3 金持ち老人への身売り婚約
茶会での浮気現場目撃、からの、話し合い。
そして婚約破棄と、元婚約者のアドリアンヌへの求婚劇。
怒涛の一日を終え、レジーナは一人、自室でぐったりとソファーに身を預けていた。
もうすっかり夜のとばりが下り、夕食も済ませた時間。
普段であれば、まったりと読書を楽しんでいる時間である。
残念ながら今日は、読書をする心の余裕なんてこれっぽっちもないが。
あんな騒動の後に、家族と顔を突き合わせて食事をとるのは気が進まなかったので、今日は自室で食事を済ませた。
夕食、というより、ほとんど軽食やおやつくらいの食事だったのだけれど。
食欲なんて、湧くはずもない……
レジーナは、ふと窓へと目を向ける。
二階のこの部屋は眺めがよく、昼間は遠く山の端まで見渡せる。
今はただどんよりと、暗闇が広がるだけの景色だけれど。
まるでレジーナの、今の気分のように。
ぼうっと暗い景色を眺めていると、ふいにチラチラと白い綿が舞ってきた。
「……あら、雪だわ。去年よりもずいぶんと早いこと。今年の冬もまた、このあたりも大雪になるのかしらね……」
今年も農地が大変なことになりそうだ。
なんて不安が、頭をよぎる。
メイトス家の抱えている領民は、そのほとんどすべてが農民である。
そしてセイフォル家もまた、街の他に、広い農地を領土として有している。
雪の程度によっては、作物や人々の暮らしに深刻な影響が出てしまう。
ここ数年は毎年雪害が起きているので、今年の冬も心配だ。
と、ここまで考えたところで、レジーナは首を振った。
「わたくしったら……メイトス家はともかく、もうセイフォル家の領地事情は、わたくしの考えるところではないというのに……。こういうところが、『出しゃばり』だと嫌われてしまったのよ……反省して、次に生かさないと」
今日の話し合いの最中、トーマスに『執務に出しゃばってきて鬱陶しい』と非難されたことを思い出す。
婚約期間中にレジーナは、若くして当主となったトーマスを支えるつもりで、執務に関する話を度々口にしてきた。
しかしそれは、彼にとってはいらないお節介でしかなかったようだ。
舞い始めた雪を目で追いながら、ふぅ、と、ため息とともに笑う。
(もうトーマス様と自分の縁は切れてしまったのだから、彼のことを考えるのはやめにしましょう……。いつまでもウジウジしていては駄目ね。しっかりしなくては)
そう、縁談が一つ潰れたくらいで、人生は終わらないのだ。
少しばかり傷はついたが、レジーナはまだまだ若い、婚期真っ只中の令嬢である。
またどこからか、縁談は舞い込むだろう。
我がメイトス家の格は、下の上から中の中あたり。
家格の釣り合う家は、セイフォル家の他にもたくさんあるのだ。
「――お祖父様。次こそはきっと、お祖父様も頷くような良い縁を結んでみせますわ」
雪の舞う夜空へ、誓いのような祈りを捧げる。
大丈夫。自分は大丈夫だ。
だって、祖父仕込みの教養があるし、器量だってそこそこだと、自負している。
今日はもう何もせず、早くに寝てしまおう。
心をしっかりと休め、また明日から、シャンとした姿で真面目に生きていく。
「そうしていれば、きっと神様が良き道を開いてくださるに違いない――」
「レジーナ、レジーナはいるか! 話がある! ドアを開けなさい!」
一人気持ちを新たにしていると、自室の入り口の方から無遠慮な大声が届いた。
父の声だ。
ガンガンとノックされる扉に、顔をしかめながら対応する。
今日はもう家族と顔を合わせたくなかったのだが、何か急ぎの用事だろうか。
扉を開けると、父だけではなく継母と異母妹もいた。
今会いたくない面子、勢ぞろい。これは神の意地悪か何かか。
父はレジーナの自室へ滑り込むと、席にも着かぬ間に、耳を疑う言葉を言い放った。
