4 アドリアンヌと二人きりの勉強会
レジーナの人生を思い切り揺さぶるような、『新しい縁談と修道院送り』の家族会議は、一件落着といった雰囲気で締められた。
もちろんレジーナにとっては、何一つ納得できない酷い着地点であったのだけれど。
それでも、とりあえず今後の動きは大方決まった。
レジーナが今とるべき行動は、『嫁入りを物理的に回避して、時間を稼ぐ』。これに尽きる。
胸の内で、よし! と一人気合を入れ、レジーナは改めて姿勢を正した。
未だ、夢見心地の皮算用をあれこれ話して笑い合っている父、継母、異母妹に、声をかける。
「――さて、お父様、お継母さま、お話は全てお済みですか? わたくし、そろそろ体を休めたく思うのですが。今日は色々あって、疲れてしまいましたので」
「あ? あ、あぁ、そうだな。では、キルヤック様との婚約と修道院の件、お前のほうでも支度を進めておくように」
「はい、承知しました」
父と継母、そして異母妹がソファーから腰を浮かす。
さぁ、これで本当にお開きだ、というところで、レジーナは思いついたようにアドリアンヌに声をかけた。
「そうだわ、アドリアンヌ。あなたとは少し二人でお話をしたいから、残ってくださる?」
「え……? お、お話ですかぁ……?」
アドリアンヌはふくよかな体をキュッと縮こめ、怯えた仕草をする。
見かねた父と継母が口を開こうとするが、それより前にレジーナが言葉を滑り込ませた。
「ご安心ください、別に小言をぶつけるために時間をいただくわけではありませんので。アドリアンヌがトーマス様と婚約するにあたって、引き継ぎたい書類などがありますから、もう今日のうちにお渡ししておこうかと」
あと、少しばかり領地および社会に関する『勉強会』をしたく。
と、付け足すと、父はあからさまに嫌そうな顔をした。
『勉強会』――それは祖父が存命の頃、口癖のようによく使っていた単語だ。
祖父は日常の様々な事をきっかけに、『勉強会』を開くのであった。
例えば、街で大きな事件が起きた時、虫が農作物を荒らした時、領民から意見が届いた時、災害が起きた時。
『勉強会』では、起きた事の問題点や、解決方法、そして付随する地理学や社会学や道徳などを、祖父が講義のように語るものであった。
祖父の講義は長く、難しかった。
きっと父にも、うんざりとした思い出があるのだろう。
祖父を敬愛するレジーナですら、子供の頃はうたた寝してしまうことがあったので。
「よろしければ、お父様とお継母様もご一緒にどうぞ。人数が多ければ多いほど、わたくしの勉強会にも熱が入りますわ」
しれっとした声音で、ニコリと微笑みかけてやる。
父は苦い顔をして、立ち止まってしまった継母の歩みをうながした。
「何が勉強会だ……付き合ってられるか。書類の引き継ぎくらいなら、アドリアンヌと二人でも問題ないだろう。さっさと終わらせるんだぞ! くれぐれも、アドリアンヌの負担にならぬように!」
「はい、お父様。もちろんですわ」
父は継母を連れて、逃げるようにそそくさとレジーナの部屋をあとにした。
味方に置いて行かれてオロオロとしているアドリアンヌに、静かに声をかける。
「まぁ、お座りなさい。あなたに色々と言いたいことはあるけれど……言ったところでもう仕方がないし、時間がもったいないだけだわ。今日は本当に、引き継ぎの話をするだけだから、楽にしてちょうだい」
「あ、えっとぉ……はい、お異母姉様……」
アドリアンヌは諦めたようにおずおずと、再びソファーへ腰を下ろす。
レジーナは部屋のキャビネットから、一つの大箱と数冊の本を取り出し、ソファー前の低いテーブルに置いた。
ラタン編みの大箱のふたを開け、中から紙の束やら封筒の束やらを取り出す。
それらをアドリアンヌの前に並べると、彼女はキョトンとした顔で問いかけてきた。
「……うわぁ、お異母姉様、何ですぅ? この紙の束。いっぱいありますねぇ」
「これは全て、セイフォル家との結婚にあたって、妻となるあなたが頭に入れておくべき知識の束よ」
「……ふぇ?」
どさりと並べられた紙の束には、みっちりと文章やら数字やらが記されている。
アドリアンヌは理解できない様子で、パチクリとまばたきを繰り返した。
レジーナは粛々と、引き継ぎという名の説明を始める。
