37 夕焼けの雪とエイクとレジーナ
この日、ヘイル家応接室での改稿やら商談やらの打ち合わせは、休憩を挟みながら夕方まで続いた。
夕方というといつもであれば、もうとっくに帰りのソリに乗り込んでいる時間である。
厚く覆われた雪雲によって、暗くなっている頃なので。
けれど、今日は久しぶりの晴れの日だった。
この時間でも夕日の輝きによって、外は鮮やかな明るさを保っている。
そういうわけでレジーナは、日暮れの暗さに急かされることもなく、ゆっくりと帰り支度を整えていた。
応接室にて、アルフォンとその手伝いの人たちと談笑をしつつ。
テーブルいっぱいに広げられていた紙類を丁寧にまとめ、しまっていく。
エイクは他の仕事もあるので、途中で離席していた。
帰りにはいつも必ずレジーナを送りに来るので、きっともうそろそろ、顔を出す頃だろう。
最初のうちはそのマメさに、なんだか気後れしてしまったけれど、最近ようやく慣れてきた気がする。
なんてことを考えつつ片付けをしていると、ちょうど応接室の扉が開いた。
エイクが顔を出し、レジーナを呼ぶ。
「レジーナ嬢。お帰りの前に、今少しだけ時間を取れませんか」
「えぇ、大丈夫ですよ」
アルフォンたちに断りを入れ、呼ばれるままに応接室を出た。
エイクと並んで廊下を歩きながら、レジーナは不思議そうに顔を上げる。
「何のご用でしょう。打ち合わせに関することですか?」
「いいえ、まったく。……すみません、どうしてもお見せしたいものがありまして」
何かしら? と思いつつ、レジーナはエイクの案内に従う。
屋敷というより、もはや城のような廊下を歩き、いくつか階段を上がった。
そうして建物の上階へとたどり着き、窓の大きな広間から、バルコニーへと導かれた。
途端に、外のキンと冷えた空気が肌を刺す。
けれど、寒さなど意識にのぼらなくなるほどに、レジーナはバルコニーから見える景色に釘付けとなった。
――視界に広がったのは、夕日に照らされて真っ赤に染め上げられた、クォルタールの街と雪山。
火を宿したように赤く輝く雪景色に、レジーナは目を輝かせた。
バルコニーの手すりまで歩を進め、感動の声をこぼす。
「わぁ……なんて綺麗なのかしら…………」
「晴れる日が少ないので、たまにしか見られないのですが。なかなか見事でしょう?」
「えぇ、言葉にできないほどの景色です……」
大波のように重なる雪の山と、雪の谷。
その影を美しく彩る夕日の光。
ここで暮らし始めて、もう雪の景色はそれなりに味わい尽くした気でいたが、この地はまだこんなにも幻想的な風景を隠し持っていたとは。
クォルタールの底知れなさに、思わず心の内で頭を下げた。
きっとまだまだこの雪の土地には、レジーナの知らない面が多くあるのだろう。
ふいに、感動にひたるレジーナの肩が、やんわりとしたあたたかさに包まれる。
目を向けると、エイクの上着が肩にかけられていた。
フワリと、甘い香りが鼻をかすめる。
「……ありがとうございます」
「上着もなしにお連れしてしまってすみません。寒ければ、中からでも見られるので」
「いえ、平気です。もう少し、ここから景色を楽しみたく。……本当に、本当に素晴らしい景色ですわ!」
借りた上着でありがたく暖を取りつつ、そのまま景色を楽しむ。
晴れ日にだけ見られる貴重な景色だと聞き、目に焼き付けておかなければ、と、欲が出てしまったので。
しょうもない欲だけれど、せっかくの機会なので身を任せることにする。
赤く燃える雪景色をしばらく眺めていると、エイクがふと、雪山の尾根を指さした。
「あそこの山の尾根、雪が張り出して屋根のひさしのようになっているでしょう? あの張り出した雪が斜面に落ちると、雪崩が起きます」
「え……!?」
