29 雪影にて、悪魔との逢瀬
ノートを読みに来たエイクたちが去り、この日レジーナは夕方の祈りから修練へと戻ってきた。
礼拝堂での祈りの時間を終えて、夕食の支度に向かう途中。
シスターたちからポンと肩を叩かれる。
そして口々に、こんな言葉をかけられた。
「レジーナさん、今日はもしかして領主様に呼ばれていたの?」
「門前にとまっていたの、ヘイル家のソリでしょう?」
「何か良いお話あった?」
そう、彼女たちが求めているものは、いわゆる浮いた話だ。
レジーナとエイクの仲が良いことは、もう毎週末の礼拝で知れ渡っている。
何やら察したシスターたちは、素敵な話を期待しているのだろう。
素敵な話、とは、もちろん愛の方面のお話だ。
エイクと何か特別な進展があったのでは、と期待されているようだ。
う~ん、とレジーナは考え込む。
(感触は悪くない、ような気もするけれど……仲も良いし。でもそもそもわたくし、関係を進展させる駆け引きなんてしたことがないから、良し悪しがわからないのよね……トーマス様との縁談は、いつの間にか決まっていたようなものだったし)
正直なところ、エイクがレジーナに対してどういう気持ちを抱いているのか、いまいちよくわからないのだった。
一応好かれてはいる、と、思う。
しかしその『好かれている』の内容が、どういう方面のものなのかが、わからなかった。
文通の友人として好かれているのか。珍しい客人として好かれているのか。愛の相手として好かれているのか。
エイクはおそらく性格的に、誰にでも親切且つ丁寧に接するタイプの人間なのだろう。
なので、自分が『そういう対象』として特別な対応をされているのかどうか、判断がつかない。
おそらくレジーナでなくても、客として他領の令嬢が来たら、エイクは紳士的に対応するはずだ。
今のレジーナへの対応もそういう、客兼、文通の友人としての対応のように感じる。
シスターたちには曖昧な返事で茶を濁し、その場はなんとか切り抜けた。
そのうち胸を張って、仲の進展を報告できれば良いのだけれど。
そんなことをぼんやりと考えながら、レジーナは夕方から夜の時間を過ごすのであった。
■
ノートが手元を離れてしまったので、この日の夜の自由時間は特に何もすることがなかった。
レジーナは久しぶりに、部屋で一人、ゆっくりとした時を過ごすことにする。
何の気なしにとりあえず、トランクの中を整理した。
暗い部屋の中、ランプの明かりを頼りにして。
しまい込んでいたドレスを出し、しわを伸ばして壁のハンガーにかける。
実家から持ってきたドレスは三着ある。
普段着としてよく着ている水色のドレスと、ブルーグレーに銀糸の刺繍がほどこされたドレスと、落ち着いた深い青色のドレス。
(エイク様との観劇には、どれを着ていこうかしら。水色のドレスは初対面の時に着てしまったから、ブルーグレーか深青色のどちらかね。銀糸の刺繍は夜会向きだから、深青色のドレスにしましょうか)
一人で頷き、深青色のドレスを姿見鏡で合わせてみる。
落ち着いた色合いのドレスなので、華やかさを添えるアクセサリーがないと、少々さびしい気もするけれど。
(まぁ、仮にもシスターとして修練中の身だし……街に出るなら人目もあるから、変に着飾らないほうが良いわよね。地味な装いのほうが、逆に慎ましやかで印象が良いかもしれない)
よし、と自分を納得させ、ドレスを壁にかけ直す。
そうしているうちに、コーンコーンと、消灯時間の鐘が鳴った。
机の上のランプを消して、ベッドへ潜り込む。
――と、その時。
パサンッ!
