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始まりの姫と誓約の騎士  作者: 李苑
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蜘蛛の糸 下


     ○


「東ヨーロッパで一時名をはせた暗殺者アラクネ。五年前に消えたそれが日本にいて、西條姉妹の可能性がある」

「可能性どころかほとんど間違いない」

 報告には、人間の養分を吸う蜘蛛の糸を使う誓約者、とあった。

「姉のことは詳しく書かれてなかったけど、コンビでああもうまいこと戦うんだ。二人合わせて、そのアラクネだろ」

 耀真は雨上がりの庭で、ぬかるみに落ちていた小石を拾い上げた。

 この辺りにもなにもない。

 泥のついた指先でもてあそんでいた小石を放り投げる。

「わたしたちが監視されてたっていっても、痕跡はもう昨日の雨で全部流されてるんじゃないの?」

百合華が膝に手をついて前のめりになると、滑らかな黒髪が顔の横に流れてくる。その一束を耳にかけながら視線は耀真の手元と顔を交互に眺めている。耀真はその赤茶色の瞳に、人差し指を向けた。

「じゃ、雨に濡れてないところを探せばいいんだ」

 庭にはマツやモッコク、ツバキといった比較的大きな植物も植えてある。その下にいれば昨夜の霧雨程度なら濡れず、身を隠すにもちょうどいい。

 そういった木々を何本か調べて回っていくと、根本に小さな靴の跡が見つかった。やや湿った土にはつま先、おそらく右足の先が残されている。

「これだな」

「植木屋さんのじゃなくて?」

「うちが頼んでるところはオッサンしかいないだろ。このサイズじゃない」

「最近頼んでないしね」

「わかってるならいうなよ」

「この家の人間のじゃないんだよね?」

 百合華が難しい顔を傾げ、母屋と自分たちがいるところを見比べる。

「敷地の中でも隅っこだから、シアも美緒も用事はないと思うけど。百合華も来てないだろう?」

「耀真も?」

「来てないし、俺の靴のサイズじゃない」

 耀真は靴跡の隣にポケットティッシュを置いて、携帯端末で写真を取る。

「やっぱり、西條姉妹は俺たちの話を聞いてたんだ」

「どこに盗聴器が仕掛けてあるのかしら?」

「たぶん出てこない」

「なんで?」

「糸電話と同じだ。窓と壁に細い糸をつけて集音すれば外からでも屋内の声は聞こえる」

「そんな方法があるんだ」

「うちの居間の窓はガラスが一枚、その向こうに障子が一枚。それでどれほどの精度があるのかは疑問だけれど、手段としてはなくもない」耀真は立ち上がって、体ごと百合華に向き直った。「アイリさんが、タツミ確保の任務は他の誓約者も引き受けているっていっていただろう。推測するに、西條姉もエントリーしていた。あいつが操る高熱で菌が生きていけるはずがないから、絶対に声をかけられている。手柄に対する欲求が強すぎるあいつは絶対に受ける。しかし、知っての通り、蘭子はタツミを捕まえ損なってる。それがショックだったんだろう。遺体を回収したのが俺だってのは周知の事実だから、俺の周りを監視することにした。結果、娘の情報を得て、いまに至る、と」

 うーん、と百合華は唸る。「筋は通ってるし、自然な流れにも思える」

「細菌使いのことを知っているのは俺たちと西條姉妹、リジェクターはわからないけど、そっちはユーグさんに任せるとして、エリシオンはまだ知らないだろうな。あの姉が報告するとは思えない。自分で手柄を上げるために」

「エリシオンに動きがあればユーグさんから情報が来るはずだものね」と百合華が頷く。「あの二人はどこまで知ってるんだろう」

「俺たちが家で話したことは全部と思っていいんじゃないか」

「それって、わたしたちが知ってること全部ってこと?」

「いや、違った。たった一つだけ」耀真が人差し指を立てる。「美緒の報告書のことは知られてないだろう。きっと桜子ちゃんは昨夜、この家に来てない」

「少し前に戦ったばかりだから?」

 頷いて返すと、百合華は「それはどうかなあ」と意味ありげな笑みでいう。

「つけてきてて、隙を窺ってたかもしれないよ」

「能力のわからないやつに狙撃されたんだ。俺なら深追いしないで安全な場所に身を隠す」

「そうかしら?」

「百合華は好戦的なんだよ」

「戦いが好きなわけじゃない」

 力んで否定する百合華の声は聞き流して母屋に向かう。

「ちょっと聞いてる?」

「聞いてるよ」と振った手だけを合図にして話を続けた。「俺が偵察に来るなら今朝からだけど、いま周りに糸の気配はないからな。きっといないんだろう。にしても……」

 耀真は腕を組んで、うーん、と唸る。

「なに? 考え事?」百合華がすぐそばに来て、顔を覗こうとする。

「なんだよ」

「あんまりうわの空だから」と頬を膨らませていた。「で、どんな考え事?」

「昨日、桜子ちゃんの能力を喰らって思ったんだけど、どうしてタツミの能力が細菌だってわかったのかな、と」

「は?」と百合華が眉をひそめる。「検査とか、したんじゃないの?」

「どう検査しようと、それが能力で生まれたものなら能力を解除すると消えることになる。俺は検査が終了するまで、タツミが能力を解除しなかったことがあるとは思えない」

「まあ、確かに……」

「肉体を腐らせるってだけなら、もっと他にあるはずだ。毒ガスとか、単純な薬剤。ウイルスでもいい。細菌っていう必要はないだろう」

「菌だってことの理由があるってこと?」百合華は首を傾げる。「耀真は考え過ぎなんじゃない?」

「エリシオンの賢い人たちが出した結論だから、なにかしら理由があるはずなんだがなあ」耀真は後頭部を掻いた。「まあ、考え過ぎなくてもわかってるのは、昨日の報告書にあった、うちの高校に父親が不明な女子生徒はひとりもいないってことだ。西條姉妹は除いて、だけど」

