1 婚約破棄と愛され異母妹
一月半くらいで完結の予定です。お楽しみいただけましたら幸いです。
「レジーナ・メイトス。今この時をもって、僕トーマス・セイフォルは……君との婚約を、正式に破棄する」
冬の入り。
我が実家、メイトス家の冷え切った応接室。
たった今、レジーナにとって『婚約者』から『他人』へと関係が変わった彼は、緑の目と少しハネた茶髪を落ち着きなく揺らしながら、ボソリと宣言した。
レジーナはその言葉を受け止め、ただただ静かに息を吐いた。
――婚約破棄を言い渡された淑女の名は、『レジーナ・メイトス』。十八歳。
農村地帯の一角をおさめる小貴族、メイトス家の長女である。
この冬、このあたりでは一番大きな領地を有する、貴族家の若当主『トーマス・セイフォル』との婚姻を控えていた令嬢だ。
サラリと長い銀糸の髪を綺麗に結い上げ、ドレスは淑女の模範のようにピシリと整えられている。
少しツリ目がちな目元はブルーの化粧が良く映え、レジーナの落ち着いた雰囲気を際立たせていた。
真面目で、淑やかで、器量も申し分ない。
レジーナは貴族家当主の夫人として、まさに理想的な女性であった。
はずなの、だが……
たった今、婚約を破棄されてしまった。
レジーナの澄んだグレーサファイアの瞳が、今しがた婚約破棄を言い放ったトーマス・セイフォルを見据える。
まるで氷雪のような冷ややかな声音で、レジーナは言葉を返した。
「わたくしとの婚約を破棄して、わたくしの異母妹と結婚する、と? まったくもって理解しかねます。……ですが、お二人にはもう、仲睦まじい肌の重ね合いがおありのようですから、仕方なく、えぇ、本当に仕方なくですが、わたくしは身を引きましょう」
たじろぐトーマスをよそに、レジーナは流れるようにペラペラと言葉を紡ぐ。
「もし異母妹のお腹に、すでにあなたのお子が宿っているようなことがあったら、事ですので。後々揉め事に巻き込まれるのは、わたくしとしても御免こうむりたいですし。……まったく、だから婚前の紳士淑女は貞潔であるべきなのに――」
吹雪のように冷たい声音でまくし立てるレジーナの声は、ふいに程近くから聞こえだしたすすり泣きに阻まれた。
「……お異母姉様ぁ……怒らないでください…………あたしとトーマス様は、愛し合っているんですぅ…………あたしたちの愛を、悪く言わないでください……っ」
泣きだしたのは、レジーナの異母妹『アドリアンヌ・メイトス』。
一つ年下の十七歳で、レジーナとは容姿も性格も対照的な女性だ。
ふわふわとウェーブのかかった赤毛に、ふくよかな体に豊かな胸元。華やかで女性的な見目。
おっとりとした口調に、幼子のように天真爛漫な無邪気さを持つ彼女は、どうやら紳士を虜にする才能があるらしい。
――そのアドリアンヌの持つ才能がこれでもかと発揮された結果、レジーナは婚約者だったトーマスを、なんと寝取られてしまったわけなのだが……
すすり泣くアドリアンヌを、その両隣に座っている父と継母が慰める。
元婚約者トーマスも、慈しむような目で、その様子を見守っていた。
メイトス家の応接室にコの字型に三台並べられたソファー。
一つにはトーマスが座り、一つには両親と異母妹が座っている。
もう一つのソファーには、レジーナただ一人。
レジーナの隣に座る者は、誰もいない。
レジーナに目を向ける者も、この場には誰一人としていない。
部屋の暖炉には火が無く、ただでさえ冷え切った室内が、レジーナにとってはさらに寒く感じられた。
(……泣きたいのは、わたくしのほうよ……)
皆の意識がアドリアンヌに向いているのを良いことに、レジーナはそっと、目元を指先で拭った。
行儀が悪いけれど、今はハンカチを出したくなかった。
トーマスがアドリアンヌに、美しい刺繍のハンカチを、優しく差し出している最中だったので。
なんだか自分の惨めさが際立ちそうで、嫌だったから……
涙で濡れた指先を、一人こっそりとドレスで拭く。
一連の動作を速やかに終わらせ、レジーナは静かにため息をついた。
(はぁ……本当に、どうしてこんなことになってしまったのかしら……人生って上手くいかないものね……)
異母妹に婚約者を寝取られて、婚約破棄。
小貴族の娘としての立場をわきまえ、子供の頃からずっと厳格に、生真面目に生きてきた自分が、どうしてこんな珍妙な目に遭わなければいけないのか。
それも最悪なことに、自らの目で浮気行為の現場を確認してしまうとは。