「わかっているとは思うけれど、トーマス様はセイフォル家の当主を務めておいでです。でも、彼はまだ十九歳。家と領地をおさめるには、あまりにも若すぎます」
セイフォル家の前当主は病で急逝してしまった。
それでトーマスが急遽、当主として家を継いだ形である。
「トーマス様は前当主であるお父様とお仕事をする時間が少なく、執務の引き継ぎも十分とは言えません。そして頼れるご親戚も遠方にお住まいで、決して多くはない。つまり、これがどういう状況かわかりますか?」
「え、えっとぉ……トーマス様が、これから一生懸命頑張らないといけない、ってことですかぁ?」
「半分正解ですが、半分不正解です」
アドリアンヌは頭に大きな疑問符を浮かべた。
ポカンとした彼女の様子を黙殺し、言葉を続ける。
「トーマス様が努力するのは当たり前ですが、彼だけの問題ではありません。アドリアンヌ、妻となるあなたも同じくらい頑張らないといけません」
「えぇ!? あ、あたしもですかぁ?」
「当然です。セイフォル家は今とても不安定な状態にあります。この状況でもしトーマス様に何かあった時には、妻となるあなたが家を取り仕切って、当主を支えなければならないのです。グズグズしていたら、あっという間に家は傾きますし、傾いた領主家は民に見限られて、他の家の肥やしにされてしまいますから」
これは祖父から、何度も繰り返し教えられてきたことだ。
そうやって没落していった家を、祖父はたくさん見てきたそうで。
「いいですか、アドリアンヌ。結婚とは『家と家との結びつき』です。セイフォル家が傾けば、メイトス家も危うくなるし、逆もまたしかり。そうならないためにも、今からするわたくしの講義をよく聞いて、内容をしっかりと頭に入れてちょうだいね」
「……はぁ~い、頑張りますぅ……」
気のないアドリアンヌの返事をよそに、レジーナの『勉強会』が始まった。
■
レジーナの講義は大まかに、領主家当主の夫人としての責務のこと、領地のこと、農作と民のこと、そしてお金のことについてだった。
特に、領地と農作については、本で資料や地図を見せながらの熱の入った説明となった。
なぜなら今、ここら一帯の農村地帯は、とある大きな問題に直面しているからだ。
――その問題とは、『大雪』である。
元々、このあたりはまったく雪の降らない土地であった。
しかし十年ほど前から毎年雪が降るようになり、ここ数年は雪害が起きるほどの大雪が積もるようになってしまった。
農地はこの大きな気候の変化に対応できておらず、冬から初夏にかけての作物の収穫量が、いちじるしく下がってしまっている。
この状態が毎年続いていけば、領地が困窮していくのは目に見えていた。
「――そこでわたくしは、『雪のことは雪国に聞こう』と考えたの。山の向こう側にある雪国の領主家とお祖父様には、古い縁があったから、その縁を頼って。雪国領主様に知恵を貸してもらおうと思ったのよ。もう何度も手紙でやり取りをしているから、これからはあなたが引き継いでちょうだい」
説明しながら、分厚い手紙封筒の束をアドリアンヌへと見せる。
雪国領主との手紙のやり取りはもう半年ほど続いているので、結構な量である。
その内容は、耐雪性の高い作物品種のことであったり、雪解け水を考慮した治水工事のことなど、色々だ。
「文通のお相手――雪国の領主様のお名前は『エイク・ヘイル』様よ。彼もお若くして当主になられたお方だから、そういう面でも、相談相手としてトーマス様のお力になるかもしれないわ。くれぐれも失礼のないよう、そして縁を絶やさないようにね」
雪国領主『エイク・ヘイル』のおさめる街。
その場所こそが、今回レジーナが頼ろうとしている籠城の地――家出をする先である。
まぁ、アドリアンヌには、黙っておくのだけれど。
話しながら、テーブルいっぱいに広げていた文書や本を、綺麗にまとめて箱へと収め直した。
片付け終わり、最後に大箱のふたをパタリと閉める。
「さて、これで今日の勉強会はおしまいよ。細かいところは端折ってしまったけれど、おおまかに領地の現状はわかったでしょう?」
「う~ん……お異母姉様のお話、と~っても長くって、アドリアンヌにはよくわかりませんでしたぁ」
レジーナは思わずガクリと、体を傾けた。