「なにか間違ってたんじゃないの? 聞き間違えた、とか。考え過ぎた、とか。耀真がよく陥るやつ」

「たとえば?」

「娘はわたしたちとは違う学校にいるとか、もう学校を卒業してるとか、入学してない、退学した、そもそも娘の存在自体がないのかもしれない」

 なるほど、と呟いて耀真は口もとを撫でた。「あり得る」

「そうでしょう」と百合華はしてやったりという顔だ。

「あのジジイっていくつくらいだったかな?」

 百合華は意表を衝かれたような顔をしながら、口を開く。

「何歳くらいだったかってこと?」

「そう」

「えっと、確か、わたしの記憶だと」と中空を見つめる。「四十代後半って書いてあったかな、ユーグさんからもらった資料には。正確な年齢はわからないらしいよ」

 それがどうした、と問うような表情の百合華に耀真は首を振ってみせた。

「俺が間違っていたかもしれない」

「やっぱりね」和やかに笑う。

百合華に「なんだよ」と小さく反抗して続ける。

「低く見積もって四十としても、娘の年齢は日本の法律上最高二十二。男性は十八から結婚できるからな。もしかしたらそれより上ってケースもあるだろう。無法地帯にいたんだから」

「そっか。なら、うちの高校を探すにしても二十、いえ、二十五くらいまでは探した方がいいってことね。例えば、教師とか……」

 あれ、と首を傾げた百合華が玄関の前で立ち止まった。

「二十五より下で女性の先生は一人しかいないんじゃないかな?」

 一人といわれれば、耀真の頭にも一人は浮かぶ。

「佳奈ちゃん、一人だけか?」

「保健室の先生も若くないし」

「そうか。佳奈ちゃん一人だけか」

「そうだけど、それにしても佳奈ちゃんって呼び方……」

睨んでくる百合華を無視して、耀真は居間に向かう。

 シアは金髪を拡げて畳に寝転び、美緒は卓袱台に上体を乗り出した格好でザッピングしている。最終的に止まったのは地方ニュースで、キャスターがこの近くのデパートで防災訓練を行い云々などといっている。

「近くに怪しい人はいないわね」とシアが寝返りを打つ。周囲の監視に専念していてくれたシアがそういうのだから間違いない。

「ありがとうな、シア」

「長かったですね」半笑いの美緒が後ろ手を突いていう。「あたし、お腹空いちゃいました」

「だったら自分で準備しなさいよ」


     ○


 その日は学校に着くなり、美々子がへらへらとした顔でふらふらと寄ってきた。

「どうだったんだい、昨日の夜は」

「なんの話だよ」

「昨日、西條姉妹となんかあったんでしょう」

 うすら笑いに図星をつかれ、ぎょっとした。

「なんで知ってんだ?」

「あ?」とドングリ頭が低く喉を鳴らして渋面を作る。「だって、西條姉妹、今日は休みだよ。耀真にゲスいちょっかい出されたショックで不登校になったのかと」

「あいつら、今日休みなのか?」

「そうらしいよ。まだ朝早いから、なんかの間違いかもしれないけどさ」

 うしろを振り向いた耀真は百合華と目顔で頷きあう。なにか不穏なものを感じる。

 美々子は二人のやりとりを気にしたふうもなく笑っていた。

「警察に通報してやろうか? うちのクラスに変態がいます」

「やれるもんならやってみろ。迷惑防止条例で捕まってろ」

「なんだとぉ?」と吠えた美々子の顔が歪んだ。

「ところで、佳奈ちゃんは?」

「あんだけ侮辱しといて話を変えるか」

「いいじゃんか。今日一日担任がいるかどうかは重要な問題じゃない?」

「いるに決まってんじゃん。今日も一日束縛されるよ。そんで怒られるよ」

「おまえがいらんことするからだろ」

「アホいいなさんな。あたしゃ有意義なことしかしないよ。あたしのやることなすこと全てに意味がある」

 拳をかかげる美々子は横に置いといて席につく。

「美々子は、自分がいらんちょっかいを出したから西條姉妹が休んだ、とは思わないのか? 悪いことしたなあって」

「あたしゃね、そこまで人を見る目が曇ってないよ。うしし」

 下品に笑う美々子に驚いた。そんなふうに思われているとは考えてもみなかった。

「耀真にそこまでの甲斐性はない」

「あ、そう」

見直したのが間違いだった。後悔を噛み締めて、百合華の方を見る。

「あいつらはまだ気づいてないのかな?」

 もちろん、西條姉妹が、佳奈のことを、だ。察した百合華は「どうだろうね」と隣の席に腰を下ろした。「ここでなにかするとは思えないけどね。気づいてないとはいい切れないね。耀真の予測が正解じゃないかもしれないし」

