27 修道女長の来訪
ノートの落下という予期せぬ事態から起きた、三日間に渡る読書会。
その翌日の自由時間から、レジーナは続きの執筆を開始した。
レジーナの妄想盛り日記――ノートの中の物語では、ヒロインが雪の城へたどり着くところまでが綴られている。
続きはそこからのスタートだ。
夕食後の夜の自由時間。
真鍮ランプのやわらかな明かりを頼りに、部屋の小さな机にノートを広げてペンを持つ。
「――さて。続きの妄想……いえ、構成は大体考えてあるから、順を追って場面を掘り下げていきましょう。シスターの皆さんの反応を見るに、夢とロマンは六割増しくらいでもいいかもしれないわね」
あれこれ独り言をもらしながら、サラサラとペンを走らせていく。
「過激なシーンも、皆さん意外なくらい盛り上がっていたわ。そういうシーンもところどころに追加して――……って、どの程度が良い塩梅なのかしら。デートで手を繋いで、口づけ――くらいまでは、健全の範囲? ヒーローとヒロインの熱い抱擁、までは書いても良いかしらね。肌を重ねるのは……さすがにちょっと下品? ……でも物語の中だし……どうせならいけるところまで……ふひひっ」
うっかりニヨニヨとした笑みがもれる。
けれどそんなレジーナのゆるんだ顔を見ているのは、ノートとペンとランプの明かりだけなので、構いはしない。
几帳面な美しい字が、紙の上を流れていく。
平日の自由時間をいっぱいに使って、レジーナは毎日物語を紡いでいった。
そうして週末二日間の夜の時間に、その物語をシスターたちに披露する。
秘密の夜の読書会は、最初の四人に加え、日を追うごとに一人、三人、五人とメンバーを増やしていった。
執筆再開から三週目あたりで、レジーナの物語は修道院内のほぼすべてのシスターたちに共有されることとなる。
仕事の小休憩中に、作中シーンの再現劇で遊ぶ者が出るほどの人気となった。
登場人物たちの小気味の良いセリフが、シスターたちのツボに入ったようで。
最初は言いようのない恥ずかしさに顔を赤めていたレジーナだったが、段々と人々の反応に楽しみを見出すようになり、執筆の速度はさらに上がっていった。
家出から二ヶ月少し、修道院入りから一ヶ月半ほどで、レジーナの筆力はグンと磨かれたものになっていく。
他を知らないので比べようもないけれど、教養高い老齢のシスターも唸るほどのものなので、それなりの質を保っているのだと、レジーナも自負している。
こうして、祈りと仕事と人々への寄り添い、という修道院生活に、『物語制作』という作業が加わり、すっかり馴染んだ頃。
レジーナは平日のある日の朝、盛大に冷や汗を流すこととなったのだった。
――突然の、修道女長の自室来訪によって。
「レジーナさん、午前の仕事に出る前に、少し話をいいかしら」
「修道女長様……は、はい」
朝の祈りを終え、朝食をとった後。
午前の仕事へ出る支度をしに、一度部屋へ戻ったところ、ノックの音が鳴り響いたのである。
扉を開けると、いつものように厳かな雰囲気をまとった、修道女長が立っていた。
六十代半ばの修道女長は、乱れなく白髪を結い上げ、皺ひとつないベールをかぶっている。
淡いブルーの目は鋭く、視線が合うと自然と背筋が伸びてしまうような、不思議な圧に満ちていた。
首から下げた礼拝具をシャラリと鳴らしながら、修道女長はレジーナの部屋へと足を踏み入れる。
迎え入れたレジーナが扉を閉め終えると、修道女長は静かに口を開いた。
「レジーナさん。あなたは週末の夜の自由時間に、なにやらこの部屋に大人数を集めているようですが」
「は、はい……」
「先週は消灯時間を過ぎた後も、大層賑やかなご様子で」
「も、申し訳ございません……」
レジーナは身をすくめた。
先週は披露した物語の内容が、少しばかり濃厚なロマンチックシーンだったこともあり、盛り上がったシスターたちの解散が遅れてしまったのだ。
ちなみに濃厚な場面とは、もちろん、ヒーローとヒロインの愛の描写についてである。
それも相まって、レジーナは体を小さくするしかなかった。
「自由時間の使い方に関しては、節度を守ればとやかく言う事はいたしません。しかし、時間を守らない行為は見過ごすわけにはいきません」
「はい、おっしゃるとおりでございます……本当に申し訳ございませんでした」
深く頭を下げ、心から謝罪する。
修道女長はつり上げた眉をそのままに、頭を下げたレジーナを見下ろす。
