18 トーマスの胸のモヤと婚姻の儀の打ち合わせ (実家サイド)
この日、トーマス・セイフォルは自身の屋敷で、本日の客人を待っていた。
その客人を迎えるために、応接室は色とりどりの花で飾られ、甘ったるい香がたかれている。
普段とは一変した部屋の中、トーマスは小さくため息をついた。
予定の時間はとうに過ぎているのだが、当の客人はまるで姿を見せる気配がない。
おっとりとしたおおらかな人だから、もはやいつものことなのだけれど……
トーマスのハネた茶髪と緑の目はわずかに精彩を欠き、少々やつれた雰囲気をまとっていた。
本日の客人とは、婚約者である。
つい一週間ほど前に正式に婚約を結んだ相手、アドリアンヌ・メイトスだ。
婚約を結んだ次の日から、トーマスとアドリアンヌはなんだかんだと毎日、親睦の茶会を開いていたのだった。
今日でその茶会も、七日、八日目、くらいだろうか。
四日目を過ぎたあたりから、トーマスは数えるのをやめてしまった。
というのも、少しだけ、本当に少しだけだが、疲れてきたというのが本音である。
アドリアンヌは情緒が豊かな女性だから、傷つけてしまわないよう、これまでは気を使ってきた。
けれど、そろそろ茶会の頻度を減らすよう、提案しようと思う。
今日は親睦会というより婚姻の儀についての打ち合わせ、という名目なので、逢瀬の予定をキャンセルするわけにもいかなかったのだけれど……
――と、言っても、待てども待てども、まったく到着の気配がないのだが。
トーマスはもう一度ため息をつきながら、入り口で控えている執事に、何度目かの問いかけをする。
「アドリアンヌはまだ来ないのかい? 約束の時間はとうに過ぎているだろう……道中何かあったのではないか?」
「恐れながら、トーマス様。彼女は前回、前々回もお遅れになっておられますし、回を重ねるごとにその時間は伸びていっているように思われますので……ご心配でしたら、こちらから迎えの馬車を出しましょうか?」
「あぁ、そうしてくれ」
執事は返事をすると、キビキビとした動作で応接室を後にした。
この執事――『エメット・オランド』は、前当主であるトーマスの父の代からセイフォル家に従っている、五十代の男である。
トーマスは最近、この執事に苦手意識を覚えていた。
なんだか自分を見る目が、厳しくなったように感じて。
エメットが部屋から出て行き、トーマスは少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、苦手な人物が部屋から出ていったくらいでは、この胸のどんよりとした気持ちは晴れない。
この胸に満ちるおかしな心地は、まるで冬の曇り空みたいだ、と思う。
雪が降るのか、みぞれが降るのか、はたまた雨が降るのか、はっきりせずにもどかしい。
どうなるのかわからずに、不安を感じるような心地。
この妙な気分に支配されるようになったのは、ちょうど今から一週間くらい前からか。
――そう。
思い返せば、アドリアンヌと婚約を結んだ後からだった。
今までアドリアンヌとは、メイトス家で茶会を楽しんだ後に密やかに肌を重ねる、というわずかな逢瀬を楽しむ関係だった。
けれど、婚約を結んでからは毎日会っている。
毎日会うようになったことで、結婚への実感が湧いてきた。
この妙な心のモヤは、いわゆるマリッジブルーというものなのだろうか。
トーマスは応接室のソファーから立ち上がり、窓際へと歩み寄る。
室内に充満する香の匂いを換気するように、窓を開いた。
花畑のような甘ったるい香りが抜け、代わりに冬の冷えた空気が入ってくる。
肌にシンとしみるような、冷たく清澄な空気。
身の引き締まるようなこの冷気に、なんとなく、レジーナのことが頭によぎった。
トーマスはすぐに首を振って、思い浮かんだ姿を振り払う。
(……何をウジウジしているんだ僕は! 僕の結婚相手はアドリアンヌだ! アドリアンヌは可愛らしくて、人を癒す才があるし、包容力がある。妻に迎える女性としてこれ以上ない、素晴らしい相手だ)
胸の内で強く自分に言い聞かせる。
(僕は何も間違っていないし、何も不安に思うことはないだろう。愛の神は、間違いなく僕たちを祝福している。僕たちは『真実の愛』に導かれて結ばれたのだから……!)