「手は打っておくか」

「なに二人して話してんのよ」

 美々子が耀真の机の上で仰向けに寝そべる。スカートとシャツの間から白いへそが覗いている。

「あたしを無視しないで」

 耀真は、嘆く声を意識の外にしてメールを打つ。

「ちょっと百合華ちゃん、この男は鬼ですよ。人間じゃないっすよ」

「そうだね、美々子は寂しいんだよね」

「寂しいよ寂しいよ」と胸に飛び込んできて頬ずりする美々子の頭を百合華が「そうだねそうだね」と撫でる。

「佳奈ちゃんの車の色って何色かな?」

耀真が訊くと、「赤のミニクーパーだよ」と即答したのは美々子だった。

「ああ、あまりの幸福感に答えてしまった。無視すりゃよかった」

「おまえはなんでも知ってるくせに口が軽いのはよくないな」

「本当なら、あたしの口はイリジウムより重いんだよ」

「耀真は誰にメール打ってるの?」と百合華が訊いてくる。

「知り合いのメイドさんに」

「あんたはむっつりの皮をかぶった変態だな」

「誰だか知らんけど、そいつは皮をかぶる意味があるのか?」

 送信をタップしたところでホームルームのチャイムが鳴り、教室前方の引き戸が音を立てて開いた。

「席につきなさい」と冷淡な声と顔で佳奈が教壇に立った。


     ○


 エントランスには斜陽がかかっていた。空は濁った雲に多くを占められても、隙間から覗く西日は目が痛くなるほどまぶしい。

 耀真は今日も雑事を処理するために中央庁へ来ていた。が、仕事自体は百合華に任せて、エントランスに設えられたレストスペースに腰を据えている。同じテーブルを囲んでいるのはユーグとアイリだった。アイリは携帯端末の液晶を指で弾きながら口を開いた。

「耀真さんからの依頼の件ですが、順調に進行しています」

「ありがとうございます。急な申し出ですみませんね」

「いえ、ユーグさんの気まぐれに比べれば、これくらいお茶汲みと代わりありませんよ」

「おいおい、僕は気まぐれなんじゃなくて決断力があるんだよ。即決即行なの」

「なにを、報告待ちのニートが」吐き捨てるようにいう。

「報告待ちだけど、ニートじゃない。いまも動かないという決断なんだよ」

「報告といえば」耀真は人差し指を高い天井に向ける。「報告じゃないですけど、お訊きしたいことがありまして」

 今朝疑問に思った細菌使いが細菌使いといわれるが由縁だ。ユーグは細かく頷きながら聞いていた。

「そうだね、耀真くんのいう通りだ。が、しかし、僕はその理由を知らないな」

「わたしの方で調べてみましょう」とアイリが目線を端末にやったままでいう。

「ありがとうございます」

それで、とユーグが話を継ぐ。「あれの犯人は西條猊下のところの娘さんだったのか」

「そうですよ。ユーグさんの方で牽制かなんかできませんか?」

「彼女たち、もう行方をくらませたんだろう? 僕の方で根回ししても有事には間に合わないんじゃないかな」

「そうですかねえ。やっぱり、あの二人を探すか、例の娘を探すか」

 エントランスを行く人波に目をやる。終業時間ということもあって、人の通りは少なくない。この人混みで盗聴するのは難しく、聞き耳を立てている気配の人間もいない。もちろん、姉妹の姿などない。

「西條猊下、ですか? それってどんな人なんです?」と耀真が訊ねる。

「キレイな女性だよ。まだ若くてね、僕と同じくらいじゃないかな」

「そら若いですな」二十後半くらいだ。「その若さで枢機卿ですか」

「親しく話したことはないけれど、能力が特に優れているというわけではなくて、人望が厚いといったところかな。優秀な人材が周りにいて、彼女を支えているふうがある」

「お母さまのためっていっていた蘭子も、その支える側の人間ってことですか」

「そうそう、そういえば、西條猊下は例の第六騎士団の事件のあと、いち早く議会に掛け合って、人員と資材を供給したんだ」

「そうなんですか?」もっと悪党なのだと思っていた。

「そのあとがおかしな話なんだけれど、西條猊下は適切な手続きを経ずに物資を被災地に送ったのではないか、その過程で横領があるんじゃないかって問題になってるんだ」

「なんだ、結局横領してたんですか」

「やあ、してないんじゃないかな。以前から彼女は議会の一部からだいぶ疎まれていたから、これを機に失脚させようとしたんだろう」

「なんで疎まれてるんです?」

「若さと、美しさと、性別、かな。元が貴族の出だそうだ。一族の資本を事業に投資して成功したらしい。そのお金で奉仕活動を手広くやって、その功績から枢機卿に任命されたんだ。そういう成功が妬ましい連中がいるんだよ」

