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52 雪崩れ

 街を出てから三日目、三つ目の峠を目指す道中。

 右手に山頂、左手に谷を見ながらの、移動中のことだった。


 遥か高みの山上あたりから、おかしな雪煙が上がった。

 煙に続き、地鳴りのような音と振動が体を走る。


 なんだろう、なんて思う間もなく突然、オオツノジカが飛ぶように駆け出した。


 振り落とされないよう、咄嗟に手綱にしがみ付く。

 急加速とともに、飛び散る雪がバシバシと頬を打った。


 駆ける鹿の背にへばり付きながら、ルカは商隊の誰かの叫びを聞いた。


「雪崩だ――ッ!! 走れ!! 走れ――……ッ!!」


 綺麗に一列に並び歩いていた鹿たちは、一斉に前へと走り出していた。

 水面を飛び跳ね泳ぐ魚のように、分厚い雪を巨体で蹴散らして、飛び駆ける。


 回避の全力疾走をする鹿の背から、ルカは右手の斜面を仰ぎ見た。

 

 山の上から、まるで雲の塊が落ちてきたかのような、大きな雪煙が降りてきていた。

 悪魔の呻き声のような、低い轟音が迫ってくる。


 鹿たちは雪崩の走路を横切るように、走り抜けるつもりらしい。

 人に命令されずとも本能で瞬時に動けるのは、さすが雪山に生きる獣である。

 

 ――なんて。

 どうでもいいことに感心してしまった。


 走る鹿に身を任せ、ルカは落ち迫る雪崩を眺めていた。

 

 死に物狂いで駆ける鹿の白い息。

 人々の叫び声。

 壁のように迫る雪煙と、響き渡る重低音。


 すべてが遠くの出来事のように感じられる。

 なんだか景色も時間もゆったりと流れていくような、おかしな感覚だ。

 

 不思議な心地を覚えながら、雪崩を見上げてルカは笑った。


(まったく……せっかく修道士になって、穏やかな祈りの道に入ろうと思っていたのに)


 我ながら、さすが悪魔に魅入られただけある。

 どうやら最期まで、この人生の舵取りは一筋縄ではいかないらしい。


 ルカは思い切り、笑い声を上げた。


 手綱をきつく腕に巻き、轟音と煙をまとう雪崩へと大声をかける。

 まるで友達を相手にした、子供のように無邪気な声音で。


「――ははっ! 勝負だ、雪の悪魔め! 俺を殺してみろ!!」


 雪の悪魔と、空っぽの悪魔の勝負だ。

 

 必死の形相で飛ぶように駆けていく、商隊の鹿の群れ。

 その一番後ろでルカは一人、大笑いしていた。

 

 雪の悪魔はあと数舜の間に、隊を飲み込み、殺すのだろう。

 

 けれど、これっぽっちも恐ろしさは感じない。

 どちらかというと、メイトス家の庭園でレジーナの悲鳴を聞いた時のほうが、よっぽど怖かった。


 あの時、浮気にふけこむトーマスとアドリアンヌを切り損ねたことは、未だに後悔している。

 首を落とそうとしたら、レジーナが足に縋りついてきたので、仕方なく二人を蹴り飛ばすだけにとどめておいたのだ。


 このことだけが唯一、この人生に残る悔いかもしれない。

 レジーナに話したら、きっと呆れられるのだろうけれど。


 ふと頭に浮かんだ愛しい人の呆れ顔に、ルカは目を細めた。

 こんな瞬間にまで、はっきりとその姿を思い浮かべられるなんて。

 相当に重症だ。さすが十年以上も、想いをこじらせてきただけある。


 ルカは心底愉快そうな顔で、右手に迫る雪崩と相対した。


 もう瞬きをするうちに、この身は雪に沈む。


 心は気持ちが良いほどに凪いでいた。


 ――だって、勝てる気しかしないから。

 自分は雪の悪魔との勝負に、絶対に勝てるという自信があったから。

 どんなにこっ酷く雪に蹴散らされようが、生きていられるだろうから。

 


 ……――たとえ肉体は死を迎えようとも、こじらせ続けて呪いと化した、何よりも強いこの祈りは――想い人への愛は、きっと天へと届き、生き続けるだろうから――……


 


 凄まじい音と煙が一帯を飲み込み、雪が山肌を走り落ちていった。



 意識の消えるその瞬間まで、ルカはレジーナを想い、笑っていたのだった。







 商隊がクォルタールの街を発ってから、一週間が過ぎた頃。

 その知らせは突然、レジーナの元へもたらされた。


 いつも通りに朝の祈りと食事を終え、午前の仕事を始めようとしていた時だった。

 

 修道院の玄関門で、レジーナは雪かき用の大きなシャベルを抱えて、シスターたちと仕事前のお喋りをしていた。

 そこへヘイル家の使いが一人、鹿に乗って駆けてきたのだ。


 門へとたどり着くや否や、使いの男は慌てた様子で鹿から降り、修道院の中へと走り込んでいった。

 

 レジーナは周囲のシスターたちと顔を見合わせる。


「ヘイル家で何かあったのでしょうか?」

「わざわざ修道院に駆け込んでくる、となると……あまり良い事ではなさそうね」


 年長のシスターが苦い顔をした。

 

