16 妄想ノート危機一髪
山道は奥へ奥へと進むにつれて、雪の厚みを増していった。
今ではもう、人の腰の高さまで積もっている。
こんなに積もっていても、このあたりではまだ少ない方なのだとか。
雪雲の本気はこれからだ、と、ガンファルは笑っていた。
さすが『雪の要塞』の異名を持つクォルタールへの道のりだ。
この様子だと本当に、真冬に入れば雪の城壁が出来上がっていそうだ。例えではなく、そのままの意味で。
木に巻かれた赤い目印布をたどりながら、オオツノジカの一行はモッサモッサと雪をかきわけ進んでいく。
鹿の白灰色の毛はモコモコとしていてあたたかで、段々と愛着が湧いてきた。
威圧的な巨大な角には、まだ恐ろしさを感じるけれど。
道中には一定の距離ごとに山小屋があり、小休憩をとりながらの山行となった。
休憩中に作った雪だるまはルカに破壊され、怒ったレジーナはルカの背中に雪を入れてやる。
いつもの口争いの勝負は、雪玉投げの勝負に変わった。
なんだか子供の頃に戻ったようで、レジーナは少しだけ、心安らぐような心地がした。
縁談だとか結婚だとか、家だとか淑女らしさだとか、そういうものを、まだ深く考えずに過ごせていた、幼い頃。
まだレジーナとルカが同じ身長で、主従というよりただの幼馴染だった、遠く昔の日々。
その頃の自分が今の自分を見たら、どう思うだろう。
まさか十八歳になった自分が、異母妹に婚約者を寝取られて、最悪な婚約破棄騒動を迎えることになっているだなんて。
仕舞いには老人との身売りのような縁談を憂いて、家出を決行している。なんて。
今のレジーナは、幼かったあの頃にはこれっぽっちも想像できなかった未来を迎えている……
(――というか、一か月前のわたくしですら、こんなこと想像もできなかったのだけれどね……)
大きくため息をつき、レジーナは過去を思うことをやめた。
今は目の前の現実にだけ目を向けて、シャンとしていなければ。
レジーナの籠城戦は、これからが本番なのだから。
休憩を取りつつ、一行は延々と雪景色の中を歩いていった。
日没の少し前に、早めに宿――山小屋へと入って、今日の旅程はようやく終了。
雪は夕食をとっている間も、眠る準備を整えている間も、こんこんと降り続けていた。
ガンファル曰く、この調子だと明日も雪舞う中での山行になりそうだ、とのこと。
今晩の寝床となる山小屋は、丸太で作られたガッシリとした作りのログハウスだ。
積雪で潰れる心配はないが、雪にすっぽり埋まってしまう可能性はあるらしい。
『そうなったら、屋根から出なければいけませんね』なんてリリーは冗談めかして笑っていたが、レジーナには冗談なのか本当なのか判断がつかず、引きつった笑みを返すことしかできなかった。
山小屋は厩舎の部分と、人が過ごす空間の、二部屋構造だ。
部屋は壁と扉で隔たれているので、人の寝る場所には臭いも寒風も流れ込んではこない。
そこらの安宿よりも快適である。
人の過ごす部屋の中には、壁際の一角にレンガの炉台が組まれ、鉄でできた大きな薪ストーブが設置されている。
貴族の屋敷にあるような洒落たものではなく、無骨な鉄の箱が無造作に置かれただけの、簡素なものだ。彫刻飾りもなければ、火室の扉もない。
それでも、夜の雪山の寒さの中では、何よりも素晴らしい立派な代物に思えた。
そのゴウゴウと燃えるストーブの側で、レジーナはぬっくりと暖を取っているのだった。
皆が寝静まった真夜中に一人、舞い飛ぶ火の粉に気を付けつつ。
いつもの夢物語ノートにペンを走らせながら。
(――う~ん……雪景色の感動を、もう少し素敵な言葉で綴りたいわ。でも今のわたくしの語彙力では、これが限界ね……いつか執筆用に、高価な辞書の一つでも買えたら良いのだけれど)
ああでもない、こうでもない、とブツブツ独り言をもらしながら、紙の上に言葉を紡いでいく。
旅の一行はもう眠りについてしまったが、レジーナはなんだか眠れず、こうして火の側でノートと向き合っているのだった。
平たい薪を何個か並べて尻を置き、三角座りで膝を机の代わりにする。
行儀は悪いが、ノートに並べられた字はピシリとしていて、我ながら美しい筆跡だ。
子供の頃から何かと書き物をしてきたので、レジーナは字が上手い方だと、自負している。
日中に見た雪景色への感動を、サラサラと書き連ねていく。
もちろん、例によって素敵な妄想てんこ盛りで。
(雪の魔物と戦う王子様、なんて設定、格好良くない? 戦いの最中、わたくしは王子様の腕の中に守られながら、その体温を近くに感じて胸をときめかせ――……)
自分で書いておいて、推敲のために読み直すと、何とも言えないむず痒さに変な声を出しそうになる。
思わず、ふひひっ、と小声で笑いをもらした。
――その時。
レジーナの背後から、予期せぬ声が聞こえた。
「なに気持ち悪い声で笑ってるんですか……こんな夜中に一人で……」
「ひょわああああああっ!!」
驚きのあまり、レジーナは悲鳴――否、奇声を上げた。
(みみみ見られたっ!? しかもよりによってルカに……っ!?)