「そんな下らないことで?」

「そんな下らないことで他人を妬むのが人間だよ。成功している人間は蹴落としたいし、美しい人間は惨めにしたいし、自分の理屈に合わない人間は辱めたい」

「暇なんですね」

「暇なんだろうね」背もたれに体を預けたユーグは続ける。「西條猊下はいま謹慎処分を喰らってるよ。議会の決定が出るまで黙ってろとさ」

「そんなことになってるんですね」

 上層部に興味のない耀真には寝耳に水の話だ。蘭子たちが強硬なまでに動く理由がわかる気がする。人を殺めなければ生きていけない世界。そこから救い出してくれた人の力になりたい。

「あいつらのこと、探した方がいいかな」なんだか心配になってきた。

「すまないね、あまり力になれなくて」

「そんなことありませんよ。アイリさんには協力してもらってるし、ユーグさんにはリジェクターのことも……」いいかけて、思い出した。訊いておこうと思っていたのだ。「ユーグさんの仕事の方はどうなってるんです?」

 すぐに左右を見て、付け加えた。

「ここじゃ不味いですか、その話は」

 周りに気を使えば盗み聞きされることもないが、機密は機密。しかし、ユーグは「別に構わないよ」と笑う。

「さっきアイリがいった通り、まだ報告待ちなんだ。でも、連絡があったらすぐに出なきゃならないから暇ってわけでもないし……」

「それって、騎士団の仕事ですか?」違うと話していたのは百合華だ。

「違うだろうね」とユーグもいう。

「じゃ、なんで、仕事放棄してまであいつらを追ってるんです?」

「うん」とユーグは前庭に視線をやった。アイリも顔を上げて、主の横顔を見る。いつも眠たげな面差しに一瞬だけ悲しみの色が浮かんだ。見間違いか、と見直したときには、アイリの顔は携帯端末に戻っていた。

「訊かない方がいい話ですか?」

「いや、そんなことはないよ」そういって、耀真に向き直る。「箝口令が敷かれていることだけれど、耀真くんもあながち無関係ではないから聞かせてもいいかな」

「シアやマヤのときと同じようなことですか?」

「いや、もっと生臭なことだ」

「生臭、ですか」

「陸彦さんが直属の弟子を何人がとっていたのは知っているかい?」

「知ってますよ。ユーグさんも弟子だったんでしょう」

「ああ、僕が入門したのは十四年前。同期入門は他に二人。うち一人は九年前にエリシオンを脱退しているんだ。いまはケヴィンと名乗り、リジェクターというテロ組織を率いている」

 え、と喉を鳴らした耀真は自分の目が丸くなるのがわかった。

「じゃ、あいつ、陸彦さんの弟子だったってことですか?」

「そう」とユーグが頷いた。「百合華ちゃんは覚えていないかもしれないね。名前は変えたし、見た目もずいぶん変わったから」

「九年前というと、百合華はまだ七歳ですか」物心がつくかどうかという年齢だ。

「ケヴィンは、元々アメリカ北部の都市出身で、代々審問官を担っていた一族の出なんだ。走れば走るほど速くなり、打たれれば打たれるほど硬くなる。とはいえ、端的にいえば、少し成長の早いだけの能力だ。彼の父も祖父も同じ能力だったが、それほどの功績を残すことはなかった。地元でも相当みくびられていたそうだよ。ケヴィンも例外ではなかった。当時、彼が所属していた教区の異端審問官は多くいたけれど、下位一割に入ってしまうレベルだったとか。でも、鍛錬には熱心でね。アメリカ遠征をしていた陸彦さんに目をつけられたんだ。ケヴィンがあれほどの力を手に入れるまで、何度となく死にかけるほどの特訓を繰り返したことだろうね。ところで、陸彦さんは強くなるためにはなにが必要だといっていたか、覚えているかい?」

「俺が聞いたのは勇気、前に進もうとする意思だと」

「そう。陸彦さんはいっていた。ケヴィンにはその資質があると。将来はエリシオンの未来を担う男になるとね」

「そんな男がなんでエリシオンの敵になるんです?」

「そうだねえ」ユーグは椅子にもたれて、口元を片手で覆う。「あいつはここを離れるときにいってたよ。エルは俺たちを裏切ったって」

「裏切った?」

「なにがあったのかは僕にもわからなくて、とにかくあいつはエルとエリシオンに深く絶望したらしい。あれほどの力をつけるほどにね」

 歴史を人の手に取り戻し、世界を回帰させる者たち、リジェクター。なにがあれをそこまでの鬼に仕立て上げたのか。

「エリシオンはエルを信仰し、世界の平穏と安寧のためにある」ユーグは得々と続ける。「しかし、実際のところ、エリシオンと敵対する勢力にもエルは加護を与えている」

「ま、そうかもしれませんね」リジェクターを始め、他の大規模なテロ組織も多くの誓約者を抱えている。

「彼ら曰く、エルに意思があるとするならば、これはもう人類はエルの都合が良いように調整されているのではないか? 歴史とはエルに作られた年表を辿っているだけではないか? 人類はエルによって支配されているのではないか?」

 正しい解釈なのでは、と一瞬、耀真の頭に過ぎる。いや、論理的には正しい。しかし……。

「でも、シアは冥魔を殲滅させるために戦っています。最近は家で寝ていますけど」

「そう一般の人に説明して納得すると思うかい?」

「しないでしょうね」

「神の意思は測りがたい」ユーグはいう。「神の御使いであるエルの意思も測りがたいとするのが一般見解だ。人はエルから与えられる幸も不幸もそれとして受け入れることが信仰だと」