レジーナはギョッとして、指のさされた方へと目をこらした。
確かに、山の尖った先から斜面に向かって、雪がせり出している部分がある。
へぇ、と、目をパチクリさせるレジーナに、エイクは続ける。
「その右側の、あちらの斜面にはコロコロとした雪の塊がありますが、あれも雪崩の前兆になります」
「雪肌がザラザラとしているような、あのあたりですか?」
指ししめされて解説されれば、なんとなくわかるものの、自分だけではとても見つけられないような前兆だ。
エイクの目に感心しながら、言葉に耳を傾ける。
「他にもヒビが入っていたり、しわができていたり。この雪の見た目による雪崩の前兆を、クォルタールの人間は『雪の精霊のお告げ』なんて呼んでいます」
「それは、頼もしいお告げですね」
「えぇ、本当に。わかりやすくお告げを出してくれる精霊には、感謝してもしきれません。――でも、」
エイクはどこか遠い目で、雪山を眺めた。
「お告げの前兆なく、突然起こる雪崩もあります。新雪が多く降り積もった時などは、特に注意が必要でして。この予期できない雪崩は『悪魔の裏切り』と呼ばれています」
「……聞くからに、恐ろしい名前ですね」
「昔この地に住んでいた人々が名付けたそうで。雪の精霊の抑止を振り切って、悪魔が好き勝手暴れた結果なのだと。昔の人々は、そういう風に解釈したそうです」
赤く燃える雪山を静かに見つめながら、エイクは白い息をこぼす。
夕焼けに照らされたその横顔に、レジーナは礼拝日に見かけた祈りの姿を思い出した。
毎週末の礼拝日。レジーナと歓談し、ルカにちょっかいをかけた後。
エイクは礼拝堂の一番前で、熱心に祈りを捧げていくのであった。
レジーナはそっと、遠くを見やるエイクへ声をかける。
「不躾ながら……いつも礼拝日に、エイク様は熱心に何をお祈りされているのかと、気になっていたのですが……。きっと、雪の災が起らぬようにと、願われていたのですね……」
頭に浮かんだ解を、しみじみとした声音で伝えた。
――が。
しんみりとした空気を破るかのように、エイクは予想に反した答えを返してきた。
「いや……恥ずかしながら週末の礼拝日には、ごく個人的な祈りを捧げています。ものすごく個人的な、俗な願い事を。はっはっは」
なんだ、違うのか。
レジーナは脱力し、カクリと体を傾けた。
エイクは眉を下げて笑みながら、言い訳をする。
「なんだか変な期待をさせてしまって、申し訳ないです……。私はそんなに、高尚な人間ではないので」
「いえ、人様の祈りの内容に触れるような野暮なことをした、わたくしのほうこそ謝らなくては」
「後出しで格好悪いのですが、もちろん民の幸せなども祈っていますよ! 週末の一般開放の礼拝日ではなく、こちらは平日に! 礼拝堂を借り切って、公的に! しっかりと!」
「ふふっ、存じておりますよ」
アワアワと言い添えるエイクに、レジーナは笑い返した。
エイクが週末だけではなく、平日にも礼拝堂を訪れていることは以前から知っている。
普通、領主は平日に特別な許可を得て、礼拝堂に入るものなのだ。
こちらを『領主としての民への祈り』とし、週末の礼拝日は『エイク個人としての祈り』と内容を区別しても、なんら悪いことはないように思う。
にこやかなレジーナの笑顔を見て、エイクは照れくさそうにペラペラと言葉を続ける。
「平日の礼拝日には、大いなる山の神や雪の精霊、先祖へと祈りを捧げているのだけれど……週末の礼拝日には、もっぱら愛の神へと祈りを捧げています」
「あら、愛の神にですか?」
「はい。――神よ、私に愛の祝福を! と」
その言葉を聞き、レジーナはドキリとした。
胸の内に、一つの思い――期待が込み上げる。
(今、この会話の流れなら、聞いてしまえるかもしれない……エイク様の、お気持ちを)
