54 涙と祈りの決意
エイクが雪崩被害の状況報告のために修道院を訪れたのは、翌日の夜のことだった。
修道院の応接室にて。
レジーナはエイクと二人きりで、静かに言葉を交わし合った。
エイクは始終沈痛な面持ちで、わずかに目を赤くしていた。
きっとどこかで泣いたのだろう。この人はとても優しい人だから。
レジーナの目はエイク以上に赤くなっていただろうけど、今は比較的、視界は安定している。
少なくとも、昨日の病院内での看護手伝い中よりかは。
気を張っていないと、またすぐ涙の膜で揺らいでしまいそうだけれど……
被害の状況や怪我人からの話を一通り伝え終え、エイクは一度大きく息を吐いた。
レジーナも姿勢を整え直し、今受け取った話を静かに咀嚼する。
静かに――と言っても、表面上に過ぎないが。
心の中は未だめちゃくちゃで、どうにもこうにも収拾のつかないままだ。
でも、澄ました顔をするのは得意なほうだから、表情筋に頑張ってもらって体裁だけはなんとか取りつくろっている。
忙しいところ、こうしてわざわざ足を運んでくれた相手に対して、淑女がくしゃくしゃの泣き顔で対応するのははばかられたので。
重い息を吐くと、エイクは苦しげな面持ちで話を次へ進めた。
「昨日の夕方に、急ぎの捜索隊を出しました。明日の朝にもう一隊大きなものを出して、広く捜索する予定です」
「……お手をおかけいただき、本当にありがとうございます。…………あの、」
エイクへ感謝を伝えた後、レジーナはポツリと、揺れる声音で願いを添える。
「……その捜索に、わたくしも加わることなどは……できませんか……?」
「それは……お気持ちはわかりますが、慣れない身では危険が伴いますので。どうか、ご理解ください」
くしゃりと悲しそうに顔を歪めて、エイクはレジーナの願い出を退けた。
レジーナが着いて行ったところで邪魔にこそなれ、捜索の力にはならないから。当然の答えである。わかりきっていたけれど。
それでも、聞かずにはいられなくて、つい口からこぼしてしまった。
レジーナは静かに息をついた。
そして改めて、背筋を伸ばしてエイクへと頭を下げる。
「……申し訳ございません、子供のようなわがままを……。――改めまして、捜索隊のご手配、心から感謝いたします。よろしくお願いいたします」
丁重に頭を下げると、またエイクは悲しげに眉を下げた。
その後、一つ二つほど当たり障りのない会話を交わし、エイクは席を立った。
もうすっかり日の沈んだ時刻だけれど、彼にはまだまだ仕事があるのだろう。
レジーナも立ち上がり、二人並んで応接室の扉へと歩を向ける。
時間を取らせてしまったことへの謝罪、そして感謝を、もう一度丁重に伝えた。
扉の前で、うやうやしく礼をする。
――と、頭を下げたレジーナの肩に、エイクの両手が添えられた。
エイクは今までの固い声音をやわらかくして、レジーナへと言葉をかける。
「レジーナ嬢……その、上手い言葉が見つかりませんが……何か大きな事があった時には我慢をせず、湧き上がる感情に、そのまま身をゆだねても良いのですよ。私も昔、とても悲しいことがあった時、人目をはばからずに思い切り泣き崩れて、やり場のない怒りに雪を殴りつけたことがあります。……私でよければ、胸をお貸ししますよ」
エイクの言葉にレジーナは顔を上げた。
真摯な紫の瞳を見つめ返し、少しだけ表情をゆるめる。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えてしまいたいところですが……エイク様の胸元を濡らして、殴りつけることは、さすがに気が引けてしまいますわ」
「では、雪を相手にお試しください。私は泣きながら雪の塊を作って、それをグシャグシャにしてやりました。心の苦しさが消え去ることはありませんでしたが、ほんの少しは気が晴れます」
「えぇ……試してみることにいたします」
小さく苦笑を返すと、エイクの手がそっと肩から離れていった。
応接室の扉をくぐり、二人並んで廊下を歩く。
帰りの話題は、もっぱら物語の新作についてであった。
障りのない話に心を癒しながら、エイクを玄関まで見送る。
今宵も外の様子はあいかわらず。
いつも通りに雪が舞っていた。
人間たちにどんなことが起きようが、雪には関係がないのだろう。
ポサポサと降り積もる雪粒たちは、実にのん気な様子である。
玄関先でエイクと別れの挨拶を交わし、その背を見送る。
レジーナは、ほう、と大きく息を吐いた。
白い煙があふれ、空に消えていく。
消灯まではまだ少し時間があるけれど、物語制作に手を付けられるほど、今、心に余裕などない。
寝ようにも、胸のざわつきで寝つけもしないだろう。
手持ち無沙汰に、玄関先からしばらくぼんやりと外を眺めた。
ふと、以前、修道女長にかけられた言葉を思い出す。
『何かあった時には、祈りの中で神へとお話しなさい』
彼女は確か、レジーナにそう語りかけたのだった。
レジーナはゆったりとした歩調で、礼拝堂へと歩み出す。
頭の中に蘇ったその言葉に、今宵は従うことにした。
シンと冷え切った暗い廊下を進んでいく。
一度外廊下へ出て、礼拝堂の扉を目指す。
――と、大きな彫刻扉を前にして、はたと気が付いた。
(鍵を貸してもらうのだった――……と、思ったのだけれど。開いてるみたい……?)