「レジーナ、お前の新しい結婚相手を決めたぞ。アードラ・キルヤック様だ! 高齢だが金持ちだから、この際、年齢は問題ないだろう! 良い相手だ!」
「……え? は? えっと、ご高齢とは……そのキルヤック様とは、おいくつでいらっしゃるのですか……?」
「今年、六十七歳と聞いている。他に妻が三人いるそうだが、お前が一番若いそうだ。上手く可愛がってもらえ」
頭が、クラクラした。
倒れそうになる体を叱咤する。
胸の底から沸騰してくるような、あらゆる気持ちや言葉を、力を込めてグッと飲み込んだ。
(だ……大丈夫よレジーナ、冷静に、冷静に。お父様の軽薄な思いつきはいつものことじゃない。こういう時ほど、冷静に対応したほうが良いわ。殴っては駄目よ、殴っては。淑女はいついかなる時も、落ち着いて行動を……)
拳を握りしめつつ、静かに深呼吸をする。
とりあえず、立ち話で決める内容ではないことは確かだ。
「ええと、ひとまずお掛けくださいな。少々ソファーが手狭ではありますが……」
レジーナは、家族を自室のソファーへと案内した。
青い彩色に彫刻、ところどころに銀の飾り細工があしらわれている、レジーナの部屋のソファー。
クッションは真っ白で、優美で美しいけれどギラギラした派手さはない、洗練された意匠である。
これは、亡き実母が結婚の際に実家から持ち込んだものだそう。
レジーナはこのソファーを、とても気に入っていた。
テーブルを挟んで並ぶ、二台のソファーの一方に、父と継母とアドリアンヌ。
そしてもう一方に、レジーナが一人で座る。
手狭だと言っているのに、何故そちらに三人で座るのか。
二人ずつに分かれて座ればいいのでは? なんて突っ込みが、頭によぎる。決して口には出さないけれど。
この距離感が、そのまま我がメイトス家の、家族の心の距離感なのだ。
レジーナは一人ポツンとソファーの真ん中に腰をかけ、背筋を伸ばす。
そうして本日二度目の、レジーナの人生を大きく揺るがすことになる家族会議が始まった。
■
「――それで、改めて確認させていただきますが、お父様はわたくしに、アードラ・キルヤック様の第四夫人になれと、そうおっしゃるのですか?」
いくらか冷静さを取り戻したレジーナは、努めて落ち着いた声音で、父へと問いかける。
「そうだ。キルヤック家はうちよりずっと家格が高いし、領土も広い。何より金持ちだ! アードラ様はもう隠居の身だが、若い女を求めていてな。娘が二人いる我が家にも、前から声がかかっていたんだ。お前が上手いこと可愛がられれば、キルヤック家と太い繋がりができる。そうすれば、我がメイトス家もさぞ潤うことだろう」
我ながら名案だ! と父は得意げな顔で語った。
父の浮かれ様を無視し、レジーナは質問を重ねる。
「もし、わたくしがアードラ様に可愛がられることがなかったら、どうするのです。ご夫人は他に三人もいらっしゃるのでしょう? わたくしはトーマス様にも嫌われてしまった女ですよ。前科があります」
「愛されるように振る舞えばいいだけの話だろう。お前はまず、その口のきき方を何とかしろ! アドリアンヌを見習って、女らしくおっとりと喋る練習をしたらどうだ。あとは、そうだな、もう少し肉をつけろ。女は抱き心地が何よりの武器だからな!」
がっはっは、と笑う父。
なるほど、説得力のある言葉だ。
彼の隣に座る継母と異母妹こそ、まさに愛嬌と体で殿方を落としてみせた証人であるので。
レジーナは目をつぶり、はぁ、と一つ息をついた。
(要は、お父様はお金を得たいがためにわたくしを、金を持て余した老人へと売りさばくつもりなのね……。そんな手段で得る財産など、一時の幻でしかないのに)
浮かれる父に向かって、ピシャリと言葉を返してやる。
「お言葉ですがお父様、上手く寵愛を受けられるかどうかも定かではないし、何より老い先短い老人の娯楽の対価なんて、たかが知れています。わたくしがキルヤック様に嫁いだところで、長期的に見てメイトス家の豊かさには繋がりません。それに――」