これは、これまで今一歩決め手に欠けていたエイクの気持ちを、聞ける流れではなかろうか。
と、レジーナは意を決した。
じわりと胸にわき上がった緊張を抑えつつ、そうっと、たずねる。
「エイク様が……愛の神の祝福を、ともに授かりたいと願う……その、お相手は……?」
レジーナは緊張した面持ちで、エイクを見つめた。
――けれどエイクは、その問いかけには答えなかった。
代わりに、甘く揺れる紫の瞳で、レジーナのグレーサファイアの瞳をまっすぐに見つめ返す。
やわらかな笑みを落として、頬を一度だけ、その大きな手のひらでそっと撫でた。
言葉のない、一瞬の空白。
けれど言葉よりも鮮明に、想いは、レジーナへと伝わった。
頬に添えられた手が離れる。
エイクは笑みを深めると、空気を切り替えるように軽やかな声を出した。
「――日が落ちてしまいましたね。そろそろ中へ戻りましょう。もうお帰りのソリの支度も出来ていると思うので、お送りしますよ」
「……ありがとうございます」
肩に手を添えられ、レジーナはバルコニーを後にした。
■
帰り支度を整え、アルフォンに挨拶をして応接室を出る。
エイクに屋敷の玄関先まで送られ、用意されたソリに乗った。
そうして、なんだかぼんやりとしているうちに、修道院まで帰りついていた。
修道院の住居棟玄関で、通りがかった数人のシスターたちにつかまる。
「お帰りなさいレジーナさん。領主様とは、どうでした?」
「あら、どうしたの? ぼんやりとして。何か素敵なことでもありました?」
「……あ、はい。ただいま戻りました。いやぁ、はぁ~、素敵なことと言えば、素敵なことがあったような」
シスターたちのいつもの気安い会話に、レジーナはようやく我に返る。
ひと心地ついたように、はぁ、と息をつき、気をゆるめた。
エイクとレジーナが単なる友好関係を越えて、『そういう関係』に進みそうだということは、もはやシスターたちにも察しがついているようで。
最近はもう、特に隠すことでもない話題となっている。
なんせ、打ち合わせやら街遊びの誘いやらで、しょっちゅうエイクがレジーナをさらっていくので。
レジーナは肩の力を抜いて、同じように気安くシスターたちに答える。
「わたくし、なんだかちょっと、行ける気がしてきましたわ」
「えっ!? 何かあったのですか?」
「今日はあなた少し、帰りが遅かったものね! よかったら自由時間に、お話聞かせてちょうだい!」
シスターたちは賑やかな声を出し、大いにわいた。
それもそのはず。
今までレジーナはシスターたちに問われても、『いまいちよくわからない』『決め手に欠ける』『今日もごく普通に過ごしただけ』などなど、ふわっとした返事しか返せないでいたのだから。
今日は、大きな進展である。
玄関で盛り上がっていると、修道女長が側を通った。
眉をつり上げ、ピシャリと一同を叱り飛ばす。
「お静かに! そのように浮ついた話題で、盛り上がるものではありません。貞淑に」
「わぁ! も、申し訳ございません……!」
シスターたちは口々に謝りながら、そそくさと散っていった。
去り際に、こっそりレジーナにウインクを飛ばしつつ。
強かなシスターたちを見送り、レジーナは修道女長に並ぶ。
「ええと、騒いでしまい、申し訳ございませんでした……! 先ほど、帰院いたしました」
「話に花を咲かせる前に、そういう必要な報告を先にしてくださいね」
「はい……」
フンと鼻を鳴らし、修道女長は踵を返す。
と、同時に、背中をポンと叩かれた。
修道女長はツンとした表情の端に、ニヤリと笑みを浮かべる。
「来るべき愛の神の祝福に備えて、身と心を清めておくことをおすすめします」
言い残し、歩き去る修道女長。
叩かれた背中に、レジーナは勇気をもらった気がした。