ぼんやりとしていたので扉の前に来てやっと、施錠の可能性に気が付いたのだけれど。
どうやら、鍵はかかっていないらしい。というより、他に誰かが中にいるようだ。
そっと扉を開けて、礼拝堂の中をうかがう。
高く大きなアーチ天井の空間には、正面の祭壇前に一人ポツンとたたずむ、誰かの姿が見えた。
レジーナは扉をくぐり、祭壇のほうへと静かに歩み寄る。
すると、その人物がこちらに気が付き、顔を向けた。
一人祈りを捧げていたのは、修道女長その人であった。
レジーナは驚きながら声をかける。
「修道女長様……! お邪魔をしてしまい、申し訳ございません」
「かまいませんよ。何か私に用事でも?」
「いえ……そういうわけではないのですが……」
「では、祈りの用事ですね。どうぞ、私の隣でよろしければ」
口ごもるレジーナに、修道女長は何てことないように、祈りを勧めた。レジーナが祈りに訪れた理由に、察しがついているのだろう。
変に気を遣わない淡々とした対応に、なんだかホッとしてしまった。
うながされるまま修道女長の隣に並んだ。
祭壇に向かい、胸元で手を組む。
目をつぶり、祈りの姿勢をとった。
けれど。
肝心の、祈りの内容が思いつかなかった。
祈りの姿勢をとった瞬間に、栓が壊れたかのように涙があふれてきてしまい、何も考えられなくなってしまったから。
『手を固く組み、目をつぶる』――その祈りの姿勢に、ルカのことを思い出してしまったのだ。
思い出した瞬間、もうどうしようもないほど苦しくて、悲しくて、こらえきれなくなってしまった。
礼拝堂でいつも熱心に祈りを捧げていくその姿は、もうすっかり目に、心に、焼き付いている。
もはや何も考えずとも、勝手に頭の中に浮かんできてしまう。
大粒の涙は頬を伝い、ボロボロと床へこぼれ落ちていく。
嗚咽をもらしながら、レジーナはハンカチを取り出した。
やわらかなハンカチで顔を覆うと、さらに涙があふれてきた。
このハンカチはルカからもらったものだ。
もらったあの日から、いつもポケットに入れていた。
婚約破棄をくらった日の夜、遠回しに『泣くな』と言われ、投げ渡されたのだった。
どう見ても結婚祝いの贈答品だけれど……使いやすい、よく水を吸う綿のハンカチだ。
きっと人を嫌うルカのことだから、店の者に声もかけずに、素材だけ見て決めたのだろう。
意地悪ではないのだと、わかっていたのだ。彼なりに気を遣ってくれたのだと、ちゃんとわかっていた。
こんなことなら茶化さずに、その場で思い切り喜んで、礼を言うのだった。
……なんて。
感謝しようとしたところで、たぶんあの男は風のように逃げてしまうのだろうけれど。
子供の頃から、いつもそうだったから。
レジーナはハンカチで目を拭いながら、愚痴のような祈りをこぼす。
(……ルカ……あなたはいつも……いつだって、わたくしが心を近づけようとすると、突っぱねたり、はぐらかしたり、逃げ出したり……)
次から次へと込み上げ、あふれてくる涙をハンカチで受け止める。
もうそのハンカチもぐしょぐしょで、拭いきれてはいないけれど。
(どれだけわたくしのことを嫌っていたのか知らないけれど、ちっとも触れさせてくれなかった……。わたくし一度くらいは、あなたの心に触れてみたいと思っていたのに……もうそれすら出来ないくらい、遠くに行ってしまうのだもの……一人で、勝手に……っ)
こぼれ落ちる雫と共に、喉の奥でヒクヒクと息が跳ねる。
拭いても拭いてもとめどなく湧き上がる涙を、もはや放ったままにして、レジーナは傍らの修道女長へ震える声をかけた。
「……修道女長様。……修道女長様はお若くして、祈りの道に、お入りになられたのですよね? 祈りの道で……辛く苦しい心が、癒えることはあるのでしょうか……?」
ぐしゃぐしゃの顔をしながらも、レジーナはまっすぐに修道女長を見つめた。
その眼差しに応えるかのように、修道女長も曇りのない目を向ける。
「えぇ。少なくとも私は、今とても穏やかな心で日々を過ごしていますよ。天へと祈りを届ける毎日に、幸せを感じています」
「……未熟で愚かな、わたくしなんかの祈りでも……天へと、届くものでしょうか……?」
「もちろんです。愛と真心を込めた祈りは、必ず天へと届きましょう」
修道女長は静かに、力強く言い切った。
『愛と真心』。
その言葉を聞き、レジーナはハンカチを握る手に力を込める。
そして一つ、心に大きな誓いを立てたのだった。
(……わたくしが家出なんてしなければ、ルカが災に遭うこともなかった……。……こんなことで、つぐなえるとは思っていないけれど……でも……っ)
未だこぼれ続けている涙をそのままに、修道女長へ向き合う。
レジーナは涙声にのどをひくつかせながらも、凛とした声音で誓いを言い放った。
「修道女長様。わたくしも、祈りの道に入ろうかと思います――……」
――ルカは前に、もらって嬉しいものに『愛と真心』をあげていた。冗談めかしたやり取りの中でこぼされた言葉だったので、適当に答えただけかもしれないけれど。
でも……
寒いのが嫌いだと言いながら、冷たい雪に身を沈めることになってしまった彼への、せめてもの慰めとつぐないになるのなら。
生涯をかけて、その愛と真心を彼の元へと届けよう。
そう心に決めた。
レジーナは泣きながら、胸の内で苦笑する。
(あなたはわたくしと縁を切りたがっていたけれど……ごめんなさいね。まだ離してあげられないわ。だってまだ、わたくしはあなたに別れの言葉を言っていないのだもの。一方的な『さようなら』で縁を切るだなんて、マナー違反だわ)
ルカに謝罪と、そしていつものように文句を言ってやった。