ピシャリと窓を閉め、トーマスは背筋を伸ばした。
(心にかかったモヤは、きっと日頃の執務と、最近のいざこざで疲れが溜まったせいだろう。そうに違いない。――今日は婚姻の儀の打ち合わせだけに話題を絞って、申し訳ないが、茶会は早めに締めさせてもらおう。結婚してしまえば、アドリアンヌと過ごす時間はこの先いくらでも取れるのだから)
まずは自身の疲労を回復させることを優先しよう。
ふむ、とトーマスは一人頷く。
少し前向きな気分になったところで、応接室の扉がノックされ、開かれた。
執事エメットの案内を受け、客人が顔を出す。
「トーマス様ぁ、ごきげんよう! 遅くなってしまってごめんなさぁい。ドレスがなかなか決まらなくってぇ」
「あぁ、アドリアンヌ、待っていたよ。さぁこちらへ」
扉から姿を現したのは、待ちに待った客人、アドリアンヌだった。
トーマスはホッと息をついた。
アドリアンヌが無事だったことに対して、と、いうよりも、ようやく待ち時間から解放されることに対して。
エメットが給仕に指示を出し、茶の準備を整える。
彼らは仕事を終えるとさっさと部屋を出ていき、トーマスとアドリアンヌ、二人きりの茶会が始まった。
婚約者との茶会の場として使っている応接室は、屋敷のメインの応接室とは別の、ごく小さな部屋である。
二人掛けのソファーが、低いテーブルを挟んで、二台置かれているだけ。
壁や柱の飾りもシンプルで、落ち着く内装だ。――今はアドリアンヌの要望で、華やかに飾られているのだけれど。
ここはごく親しい間柄の人同士で使う部屋である。
アドリアンヌはトーマスの向かい、ではなく、隣に座って腕にしなだれかかってきた。
トーマスはアドリアンヌのこの甘えた仕草を気に入っていた。
思えば、初対面の挨拶で腕に抱きつかれた時から、彼女に心魅かれていたのだった。
当時はレジーナという親に決められた婚約者がいたので、一応体裁を考え、見えないところで愛を育んでいたのだが。
そのうち月日を重ねるにつれ、膨れ上がっていった愛は体裁をも凌駕していった。
決して人に見つからないよう密やかに営まれていた愛の育みは、理性を軽々越えて大胆に、廊下の端や庭でまで営まれるようになった。
愛に焦がれるがまま、早く早くと。
この抗えない気持ちこそが『真実の愛』の祝福だろうと信じ、愛の衝動に身を任せるようになっていった。
レジーナとの婚約破棄も、特に罪悪感を覚えることはなかった。
――だって自分たちは、愛の神の意思に従っただけなのだから。
アドリアンヌはトーマスの首元に頬をすり寄せ、豊かな胸元をたぷりと、体に重ねる。
「トーマス様ぁ、あたし、とってもあなたが恋しかったわぁ。一日ぶりでも寂しくて死んじゃいそう。早くセイフォル家に入って、ず~っと一緒にいられるようになれたらいいなぁ。ねぇねぇトーマス様ぁ、アドリアンヌのここに、チューしてくださいませぇ」
「アドリアンヌ……っ」
アドリアンヌはプルンとした厚い唇を寄せる。
トーマスは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(これだからアドリアンヌはたまらない……っ! レジーナの奴は『婚前だから』と、口づけすら許さない、堅っ苦しい女だったのに……。あぁ、アドリアンヌ……やはり僕は、君に真実の愛を感じるよ……! ……――でも、今日は、ちょっと……)
以前までであったら、もうたまらずに、『真実の愛』の衝動に身を任せて、唇を重ね、そのドレスをかき分け、一つになっていた――ところだが。
今日は、他に優先するべきことがある。
婚姻の儀の打ち合わせだ。
愛の育みは、とりあえず脇に置いておかなければ。
ギリギリの理性を保ち、トーマスはもたれかかるアドリアンヌを押し返した。
背すじを伸ばしてソファーに座り直し、テーブルの上にまとめられた書類とペンを、手前に引き寄せる。
キョトンとするアドリアンヌに、努めて優しく声をかけた。
「すまない、アドリアンヌ。僕も君と愛を確かめ合いたいのは、やまやまなのだけれど……今日は婚姻の儀について打ち合わせをしよう」
「えぇ……トーマス様、あたしと打ち合わせのどっちが大事なのですかぁ……?」
途端に、アドリアンヌの目に涙が溜まり始めた。
トーマスは慌てて言い添える。
「もちろん君の方が大切さ! だからこそ、打ち合わせが必要なんだ。婚姻の儀を早く済ませれば、それだけ君と早く一緒になれるのだから」
「うぅ……わかりましたぁ……あたしも婚姻の儀を楽しみにしてるので、打ち合わせがんばりますぅ」
「ふふっ、良い子だね」
トーマスはアドリアンヌの頬に軽く口づけを落とし、話を進める。
「――ではまず、大体のプランなんだけど……あ」
