51 想い人との出会いと別れ
次の家――メイトス家から自分を迎えに来たのは、その家の当主だった。
グレーの髭を生やした老人。
もちろん、そいつにも次々と悪口雑言を投げつけてやった。
――が。
その老人は髭を撫でながら、興味深そうな表情とともに、斜め上の言葉を返してきたのだった。
『君は本当に七歳なのかい? ずいぶんと口が達者だな』
『学がないと聞いていたが、その単語はどこで覚えたんだ? 字は読めるのかい?』
『うちにも、えらく口のまわる子がいるんだ。……いやはや、友となるか、敵となるか……』
などなど。
最後のほうはよくわからない話だったが、なんだか肩透かしを食らって呆けてしまったことを覚えている。
そうして妙な老人と曖昧なやり取りをしながら、連れて来られた先。
メイトス家当主の執務室で、彼の孫――、一人の少女と対面したのだった。
気を取り直して、いつものように悪魔をけしかけてやる。
挨拶がてら『カビ女』と呼んでやった。
そいつの銀色の髪の毛が、パンに生えたカビの色に似ていたので。
今まで渡ってきた家々の令嬢たちは、皆、容姿をけなせばすぐに泣いた。
泣かないまでも、もう二度と口をきいてはこなかったのだ。
の、だけど。
銀の髪の少女は、なんと笑顔で挨拶を返してきた。
『毛虫男くん、よろしくね』と。
なんだこいつは、と思った。
自分以上にペラペラと口をまわして、サラリと悪口を返してきたのだ。
今まで自分なりに鍛えてきた憎まれ口の能力を、軽々と超えられたようで、なんだかものすごく腹が立った。
それからはもう、口喧嘩、というより、口戦争だ。
どうにかして悪口で負かしてやりたくて、あらゆる語彙を総動員して口争いを吹っかけた。
けれど負けん気は、向こうも同じなようで。
結局二人で声を枯らすまで言い争い、仕舞いとなったのだった。
もう、こいつと関わるのはやめよう、と思った。
自分に宿った悪魔が、なんだか怯んでいるような気がしたから。
思い通りに攻撃の効かない相手は――遠ざけられない相手は、苦手だ。
寄ってこられると、後で離れていかれるのが怖くなってしまうから……
――なんて、思っていたのに。
つい、差し出された飴玉をもらってしまった。
飴玉の甘さが口の中に広がった瞬間、思い出してしまった。
胸の底の底に沈めておいたはずの、空っぽの心の寒さを。
自分がずっと、欲し続けていたものを。
もういらないのだと、思い込もうとしていたものを。
……――与えられた飴玉に『愛』を感じて、焦がれる気持ちを思い出してしまった。
気付いた瞬間、どうしようもなく苦しくなって、思わず逃げ出してしまった。
胸がひたすら苦しくて、嬉しくて、あたたかくて、幸せで……
こういう耐え難い気持ちになるから、悪魔と手を組んでまで遠ざけてきたのに。
(せっかく悪魔と仲良くなれたのに! もう台無しだ! クソ女めっ!! あいつのせいで……!! レジーナのせいで……っ!!)
庭を駆け抜けながら、心の内で思い切り暴言を吐いてやる。
ひとたび思い出してしまったら、愚かな自分はまた同じことを繰り返してしまうだろう。
勝手に愛を期待して、裏切られて、傷ついて……
そうなるのは、もう嫌なのに。
だから、悪魔と手を組んだのに。
悪魔を恐れぬ少女の心遣いは、悪魔の庇護なんかよりもずっと、心地が良かった。
もらった飴玉はたまらなく甘くて、優しい味がしたのだった。
目に涙があふれてきて、視界が揺らぐ。
この日は走り逃げながら、久しぶりにボロボロと泣いてしまった。
それからは、ただただレジーナのことを気にする日々。
彼女はあたり前のように隣に並んで、目を合わせ、言葉を交わしてくれた。
すっかり悪魔と成り果てた自分相手に、態度を変えることもなく、離れることなく、捨てることなく。
なんやかんやと、ずっと一緒にいてくれたのだ。
何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も。
ずっと一緒に。
こんなに長い時間、誰かと――心魅かれた相手と一緒にいられたことなんて初めてだったから、幸せで仕方がなかった。
ただひたすらに、大好きなレジーナの愛だけが、欲しくて欲しくてたまらなくなってしまった。
共に時間を過ごせば過ごすほど、その気持ちは大きくなるばかりで。
まるで何かの呪いにでもかかったかのように、いつも、いつでも、彼女を想うようになってしまった。
まだ幼かった自分は、どうしたらこの先もずっと一緒にいられるのか、そればかり考えていた気がする。
――そんな日々の中、『結婚』という仕組みを知ったのは、確か十歳そこらの頃。
結婚とは、『生涯、愛を交わし合う約束』なのだと。
(レジーナと結婚すれば、俺ずっと一緒にいられるじゃん……!!)