異母妹と自分の婚約者が、体で愛を育む現場を……
(…………心の底から見たくなかったわ……今日は本当に、なんて日なの……)
もう一度深くため息をつく。
アドリアンヌは、優しく差し出されたトーマスのハンカチに感情を刺激されたのか、声を上げて大泣きし始めた。
レジーナはこの空虚な時間をやり過ごすため、事に至るまでの経緯を、頭の中で整理することにした。
■
メイトス家は地方農村地帯の一部をおさめる、小領主の家である。
領主と言っても、財政状況はそれなりにシビアだ。
そういう懐事情もあり、前当主だった祖父は家と領地を、それはそれは厳格に管理していた。
そんな厳しい祖父が選びに選び、嫡子である父にあてがった結婚相手がレジーナの実母である。
母は祖父好みの、冷静で明晰な女性であったらしい。――らしい、というのも、レジーナを産み、その傷が癒えずに亡くなってしまったので……母のことは覚えていないのだけれど。
祖父は手ずから孫のレジーナを教育し、家を支えるための厳格な精神を、余すことなく注ぎ込んだ。
将来はレジーナを家に残し、優秀な婿を入れて家を保つ算段だったよう。
祖父は家の存続を、レジーナにかけていたようだ。
本来であれば頼りになるはずの、次の当主が、いわゆるポンコツであったので。
――だったの、だけど。
祖父はレジーナの結婚相手を決める前に事故で亡くなり、結局頼りない父が当主となってしまった。
レジーナが十五歳の時の話である。
そうして転がるように当主となった父は、今まで抑圧されてきた反動のように、奔放に振る舞いだした。
これ幸いとばかりに通じていた愛人を後妻にし、密かに育んでいた子も公にして可愛がったのだった。
この隠し子が、アドリアンヌである。
そして、すっかり祖父似の生真面目な性格に育った、堅物娘を追い出すべく、父はレジーナが十六歳の成人の儀を迎えた瞬間、あっという間に嫁ぎ先を決めた。
その相手がセイフォル家の嫡子、トーマス・セイフォルであった。
セイフォル家は広い農村地帯と、小さくも賑わいのある街を有している。
お世辞にも思慮深いとは言えない軽薄な父にしては、良い縁談を取り付けてきたのであった。
運良く当時のセイフォル家の当主が、話を持ち掛けてきてくれたらしい。
そうしてレジーナはセイフォル家のトーマスと婚約を結び、二年の期間を経て、十八歳のこの冬に婚姻の儀を迎える予定であった。
――の、だが。
その縁談も、結果的に上手くいかなかったわけである。
セイフォル家の当主が病で急逝し、トーマスが若くして家を継ぐことになったあたりから、雲行きが怪しくなったのだった。
この頃からレジーナはなんとなく、じわじわと違和感を感じ始めていた。
(……トーマス様とアドリアンヌ……なんだか、とても仲がよろしいようで……。わたくしが気にしすぎているだけかしら……?)
親睦の茶会で顔を合わせてからというもの、トーマスとアドリアンヌの距離がやたらと近いことが、気になり始めた。
何だか物理的に距離が近いのである。
顔が近い。会話の度にいちいち近い。
体の位置が異様に近い。
(その距離じゃアドリアンヌの胸元が、トーマス様の腕に当たってしまうわ……あぁ! ほら! 当たっているどころか乗っかっちゃってるじゃない……!)
両家の親交を深めるため、という名目の茶会を催すたびに、レジーナは二人のおかしな仲の良さを見せつけられるようになった。
さらにおかしなことには、茶会がお開きとなって帰り支度が整うまでのわずかな間に、不思議と二人は姿を消すのだ。
その後少しして何事もなかったかのように、廊下の角から歩いてきたり、庭園の陰から出てきたりするのだが、毎度のことなのでどうにも気になる。
二人そろって姿を消し、二人そろって現れるというところに、引っかかりを感じる。
たまたま席を外すタイミングがかぶった、というわけではなさそうなのだ。
別に全然、まったくもって、嫉妬しているわけではないのだけれど……気になるものは気になる。
そういうことが続いたので、ある日、レジーナはその謎を明らかにしようと行動してみたわけである。
それが、今日――婚約破棄を言い渡される、数刻前のことだ。
まさか、草陰であんな現場を目撃することになろうとは、この時はまだ想像もしていなかった。
そしてその後に、レジーナの人生が百八十度、向きを変えることになるなんて――……