30 トーマスの迷いと意地 (実家サイド)
トーマスとアドリアンヌが婚約をして約三ヶ月。
もう一月半後には婚姻の儀を控えた、ある日のこと。
セイフォル家応接室の重厚なソファーに座り、トーマスはぼんやりと、遠目に婚約者の姿を眺めていた。
今日は婚姻の儀の衣装を決めるため、屋敷の応接室に商人やら仕立て職人やらを大勢招いている。
婚約者との茶会用の小さな応接室ではなく、屋敷のメインのほうの、広く大きな応接室を使っての用事だ。
中央のソファーを部屋の端へと移動して、広い空間を作ってある。
そのスペースを贅沢に使い、大量の布と装飾品の箱と、仕立て職人の道具やら紙やらが、どっちゃりと広げられている。
採寸や型起こしの職人たちが動き回る、その中心。
あらゆる人と物の真ん中で、本日華やかに主役を張っているのが、トーマスの婚約者アドリアンヌであった。
『本日』――というか、『本日も』、といったほうが正しいのだけれど。
この賑やかな光景は、実は今日で三度目である。
本当は衣装決めなど、もうとっくに終わっている予定だったのだが。
なかなかアドリアンヌの衣装が決まらず、こうして今日三度目の衣装打ち合わせを行うことになった。
今日で何とか決めてほしいところだ。時間もそろそろ、押しているので。
トーマスは出された紅茶に口をつけながら、主役――アドリアンヌの方へと遠い目を向ける。
商人や仕立て職人に混ざって、ちゃっかりメイトス家の当主オリバーと、その妻アンドレアも我が物顔で動き回っていた。
脇にどけられたソファーにダラリと身を預け、トーマスは深くため息を吐く。
(……あの人たちはなぜ、人の屋敷でこうも堂々と過ごせるんだ……メイトス家よりセイフォル家のほうが、ずっと家格が高いというのに)
まるで自分の家のように振る舞うオリバーとアンドレアに、トーマスは少々呆れた気持ちを抱いていた。
まぁ、これから繋がりができる家同士だから……と、自分を納得させ、何も口を出さずにいるのだけれど。
アドリアンヌの豊満な体に、また新しい布が当てられた。
先ほどは純白の布を当てていたようだが、今度は薄赤色のフワフワとした布だ。
アドリアンヌがこちらを向き、おっとりとした声をかけて寄越す。
「トーマス様ぁ、このお色はどう思いますぅ? さっきの白い布より、こっちのほうが可愛くないですかぁ?」
「え? あ、あぁ、そう思うよ」
「うふふっ、ありがとうございますぅ! じゃあやっぱり、こっちの薄赤色にしようかなぁ。金糸の刺繍を入れたら素敵になりそうじゃない? お花の柄とかぁ――……」
アドリアンヌは母アンドレアや仕立て職人へと向き合い、何やら相談し始めた。
その様子をぼうっと眺めながら、トーマスは想像する。
――これがレジーナだったら、と。
きっとレジーナだったら、今のシーンでこう言うはず。
『どのお色もとても素敵だけれど、婚姻の儀では白や青の衣装をまとうのが一般的ですから。今後も着まわせるように、青い布で仕立てましょう。衣装選びにかまけている時間も予算も、もったいないので、もう今日中に決めてしまいますね』
なんて。
良くまわる口で、ピシャリと言い切るのだろう。
そして衣装合わせは即刻終了だ。
実際のレジーナとの婚約期間中のやりとりは、今の想像よりもさらにシンプルなものであったが。
『衣装は手持ちのもので済ませましょう』
この一言で終わりであった。
レジーナとの婚姻の儀の打ち合わせでは、衣装は新しく仕立てず、手持ちのもので済ます予定だったのだ。
なので、アドリアンヌが衣装の仕立ての話を持ち出した時には、正直虚を突かれたような心地だった。
婚姻の儀とは、こんなところにも時間と予算がかかるものなのか、と。
ソファーで物思いにふけるトーマスの元に、執事エメットが歩み寄る。
トーマスの思考を読み取ったかのように、エメットは苦い声をもらした。
「……お相手がレジーナ様であれば、何一つ滞りなく、婚姻の儀を迎えられましたのに……」
「……」
なんとなく、言い返す気力がわかなかった。
トーマスは口を閉ざしたまま、エメットの言葉を流すように紅茶を飲む。
――レジーナであれば……
言われた言葉が、頭の中に反響する。
(……レジーナとの婚姻の儀の打ち合わせは……正直、楽だったな……)
なんて思いが、胸にわく。
こればっかりは、どうしようもなく認めざるを得ないことだった。
トーマスはチビチビと紅茶をすすりながら、元婚約者との打ち合わせを思い返す。
『式にはいっそのこと、お客様を招かなくても良いと思うの。招待する家の選別が大変だし、下手すると揉め事に繋がるでしょう?』
『あなたのお父様が亡くなられてから、まだ年数も経っていないし、喪の中での結婚なので、という言い訳をすれば問題はないかと。関わりのある家々には、わたくしが挨拶を兼ねて手紙を書いておきます』