「それからもう少し、声を落としなさい。賑やかなお喋りが外まで聞こえていますよ。夜の時間に祈りを捧げて、静かに過ごす者もいるのです。祈る者への配慮をなさい」
「はい……今週末は静かに過ごすよう、気をつけます……」
「次は口頭の注意ではなく、相応の罰を与えますからね。――それで、レジーナさん」
身を縮こめて平謝りするレジーナに、修道女長はツンとした声音で言葉を続ける。
「一体週末の夜に、あなたは何をしているのです?」
「う……」
聞かれるとは思っていたが、やはり聞かれてしまった。
口ごもりつつ、レジーナは苦い面持ちで顔を上げる。
(ま、まずいわ……夜な夜な俗な物語をシスターたちに披露しているなんてこと、バレたら…………わたくし、追い出されてしまうのでは……)
血の気が引くのを感じながら、恐る恐る返事をする。
「その……わたくし、拙いものですが、物語のようなものを書いておりまして……皆さんに読んでいただきご指導をいただくべく、読書会のようなものを……週末に……」
しどろもどろに答えつつ、チラリと修道女長の顔色をうかがう。
修道女長はいつもの厳しい真顔で、レジーナを見つめていた。
「その物語というのは、どういったものなのです?」
「……しゅ、修道女長様の、ご趣味に合うかどうかは……」
「では、私の趣味に合うかどうか、私自身に判断させていただいても?」
「ひえ…………はい…………」
レジーナは背中に大量の汗が流れるのを感じつつ、壊れた人形のように、ギクシャクとした動きで机へと向かう。
端に置いてあるノートを手に取り、両手を添えてうやうやしく修道女長へ差し出した。
「こ、こちらが、わたくしの物語です……」
修道女長が、ハラリと表紙を開く。
淡いブルーの目が、ノートの字をたどる。
一枚目、二枚目……と、静かに、次々とページがめくられていった。
修道服のスカートを握りながら、レジーナはひたすら沈黙の時間に耐える。
これは、新手の拷問か何かだろうか。
調子に乗って書いた、とんでもなく恥ずかしい最強の妄想を、目の前で偉い人に読まれるだなんて……それも、真顔で静かに。
時間の感覚がわからなくなるほど緊張していたレジーナに、ふと、声がかかった。
「レジーナさん」
「……は、はい……」
「このノート、今日の日中、お借りしても?」
「……はい…………え?」
レジーナはギョッとして顔を上げた。
借りる、とは、どういう意味合いだろう。
罪の物的証拠として、押収するということだろうか。
固まるレジーナとは裏腹に、修道女長はツンとした表情の端に、ニヤリと笑みを浮かべていた。
「あなたが物語を書いているということは、すでにシスターたちの噂で知っています。あまりに人気があるようだから、私もずっと気になっていたのです」
「へ……?」
「なるほど、俗なお話だけれど、続きが気になる展開で面白いわ。今日の自由時間までにはお返しするから、お昼の読書の供にお借りしていいかしら」
「え、はぁ……え?」
レジーナは耳を疑った。
なんと、修道女長の趣味に合ったようだ。
アワアワしながら返事をすると、修道女長は表情をやわらげた。
ノートをパラパラとめくりながら、言葉を続ける。
「そんなに驚いた顔をしなくてもいいでしょうに。私だって、物語を楽しむ心はあるのですよ」
「あぁ、いえ、失礼いたしました……でも、内容が内容だけに、気に入っていただけたことに驚いてしまって。結構、その、俗っぽい内容と言いますか……色絡みのドロドロとした騒動とか、男女の愛とか……」
「ふふっ、何を言っているの」
修道女長は勝気な笑みを浮かべ、レジーナを鋭い眼差しで見据える。
「私は修道院に入る前は、都の貴族の屋敷にいた身ですもの。愛だの恋だのお家騒動だのは、むしろ関心事の真ん真ん中ですわ」
「まぁ……! 修道女長様は都のお方だったのですね。わたくしったら知らずに」
突然明かされた情報に、レジーナはポカンと呆けてしまった。
と同時に、一人胸の内で納得する。
(都のお貴族様ともなると、結構大きなお家のご出身なのかしら。修道女長様の不思議な上品さと圧は、貴族令嬢時代の名残なのかもしれないわね)
修道女長はさらに驚くべきことを、ペラリと声に乗せてきた。
「この物語はヒロインの令嬢が、王子にさらわれて家から逃げ出すお話なのね。なんだか自分を重ねてしまって、応援したくなってしまったわ」
「えっ……!?」
これは、自分が聞いても良い話なのだろうか。
内心焦りつつ、けれど少なからず興味もあり、レジーナは続く修道女長の言葉に耳を傾ける。