と、窓に雪の塊がはじけた。
二度、三度と、数回続く。
驚いて、ベッドから飛び出た。
こんなことをしてくるのは、例によってあの男しかいない。
窓を開けて、下に向かって目を凝らす。
庭に積み上げられた雪壁の端に、動く影を見つけた。
レジーナは毛皮のコートを羽織り、急いでブーツを履くと、そうっと部屋の扉を開く。
静まり返った廊下を確認し、足音を殺しながらササっと廊下を通り抜けた。
三階から一階まで、ソロソロと階段を下る。
人がいないことを確認して、廊下から外への扉を細く開いた。
周囲を見まわしてコソコソと隠れながら、雪壁の影へと体を滑り込ませる。
そこで待っていたのは、やはりルカであった。
毛皮のコートを着込み、腰にはご丁寧に、ものものしいハルバードを装備して。
レジーナは思い切り顔を歪めながら、ヒソヒソ声で叱りつける。
「あなたねぇ……!! ここは女子修道院よ!? 男が忍び込むなんて事件よ、事件! 物騒な武器まで持ち込んで……!」
ルカは悪びれる様子もなく、悪戯な笑みを浮かべた。
「ははっ、もし従者の俺がしょっぴかれたら、レジーナお嬢様も立場がないですね。ざまぁない」
「笑い事じゃないわよ……! というか、どうして私の部屋の場所を知っているの? 怖……あなたのような人を、世間では変質者と呼ぶのよ」
雪玉は的確に、レジーナの部屋を狙ってきたように思う。
話してもいない部屋の場所を、なぜ知っているのか。
「人を変質者呼ばわりしないでもらいたい、不名誉な。この前たまたま牧場の荷運びがてら修道院の前を通ったら、ちょうどお嬢様が部屋から呆けた顔を出して、雪を眺めていたんですよ」
「……本当に~……?」
レジーナは疑う目でジトリと、ルカを睨みつける。
わずかにルカが身じろいだ気がしたが、レジーナが口を開く前に話題を変えられてしまった。
「――ところで、今日修道院にヘイル家のソリが来たそうじゃないですか。牧場に仕事をしに来たシスターたちが、ギャーギャー盛り上がってうるさかったですよ。何か縁談の話に進展でも?」
「……あなたもそれを聞くのね」
レジーナは渋い顔でため息をついた。
夕方シスターたちに散々問われた事を、また別の口から聞くことになろうとは。
やれやれ、と、白い息を吐きながらも、レジーナは少し表情をやわらげた。
「縁談に進展はないけれど、良いことはあったわ。実はわたくし、最近ちょっとした物語を書いていたのだけれど、それをエイク様に褒めていただいてね。戯曲として街の劇場で上演していただけるみたいなの」
「……は?」
ルカはこれでもかと顔をしかめ、レジーナを睨みつけた。
レジーナはスンと身をすくめる。
容姿の整った人間は、怒った表情も圧が強くて、愛嬌のある顔立ちの人より形相が冷たく恐ろしくなる。
今のルカの顔は、真に悪魔のようである。
例えるならば氷雪の悪魔。ずいぶんと冷ややかな目をしているので。
「何をしているんですか、あなたは。クソどうでもいい趣味にかまけている暇がおありで? 冬なんてあっという間に明けるんですから、さっさと縁談を進めたらどうです」
「あら、結構皆からの評判も良いのよ。エイク様のお心づかいで、今日はヘイル家の戯曲作家様もいらしていてね。そのお方にも褒めていただいたわ」
「そんなの世辞に決まっているでしょう。まんまと調子に乗せられて……しょうもないことで浮かれる馬鹿なガキみたいで、こっちが恥ずかしくなってくる」
ルカは冷たい声音で吐き捨てた。
けれどそんな悪魔に対抗するように、レジーナは胸を張る。
日中、エイクに言われた言葉を、レジーナは得意げに声に乗せた。
「自分を過小評価せず、自信を持つように。と、エイク様に背中を押していただけたから、別にあなたにどう言われようとかまいません」