 皆で不安げな顔を見合わせていると、建物から使いの男と、修道女長が出て来た。

 修道女長はざわつくシスターたちを鎮めるように、いつものツンとした表情でジロリと見まわす。

 

 そしてキビキビとした声音で説明を始めた。


「山で怪我人が多く出て、運び込まれた病院の手が足りないそうです。修道院から何人か、看護の手伝いを出すことになりましたから、名を呼ばれた者はすぐに支度し、門前に集合するように」


 必要最低限の短い説明を終えると、修道女長はシスターたちの名を呼び出した。

 

 看護の手伝いに呼ばれたのは、いずれも四十歳以下の若いシスターたち。

 よく動ける若者が選ばれたようだ。

 当然、レジーナも名を呼ばれた。


 人選びを終えると、修道女長はピシャリと号令をかける。


「――では、すぐに支度して集まること」


 返事をし、シスターたちはさっと動き出す。

 レジーナも、雪かき道具だけ片付けてすぐ戻ろう、と歩を進めかけたところで、修道女長に肩をつかまれた。


 修道女長は険しい顔をしながら、珍しく迷うような声をかけてきた。


「レジーナさん、あなたも看護手伝いの人員に入れてしまったけれど……やっぱり、あなたは外すことにします。修道院に残るように」

「え? それはわたくしが、不慣れだからですか? 怪我人の看護はしたことがありませんが、布を洗ったり、雑用のお仕事でしたら、何かお手伝いできるかと思ったのですが……」

「いいえ、そういうことではないのです……。……落ち着いて、聞いてくださいね」


 重い表情で、修道女長はレジーナの両肩に手を添える。

 

 そして静かに、事を告げた。


「怪我をしたのは、一週間前に街を出た商隊の方々です。道中雪崩に遭って、引き返してきたそうで……重い怪我を負った人が多く出ているみたいだから、あなたは――」

「ルカは!? ルカは無事なのですかっ!?」


 途端にレジーナは目をむき、悲鳴のような声音で話を遮り、問い詰めた。

 言葉を返そうとする修道女長に掴みかかる勢いで、早口にまくしたてる。


「ルカも帰ってきているのですか!? 怪我は!? 重い怪我というのはどういう具合なのです!? お願いします! わたくしも病院へ行かせてくださいっ!!」


 レジーナは一息に喋り切った。

 喋る、というより、半ば叫ぶような声だったけれど。


 動揺するレジーナを落ち着かせるように、修道女長は肩をさすった。


「レジーナさん。そのように取り乱すようでは、やはりあなたはここに残るべきです。怪我人の手当ての邪魔になってしまいますから。それに、まだ状況もよくわかっていないそうですから……まずは事が落ち着くのを、修道院でお待ちなさい」

「…………いえ、」


 修道女長の言葉を聞き、レジーナは息をついて、声を静めた。

 そのまま何度か深呼吸をし、努めて冷静な声音で言葉を返す。


「……いえ、どうか、お願いします。騒ぎ立ててしまい申し訳ございません。病院では誓って、何があろうと取り乱さず、お仕事に集中いたします。ですからどうか、行かせてください」


 まっすぐに目を見据え、訴える。

 

 レジーナの姿をしばらくまじまじと見つめた後、修道女長はため息をついた。

 厳しい顔で、けれどやわらかい声音で、レジーナへ答える。


「わかりました……くれぐれも、騒がず、取り乱さず、落ち着いて行動すること。それに、これはあなたに限らずですが、血などを見て具合を悪くするようでしたら、帰院させますからね。役に立ちませんから、人を代えます」

「はい、承知いたしました。ありがとうございます。では、支度をしてまいります」


 レジーナは深く礼をした。

 改めて支度をしに、足早に修道女長の元を離れる。

 


 雪かきシャベルを戻しに物置小屋へ歩を向けながら、レジーナは震える手を握りしめた。


 見た目にはなんとか落ち着いた態度を装えても、心の内は酷いざわつき様だ。

 まるで走った後のように心臓がうるさく動き、胸のあたりに例えようのない苦しさが込み上げる。


 騒ぐ心を落ち着けるように、レジーナは一人で小声をこぼした。


「……大丈夫、きっと大丈夫よ。だってルカは、とっても体が丈夫だもの。前に階段から落ちてもケロッとしていたのだから……きっと大丈夫…………」


 大丈夫、大丈夫、と、何度も口に出す。


 あの男のことだから、きっと病院のベッドで、またケロッとした顔で悪態を投げてくるに違いない。

 『お嬢様の不幸が移った。慰謝料を寄越せ』とか、そういう余計なことを。


 そこまで考え、ふとレジーナは立ち止まる。

 深く大きなため息をつきながら、後悔を口にした。


「……わたくしがあげた幸運のお守り(ムーンストーン)、全部返して寄越すからこうなるのよ……。……一個くらいは、突き返してやるんだった…………」


 自分もどちらかというと不運に見舞われる方だけれど、不幸体質で言うと、ルカも結構なものを背負っていそうだ。

 一個くらいは、お守りを持たせておくのだった……


 白い息と共にこぼされた小声は、どうしようもなく震えていた。


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