11 旅の始まりと男女の共寝
空一面を鈍い色の雲が覆う、冬の入り。
お昼をまわったあたりに、レジーナの家出の旅は始まった。
賑やかな街から、枯れ草の絨毯が敷かれたような農村へと、また風景は変わっていく。
果てしなく広がり、連なる、なだらかな農地の丘。
そこに森と農村集落が点々と、まるで水玉模様のように繰り返される。
遠くをぼんやりと眺めながら、レジーナは今後の旅程を頭の中で確認した。
(宿場から宿場への移動を繰り返して、まずは山の麓の村まで移動。ここまでは六日以内がベストなのだけれど……天気と道の様子と、あとは馬の疲れ具合によるわね)
馬車に張られたほろ布の間から、チラリと前を見る。
白毛の馬のお尻は、今のところ、のしのしと元気に動いてくれている。
このペースを保ってもらえると嬉しい。
(山の麓まで来たら、村の中で一度装備を見直して、そこからは雪の山道ね。馬車をソリに買い換えないといけないわ)
山にはもう、雪が積もっていることだろう。
雪の土地で暮らす人々は、移動手段に車輪のついた馬車ではなく、ソリを使うそうだ。
前に書物や社交で仕入れた情報によると、山越えの出発地点となる麓の村では、ソリや引き手となる『オオツノジカ』やらの売り買いが盛んらしい。
オオツノジカとは名前の通り、角の大きな山鹿である。
(――オオツノジカ、図鑑でしか見たことがないから、実物を見るのはちょっと楽しみだわ。って、そんなに悠長なことは言っていられないけれど……)
村で装備を新たにしたら、いよいよ山越えだ。
平地で言うところの宿場のような、山小屋をたどって山中を移動していく。
そうして数日間かけてやっとたどり着く山の奥地が、今回のレジーナの目的地。
『雪の要塞』の通り名を持つ街――『クォルタール』だ。
旅路と目的地へ思いを馳せながら、ゴトゴトと、揺れる馬車に身を任せる。
普段出かける時には侍女を付けるのだが、今回は当然ながら不在である。
喋り相手のいない長時間の移動は、思ったより退屈で暇疲れしそうだ。
山に近づくまでは、風景も代わり映えがしないので。
(そうだわ、『あのノート』の続きでも書いていようかしら)
レジーナはふと思いついた。
狭い馬車内でゴソゴソと、トランクを開ける。
中から妄想ノートと、筆記用具を引っ張り出した。
膝の上に鞄を置いて台にして、ノートを開く。
右手に金属ペンを握り、左手にインク瓶を持ちながら、レジーナは器用に文字を綴り始めた。
少々行儀が悪いけれど、もはやいまさらだ。馬の飼料と相席している時点で、行儀などあってないようなものである。
(うふふっ、前回はちょっとロマンチックな妄想を書き連ねてしまったから、今回は……そうねぇ、この旅路のことでも書き出してみましょうか。旅行記風に)
レジーナのペンはすぐに乗り始め、ノートの新しいページへ、サラサラと文字が連ねられていく。
例によってちょっとずつ、内容に空想が盛られていく。
レジーナの思いつきと、心の向くままに。
(ただの家出旅じゃひねりがないから、颯爽と現れた白馬の王子様にさらわれて、旅に出たことにしましょう。『娘は僕がさらっていく!』なんて、王子様に格好良いセリフなんかを添えて――……)
別に誰に見せるわけでもないので、これでいいのだ。
これはレジーナだけの、夢物語のノートなのだから。
■
いくつかの集落をそのまま通り過ぎ、夕方前に一つの村に寄って休憩をする。
それから再び馬車を走らせ、日が落ちるギリギリまで移動は続いた。
そして日没を迎えた頃にようやく、レジーナの馬車は宿場へと収まったのだった。
道中の宿は適度に節約をして、中の下くらいの場所を選ぶ。
高級宿は路銀の無駄だし、あまりにも低級な宿は身の危険をともなう。
よって、真ん中くらいの等級の宿を渡っていく予定だ。
本日の宿は、馬車と馬を格納する厩舎と、人間の寝る場所が繋がっているタイプの宿。
厩舎の臭いは気になるけれど、馬車の荷を盗まれるリスクは低い。