「そっちの方が納得しかねると思います」

「誰もが矛盾に気づいている。でも、誰もがその矛盾を指摘しても無駄だと知っている。しかし、ケヴィンは違った。世界の矛盾、歪みを正そうとしている。支持者はそういっている」

「どうかしてるんじゃないんですか、そんなの。エルとの関係を絶つってことでしょう。冥魔に対するのも難しくなるし、完全に関係を絶つには誓約者を皆殺しにするかエルを皆殺しにするか」

「耀真くんも人ごとじゃないと思うよ」

「そうかもしれませんけど……」

冥魔の殲滅。シアがやろうとしていることも、人が聞けばどうかしていると思われるのがオチだ。ユーグはクスクスと笑って、「そもそも奴は」と話を続けた。

「陸彦さんの教えを誰よりも誠実に実践しているだけなんだ」

「リジェクターで、ですか?」

「人生で、だ。正しいと思う道を自ら選び、進むこと」

 耀真は息が止まる思いだった。あの男は……。

「エルを否定したケヴィンは、十年前、陸彦さんに戦いを挑み、敗北してエリシオンを脱退した。それまでは綾薙邸で拳闘を学んでいた。要するに、耀真くんの兄弟子に当たる」ユーグは目を細めて、こちらの内心を見透かすかのように続ける。「僕は耀真くんの中にある強烈なほどの思惟を見るたびに思い出すんだ。傷だらけのまま、綾薙邸を去っていくあいつの後ろ姿を……」

「俺は違いますよ」前屈みになった耀真は合わせた両手の人差し指で額を擦った。そう、俺は違う。「あいつに、俺は負けませんから」


     ○


 ぴちゃり、ぴちゃり……。

 水滴が、ひとつ、ふたつ、と落ちていく。鼻をついたのは腐った鉄の臭い。目に映るのは細く長い月明かりの軌跡。廃工場の建屋を縦走する高窓から差し込む、青く眩しい輝きだ。

 防弾繊維を縫い込んだ黒の外套を頭から被り、明かりの下に歩み出た。背中は鋼鉄の柱に預ける。

 男が一人、光の帯を辿るように、すり足でゆっくりと寄せてくる。腰に帯びた刀の鞘に片手を添えて、もう片手は柄を握る。左右の闇の中にもひとつずつ、敵意が潜んでいる。背中の鋼鉄を這う配管が細かく揺れた。

「リジェクターのケヴィンだな? 貴様を逮捕する」

 男が鯉口を切る。月明かりを跳ね返し、きらめく刃。

瞬間、背後のパイプが爆ぜた。飛沫のごとく、飛び出してきたのは男だ。ケヴィンは襲い来るその顔をつかみ、床に叩きつけた。次いで来た日本刀を手刀で砕き、正面の男と間合いを詰める。

左右の気配が動いた。破裂音とともに飛来した鉛玉を簡単にかわし、折れてもなお振られた刃をかわし、正面の男の頬に一拳、骨を砕いた感触がある。男の身体は吹き飛んで転がり、動かない。

 左右からさらに敵が迫ってくる。天井付近の足場でも火花が散った。衝撃波を裂いて来る銃弾を素手で受け止め、握った拳を右の男の胸に打つ。

 頭上から鉄骨が雪崩れてくる。金属音を響かせて折り重なり、数本が床に突き立つ。身を捻って鋼鉄の驟雨をかわしたケヴィンの目に映ったのは月明かりを遮る敵の影。

 傍らに立つ三メートル超の鉄骨を一息に抜き、勢いのままに投げ出す。敵の頭を打ち潰し、天井の足場も貫いた。付近の屋根もろともに足場が倒壊、狙撃手が戸惑い駆ける。辛うじて墜落は免れ、壁際の足場へ逃れていたが、目の前にケヴィンが回り込んでいる。

 構えられたライフルが火を噴いた。薬莢が吐き出される。弾丸は屈んだケヴィンの頬を掠める。二射目は拳に叩かれた砲身に従い、左へ流れる。次の拳が狙撃手の腹にめり込んだ。倒れかかってきた体を階下に投げ捨て、ケヴィンも追って飛び降りた。