「……ほう、えらい自信ですね。では、俺にも読ませてくださいよ、その物語とやら」
「絶対に、嫌」
レジーナはツンとした顔で、ピシャリと答えた。
「あなたはどうせボロクソ言って、笑う気でしょう? 心無い感想など、わざわざ聞きたくありません。作家の心は繊細なので」
「な~にが繊細だ。家出して雪国に籠城決め込むような、勇ましい令嬢が何を言ってるんだか」
ルカは潰れた虫を見るような目で、レジーナを見下ろした。
悪意に満ちた視線をやり過ごし、レジーナはルカへと命じる。
「そういうわけで、今後もし、わたくしの物語を目にする機会があっても、絶対に、絶対に! 読まないでちょうだいね。内容を人から聞くのも、もちろん駄目よ。もし、あなたが命に背くようなことがあれば――……」
「ははっ、どうなると言うんです」
馬鹿にしたように、ルカが鼻で笑う。
レジーナは一瞬言葉に詰まったが、すぐに続きをボソリと声に乗せた。
「……――命に背いたら、死にます」
「は? 何でそんなことで俺が死なないといけないんですか」
「いいえ、死ぬのはわたくしです。わたくしが死にます。あなたに読まれたら」
「いやなんでだよ」
「作家の心は繊細だと言ったでしょう。あなたから暴言じみた感想を言われるくらいなら、死んでしまったほうがましよ」
心底呆れたような顔をするルカに、念を押す。
「とにかく、あなたがわたくしの物語を読むことは、固く禁じます。これは主人から従者への、至上命令よ」
「レジーナお嬢様が真面目に婚活に取り組むなら、聞いてやらないこともないですが」
「そ、それは……わたくしだって、進行形で努力はしているところで……」
ふいに話題を蒸し返され、口ごもる。
レジーナは一度言葉を途切れさせ、盛大にため息をついた。
真っ白な息は、高い雪の壁に囲まれた庭の隅で、夜の空へと消えていく。
夕方にぼんやり考え込んでいたことを、レジーナはルカへと話すことにした。
「……正直なことを話すと、エイク様と今以上に関係を深めるために、どう動いたらいいのかわからなくて……」
「十八にもなって、何を子供じみたことを言ってるんです」
「だって仕方ないじゃない……結婚は家と家の契約なのだから、本来娘の縁談は、家長が進めるものなのよ? 自分で取り付けようにも、どうしたものやら……」
本来であれば、家の当主が娘の相手を見つくろって、縁談を取り付けて結婚させるのだ。
娘が自らの足で相手方に出向いて、自ら婚約を迫る、なんて不遜なこと、よっぽど力のある大貴族の身分でもない限り、まず聞かない話である。
悩み込むレジーナに、ルカが吐き捨てる。
「別にお嬢様から婚約を迫らなくても、向こうを落とせばいいだけでしょう」
「それは、そうだけど……」
確かにそうではあるけども。
当主であるエイクから求婚の働きかけがあれば、体裁も良く、丸く収まるのだろう。
しかしその理想形を目指すにしても、また問題が出てくる。
「……どうすれば、殿方を落とせるのやら……わたくし、殿方なんて一人も落としたことが……」
ない。のである。残念ながら。
元婚約者のトーマスだって、落とすことができなかった。
彼はレジーナではなく異母妹の方へと、綺麗に落ちていったのだった。
レジーナはしばし真面目な顔で考え込む。
しばらくして顔を上げ、ルカを見つめた。
「ねぇ、トーマス様はアドリアンヌへ落ちたでしょう? 例えばでいいのだけれど、あなたはどういう人に転がり落ちてしまうのかしら? 何か参考にできるかもしれないから、教えてちょうだい」
「は!?」
ふいに話を振られたルカは、目をむいた。
宝石のような美しい目を大きく見開いたまま、レジーナを見て固まる。
