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50 空っぽの悪魔

 ――四歳から五歳の頃。

 物心ついたそのくらいの頃から、自分という人間は空っぽだった。

 

 どこかの街の貧民集落の隅。

 崩れかけたレンガの壁に背を預けて、毎日ただぼんやりと、座り込んで過ごしていた気がする。


 まわりには同じように座り込み、うずくまっている人々。

 

 汚れた布をまとった老婆が、馴染みの野良猫のことを『ルカ』と呼んで可愛がっていた。

 その様子を遠目に眺めながら、なんとなく、自分の名前もルカだということにした。

 老婆に頭を撫でられる野良猫が、なんだかとても幸せそうで羨ましかったので。


 物乞いをしたり、食べ物を拾ったり、上手いこと盗んだり。

 それ以外の時間はひたすらぼんやりと、うずくまって暮らしていた。

 

 いつも腹を空かしていたのと、ひたすら寒さを感じていたことだけはよく覚えている。

 たまに空から落ちてくる白い粒が、『雪』という名前なのだと知ったのは、ずいぶんと後になってからの話だ。



 そうやって、何もなく、何もせず、何も考えず。

 空っぽのまま過ごしていたある日。

 

 食べ物を求めてフラフラ街を歩いていると、誰かに手を引かれて、どこかへ連れていかれた。

 その人は確か、中年の大柄の女の人だったと思う。

 家らしき建物の中へ連れ込まれ、ぬるい湯につけた綺麗な布で顔を拭われた。

 

 何がなんだかわからなくて、されるがままにぼうっとしていると、手にパンとチーズを握らされた。

 『食べなさい』と声をかけられ、自分は夢中になってかぶりついたのだった。


 顔を拭われた時の、ぬるい湯の温度と布の感触。

 かけられた声。

 渡されたパンとチーズの美味しさ。


 すべてがたまらなく心地良くて、幸せを感じた。

 これが『愛』なのだと思った。

 生まれて初めて、自分は空っぽの心に愛を獲得したのだと思った。


 食事を終えると、女はもう一度綺麗に顔を拭ってくれた。


 その後は手を引かれるまま家を出て、いくらか街を歩いて別の建物へ。


 連れられた建物の中には子供がたくさんいて、なんだか不思議な景色だった。

 こんなに子供ばかりいるところを、見たことがなかったので。


 女は建物の中にいる男を呼び、何やら話し込んでいた。

 男から数枚の金属を受け取り、チャラリと音を鳴らしてポケットへと収める。

 

 そうしてやり取りを終えると何事もなかったかのように、一人で建物を出ていこうとした。

 自分にはもう、目もくれず。


 なんだか言いようのない、堪えがたい苦しさが込み上げてきて、思わず女の足元に縋りついてしまった。

 『置いてかないで!』とか、自分は何か喚いていたような気がする。

 けれど、思い切り振り払われて、まだ小さかった体は後ろに転げてしまったのだった。


 女は去り、自分は一人建物へと残された。

 

 愛だと思ったものは、愛ではなかったのだと気が付いた。

 手に入れたと思った宝物は、あっという間に解け消えてしまったようだ。

 

 心は空っぽなまま。

 寒くて仕方がないままだった。


 


 その建物は子供を育てる施設のようだった。

 施設の男に、自分は五歳くらいなのだと言われた。

 

 施設では食べ物と新しい服と、あとは寝床と毛布をもらった。

 今まで身にまとっていたガサガサのボロ布とは違って、新しい服はやわらかく気持ちが良い。

 毛布もそれはそれはあたたかくて、凍えることなく眠れることが嬉しかった。


 快適な衣と、食べ物と、凍えずに暮らせる家。

 施設の大人たちから与えられるものに、例えようのない幸せを感じた。

 

 この心地の良い環境が『愛』なのだと思った。

 自分はこの先、この施設の大人たちから愛を与えられながら暮らしていくのだと、そう信じていた。


 ――けれど、ここでの暮らしは一月ほどで終わってしまったのだった。

 

 ある日施設の大人は、訪ねて来た男に自分を含めて何人かの子供を渡した。

 同時に、また大人たちの手の中で、チャラリと金属の音が交わされる。

 これが金というものなのだと知ったのは、ちょうどこの頃だったと思う。


 『行きたくない、ここを出たくない!』と泣き縋ると、施設の大人に服を引っ張られ、引きずり出された。

 破れた服の衿元と、擦りむいた膝を見て、また気が付く。

 与えられたと思っていたものは、愛ではなかったのだと。


 


 連れて行かれた先の農園では、食べ物や寝床をもらった。

 そして他に新しく、仕事というものを与えられたのだった。


 大勢で農作物の仕分けや土落としの仕事をしていると、まわりの人に『幼い割には器用だ』とか、『綺麗な子だ』とかいう声をかけられた。


 なんだかムズムズする言葉だ。

 褒められているのだ、と気が付いてからは、むず痒さに加えて嬉しさと心弾むような気持ちが胸に湧くようになった。


 照れるけれど、自分に関して良いことを言われると、気分も良い。他人からの褒め言葉は耳に心地良かった。

 与えられる素敵な言葉たちは、人々からの『愛』なのだと思った。

 自分はここの人々に愛されているのだと思い、仕事の毎日が幸せだった。


 ――幸せだと思っていたのに。


 ある時、咳風邪をこじらせると、農園の人々はさっさと自分を追い出したのだった。

 病が広がると大変だし、代わりはいくらでもいるので。とのこと。

 