 他に敵の気配はない。

 外で爆発が起こり、火の手が上がる。火勢が月光を押し退け、場内を照らした。

 爆発が連続する。工場の一角が崩れ、炎が吹き込んできた。その熱風をかき分けて、二人の人間が入ってくる。少年と若い女だ。

「おい、ケヴィン、今回も結構スリリングだったぜ」と少年が笑う。手は茶色い頭髪を撫でていた。「それでも、ぴんぴんしてるけどな」

「無事だったか」

「あったり前だろう。これくらい慣れっこだぜ」しかしよ、と少年は真面目になって続ける。「これ以上、この国に長居するのはよくないぜ。包囲網が狭まってきてる」

「ダメだ。まだ目的を達していない」

「ニルヴァーナを隠すとこがないんだよ。山があっても、結構人の目につくんだからさ」

 ケヴィンは腕を組んで一考したが、すぐに首を振った。

「やはりダメだ。あの能力は必要になる」

「タツミのガキねえ」と少年はため息を吐いた。「でもよ、まだどこのどいつかもわかってねえんだろ? あいつ、仕事してんのかね?」

「あいつは仕事に関しては誰より真面目だよ」ケヴィンに軽く頭を撫でられた少年は口をへの字にしただけで追及はしなかった。

「次のアジトに向かう」場所はこの国に潜伏しているエージェントがピックアップしてくれている。「行くぞ」

 と、いったところで、女の方が携帯電話を取り出した。画面を一瞥し、ケヴィンに放る。液晶には彼女の名前がある。

「オレだ」と、通話に出て、二言。三言、言葉を聞いた。それだけで通話は切れる。

「どうしたんだよ?」少年は首を傾げる。

「次の目的地が決まった。峰原だ」

「それって、あいつのいるとこだろ? もしかして……」

 先の言葉は眩しいほどの明かりに遮られる。サーチライトの光が、窓や崩れた天井から押し寄せてきたのだ。少年は手ひさしを作り、しかめた顔を光の先に向けている。

「おいおい、包囲網が狭いったって、こいつはいくらなんでも……」

「行くぞ」

「マジかよ、ケヴィン」

「立ち塞がる者がいるのなら、打ち砕くだけだ」

 拳を握り締める。


     ○


「もうそろそろ寝ようかな」

 百合華が居間の壁にかかる時計を見上げる。時刻はもう二十三時を回っている。寝息を立てているのは畳の上でタオルケットにくるまった美緒だ。寝返りを打って、幸せそうな顔をこちらに向けてきた。

「今日はもうなにも起きそうにないね」百合華がいう。

「そうだなあ、そうかもしれないなあ」

「私はもう少し起きてるわ」畳の上を転がったままテレビを見ていたシアが起き上がる。「耀真、なにか飲み物ない?」

「お茶でいい?」

「できればジュースがいい」

「うん」と立ち上がりかけた耀真のパジャマの裾を百合華が引いた。

「シアに自分で行かせなさいよ。堕落するわよ」

 ほら、とシアを見据える。

「もう、ケチなんだから」

 愚痴ったシアは星マークが入った愛用のマグカップ片手に居間を出ていった。

 唐突に耀真の携帯端末が鳴った。アイリからだ。当然自分で受ける。

「どうしたんですか?」

「夜分遅くに報告致しますが、例の先生、動きがあったようです」

「いまですか?」

時計を確認すると、先ほど見たのと変わらない。もうじき日付が変わる。耀真の慌てぶりに話の内容を知らないだろう百合華もやや気を引き締めている。

「どう動くっていうんです?」

「閉店間際のデパートに入って、そのまま出てこないそうです」

「閉店って、何時間前ですか?」

「一時間程度でしょうか。申し訳ありません。向こうもこれが異常事態とは思わなかったんでしょう」

「いえ、仕方ないですよ。俺たちじゃやりにくいことをやってもらってるんですから」

「場所はすぐにお送りします」

「ええ、アイリさんたちはどうします?」

「これも申し訳ないのですが、合流するのは難しそうです」

「なにかあったんですか?」

「夕方にお話した例の連絡が先ほどありまして、リジェクターの入国手段からアジトの位置まで、すっかり判明しました。わたしたちはそのアジトに向かっているところです」

「どう入国したんです?」

「ドラゴンに乗ってきたそうですよ」

「は? ドラゴン?」一瞬頭の中が真っ白になる。

「ご存知ありませんか? 西洋の怪物で、空を飛ぶ羽根を持つ爬虫類型の……」

「そんなもん、ファンタジーでしょう」

 冥魔の中には、本に出てくるドラゴンに似たタイプもいると聞く。が、生物としては物語の中でしか知らない。

「それがですね」とアイリが呟いたところで会話が途切れる。数秒経ってから再び声が聞こえてきた。「ユーグさんがなにか伝えたいことがあるそうです。代わりますね」

 またわずかな間があって、やあ、とユーグの声が聞こえた。

「今回はそちらを手伝えなくてすまないね」

「構いませんけど、いいんですか? アジトに踏み込むっていうの。ユーグさんの仕事じゃないんでしょう? また怒られますよ」

「例え怒られるとわかっていても、男にはやらなきゃならないことがあるのさ」

本気なのか、冗談なのか、真偽のほどはわからない。

「そりゃ、立派ですよ」と耀真が適当な相づちを打つと、笑ったユーグは「さて」とシリアス側にスイッチを切り替えた。

「時間がないから手短に話すけれど、夕方、耀真くんが話していたこと、タツミの能力がなぜ細菌といわれていたのかについて」

「わかったんですか?」

「正直なにもわかってないに等しい」

「まだ六時間しか経ってませんものね」

「うん、でもね……」

 ユーグがいいよどんだのを、「でも?」と耀真が促した。

「うん、タツミの能力には僕たちの知らない特性があって、それを見た人間の報告を考察したものなのだという話だよ」

「どういうことです?」

「一目見て、それが菌体だとわかることが起きたんだろう。が、それがどういう現象なのか、僕にはまだ想像できない。こうなると、その報告自体怪しいかもね。細菌使い、といっていいものかどうか、ともかく、タツミの娘は未知の存在だ。接近することがあるのなら充分に注意してくれ」

