼拝堂に満ちる神聖な空気へと解けていった。
……――この優しく切ない祈りの声が、腹の底からの力一杯の罵声へと変わることになるのは、一ヶ月後のことである。
もちろん、その罵声の相手はただ一人。
あの悪魔に向けて――……