難しい単語は一切省き、それはそれは噛み砕いて説明したつもりだったのだけれど。
この時間は一体何だったのか……
アドリアンヌは、あ、でも、と言葉を続けた。
「でも、一つだけ、よ~くわかったことがありましたわぁ、お異母姉様」
「……あら、それは良かったわ。この時間がすべて無駄になったかと思ったわ……」
「うふふっ、それはですねぇ、トーマス様がお異母姉様ではなく、あたしを選んだ理由ですぅ!」
「…………はい?」
斜め上をいったアドリアンヌの言葉に、レジーナは面食らった。
顔を引きつらせながら、聞き返す。
「えっと……それはどういう、意味かしら……?」
「そのまんまの意味ですよぅ。今のお異母姉様のお話、長くって、つまらなくって、あたしすごく疲れちゃったわぁ。これっぽっちも楽しくないし、お話し中のお異母姉様は家庭教師のおばさんみたいで、全~然可愛くなかったものぉ。きっとトーマス様も同じお気持ちだったんじゃないかしらぁ」
レジーナはスカートの後ろで、思わずギリリと拳を握りしめた。
(……駄目、駄目よレジーナ……淑女が人をぶん殴っては駄目……堪えるのよ……)
振り上げそうになる拳を理性で抑え込む。
そんなレジーナをよそに、アドリアンヌはフワフワと笑いながら続けた。
「そうだわ! もしお異母姉様がキルヤック様に愛されなかった時には、今度はあたしが『お勉強会』を開いてあげますぅ! どうすればお異母姉様も可愛くなれるのか、どうすれば男の人に愛される女の子になれるのか、あたしが教えてあげるわねぇ」
「……一発殴っていいかしら」
「はぅ? お異母姉様、今何か言いましたぁ?」
「……なんでもないわ……気にしないで」
(いけない、うっかり口が滑ってしまったわ。淑女がこんなことを口走ってはいけない。落ち着いて、落ち着いて……)
と、脳内で自身に語りかけつつ、レジーナは深呼吸を繰り返す。
アドリアンヌは言いたいことをひとしきり言い終えたら、すぐに立ち上がってさっさと帰り支度を始めた。
「ええっと、それでぇ、結局なんでしたっけぇ? この箱? を、あたしが引き継げば、お異母姉様は満足なんですよねぇ?」
「……そ、そうね…………」
「はぁい、わかりましたぁ。ちゃんとお部屋にしまっておきますぅ!」
しまうんじゃなくて、部屋に帰ったらすぐに開いて、もう一度中身を全部確認しなさい。
なんて言葉は、もうレジーナののどからは出てこなかった。
疲れ果ててしまって……
「おやすみなさぁい、お異母姉様ぁ。――あ、そうだ! お勉強会のお礼に、一つだけあたしからお異母姉様にアドバイスをしてあげるわねぇ」
箱を抱えて立ち上がったアドリアンヌは、レジーナにキュルンとした笑みを向ける。
「お異母姉様のお部屋、女の子のお部屋にしては地味すぎますよぅ。特にこのソファー、全然可愛くないわぁ。青いお色が寒々しいし、銀の飾りも目立たなくて……なんだかケチ臭くって、貧乏に見えますぅ……もっとお花とか大きな宝石とか、豪華で華やかじゃないとダメだと思うのぉ。お異母姉様はただでさえ、見た目が冷ややかというか貧相というか、女の子っぽくないのだからぁ」
せめて持ち物くらいは、ちゃんと可愛いものを持ったほうがいいと思いますよぅ。
なんて言葉を言い残し、アドリアンヌは部屋を去った。
パタリと、自室の扉がしまる。
静けさを取り戻した部屋の中で、レジーナはドサリと、ソファーに倒れ込んだ。
クッションに顔を埋めて、叫び出しそうな声を抑える。
「んん~~~!! んんんんん~~~~……っ!!」
――めっちゃめちゃに、腹が立つ~っ!!
胸が爆発しそうなほどの感情の大波を、ソファーを両手でバンバン叩くことでやり過ごそうともがく。
こんな行儀の悪い行動、今まで生きてきて初めてだ。
きっとこんな姿を見られたら、祖父にはものすごく怒られてしまうだろう。
でも、今だけは、今回だけは許されたい。
(家族といえど、許されざる侮辱よっ!! あぁ、もうっ!! どうしましょう、気持ちがおさまらないわ!! このままじゃ次にアドリアンヌと顔を合わせた時、そのまま殴りかかってしまいそう……っ!!)
ボスンボスンとクッションに拳を叩き込んでも、荒ぶる気持ちはいっこうにおさまらない。
レジーナはしばらくの間、ソファーの上でジタバタともだえ続けるのだった。