「わかりました。娘のことはこっちでなんとかします。そちらの方、お気をつけて」

「ああ。君たちも身の安全を一番に考えるんだよ」

 それじゃ、という言葉を最後に通話が切れた。そのタイミングを見計らって百合華がいう。

「わたしたちだけでなんとかするのね」

「ああ。俺たちでなんとかするしかなくなった」

「先生の場所は……」という百合華の言葉は耀真の携帯端末の着信音にかき消された。発信元はアイリで、内容はGPSの位置情報だ。地図が液晶一杯に表示され、赤い点が真ん中に浮いている。

「よし、佳奈ちゃんの場所もわかったし、出かけるぞ」

「どうしてアイリさんが先生の場所を知ってるのよ?」

「それは行けばわかるよ」


     ○


エリシオン支給のジャケットを着て、駅前に到着したころには日付が変わっていた。それでもまだ人は歩いており、町の明かりも落ちていない。日の名残は霧散霧消し、厚手の長袖がちょうどいい。

耀真はデパートに併設された立体駐車場に忍び込む。一階にはまだ何台か車が止まっていた。

「耀真」と百合華にうしろから呼ばれ、「あれ」と彼女が指さす方を見た。赤のミニクーパーだ。その傍にある鉄柱の根元に黒いクマのぬいぐるみが座り込んでいた。物理法則に沿ったように首を折ると、プラスチックのつぶらな瞳が耀真の方を向く。ひょいと布地の左腕を持ち上げた。

「この子、アイリさんのぬいぐるみね」

「朝から佳奈ちゃんを追跡してもらってるんだが、こいつ、具合悪いのかな、あんまり動かないけど」

「どこも破れてないよ。人目につかないように、じゃない?」

クマの背中と尻を叩いて、胸に抱えた百合華がいう。おおよしよしと撫で回す、いっそこねくり回す。

クマは自分の背中に手を回して、携帯端末を取り出した。そこがポケットになっているのだ。セットでしまわれていたペンで液晶を叩き、百合華に見せた。

「先生は中にいて、そこから入っていったって」デパートに通じている自動ドアを顎で示す。

ドアに併設されているガラスの押戸に手をかけると、難なく動いた。警報のアラームが鳴るかと体を強張らせたが、なにも起こらない。

「鍵は開いてる、警報は鳴らない。不用心だね」と百合華が笑う。

「警報は俺たちが気づかないようになってるだけかもしれないけど、警戒は必要だな。嫌な予感しかしない」

耀真は携帯端末を出し、美緒にかけた。

「美緒、聞こえるか?」

「はいはい、聞こえてますよ。デパートに入るんですか」

「ああ。正面入り口だけでいいから、ちゃんと監視しておいてくれよ」

「任せておいてくださいよ。あたしってなかなか頼りになるんですから」

「自分でいうか」というところまでにしておいて、本題を切り出した。「なにか様子がおかしいから、シアにも気をつけるようにいっておいてくれ」

「耀真さんの直感ですか?」

「直感というか、場の雰囲気。ともかく、気をつけろよ」

「あやふやですね」と笑いながらも、美緒は、わかりました、と承諾した。「お二人ともお気をつけて」

「ああ」とだけ応じて、通話を切った。百合華に目顔で合図して、彼女も頷くのも見、エコーロケーションを地面に展開する。マネキンとの区別は難しいが、デパートの一階エリアに歩いている人間の気配はない。

 最低限のスペースだけを開いた押戸からデパートの中に滑り込む。続いた百合華が扉を引き取って、ゆっくりと閉めていた。その間に、耀真は風除室の向こうにある自動ドアに張りついた。ここの鍵も外されている。

「あからさまに誘われてる」

「ラッキーだねえ。誘ってるやつは近くにいるんだろうから、捕まえるチャンスだよ」

「相変わらずだな」と振り返ると拳を握る百合華がいる。「罠が張ってあるだろうから気をつけろよ」

「蜘蛛の巣みたいに?」

「それ以外も」

 気安い話を打ち切って、自動ドアを強引に開く。一階フロアは非常灯と外から差し込む明かりしかなく、見通しは悪い。能力でもって知覚野を拡げたところ、怪しいものはない。

「どこかに誰かいる?」

「いや、なにもない」

「実際に奥まで行ってみないといけないみたいね」

 一階ショッピングモールの目抜き通りを密やかに歩く。デパートの中心部には四階分のアトリウムがあり、天井には円形のガラス窓が嵌められている。昼間は日の光を取り入れるそれが、夜になって星の光をデパートの中に降り注がせていた。遠目にも暗い廊下の奥で白っぽい光の柱が、円形のホールに突き立って見える。白光の縁まで行って天窓を見上げると、細く白い糸がいくつも輝いていた。