「私もこの物語の令嬢のように、家から逃げ出して来たのよ。もうずいぶんと昔のことだけれど。確か十八歳くらいだったかしらね。護衛と侍女を数人だけ連れて」
「十八歳……」
レジーナと同じ歳の頃に。
同じように、修道女長は家出をしたらしい。
「だから、あなたが挨拶に来た時も心配していたのですよ。突然訪ねて来たものだから、どこぞの家出のご令嬢なのではないかと」
「その節は……突然の訪問、申し訳ございませんでした」
わずかに目をそらしつつ、引きつった笑みを顔に貼り付ける。
まさにレジーナは、その心配通りの家出令嬢であるわけで。
初対面の挨拶時に、やけに観察されているような気はしたが、まさかズバリうたがわれていたとは。
レジーナが乾いた笑いをもらしているところに、朝の仕事開始を告げる鐘が鳴った。
修道女長はいつものシャンとした顔に表情を戻すと、レジーナのノートを胸に抱え直した。
「時間を取ってしまって悪いことをしましたね。では、このご本はありがたく、お借りしますね。それともう一度言っておきますが、消灯時間は守るように」
「はい、これからは注意いたします。……あの、修道女長様」
注意の念を押して踵を返そうとする修道女長に、レジーナはためらいつつも声をかけた。
どうしても一つだけ、気になることがあったので。
「……修道女長様は家出をしたまま、お帰りになられていないのですか?」
人様の事情に、あまり不躾に踏み込んではいけない、とは理解している。
けれどなんとなく、自分の今後のためにもなりそうな気がして、レジーナは問いかけてしまった。
『家出の先輩』として、もう少し話を聞いてみたかった。家出の後どうなったのか、などの話を。
レジーナの問いに、修道女長は一つ大きく息をつく。
「えぇ、家には一度も帰っていませんよ。十八歳で、都から遠くこの地に逃げ出してから、一度も。だって家にいたら、愛の約束を破ることになってしまいそうだったんですもの」
「愛の約束……?」
修道女長は遠くの思い出を見つめるように、懐かしそうに目を細めて語り出した。
「都にいた頃、私には婚約者がいたの。けれど婚姻の儀の前に病をこじらせて、あっけなく死んでしまったわ。当然、縁談は流れて、家は別の婚約者を私にあてがってくれた。それが、子供の頃から縁のある家の方で、いわゆる幼馴染にあたる人でね。親しい間柄だし、知らない人と結婚するより、うんと気が楽だと思ったわ。――でも、」
修道女長は澄み切ったまっすぐな瞳で、言葉を続ける。
「私は幼馴染との縁談をお断りしたの。だって私はもう、最初の婚約のお相手と、生涯愛を交わす約束をしたのだもの。彼はその約束を抱えたまま天へと渡ってしまったから、私が一方的に約束を反故にするのは、誠実じゃないと思ったのよ」
「……だから修道女長様は、祈りの道にお入りになられたのですか」
「えぇ、そうです。修道院では生涯、天界へと愛と祈りを捧げる暮らしを貫くことになりますから。シスターになれば、天に住まう婚約者と愛を交わし合うことができますからね。言ってみれば、私にとって今のこの生活が、結婚生活のようなものです」
言葉を聞き終え、レジーナは立ち尽くしてしまった。
今まで自分が生きてきた中では、知る由もなかった愛の形を、まざまざと知らしめられたような心地がした。
最後に修道女長は、ツンとした顔で言葉を締める。
「まぁ、家には散々どやされましたけれど。神や天への祈りなど気休めだ、現実を見ろ、とかなんとか。だからさっさと、家を出てやりました」
この修道女長、なかなか行動力のある令嬢だったらしい。
似たようなことをしているレジーナも、人のことは言えないけれど。
さて、と、会話を終了し、修道女長は今度こそ踵を返した。
立ち尽くしていたレジーナも、つられるようにして部屋の入口へと歩を進める。
扉の前で、修道女長はレジーナに言い添える。
「祈りは決して、気休めなどではありませんよ。心を込めた強い祈りは、きっと天に届きます。あなたも何かあった時には、祈りの中で神へとお話しなさい」
「はい、勉強させていただきました。ありがとうございます」
「あとあなたの物語、神父様にも紹介して良いかしら。あの人もこういうお話、絶対お好きでしょうから」
「えっ……ちょっ」
バタリ、と、扉が閉まった。
スタスタと歩き去る修道女長の足音。
最後の締め方がとんでもなかった気がするが、レジーナは一人残された室内で、呻き声を上げることしかできなかった。