そういう理由もあり、レジーナはこれからの旅路でも、この手の宿を選んでいこうと考えている。
この等級の宿にただ一つ問題があるとすれば、人間の寝る場所が、雑魚寝形式だということだろうか。
部屋には複数人が寝られるような簡素で大きなベッドが、たった一台しか置かれていないのであった。
レジーナとルカ。夜のベッドに、男女が二人。
普通であれば何やらロマンチックな響きであるが、あいにく二人は、大層仲が悪かった。
もう夜も深まっている時刻だというのに、宿屋の中では元気な罵声が飛び交っているのだった。
「背にくっついてくるなと言っているでしょう!! 鬱陶しい!! 本当に! 心の底からうざったいので! こっちに来ないでくださいお嬢様!! あぁもうっ、イライラする!!」
「わたくしだって本当は、未婚の淑女が馬臭い男と共寝なんて、ごめんこうむりたいところよ! けれど仕方ないでしょう!? 毛布が薄くて寒いのだから! あなたの背中あたたかいのよ! 頼むから暖房器具として、一晩じっとしていてちょうだいな……!」
大人四人は寝れそうな、雑魚寝用の広いベッド。
その端っこでレジーナとルカは、寝方をめぐって口争いを繰り広げていた。
寝始めはそれぞれベッドの端と端を陣取っていたのだ。
しかし夜中にレジーナが這い寄り、ルカの背中で暖を取り出したことで喧嘩が勃発し、今に至る。
「領主家のご令嬢ともあろう人が男に擦り寄って……まるで娼婦ではないですか、はしたない! 寒ければ馬の隙間にでも、はさまって寝たらいいでしょう? 家畜と一緒に寝てください」
「……! それ良い案じゃない! そうね、お馬さんと一緒に眠るわ」
ルカの悪態に思わぬヒントをもらい、レジーナは毛布をかぶって動き出す。
が、ベッドから降りようとしたところで、髪の毛を引っ張られた。
「真に受けるなよ馬鹿! 危ないだろうが!!」
「なっ、あなたが提案したんでしょう!? というか髪を引っ張らないでちょうだい!」
ルカの手をパシンと払いのける。
いつも綺麗に結い上げられているレジーナの銀髪は、今は寝支度として、ゆるい三つ編みの状態で垂らされている。
その先っぽを引っ張られてしまった。
「……まったく、淑女の髪を馬の手綱みたいに扱うだなんて……お祖父様はあなたに、マナーをお教えにならなかったのかしら!」
「はっ、淑女のマナーとして、男の背に這い寄るのもどうかと思いますけどね! やっぱりお嬢様は修道院へ入って正解だ。もう一度マナーを修練し直すべきかと」
ムッとした顔をするレジーナをよそに、ルカは悪口を言い返すとすぐに、ごろんと横になって寝る姿勢に入ってしまった。
もちろんレジーナへは背を向けて。
ルカは毛布をかぶって、もう言葉を返してこない。
どうやら本日の口争いの勝負は、ここで終わりらしい。
放り出されてしまったレジーナは、手持ち無沙汰にため息をつく。
自分だって眠りたいのはやまやまなのだが、どうにも体が冷えて寝付けないのだ。
(……いっそ夜の間は起きていて、日中、移動中の馬車の中で眠るようにしようかしら)
――なんて考え出した時。
背中を向けたルカから、ポソリと小声がもれた。
「……明日、どこかで防寒具を買い足しましょう。…………今日だけは……暖房器具になってやってもいいですよ……」
「え、良いの? ありがとう……!」
これ幸いとばかりにレジーナはルカへ寄り、その背へ冷えた手を添える。
途端に、『冷たっ! ……クソッ!』と、苛立ちに満ちた抗議の声が上がったが、レジーナはもうストンと眠りについてしまうのだった。
――その晩レジーナは、昔の夢を見た。
内容は、確かレジーナが十五歳になった時の、誕生日の夜のこと――……
誕生日のささやかなパーティーも終わり、眠りの時間が訪れた頃。
十五歳を迎えたばかりのレジーナは、寝着にショールを羽織った格好で一人、静まり返った夜のメイトス家の屋敷内を歩いていた。
