49 ルカと愛の祈り
商隊は分厚く積もった雪をかき分けて進んでいく。
山中の雪は人の胸ほどの高さにまで膨らみ、オオツノジカも半ば泳ぐように歩を進めている。
それでも、移動の速度はしっかりとしたもので、着々と旅程をたどっていた。
商隊にとっては往復旅程の往路。
ルカにとっては、別れの片道路だ。
もうクォルタールに帰るつもりはなかった。
レジーナの護衛という役目は終わったから。
あの最後の別れの言葉で、レジーナとの縁も切ったつもりだ。
もう生涯、二度と、彼女と言葉を交わすことはない――……
クォルタールの街を出て三日。
二つの峠を越え、三つ目の峠を目指す道中。
前を歩く二十四頭の鹿の列を最後尾から眺めつつ、ルカは白い息を吐いた。
隊を構成する商人は十一人。
本来であればこのメンバーと自分の後ろに、視察隊なるものがつく予定だったそう。
けれど、領主の男に文句を言ってやめさせた。
文句、というより正しく言えば、暴力を振るって、だけれど。
『お前はレジーナの元を離れるな』と怒鳴りつけても、大事な用事があるとかほざいて、領主エイクがなかなか頷かなかったので。
手っ取り早く腕でも折って、外出をやめさせようかと思ったのだ。
結局取り巻きの邪魔が入って、顔を一発殴ることくらいしかできなかったが。
(レジーナに叱られるかと思ったけど、怒ってなかったな……領主の奴が黙ってたのか? ……あのお人好しな大型犬め……)
仕事場の牧場に突然顔を出しては、笑顔で追いかけてくるエイクの顔を思い出し、ルカは顔をしかめた。
裕福な家の毛並みの良い、黒い大型犬。あの領主はまさにそういう印象の男だ。
やれ『友達になろう!』やら、『私は弟が欲しかったんだ!』やら言いながら寄って来られるのは、冗談ではなく心の底から鬱陶しかった。
――でも、悪い奴ではないと思った。
エイクはレジーナの伴侶として、これ以上ない良い相手だと思っている。
街遊びの話や演劇鑑賞の話。バルコニーからの絶景の話に、パーティーでの話。
エイクとの出来事をペラペラと声に乗せるレジーナの姿が、生き生きとして見えたから。
元婚約者のトーマスなんかと過ごしていた時より、ずっと楽しげな顔をしていた。
そんな彼女の姿を見れて、自分は心から嬉しかったのだ。
レジーナの隣にはこの男があるべきだと、そう思った。
……――そう思ったからこそ。
そのレジーナに添うべき男が、商隊とともに五日間の山行をするのだと話し出した時には、心底イラついた。
なんでも、主要な山小屋が壊れたから検分に行くのだとか。
自らが動いたほうが早いし、父も祖父もそうしていた通例だから、なんてケロッとした笑顔で言われた。
二言三言意見を交わした後にはもう、殴っていた気がする。
腹が立ち過ぎて、あまりよく覚えていないが。
大事な用だろうが通例だろうが、そんなものはどうでも良かった。
山小屋をたどる商隊が困ることになろうが、最悪知らぬ誰かが山中で、宿をとれずに死ぬことになろうが、それすら自分にはどうでもいい。
ただ一点――
『エイクが街を出ている間、レジーナを守る奴がいなくなる』ということだけが、自分にとっての問題だった。
たった五日そこらの山行であっても、その間レジーナにとって強力な守りとなる人間がいなくなることが気がかりだった。
単純にレジーナのことが心配だったから。
パーティーで『領主との仲睦まじさ』を披露した後だというのが、大きな理由。
仲を良く思わない人間が手でも出してきたら、と思うと恐ろしかった。
守るべきエイクがのんきに構えている様に、どうしようもなく腹が立った。
殴った理由には外出妨害の他に、その腹いせも込められている。
傍から見たら呆れるような顛末だろう。
たかが小娘一人のために、領主の要用を力ずくで取りやめさせるなんて。
そんなことは良くわかっている。わかっているけれど。
それでも『離れるな』という主張を押し通してやった。
レジーナの大切な縁談相手に暴力を振るう形になってしまったことは、少しだけ悪かったとは思っているけれど。
それでも彼女の側には守りとして、絶対にエイクを置いておきたかった。