書類を手に取ったところで、トーマスはふいにギクリと動きを止めた。
しまった、という顔を隠しもせず、言い淀む。
「……ええと、これはその、君が嫌だというのなら、もちろん、もちろん! 考え直す予定だったのだけれど……レ、レジーナが組んだ婚姻の儀のプランでね……予算も時間も、必要になる物や手続きなんかも、もうすべて出そろっているから、これを元にしようかと……」
説明しながら、トーマスは冷や汗をかいた。
執務が忙しかったこともあり、婚姻の儀に関することは、丸ごとレジーナに任せていたのだった。
トーマスのしたことと言えば、レジーナの用意したプランをざっと確認して、了承のサインをしたことくらいだ。
それゆえ、書類やプランシートはすべて、自分とレジーナの名前で仕上がっている。
アドリアンヌは紙を受け取り、ポカンとする。
が、時間をたっぷりとかけた後、頬をプルプルと揺らして泣き始めた。
「酷いですトーマス様ぁ……やっぱりまだ、お異母姉様にお気持ちがあるのねぇ……あたしは……あたしとトーマス様二人だけで作った……特別な式を迎えたいのにぃ……っ」
「あぁ、わかっている! わかっているから、泣かないでおくれ! すまないことをした! これはあくまでプランの一例だから、すべて破棄して、一から僕たちだけの婚姻の儀を計画し直そう!」
トーマスは慌ててハンカチを取り出し、アドリアンヌの目元をぬぐう。
アドリアンヌはグスグスしながら、たどたどしく話し始めた。
「……あたしもねぇ、ちょっとだけプランを考えてたんですよぅ。えっとねぇ……婚姻の儀はおめでたいイベントだしぃ、トーマス様は大きな領土の領主様なのでしょう? あたしのメイトス家も領主のお家だからぁ、儀式は領民みんなでお祝いできるようにしたらいいと思うのぉ。街をあげてぇ、パレードとかぁ!」
金の馬車に乗って!
と、アドリアンヌが喋り出した内容を聞いて、トーマスは背中に変な汗が流れるのを感じた。
「その……アドリアンヌ、素敵な提案だと思うけれど、ええと、予算は……? メイトス家のほうで、用意があるのかい?」
「……あたし、難しいことはわかりません……でもでも、お父様は賛成してくれましたよぅ。だからきっと、大丈夫だと思いますぅ!」
「そ、そうか……」
なんとか笑顔を浮かべつつ、トーマスは思う。
(……申し訳ないが、メイトス家にはそれほど予算があるとは思えない……どこからか、支援のあてがあるのか? ――だとしても、こちらもそれなりの負担を、覚悟しておくべきか……。街をあげての式となると、どうしたってセイフォル家が動くことになるだろうし……)
アドリアンヌに気付かれないよう、トーマスは静かに息をつく。
動揺を笑顔で取りつくろいながら、確認をする。
「――ではとりあえず、なるべく華やかな、君好みの式に、という方向でいいかな。これから細かな部分を調整していくとして、婚姻の儀関係の仕事は君に任せてもいいかい? もちろん僕も協力するけど、今セイフォル家はなかなか忙しくて――……」
最後まで言い終えることなく、トーマスは言葉を止めた。
アドリアンヌがテーブルの花瓶から花を取り、『あ、あたしこの花好きですぅ!』なんて、無邪気にあさっての話をし始めたので。
今日何度目かのため息をつきながら、トーマスは話を締める。
「……――花が、気に入ったのなら、持ち帰っていいよ。すべて君のために用意したものだからね。……ええと、これからの打ち合わせは、僕と……君のお父さんとの間で進めていく感じでいいだろうか」
「はぁい、お父様に伝えておきますねぇ。――ねぇ、トーマス様ぁ、」
すっかり泣き止み、おっとりとした笑顔に戻ったアドリアンヌが、ふいにトーマスの手を両手でギュッと握る。
不思議そうな顔をしたトーマスに、アドリアンヌはたっぷりと愛を込めた言葉をかけた。
「トーマス様、なんだかお顔が疲れていらっしゃるわぁ。えっとぉ、色々大変だと思いますけど、がんばってくださいねぇ! あたし、一生懸命トーマス様を応援しますからぁ!」
「あ、あぁ、ありがとう。アドリアンヌは優しいね。うん、頑張るよ」
トーマスはそう答えた。
その瞬間、不思議と胸のモヤは、その濃さを増したような気がした。
――たぶん、相手がレジーナだったら。
きっとこういう言葉をかけられたに違いない。
『トーマス様、なんだかお顔が疲れていらっしゃるわ。あなただけでは色々と大変だと思いますから、わたくしも頑張ります。トーマス様のお隣に立ってもよろしいですか?』
なんて、言葉を。
トーマスが嫌っていた、レジーナの『出しゃばりで余計な口出し』が、ふと頭の中に再現される。
ふいに頭によぎった考えを、トーマスは甘い香の匂いを吸い込むことで、忘れることにした。