25 読まれたノート
レジーナが修道院に入って、まる一ヶ月が経った。
入った当初、『最初の一ヶ月は、瞬きをするうちに終わりますよ』なんて冗談めかして言われていたが、本当にあっという間に過ぎ去ってしまった。
レジーナは食堂での昼食を終えて、午後の仕事に向かう支度のため、自室へと寄る。
与えられている自室は、ベッドと机と小さな棚だけがある、こじんまりとした一人部屋だ。
他のシスターたちは二人部屋や三人部屋を使っているので、修道院側がレジーナに気をつかってくれたのだろう。
外から来た貴族の令嬢に、シスターたちが妙な影響を受けないように、との思惑もあったのかもしれないけれど。
なんにせよ、レジーナは一人部屋をゆったりと使わせてもらっていた。
最近は生活にも慣れてきて、仕事の合間に部屋に戻って髪を整えたり、手にクリームを塗るといった、ちょっとした隙間の休憩時間もとれるようになってきた。
そんな余裕が出てきたからか、ふと、この一ヶ月開いていなかった『あのノート』のことが頭に浮かんだ。
(仕事開始の鐘が鳴るまで、もう少しあるわね。よし!)
時間を気にしつつ、レジーナは素早い動作で、ベッド下のトランクを引っ張り出した。
サッと開き、中のポケットから革表紙のノートを取り出す。
久しぶりに手に取ったノートに、つい笑みがもれる。
そのままパラパラとページをめくり――……レジーナは、わずかに顔をしかめた。
「やだ、まだ焦げ臭い……。臭いが全然取れていないわね……」
ノートからフワッと香る焦げ臭さ。
雪山の小屋の中で、うっかり火にあててルカが消火した、あの時の焦げの臭いである。
あれから風にさらすこともなく、ほとんどの時間、トランクのポケットにしまい込んでいた。
そんな扱いだったので、未だに臭いが残っている。
(最近は気持ちにも時間にも余裕ができてきたし、夕食後の自由時間に、また続きを書いてみようかしら……と、思ったのだけれど。まずは臭いを何とかしないと)
レジーナはふむ、と頷く。
修道院に入ってから今まで、夜の自由時間には仕事の確認や聖書の読み込み、祈りの言葉を暗記したり聖歌を覚えたり――と、何かと勉強をしていたのだった。
それも落ち着いてきたので、そろそろ自由時間を自分の時間として使おうか、と思う。
そういうわけで、ノートを引っ張り出してみたのだ。
「風にさらして、臭いが飛ぶと良いのだけれど」
ノートをゆるく開き、半分ほど開けた窓の側に、そっと縦置きにする。
冷たい風がサワサワと、ノートのページを揺らした。
一人部屋なので、誰かに見られる心配もない。
とりあえずこのまま、しばらく外の空気にあてておこう。
一息つき、さて、と、レジーナは気持ちを切り替える。
そろそろ仕事場へ向かわねば、と体の向きを変えた時。
――バサリ。
と、窓際から、ノートの悲鳴が聞こえた。
目を向けると、もうノートの姿は消えていた。
風に揺さぶられ、窓から外へと飛び立ってしまったらしい。
レジーナは固まり、パチクリと瞬きをした。
この部屋は三階である。
ノートの落ちた先は、修道院の庭の地面――……
『あら! 何か落ちてきたわよ』
『あらあら、本? 雪で濡れちゃうわ』
窓の外、一階から、庭の雪かきを担当するシスターたちの声が聞こえてきた。
その瞬間、レジーナは思い切り喉を震わせた。
「わあああああああああっ!! ダメダメダメ!! 待って待って――ッ!!」
――とんでもなく恥ずかしい夢物語ノートが、他人の手に……!
