14 買い出しとオオツノジカ
村長を通して、郵便屋ガンファル・フィーの協力を取り付けることができた。
郵便屋は大事な手紙を預かるという仕事柄、配達員にはしっかりとした身分とモラルが求められる。
安全の面からも、旅の共を頼むのに、郵便屋ガンファルはこれ以上ない相手であった。
レジーナは心底ホッとする。
今回の旅で一番の不安要素だった山越えに、光が差した心地だ。
ガンファルによると、クォルタールへ郵便配達に出る日は、四日後を予定している、とのこと。
レジーナはその日を待つ間に装備を整えて、雪山に挑むこととなった。
その間の宿として村長が部屋を貸してくれるそうなので、ありがたく世話になることにした。
もちろん謝礼はしっかりと払うけれど。
この日の夜は贅沢にも、大きな桶いっぱいの湯で湯浴みをさせてもらい、久しぶりにフカフカのベッドで眠りについた。
そして、その次の日の朝。
目が覚めたら、雪は足首を超えるくらいまで厚さを増していた。
朝方に降り始めて積もってきたらしい。
今も降り続けている雪の粒は、結構な大きさだ。
村長一家に混ざっての朝食をとり終え、外出の支度をする。
レジーナは銀の髪を三つ編みにして、頭の後ろでクルクルとまとめてお団子にした。
手早くコートを着込んで、レジーナとルカは家の外でガンファルを待つ。
今日は山越えの装備を整えに、買い出しに行くのだ。
ガンファルは山越えの案内だけでなく、買い物も手伝ってくれるらしい。
ベテランに世話を焼いてもらえるのなら、これほど心強いことはない。
レジーナは喜んで、お願いをしたのであった。
「お~い!」
雪で白む視界の果てから、ガンファルの声が聞こえた。
声の方向に目を凝らすと、ゆらり、ゆらりと、角を持った鹿の影がこちらに向かってきている。
近づくにつれ、その鹿の影はどんどんと大きさを増していった。
巨大な体躯に巨大な角。長い四つ足でのそのそ歩いてくる。
レジーナは、その異様な巨体と大角を持つ鹿を前にして、思わずルカの背へと隠れた。
背中からチラリと顔だけを出し、恐々とその動物を観察する。
「うわ、うわぁ……オオツノジカ、よね? 間近に見たのは初めて……こんなに大きいのねぇ」
「おはようございます、レジーナ嬢、ルカくん。いかにも、これはオオツノジカです」
ガンファルが手綱を引いて連れて来たのは、オオツノジカという巨大な鹿であった。
白灰色の毛皮に覆われたその姿は、とてつもない迫力だ。
レジーナ二人分の身長より大きく見える。
背の高いルカの頭ですら、オオツノジカにとっては肩の位置くらいだ。
なんという巨体だろう。
そのうえ、その頭にはこれまた巨大な角がある。
頭の左右に、手のひらを広げたような形の角が一対。
レジーナが両腕をいっぱいに広げたくらいの、大きな角である。
こんな巨体に突かれでもしたら、人間なんてひとたまりもないだろう。
「ひえ~、怖……オオツノジカが相手じゃ、ルカでは盾にもならないわね……」
「じゃあ盾にしないでください。人の背に隠れておいて、よくもまぁぬけぬけと」
ルカに睨まれ、前へと押し出される。
鹿の姿をまじまじと眺めていると、ガンファルは笑いながらとんでもないことを言い放った。
「はっはっは、そう怯えずに。山ではこいつの背に乗って移動しますから、仲良くしてやってくださいね」
「嘘でしょう……?」
レジーナは頭を抱えた。
予定では、馬車をソリに買い替えて、馬もしくはオオツノジカに引かせる予定だったのだが。
まさかこの巨獣に、直接乗ることになるのか。
「……あの、ガンファルさん。ソリでは駄目なのですか? 雪の地では馬や鹿にソリを引かせて移動する、と、聞いたことがあったのですが……」
「あぁ、それはクォルタールの街に着いてからの話さね。街自体は山に囲まれた盆地だから、それなりに平坦なんですよ。街の道は整備されていますから、綺麗ですしね。でも山の中はそうもいかない」