「ええい! うるさい!! 当主の決めたことに口を出すな!! お前はそんなだから男に嫌われるのだ!!」
父の怒声に、思わず身をすくめた。
『それに』の後に続けようとした言葉は、『レジーナもアドリアンヌも嫁いでしまったら、誰が家を継ぐのか。これから男児をこさえるつもりなのか。当初の祖父の予定通り、家に婿を迎えるべきではないのか』という内容だったのだが、父の剣幕にレジーナは口をつぐんでしまった。
怒鳴り終えると、父はやれやれ、と、ソファーの背にドスリと体を預けた。
「いいかレジーナ、明日にでも縁談の話をしてくるから、婚約はもう決まったものだと思っておけ! あとお前は、キルヤック様の元へ嫁ぐまでの間、修道院に入っていろ! これも決定事項だ!」
「修道院……!? なぜです? わたくしはもう十三の時に、修道院にて作法修得を終えておりますけども」
令嬢たちは結婚前に、淑女たる作法を学ぶ。
そこそこ身分のある家の女子ともなれば、修道院にてマナーを学ぶことはごく一般的である。
もちろん生真面目な祖父はこの流れを踏襲し、レジーナを修道院へと送ったのだった。
十三歳の時に、数ヶ月くらいの短い期間ではあったけれど。
父はフンと鼻を鳴らし、面倒臭そうに返事を返した。
「ガキの頃にちょっと入ったくらいだろう。結婚前にお前はもう一度、女としての作法をその身に叩きこんでこい! 結婚してすぐに離縁、なんてことになったら、ただじゃおかないからな! ――それに」
ふいに父は、チラリと隣のアドリアンヌに目をやった。
アドリアンヌはおずおずとドレスのスカートを握りしめ、困ったような顔をする。
その様子をいぶかし気に眺めていると、継母が言葉を繋いできた。
「――アドリアンヌちゃんはね、レジーナに申し訳なさを感じているみたいなの……トーマス様とこの子は愛し合っていたとはいえ、結果的に異母姉の婚約者を奪う形になってしまったでしょう? 申し訳なくてあなたに顔向けできないって……」
申し訳なさを感じるのなら、自分の口から謝罪の一つでもしたらどうなのか。
喉元まで出かかった言葉を、グッと堪える。また泣かれでもしたら、大変に面倒なので。
アドリアンヌに代わり、継母は話を続ける。
「それでね、アドリアンヌちゃんがセイフォル家に入るのは、婚姻の儀を終えてからになるでしょう? それまでは、まだメイトス家で過ごすことになるから……この家でレジーナと顔を合わせる度に、アドリアンヌちゃんは気を遣ってしまって……生活に疲れてしまうんじゃないかって、不安みたいなのよ」
「では、わたくしは明日から、食事をこの自室でとるようにいたしましょう。用事がなければ、屋敷内をうろつくこともありませんし。顔を合わせる機会もそう無いのでは?」
アドリアンヌの心を心配する継母に、レジーナはサラリと言葉を返してやった。
なんだか、自分を体よく追い出そうとしているような……嫌な空気を感じる。
継母はレジーナの態度に屈することなく、言い募った。
「でもほら! アドリアンヌちゃんはこれから、セイフォル家の跡継ぎを産まなくちゃいけない立場でしょう? 大切な体だもの、ちょっとのストレスでも避けたほうがいいと思うのよ! 二人は睦まじい関係だから、もしかしたらもう授かっているかもしれないし」
「……なるほど、アドリアンヌが萎縮しないように、どうしてもわたくしの身を修道院に移したい、ということですね……」
継母の言い分を聞き終えると、スッ、と、胸の奥の体温が下がる心地がした。
何だかもう、言い返すのも面倒になってきた。
あまりにも呆れ果ててしまって……
(冬に野外のあんな場所で、異母姉の婚約者と不貞の戯れに興じる図太い神経の娘が、『申し訳なさでストレスを感じる』なんてことある……?)