人に見つからぬよう、コソコソと。
暗い廊下をたどって向かう場所は、祖父の執務室。
祖父は眠る時間が遅いから、きっとまだ起きているはず。
今夜は少しだけ、話をしたい気分だった。
というのも、誕生日パーティーで高揚した気持ちが未だ落ち着かず、寝付けなくなってしまったのだ。
こんな格好で夜遅くにうろつくなんて、いつもなら叱られてしまうだろう。
けれど今日は誕生日という特別な日。だからきっと、大目に見てもらえるはず。
そう思って、祖父の執務室を訪ねようとした。
けれど。
向かった先には、思わぬ先客がいたのだった。
執務室の扉の前で、レジーナは立ち止まる。
中からは、二人分の声が聞こえてきた。
祖父と、もう一人はルカだろう。
(こんな遅くに珍しいわね。またルカが何かやらかして、お祖父様と『勉強会』でもしているのかしら……)
ルカはよく屋敷の人たちと衝突する。
そのたびに、祖父はルカと二人で勉強会をしているのだった。たぶん内容は道徳だとか、マナーについてだとか、そういうもの。
バレないように静かに、扉の隙間から中をのぞきこんでみる。
雰囲気が良ければ、自分も勉強会に加わってしまおう、なんてことを考えつつ。
しかしどうやら、今回はそうもいかないようだった。
祖父もルカも、いつもとは雰囲気の違う、大変に険しい表情をしていたので。
そのただならぬ雰囲気に、レジーナは動けなくなってしまった。
一体、どうしたというのだろう。
執務室の応接ソファーに座る祖父と、対面するソファーの脇に立つルカ。
ふいに、ルカが床に片膝をつき、胸に手をあてた。
主人に対する、最上級の礼の姿勢だ。
その姿勢を保ったまま、ルカは言った。
『――もう一度、改めてお願いします。どうしても俺は、レジーナお嬢様の護衛を辞めたいのです。お嬢様が婚姻の儀を迎えるまでは、これまで通り命に従い、護衛として彼女をお守りしましょう。ですがその後は、どうか俺に自由をください。レジーナお嬢様と縁を切り、今後一切関わらず、メイトス家を出る自由を――……』
祖父は顔をしかめて、その皺を深める。
口元の髭を撫でながら、しばらく黙り込んでいた。
何事かを、深く考え込んでいるようだった。
しばらく沈黙が続き、ついに祖父は、ゆっくりとその口を開く。
『……――わかった、考えておこう。ルカ、お前の今後のことについては、十六歳の成人の儀を迎えた時に、また改めて話し合おうじゃないか。それまで決して、ままならない身に自棄を起こしてはいけないよ――……』
レジーナが聞いた二人の会話は、ここまでだった。
聞いてはいけないような話を聞いてしまった罪悪感に負けて、そっと扉から離れた。
ソロソロと廊下を歩いて、執務室の前から離れる。
ルカとは仲が悪く、七歳の頃から喧嘩を繰り返してきた。
いまさら彼の口から何を聞いても、さして腹が立つことはない。
――腹が立つことはない、けれど。
『縁を切りたい』だなんて、結構なことを言ってくれるじゃないか。それも、わざわざ当人のいない場で。
改めてこうもガツンと『嫌われている』という事実を突きつけられると、それなりにガクリとくるものはある。
暗い廊下を引き返しながら、レジーナは深く息をついた。
(まったくルカったら……言ってくれるじゃない。……というか、わたくしの結婚をルカの自由の契機にされると、無駄にプレッシャーがかかるから、やめてほしいわ)
先ほどの話を聞くに、ルカが自由を得られるかどうかは、レジーナの結婚にかかっているらしい。
レジーナが早く結婚すれば、ルカは早く自由になれる。
そして逆にレジーナの結婚が遅くなればなるほど、ルカはいつまでも護衛として拘束され続けることになる。
やれやれ、とため息を吐きながら、自室へと歩を戻す。
レジーナのとぼとぼとした足音は、シンとした廊下の奥へと消えていった。
成人の儀を迎えるまであと一年となった、レジーナの十五歳の誕生日。
そしてルカにとっても、十五歳の誕生日の夜の話――……