――死ぬほど恥ずかしい妄想ノートを、最も見られたくない悪魔に見られた。
その衝撃でレジーナはひっくり返り、よろけた拍子に、ノートをストーブの火へと近づけてしまった。
瞬きをする間に、端に火が移る。
驚いたレジーナは咄嗟にノートを手放した。
バサリと床に落ちたノートを、すぐにルカが、バンバンと手のひらで叩いた。
幸い、小さな火はすぐに叩き消され、室内に焦げ臭さだけが立ち込める。
レジーナは煙を出すノートには目もくれず、慌ててルカの手を掴まえた。
「ちょっと素手で消すことないじゃない! せめて足でやりなさいよ足で!!」
「あ、いや、お嬢様の……他人の持ち物を足で踏みつけるのは、マナー違反でしょう」
「あなた普段マナーもクソもないでしょうが!! もう! 火傷してない!? 早く冷やしてきなさい!」
「……これくらい何ともありませんよ、まったく騒がしい女だな……」
ルカはレジーナの手を振り払い、床に落ちたノートへと目を向けた。
端が黒く焦げてはいるが、本の形は保っている。ノートは軽傷のようだ。
ただ、未だ少しの煙と鼻にツンとくる臭いを放ってはいるが。
ルカはノートに手を伸ばす。
――が、今度はレジーナが、その手を払いのけた。
「ダメダメダメ! 触らないで! 淑女の私物にベタベタと手を触れてはいけません!」
「……全焼するまで放っておけばよかった。何ですそれ? 恥ずかしい日記か何かですか?」
「うっ……まぁ、そんなところよ……。――さっき、声かけてきた時、中身見えてた?」
レジーナは大急ぎで焦げ臭いノートを拾って、胸に抱きながら、ルカに確認する。
どこまで中身を見られたか。
場合によっては、ルカを殴り飛ばしてでも、その記憶を消去せねばならない。
そうでもしないとこの悪魔のような男は、妄想ノートをネタにして、レジーナをこれでもかと馬鹿にし続けることだろう。
じり、と、身構えるレジーナ。
しかしその心配は、杞憂に終わることとなった。
「見えるわけないでしょう。あんな山猿みたいに行儀悪く丸まって、コソコソ書いてる日記なんて」
興味もありませんし。
と、吐き捨てて、ルカは床に放り出されていたペンを拾い上げた。
レジーナはホッと息をつき、ペンを受け取る。
床のインク瓶の無事も確認して、いそいそと撤収した。
執筆セットをまとめて、トランクの奥へとしまいこむ。
ついでに鞄をあさり、手のひらに収まるほどの平たい小瓶を取り出した。
小瓶の中には手荒れ用の軟膏が入っている。
「ルカ、ちょっとそこに座りなさい」
「は? なんですか」
「いいから。命令です」
ルカにストーブの側に座るよう命じ、レジーナは軟膏を指先にすくった。
嫌そうに顔を歪めるルカにかまわず、その手を取る。
レジーナより大きくて厚い手のひらは、指の付け根あたりが赤くなっていた。
「ほら、やっぱり火傷になってるじゃない。水ぶくれができても、破っては駄目だからね」
言いながら、軟膏を塗りたくってやる。
嫌がらせのように、グリグリと。
『痛い、やめろ』、なんて言葉が返ってくると思ったけれど、レジーナの予想に反して、ルカはずいぶんと大人しかった。
レジーナはいぶかしがりながら、その顔をチラリと見る。
あいかわらずの不機嫌な顔。
けれど、なんだか瞳はキラキラしているように見えて、綺麗だった。
青い瞳に薪ストーブの火が映り込んで、夕焼けのような色をしている。
レジーナはルカの瞳を覗き込みながら、クスリと笑った。
「ルカ、あなた心は濁りきっているけれど、瞳は本当に綺麗よね。瞳は。まるで宝石みたいだわ」
「うわ寒……何が宝石だよ……きざったらしい寒いことを言わないでください。今晩は雪の寒さではなく、お嬢様の寒さのせいで凍え死にそうだ」
うぅ寒い、と、ルカはわざとらしく両腕をさすってみせる。
その宝石のような瞳は、まだキラキラと輝いていた。