しょうもないわがままをしょうもない方法で通してしまったが、自分にとって大事なものはレジーナだけだから、この際良しとする。
空っぽで寒々しい自身の人生の中で、ただ一つ、彼女の存在だけが宝物と呼べるものだったから。
最後のわがままくらいは、許されても良いだろう。
レジーナの最も良い守り手として――そしてレジーナに最も良質な幸せを提供できる、未来の結婚相手として。
エイクには、どうしてもレジーナの側にいて欲しかったのだ。
――願わくば、自分がその位置にいたかった。
なんて想いは、もうとうの昔に捨てている。
自分は宝物を手放すことを決め、もう手元に残るものは、残り香のような思い出だけとなってしまったけれど。
でも、それだけで十分だと思っている。
この心に残ったあたたかな思い出だけで、生きていけるから。
頬に落ちた大粒の雪を払い、ルカはオオツノジカの手綱を握り直した。
前を歩く鹿たちは綺麗に一列に並び、雪をかきわけて進んでいく。
騎乗する人間たちは、均等に間を開けた配置となっている。
人の乗る鹿――荷積みのみの鹿――という並びを繰り返すため、移動中は人と人との間に距離が開く。
会話を交わす距離になく、喋る者もいない。
皆、鹿の背に揺られ、ただ黙々と音のない白の世界を進んでいくだけの旅。
その静謐な時間に、ルカは礼拝堂での祈りの時間を重ねた。
――最近礼拝堂へ足を運んでいなかったから、この無垢な雪景色を聖域代わりとして、祈りを捧げておこうか。
手持ち無沙汰にそんなことを思い、手綱とともに、胸元で両手を組んだ。
真っ白な息に乗せて、雪の中へと祈りを放つ。
墓参りにも、礼拝日にも、いつもいつも祈り続けてきた、たった一つの神への祈りを。
「――神よ、どうかレジーナを、あたたかく光あふれる春へとお導きください」
ずっと、春の訪れを祈ってきた。
何かとついていない様子のレジーナに、あたたかく幸せな春が訪れることだけを、ずっとずっと祈り続けてきた。
自分にはレジーナだけだから。
レジーナだけが、大切で大切で仕方のない唯一の宝物だから。
神に縋りついてでも、彼女の幸せを乞い願ってきたのだ。
「レジーナの足に絡む悲運の雪を解かし、どうか、幸せな未来への導きを――……」
自分のレジーナを想う祈りは、もはや『呪い』である。
本当は『祈り』などと簡潔な単語で呼べるものではないのだ。
もちろん『恋心』なんて軽々しく、あどけない名前で片付けられるものでもない。
そんな恋慕や憧れなんて想いはもう、とうに超えているのだから。
呪いと称するしかないのだ。この想いは。
人々から悪魔と呼ばれる自分には、その方が似合いであろう。
そんな悪魔が神へと、他人の幸せを乞う祈りを捧げるのは、傍から見ればさぞ滑稽なことだろうけれど。
それでも祈り続けるつもりだ。
これからも、ずっとずっと。生涯をかけて。
固く手を組み祈りを捧げながら、ふと息をこぼす。
「……都についたら修道院に入って、祈りの道をこの人生の終着としよう。今まで色々あったけど、良い着地点になりそうだ。ははっ、人生も捨てたモンじゃねぇな」
悪魔が修道士になるなんて。
って、レジーナには笑われそうだけれど。
――なんて。
もう生涯見ることのない笑顔を思い浮かべ、ルカは笑みをこぼした。
笑った顔も、怒った顔も、呆れた顔も、全部全部、この心に焼きついている。
泣いた顔は少し苦手だったけれど、それでも思い出そうとすれば、容易に頭の中に思い浮かべることができる。
この空っぽな心の中で、レジーナへの想いと思い出だけが、巣くう悪魔に犯されずに美しく輝いている。
きっと目に見えたならば、あの氷雪のムーンストーンのように白く煌めいているに違いない。
自分にとっては、これで十分。
どうしようもないほどの幸せだ。
もう一度うやうやしく両手を組み直し、目を閉じて天へと祈る。
すべての祈りはレジーナのために。
レジーナの、幸せのために。
婚約をして、婚姻の儀を挙げて。
愛を育み、子供に恵まれて。
家族に囲まれ愛される、幸せな未来を。
どうかレジーナに――……
「――愛の神よ。どうか、レジーナに祝福を――……」
祈りの言葉は真っ白な息とともに、雪舞う空へと昇っていった。