 人々の口からこぼされてきた褒め言葉は、別に愛でもなんでもなかったのだと気が付いた。


 結局、修道院の孤児院へと放り込まれて、そこで一人病と戦い、乗り越えた。

 心は空っぽで心許ないけれど、体は思いのほかしっかりしているようだ。


 


 治ってから少しして、修道院に男が来た。

 今まで見たことがないような、綺麗な服をまとった男だ。

 ふくよかな体型の、中年の男。


 確かこの時自分は、六歳を少し過ぎた頃だったと思う。

  

 男は自分を豪奢な馬車に乗せ、屋敷へと連れて行った。

 

 そこでの暮らしは、まるで別世界のよう。

 広く華やかな部屋に、美しい衣服。

 とんでもなく美味しい食事。

 

 人々から『旦那様』と呼ばれるその男は、今まで会った誰よりも優しかった。

 頭や頬を撫でられ、抱きしめられるのは、くすぐったいけれどとても心地が良い。

 

 この甘やかな触れ合いこそが、『愛』なのだと信じた。


 屋敷には自分の他にも数人、男の子供がいた。

 皆、自分と同じ金の髪に、青い瞳をしていたような気がする。


 ――あまり覚えていないのは、彼らと仲良くなる前に、自分が追い出されてしまったからだ。

 『旦那様』の機嫌を酷く損ねてしまったことで……

 

 確かきっかけは、『旦那様』の客人の男に笑いかけてしまったこと、だったと思う。

 屋敷に訪れた気のいい客人の男と、楽しくお喋りをして、頭を撫でられたことに喜び、無邪気に笑顔を返してしまったのだった。


 その客人の男が帰った直後。


 『旦那様』に思い切り蹴り飛ばされたのだった。

 『他の男に尻尾を振りやがって』とかなんとか、怒鳴り散らされながら。


 訳も分からないままに、ひたすら泣きながら謝り続けたところまでは、かろうじて覚えている。


 その後は何度も殴られ、踏みつけられた。……ように、思う。

 記憶がないので、よくわからないけれど。

 

 そうして虚ろな意識のまま、もう別の家へ向かう馬車の中に放られていた気がする。

 また自分は愛を獲得できなかったのだ、ということだけは、朦朧とした頭でも理解できた。

 

 揺れる馬車の中、痛みと寒さで涙がこぼれた。

 

 心は未だ、空っぽのまま。

 


 ……――もう、空っぽのままでいいと思った。


 

 愛を期待することが、どうしようもなく怖くなってしまったのだ。

 

 どうせぬか喜びで悲しい思いをするのなら、最初から求めなければいい。

 ごく単純なことだけれど、ようやく気付きを得た気がする。

 

 次に連れていかれた家では、最初の挨拶で家の主にこう言ってやった。



 『死ねよクソ野郎』、と。



 たぶんこの瞬間、自分は悪魔に魅入られたのだと思う。


 家の主には即座に頬を打たれたけれど、まったく何とも思わなかった。

 ただ頬が痛むだけで、まるで悲しくも苦しくもない。

 

 頼もしい悪魔の庇護に、心から感謝した。




 それからはとても気が楽だった。

 

 自分のまわりの人間たちを、片っ端から悪魔の餌食にしてやった。

 拙いなりに、悪口雑言を駆使して投げつけてやる。


 悪魔に導かれるまま、手も出すようになった。

 人の痛めつけ方はこの体が覚えている。

 髪を掴んで引き倒し、思い切り殴り、踏みつけてやればいい。


 悪魔は次々、強力な庇護を――醜い言葉と暴力を与えてくれた。

 粗野な振る舞いは繰り返すたび、体にどんどん馴染んでいく。


 人々は悪魔が巣くう自分を忌み嫌い、恐れ、遠巻きにした。


『ガキのくせになんて口の悪さだ!』

『人を傷つけて喜ぶなんて……』

『くそっ、見目に騙された! とんだクソガキを預かっちまった』

『うちじゃ面倒見切れん! さっさと追い出せ……!』


 なんて言いながら。

 

 家々をたらい回しにされながら一年を過ごした頃には、この身はもうすっかり悪魔と同化していた。

 嫌悪感はこれっぽっちもない。

 悪魔と二人、仲良くやっていけそうだと思った。



 心は相変わらず空っぽで、どうしようもなく寒かったけれど。


 そういう余計な気持ちは胸の底の底に沈めて、決して見ないようにした。

 見なければ、ないのと同じだから。




 ――そうして七歳を迎えた時に、また別の家へと放り込まれることになった。

 

 今度の家の名前は、メイトス家と言うらしい。



 そこで、悪魔を宿した自分と真っ向から対話をしてくる、一人の少女と出会うのだった。



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