『身内だけの式になりますし、衣装も手持ちの礼服で済ませましょう』
『浮いた予算は雪害への備えにまわすのが良いと思いますよ。きっと今年も大雪が降るでしょうから。領民のためにも』
レジーナの提案してきた婚姻の儀の内容は、質素倹約そのものであった。
時間にも予算にも身を削られることがなく、それどころか、それらを将来への備えにまわせる余裕すらあった。
本当に、彼女との婚姻の儀の打ち合わせは楽だったと思う。
――の、だが。
これらすべては、『今になって思えば』である。
実際に打ち合わせを進めていた婚約当時は、正直言うと、そんなレジーナのことが苦手でしかなかったのだ。
レジーナが意見を出したり、考えを述べたりする度に、酷く苛立ちを覚えた。
自分の頼りなさを指摘されているかのようで……
(……でも、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない)
今ではなんとなく、そう感じるようになってきた。
レジーナはいつもシャンとした姿で、トーマスの側にしっかりと立っていた。
隣に並び立ってくる姿が出しゃばっているように感じて、当時はむしゃくしゃしていたけれど。
でも、苛立ちを感じつつも確かに、孤独を感じることはなかったのだ。
(けれど、今は……なんだか……)
チラリと、衣装選びに忙しいアドリアンヌへ目を向ける。
視線に気づいたアドリアンヌが、首を傾げてニッコリと微笑み返してきた。
トーマスは微笑み返しながらも、頭に満ちる裏腹な思考に、密かに息をつく。
(……アドリアンヌは自分にべったりなはずなのに、なんだか、無性に孤独を感じる)
まるで、一人で戦地に放り出されたかのようなこの不安感は、一体どういうことなのだろう。
何もかもを一人で背負い、歩いていかなければいけないような、この気の重さは……
考えながら、力なく紅茶のカップをテーブルへ戻す。
それと同時に、ソファーの傍らに立つエメットが、低く静かな声音で語りかけてきた。
「トーマス様、無礼を承知で申し上げますが……今が、お考え直しになる、最後の機会ですよ」
エメットの言葉に、トーマスは目をむいた。
ソファーにダレていた体を起こし、エメットに視線を合わせる。
「今であれば、まだ、やり直すことができると思います。もちろん、痛手は負いますが。婚姻の儀を目前にした二度の一方的な破談は、世間に厳しく見られることでしょう。ですが、長い目で将来のことを考えた時、伴侶となる人がアドリアンヌ様であっては……」
険しい顔で言葉を紡ぐエメットは、語尾を濁した。
トーマスも思い切り顔をしかめる。
セイフォル家当主の妻が、アドリアンヌであっては――『頼りない』『心配だ』『立ち行かない』。
続く言葉が、いくらでも想像できてしまった。
けれどトーマスは、しぼり出すような声でエメットを叱りつける。
「……僕の婚約者をけなすことは……許さないぞ。僕とアドリアンヌは、確かに、愛の神の祝福を受けた関係なのだから……!」
「レジーナ様との間には、その愛の祝福とやらはなかったのですか」
「あぁ……何もなかった! だから僕は縁を切ったんだ」
トーマスは吹っ切るように言い放つ。
「だってレジーナとは手を絡めることもなければ、口づけを交わすこともなく……肌を求めて抱き合うことも一切なかったんだ。こんな関係に、愛などあるわけがないだろう。祝福もクソもない……。でもアドリアンヌはレジーナとは違ったんだ……! 彼女とは燃えるような熱い愛を交わし合うことができた! これこそ間違いなく、愛の神の祝福だ!」
周囲に聞こえないよう声を落としながらも、トーマスは力強く言い切った。
熱烈に肌を求め合う男女の衝動と、その行為こそが、愛の神の祝福なのだ。と。
……まるで自分に言い聞かせるように。
だって、そう思い込まなければ。
アドリアンヌとの関係を、神の意思なのだと思っておかないと――……
……――自分は色欲に目がくらんだだけの、どうしようもない愚か者になってしまうじゃないか。
トーマスはソファーから立ち上がり、エメットへ告げる。
「……僕が選んだのはアドリアンヌだ。僕は愛の神の意思を信じている。婚姻の儀は必ず彼女と迎える……もう口を出さないでくれ!」
強い声音で吐き捨てて、部屋の中央で主役となって煌めく、アドリアンヌのほうへ足を向ける。
肉付きの良いアドリアンヌのやわらかな腰に手をまわし、トーマスは衣装選びへと加わっていった。
部屋の隅に取り残されたエメットは、大きく息を吐く。
そしてポツリと、主人へはもう届かないであろう言葉をこぼした。
「愛の神の祝福とは、欲をぶつけ合う者ではなく、真心を交わし合う者たちに与えられるものなのですよ、トーマス様」
やれやれ、そろそろ転職先でも探しておこうか。
なんて呟きは、賑やかな応接室の端っこに消えていった。