ガンファルは傍らのオオツノジカの腹を、気安くポンポンと叩きながら話を続ける。
「ここらの山の雪は厚い上にサラサラとしていて、ソリが沈んでしまうんです。オオツノジカ単体でしたら、雪山を自由に走り回れるほどの身の軽さがありますからね。――というわけで、はいどうぞ、レジーナ嬢」
笑顔で、鹿の手綱を渡された。
受け取ったレジーナはそのまま手綱を、しれっとルカの手へ移して握らせる。
「今日はオオツノジカの扱いの練習もかねて、荷物持ちとしてこいつを連れて歩きましょう。なに、意外と従順で大人しい鹿ですから、すぐ可愛くなりますよ」
はっはっは、と、ガンファルは白い髭を揺らして、大きく笑った。
ルカは流れるようにパスされた手綱を握り、思い切り舌打ちをするのであった。
■
一行は集落の道具屋や市場をまわり、必要なものを買い揃えていった。
買ったものを、連れ歩くオオツノジカに預けながら。
鹿の胴体に装着された荷運び用の大きな鞍に、どんどん装備をくくっていく。
買い物の終盤ともなれば、背にくくられた荷物はなかなかの量になっていたが、当人――当鹿は涼しい顔で歩いていた。
その手綱を引くルカも、もう慣れた馬を扱うかのように接している。
あいかわらず、こういうことに関しては器用な男だ。
社交ももう少し、そうやって器用にこなせれば良いのだけれど。
もめ事を起こさぬように、レジーナはルカの言動に細心の注意を払って行動していた。
余計な悪態を吐きそうになった瞬間に、脇腹をつねったり、小突いたり、睨みつけたり。
七歳の頃からこの悪魔の暴言とともにあったレジーナにとって、制御は慣れたものであった。
その様子を見たガンファルが、二人のことを『仲が良い』と評した時だけは、暴言封じに失敗してしまったけれど。
ルカが光の速さで、「うるせぇなぶっ殺すぞ」などと口走ってしまったので。
事後処理として、レジーナは力一杯、その尻を引っ叩いておいた。
店をまわって買い物をしながら、ガンファルからは色々なことを教わった。
『寒い場所で金属に触れると凍傷を起こす』とか、『うんと気温が下がった時には、凍ったフルーツで釘が打てる』だとか。
知らないことを次々と教えてくれるガンファルに、ふと祖父の姿が重なった。
祖父の喋る内容はもっと小難しいことばかりだったけれど、なんとなく『勉強会』を思い出して頬がゆるんだ。
きっとルカも同じようなことを思っていたに違いない。
後半はずいぶんと、暴言を繰り出す頻度が下がっていたので。
分厚いフェルトの靴や手袋、フード付きの毛皮のコートや、食料や燃料を買い込んでいく。
たまにガンファルの『勉強会』に笑ったりしつつ、レジーナは久しぶりに、まるで休日のような心穏やかな時間を過ごした。
そうしてたっぷり一日をかけて、買い物を終えた頃。
日暮れまで少し時間があるので、実際にオオツノジカに乗ってみよう、ということになった。
ガンファルがひいきにしているという、オオツノジカの牧場を訪ねる。
牧場主は、オオツノジカの雰囲気とは真逆の、小柄で気さくな中年の男だった。
案内されるまま、母屋を通り過ぎて、厩舎の脇に移動する。
大きな厩舎の裏手には、広大な山と谷を覆うように、雪の絨毯が広がっていた。
その果てしなく広がる景色の中に、オオツノジカがポツポツ散らばり、のんびりとしている。
牧場主は厩舎の中から一頭、オオツノジカを引っ張ってきた。
ルカが連れ歩いている鹿よりも、小柄な鹿だ。
馬具のような騎乗用具一式と、馬よりも長く垂らされた、縄梯子のような鐙を装着している。
牧場主はレジーナとルカを交互に見て、声をかける。
「小さな鹿なら、馬みたいな感覚で簡単に乗れると思うよ。性格もとても大人しい良い子だから、心配しないで。お兄さんと妹さん、どちらから乗ってみるかい?」