レジーナは絶叫しながら大慌てで、自室から飛び出したのだった。
人気がないのを良いことに、住居棟の廊下を走り抜ける。
修道服のスカートを持ち上げて、階段を駆け下り――ようとしたところで、ピタリと動きを止めた。
修道女長の姿が見えたので。
スカートを持つ手を下ろし、背筋を伸ばして、スンとした微笑を顔に貼り付ける。
階段を淑やかに下りながら、すれ違いざまに修道女長へペコリと会釈。
そして修道女長の姿が見えなくなったところで、レジーナは再び、猛ダッシュを決めた。
一階にたどり着くと、息を乱しながら大急ぎで庭へと飛び出す。
雪で滑りそうになるのをなんとか堪えつつ、大きなシャベル抱えた、雪かきのシスター二人の元へと転がり込んだ。
シスターは二人とも、二十代の女性だ。
高齢のシスターであれば、恥ずかしい妄想ノートを見られたとしても、なんとなく気持ち的にダメージは少ない。
が、若い女性が相手となると、逆にダメージは増である。なんとなく、気持ち的に。
レジーナは真っ赤な顔を取りつくろうこともできないまま、しどろもどろに話しかけた。
「あ、あのあのっ……! そそそそのノート、あの、わたくしが部屋から落としてしまいまして……っ!」
二人の若いシスターは、ノートに向けていた目をレジーナへと移す。
その表情は、なんともいえないニヤリとした微笑みであった。
この様子から察するに、もう完全に、読まれている……
顔から火が出そうな心地で、レジーナは裏返った声を出した。
「ひ、拾っていただき、ありがとうございました……っ! あのっ、ええと……その、内容は、ど、どうか! 内緒にしていただきたく……っ!」
シスターたちはニヤニヤとした顔のまま、レジーナへ向き合い、口を開く。
レジーナは死刑宣告を受ける気分で、放たれる言葉を待った。
「これ、レジーナさんのものなの? うふふっ」
「……は、はい……っ」
「おほほっ、ごめんなさい、誰のものか確かめようとして、最初の方を読んでしまったのだけれど……これ――」
「ひぃ~……っ」
もうやめて、聞きたくない! 体から火が出そう……!!
と、思わずギュッと目をつぶる。
しかし、次に届いた言葉は思いがけないものであった。
「これ、とっても面白そうなお話ね!」
「戯曲かなにかを書き写したの? クォルタールでは知らないお話だから、平野の方で流行っているものかしら?」
「…………へ……?」
レジーナはポカンと口を開けた。
お話? 戯曲?
何のことだろうか。
固まるレジーナをよそに、シスターたちは二人でキャッキャと盛り上がり始めた。
「物語の始まり方が過激で、つい続きを追ってしまったわ! 結婚直前のヒロインが婚約者を異母妹に盗られてしまうなんて……」
「浮気現場が衝撃的で、私ドキドキしちゃった……! このヒロイン可哀想ねぇ……このあと、この子はどうなるのかしら。気になる~」
ねぇ、あとで続きを見せてくださる?
と、シスターたちはニヤニヤニコニコとした顔で、レジーナに詰め寄った。
放心していたレジーナは、ハッと我に返る。
(――も、もしかして……わたくしの妄想てんこ盛り日記、物語だと思われてる……!?)
目を丸くして、パチパチと瞬きを繰り返す。
どうやらシスターたちはレジーナの妄想日記を、何かの物語の書き写しだと思っているようだ。
理解した瞬間、レジーナは思い切り脱力した。
(た……助かったぁ…………)
実際に自分の身に起きたしょうもない不幸も、その現実逃避で書き綴った理想の妄想も、『あくまで自分とは関係のない、架空のヒロインの物語』ということにしてしまえば、恥も白い目も、とりあえず回避できる。
ふぅ、と大きく息を吐き、レジーナは持ち直す。
顔に上った熱を逃がしながら、いまだ楽しそうに感想を言い合っているシスターたちに、改めて礼をした。
「あの、拾っていただきありがとうございました。危うく、雪がしみて字がにじんでしまうところでした。ええと、続きは……き、気になります?」
チラリとシスターたちの顔をうかがうと、ニンマリとした大きな笑みが返ってきた。
「ヒロインが浮気現場を見てしまって、悲鳴を上げたところまで読んだの! もう続きが気になっちゃって、雪かきに身が入らないわ!」
「あの婚約者と異母妹は罰を受けるべきね! だってヒロインを裏切るような、酷い行為をしたんだもの! 絶対に罰せられるべきです! 報いを受けるところまで読まないと、なんだかモヤモヤしちゃう」
熱の入るシスターたちに、レジーナは少し困りつつも返事を返す。
「で、では……ノートを拾っていただいたお礼に、続きの読書時間を。今夜の自由時間に、わたくしの部屋でいかがでしょう」
「ありがとう!」
「楽しみにしているわ!」
シスターたちからノートを受け取り、続きを公開する約束を交わす。
若く元気なシスターたちはお喋りをしながら、シャベルを抱えて持ち場へと歩いて行った。
レジーナはノートを胸へと抱きかかえ、急いで自室へと戻る。
色々と考えたいことはあるけれど、まずは午後の仕事場へと向かわなければ。
とりあえずもろもろの感情は一旦置いておき、仕事にかまけて忘れることにした。