レジーナは補足のように、ペラペラと言い添える。
「落ちる、までいかなくてもいいわ。女性に言われて嬉しいこととか、楽しいと感じることとか、こういうことをされたら幸せ、とか。何かない?」
「……え……っと、俺は…………特には……」
「そんなに無欲な人間いないでしょうに。何かあるでしょう? 美味しいクッキーを作ってもらえたら幸せ、とか」
詰め寄るレジーナに合わせて、ルカは後ずさる。
雪の壁に背が触れそうなところで、ようやく観念したようにポソリと、乾いた声をこぼした。
「……別に……普通に、接してもらえる……だけで…………お喋り、とか……言葉が返ってくると……幸せなような……」
ボソボソとしたルカの返事に、レジーナは渋い顔をする。
「全然参考にならないわ……もっとわかりやすい答えが欲しいのだけれど。そうだ、何か物は? もらって嬉しいプレゼントとかはないかしら」
「…………愛、とか……真心とか……?」
「抽象的すぎる……! もっとこう、形のある物体で」
「……はぁ? せっかく答えてやってるのに、文句ばっかりじゃないですか。形のあるもので男が欲しいものなんて、金と酒と女体くらいでしょ。領主の奴に差し上げたらどうです? 金と酒は無くても、女体なら持ってるでしょう? とびきり貧相ですが……――ッ!?」
パァン!
と、雪の夜に、甲高い音が響いた。
レジーナがルカの頬を、思い切り引っ叩いた音である。
「痛ぇ……ッ」
「あらやだ、わたくしったら、うっかり手が滑ってしまったわ。きっと雪のせいね」
「……この野郎……」
ほほほ、と口元に手をあて、わざとらしく笑って見せる。
打たれた頬を押さえたまま、ルカは恨めしそうにレジーナを睨んだ。
さて、と声音を切り替え、レジーナは羽織ってきたコートを整える。
『殿方の落とし方』の問題は、もう少し時間をかけて、じっくり考えたほうが良さそうだ。
今この場で、二人で口争いをしながら解決するには、少々難があるようなので。
それに、すっかり体も冷えてしまっている。
長居をしたら風邪をひいてしまいそうだ。
未だ怖い顔をしているルカに向き合い、眉を下げて笑いかける。
「もう遅いし、そろそろ戻りましょう。見つかったら怒られてしまうから、気をつけてね」
雪壁の影から、顔だけをチラリと出す。
周囲を確認したところで、ふいに呼び止められた。
「レジーナお嬢様、あの……」
「なに? どうしたの?」
「あなたは……何か欲しいものとか、あるんですか? 俺だけ喋らされるの、なんか勝負に負けたみたいで腹立つんで。教えてください」
不機嫌な顔で、ルカはレジーナに問いかけた。
レジーナが詰め寄ったのと同じように、ジリジリと詰め寄り返す。
退路を塞ぎ、雪の壁に手をついてレジーナの身を囲い込んだ。
「えぇ……? わたくしの欲しいもの? ……急に言われても困るわ」
「俺にも同じこと聞いたでしょう。吐くまで帰しません」
「じ、尋問じゃないの……ええと、そうねぇ……」
ルカの体と雪の壁で囲われた牢の中、レジーナは尋問への答えを探す。
少し悩んだ後、迷いつつも答えた。
「う~ん……欲しいもの……わたくしに、今必要なもの、とか……? ……愛の神の祝福、と……幸運。とか、そのへんかしら?」
「自分だって抽象的じゃないですか」
「だって形のあるものだと、婚約の契約書とお金くらいしか――……痛っ!?」
「おっと、淑女らしからぬ下品な回答に、うっかり指が滑りました」
ルカはレジーナの額をバチンと指ではじき、レジーナは悲鳴を上げた。
意地悪な顔をして、ルカは勝ったようにニヤリと笑う。
今度はレジーナが恨めしそうな顔で、悪魔のような男を睨みつけるのだった。