「へ?」
レジーナは思わず、裏返った声を出した。
『妹』? ……聞き間違いだろうか。
隣を見ると、ルカが思い切り顔を背けて笑いを堪えていた。
肩を震わせながら、コソリと小声を投げて寄越す。
「ふふっ、お嬢様チビだし、主人の威厳ないから」
「むむむむ……」
けなして笑うルカに、レジーナはぐぬぬと奥歯を噛む。
ひとしきり笑い終えたルカは、レジーナへ意地の悪い笑みを向け、鼻で笑いながら騎乗の名乗りを上げた。
「ははっ、では、兄の俺から乗ってみましょう。妹はどんくさくて危なっかしいので」
(……誰が妹ですか、まったく……)
主従という関係な上に、同い年だ。
牧場主の勘違いを訂正したかったが、わざわざ空気を悪くするのも気が引けて、言葉を飲み込むことにした。
ルカは荷持ちの鹿の手綱をガンファルへと預け、小鹿の手綱を取って鐙に足をかける。
軽い体さばきで背へと上がり、鞍へと腰を落ち着けた。
そのまま牧場主とガンファルから、軽く手ほどきを受ける。
するとルカは、驚くほどの飲み込みの早さで、オオツノジカを操ってみせたのだった。
鹿の足で周囲をウロウロと歩くルカを眺めながら、レジーナは心の内でぼやく。
(ルカには馬のほうが似合いだけれど、鹿に乗ってもそこそこ絵になるわね……。本当に、遠目に眺めている分には、これっぽっちも悪魔には見えないのに)
やれやれ、と、遠い目で見つめていると、ガンファルが声をかけてきた。
「せっかくだし、レジーナ嬢も一緒に乗ってみたらどうです。どうせ山では二人乗りでの移動になりますし、練習になるかと」
「……えぇ、そうですね。……では、わたくしも」
そう、山越えでは一頭のオオツノジカに、レジーナとルカが相乗りする予定なのだ。
一人一頭を借りる資金はあったのだが、レジーナには乗りこなせる自信がなかったので。
馬術ですら得意とは言えないのに、一人で巨大な鹿に乗るだなんて到底無理な話であった。
そういうわけで、従者であるルカと相乗り、と相成ったわけである。
牧場主がそのへんから、いくつか台を持ってきて重ねる。
手を借りながら、レジーナは即席で作られた階段をのぼった。
ルカが横づけしたオオツノジカの背に、恐る恐る手を添えてみる。
硬そうに見えた白灰色の毛並みは、思ったより柔らかくてフワフワしていた。
今日はスカートにロングコートを着込んでいるので、横座りに鞍へと座る。
よいしょ、とお尻を鞍へと預けると、後ろに座るルカがレジーナの胴へ、そろりと腕をまわしてきた。
ルカのその動作に、レジーナはつい反射で、腹に肘鉄を打ち込んでしまった。
ドス、っという重い音が響き、ルカが呻く。
「うっ……このっ……俺だってこんなこと、本当は金を積まれたってしたくないのに……! 突き落としてやりましょうか!」
「ごめんなさい、ゾワッとしちゃって、つい反射で。というか、支えるなら一声くらいかけてくれたらいいじゃないの。無言で体に手を這わされたら、誰だって鳥肌が立つわよ!」
悪態を飛ばし合いながら、レジーナは改めて、宙をさまよっていたルカの腕を自身の腹へとまわす。
腕をセットし終えると、よし、と後ろに座るルカの顔を仰ぎ見た。
「腕はこの位置で、支えはしっかりとお願いね。絶対にわたくしのことを落としたりしないでちょうだいよ。あぁでも、あなたが落ちそうになった時には、さっさとわたくしのことを放して、巻き込まずに一人で落ちてちょうだいな」
「クソッ、人の腕を安全ベルトみたいに……。お嬢様こそ、馬鹿な貴族の観光気分で、ヘラヘラよそ見をしないでくださいよ。あなたがガキのようにはしゃいで勝手に落ちた時には、俺の過失じゃないので」
二人の罵り合いに、牧場主はキョトンとする。
あれ? 兄妹じゃないの? なんて声が耳に届いたが、レジーナは聞こえないふりをした。