もはや怒りすら感じない。
ただ果てしない、呆れだけが胸に満ちる……
息を吐きつつ、レジーナは静かに答えた。
「……わかりましたわ。わたくしはすみやかに、修道院へ身を移すことにいたしましょう」
「まぁ! さすがレジーナだわ! 異母妹の身を案じる優しい異母姉、とっても美しい姉妹愛ね。レジーナはお利口さんで、本当に助かるわぁ!」
「お異母姉様ぁ、ごめんなさい……あたしのために……。ありがとうございますぅ、お心づかいに感謝します……!」
レジーナの返事に、継母と異母妹は、ふくよかな体とふわふわした赤毛を大きく揺らして喜んだ。
父も、さっきまでの不機嫌さはどこへやら。
うんうん、と頷き、満足げな表情を浮かべている。
上手く話がまとまった! あぁ、良かった良かった!
なんて雰囲気の家族をよそに、レジーナは密やかに思案する。
(当主の持つ権力は、家の中では絶対的。残念だけれど、わたくしのような小娘が逆らえるものではないわ。……お父様の命には従いつつ、この事態を何とかする案を考えなければ……何か方法が……。……――ひとつ、あるかもしれないわね)
父は今さっき、修道院に入るよう命を下した。
しかし、特に場所は指定されていない。
(きっとお父様は、近場の街の修道院を想定しているはずだわ。でもわたくしには、他に修道院のあてがある。ひとまずの逃げ場所に使えるような、良い場所のあてが)
澄ました顔を貼り付けつつ、レジーナは脳をフル稼働させて今後の段取りを考える。
視界の端に入った窓の外では、綿のような雪がハラハラと降り続いていた。
雪で道が閉ざされる前に、行動に移さなければ。できれば、明日にでも。
実は少しばかり、縁のある街があるのだ。その街の修道院ならば、事態を打開できるかも。
レジーナが定めた目的地。
それは領土を遠く離れた、山の向こうの向こう側――
(冬の間は雪で閉ざされ、『雪の要塞』とも呼ばれる山間の街。そこの修道院で、ひと冬みっちり、籠城してやりましょう……!)
物理的に隔離された場所に身を置き、キルヤック家ご隠居との婚姻まで、時間を稼ぐ策。
これが、今のレジーナに導き出せる最善の案だった。
今欲しいのは、とにかく時間だ。
自分とトーマス・セイフォルとの縁の破談が公に広まれば、祖父の築いた手堅い人脈から、レジーナにまた縁談の一つくらいは舞い込むことだろう。
老い先短いご隠居よりも、もっと懐の潤った良い相手が見つかれば、あの父のことだから、すぐに気持ちが揺らぐに違いない。
それまでは物理的に、嫁入りを回避する!
家出をしてでも……!
向かいのソファーでは父と継母と異母妹が、なにやら今後の予定を話して、クスクスと笑い合っているようだった。
「キルヤック様は羽振りが良いと評判だから、レジーナの結婚が上手くいけば、大きな金が入るだろうなぁ」
「まぁ素敵! アドリアンヌちゃんの結婚資金にあてましょう! せっかくの晴れの舞台なのだから、思い切り着飾らないとね!」
「お父様、お母様、あたしとっても楽しみですぅ! 新しいドレスと宝石が欲しいなぁ。綺麗な花嫁姿を見たら、きっとトーマス様も、も~っとあたしを愛してくださると思うわぁ!」
浮き立つ家族たちの笑い声は、もう思考をめぐらすレジーナには、些細な雑音でしかないのであった。