なんて。
結婚を初めて知った時には、一人で浮き立ち、大いにはしゃいだものだ。
愛を『交わし合う』からには欲するだけではいけない。
自分もレジーナへ愛を与えなければ、結婚関係は成立しないのだ。――と思い至り、どうすれば愛を与えられるのか、悩みに悩んだ。
すっかり身に馴染んでしまった口の悪さを誤魔化すために、丁寧な喋り方を身につけてみたり。
彼女の周囲の人々への、暴力的な態度を抑えてみたり。
彼女を守れるように武術や剣術を頑張ってみたり。
けれど、レジーナに愛のようなものをあげることは、なかなか難しかった。
今まで仲良くしてきたはずの、この身に巣くう悪魔が邪魔ばかりしてきたので。
喋り方を変えても、結局自分の口から出てくるのは悪口ばかりだったし、良かれと思ってあげた虫やカエルは、ことごとくレジーナを怒らせてしまった。
特にヘビをあげたのは大失敗だったと思う。まさか驚いてひっくり返るとは思わなかった。結構綺麗なヘビだと思ったのだけれど……
数年間、色々と試行錯誤を続けてみた。
その結果わかったことは、自分はもう、悪魔の支配から逃れられないのだということだった。
どう頑張っても、もう普通の人のようには振る舞えなくなっていた。
息をするように人を傷つけてしまうし、場の空気をおかしくしてしまう。
そのことに苛立って、また酷い振る舞いをしてしまって、また苛立って。
この悪循環。
……でも。
それでも。
いつかは、何か素敵な愛を届けられるのではないかと期待して、努力を続けた。勉強も、野良仕事も、馬の世話だって修得した。
彼女に求められた時に、何でも与えられるように。
自分が与えるものの中に、どれか一つでも、愛と呼べるものがあることを期待して。
――その期待は結局、打ち砕かれることになったのだけれど。
忘れもしない、十二歳の頃。
自分を引き取ったメイトス家当主とレジーナの会話で、本当の『結婚の仕組み』というものを知ることになったのだった。
当主の執務室で、三人で勉強会をしていたある日。
レジーナがふと、執務机に乗っていた金箔飾りの封筒に目を向けた。
「わぁ、とっても綺麗な封筒。お祖父様、何か大事なお手紙ですか? 華やかだからパーティーのお誘いか何かかしら?」
「あぁ、これはレジーナに届いた、縁談の手紙だよ」
「わたくしに?」
サラリと返された当主の言葉を聞いて、目をむいた。
縁談とは、結婚の相談のこと。
世間知らずだった自分は、誰か知らない奴にレジーナを持っていかれるなんてこと、これっぽっちも考えていなかったのだ。
固まる自分をよそに、二人はなごやかに会話を続ける。
「釣書を見ても良いですか? 天使のように麗しい殿方だったらどうしましょう! ふふふっ」
「こら、気が早い。お前が十六歳の成人の儀を迎えるまでは、すべて断ることにしているのだから。まだ気にしなくて良いことだ」
当主はサッと封筒を取り上げ、机の引き出しへとしまった。
つまらなそうな声を上げるレジーナに、当主は厳しい声音で言う。
「縁談に対して、浮ついた気持ちでいてはいけないよ。レジーナの相手は特に、慎重に決めなければいけないのだから。しっかりとした良い家から婿を入れて、メイトス家を支えてもらわないといけないからね」
「それは……わかっています。でも、少しお姿を見てみるくらいなら……」
「結婚は家と家との契約だ。相手の容姿で決めるものではない」
何てことない会話の、何てことない短い言葉だったけれど。
頭を殴りつけられたような心地がした。
『結婚は家と家との契約』。
ならば、家を持たない自分は――……?
空っぽな心に巣くった悪魔が、笑い声を上げた気がした。
もう何度も何度も繰り返したことを、やはり今回も、自分は繰り返すことになってしまったようだ。
……――家のない自分は、『メイトス家のレジーナ』と結婚する資格がない。
最初から、愛を交わし合う約束をする資格など、なかったのだ――……
ただレジーナの愛だけが、欲しくて欲しくて仕方がなかったのに。
レジーナだけが、今の自分にとってのすべてだったのに。
今度こそはと期待して、頑張ってきたけれど。
どうやら今回も、自分は望んだ愛を獲得することはできないのだと、知ってしまった。
その日の夜は寝床の中で、また久しぶりにボロボロと泣いて過ごした。
目を閉じると、まぶたの裏の暗闇の中で、悪魔が優しく囁いた。
『いっそレジーナとの関係を、ぐしゃぐしゃにしてしまえば楽になる。手に入らないものは、壊してしまえば諦めがつくものだ。また思い切り人を傷つけ、遠ざけながら、気楽に生きよう』
なんて、誘いの言葉を。
――でも、その囁きに従う気にはなれなかった。
自分にはもう、悪魔よりもずっと慕っている人がいるから。
もうどうしようもないほどに、レジーナを愛しているから。
彼女が十六歳の成人の儀を迎えるまで――結婚するまでは、まだ数年ある。
時間が許す限り、側にいたいと思った。
隣に並んで、目と目を合わせて、言葉を交わしていたかった。
『ずっと一緒』が叶わずとも、あと数年だけでも、愛しい想い人と共に時を過ごしていたかった。
次から次へとあふれてくる涙を拭いながら、悪魔の誘いを退けた。
どうしようもなく苦しいけれど。
たまらなく悲しいけれど。
悔しくて仕方がないけれど。
愛を交わし合う約束をする夢は――レジーナとずっと一緒に暮らしていく夢は、諦めることにした。
代わりに、彼女との思い出を一生の宝にしよう。そう心に決めた。
そして同時に、レジーナが結婚したら彼女の元を去ろうとも決めた。
悪魔に支配されている自分は、その気がなくても、ふとした瞬間に周囲をめちゃくちゃにしてしまうのだ。
大切な人の新しい暮らしを台無しにしてしまう前に、側から離れるべきだと思った。
レジーナの十五歳の誕生日。
成人の儀を迎えるまで、あと一年となった日の夜。
当主に気持ちを打ち明けて、レジーナと、そのまわりのすべてと縁を切ることを願い出た。
『結婚をして、これから幸せな未来へ歩んでいこうという人の側に、厄介な悪魔がいてはいけない』
『レジーナお嬢様の幸せのために、悪魔はどこか遠くへ消えるべきだ』
『彼女が婚姻の儀を迎えたら、護衛をやめさせてください』
そういうような話を、長々と、言葉に詰まりながらもすべて吐き出した。
喋り終えて当主の返事を聞いた後は、また情けないほどにたくさん、涙をこぼしてしまった。
当主は、『十六歳の成人の儀を迎えた時に、改めて話し合おう』と答えた。
その約束の時を迎える前に、世を去ってしまったのだけれど――……
(……――と、いうわけで。旦那様が約束を放り出してしまわれたので仕方なく、十八歳になった今、勝手に宣言を実行させてもらおうかと)
雪山の中、商隊の最後尾。
オオツノジカの背に揺られながら、ルカは天にいる前メイトス家当主へと、祈りを通して語りかける。
(レジーナお嬢様は、エイク・ヘイルなる領主家の男と添うことになりましょう。メイトス家に婿を入れようという旦那様のご計画は、まぁ残念なことになりましたが……ご容赦ください。見込みでは、九割方上手くいくのではないかと。なので俺は、あの日に申し上げました通り、消えることにいたします)
近況報告を兼ねた祈りの最後に、『お世話になりました。ありがとうございました』と、丁重に感謝の言葉を添えておく。
前当主に拾われ、メイトス家に連れて来られなければ、レジーナには出会えなかった。
レジーナを想うことがなければ、きっと自分に巣くう悪魔の力は、今よりずっと強大なものになっていたことだろう。
周囲の人間を傷つけるにとどまらず、容易く命を奪うようになっていたかもしれない。
そうしてそのうち、自分自身の命をも、この手で消し飛ばしていたに違いない。
祈りの時間を終え、ルカは鹿の手綱を握り直した。
空っぽだったこの心には、今ではあたたかい思い出がたっぷりと詰まっている。
もう寒さを感じることもない。
(……本音を言えば、婚姻の儀まで見届けたかったけど……まぁ、仕方ない。レジーナの花嫁姿、きっと可愛いんだろうなぁ)
彼女は華奢な体格で、繊細な銀細工のように綺麗な女の子だから。
きっと花嫁衣装も、さぞ似合う事だろう。
最後の最後に、心に焼き付けておきたかったな。
なんて考えて、苦笑する。
人が集まる祝い事の場なんて、自分が最も苦手とするところだ。
絶対に、悪魔が入り込んではいけない聖域である。
自嘲の笑いと共に、白い息が煙となってこぼれていく。
――天に昇って消えていった白息の先に、轟音とともに雪煙が上がったのは、そのすぐ後のことであった。