 気づかないまま光の下に出ようとする百合華の腕をつかみ、抱き寄せた。ホールを支える円柱の陰に身を隠す。

「へ? ちょっと、なに?」

「静かに」

 顔を赤らめた百合華は静かになったが呼吸を激しく乱していた。

「大丈夫かよ?」

「だ、大丈夫だよ。こんなとこでも、その、覚悟は、できてるから……」

「そこにいるのはわかっていますわよ」

 聞き覚えのある声が冷えきったホールにこだます。

やはり気づかれたか。

一気に平静を取り戻した百合華が柱の陰から頭を出すのに耀真も続く。夜空を背に、細身の女が宙に浮いていた。吹き抜けの弧から弧へ、上から下へ、幾本も渡された糸の上に立っているのだ。片手から垂らした鞭はすでに赤く閃いており、軟体動物のように身をくねらせている。以前制服だった服装が、いまは黒のボディスーツだ。女性らしい体型を惜しげもなくさらしているのは戦闘服か、自分によほどの自信があるのか。普段着だったらセンスを疑う。

「なんだ、敵がいたのか」百合華がいまにも唾を吐きかけそうな口調でいう。

「ちゃんと気を張ってろよ」

「耀真が悪いんでしょ」

「俺のどこが悪かったん……」

「出てこないならこちらから行きますわよ」

「向こうから来るって。どうするの?」

「どうもこうも」接近戦主体というか、それしかない耀真が対峙にするにはいささか厳しい相手だ。「近づければいいんだけどさ」

「ちょっと待って」百合華が半身を乗り出して、柱の向こうへ指を振る。「よし、いける」

「おい」と背中に声をかける間しかなく、百合華がホールに出て行くのを見送るしかない。

「気をつけろよお」

 振り向きもせず、軽く頷いただけの百合華はしかと床を踏みしめ、頭上の蘭子を見返した。

「あら、綾薙さんのところの小娘ではありませんか」

「そういうあなたは西條さんのところの小娘ではありませんか」

百合華は太鼓のバチに似た棒、通称二代目安綱を腰元から引き抜いて、瞬時に伸長させる。

「子飼いのペットはどうしましたの?」

「あなたぐらいなら、わたし一人で充分。というか、耀真は子飼いでも、ペットでもありません」

「わたくしは別に誰とはいっていませんわ。あなたにその自覚があるのではなくって?」

 高笑いする蘭子をよそに、百合華は安綱を振った。真空の刃がいくつも生まれ、宙を飛び、吹き抜けに張り巡らされていた糸を切り裂いていく。

ぎょっとした蘭子は咄嗟に一本の糸をつかみ、落下速度を和らげると二階ほどの高さから飛び降りた。鋭い視線を百合華に向ける。

「風使いとは知っていましたが、これほどとは……」

「わたくし、結構強いんですの。オホホ」

 わざとらしく笑う百合華が先ほど柱の陰から指を振ったのはこのためか、とようやく得心する。自分の風で糸が切れるか試していたのだ。

 百合華は安綱を振り、低い風切り音を立てる。

「さて、西條蘭子さん。妹の桜子ちゃんの能力を含めても、圧倒的にわたしが上回っていることがわかりましたね。武器を収めてください。エリシオンの人間同士、相争うこともないでしょう」

「ふん」と蘭子は失笑した。「邪魔をするならあなたも敵ですわ」

 百合華との間合いを詰め、赤熱化した鞭を振る。安綱で弾き、身をひるがえした百合華の背中が柱にぶつかる。さらに振られた鞭が鉄筋コンクリの柱を溶断し、しゃがんだ耀真の頭上を熱して過ぎる。なんだよ、と内心に悪態をついていると、今度は柱が倒れてきた。それは転がってかわす。仰向けになった視界に入ってきたのは吹き抜けの高い場所を漂う繊維状の塵。天窓から入る光を白く散乱させている。

「百合華! 糸が落ちてくるぞ!」

 例え切れ端でも体にまとわりつけば危険なはずだ。

 横倒しの柱の向こうにいる百合華の姿は見えないが、強い風が吹いた。それから立て続けに硬質なぶつかりあう音。

 寝ている場合じゃないな。

 桜子を見つけて説得できれば、おそらく蘭子もなんとかできる。それが自分の仕事で、難しいこととも思えない。

 戦っている二人以外、近くに人がいないのはエコーロケーションで大体わかる。起き上がった耀真は倒れた柱を足蹴に二階へ飛び上がった。そこにあった手すりを乗り越えると同時に、廊下の隅で闇がうごめくのを見た。

 誰かいる。

 跳ねた心臓に急かされ、拳を構えた耀真の目に銀色の刃が映る。腹部を目がけて一閃されたナイフを一歩退いてかわす。そのまま跳ねて、手すりに飛び乗った。薙ぎ払われた斬撃が欄干のガラス板を砕く。敵は上体をひねった勢いで回し蹴りを繰り出し、丸く縮こまった耀真のスネを打つ。

 何発もらった?

 なぜか三、四本ほどの足に蹴られた感触がある。実際それに匹敵する衝撃を引き受けた体が二階から弾かれ、一階に落ちる。

 受け身を取って立ち上がった耀真に、ちょうどそばにいた蘭子が迫る。振られる鞭を転がるようにしてかわし、手近にあったブックスタンドを振り回す。プラスチックでできたスタンドは簡単に溶断されてしまったが、間合いを取る役には立った。束になっていた冊子を振り払い、燃やした蘭子がプラスチック片を踏んで溶かした。焼け焦げた異臭が鼻につく。

遠くで金属のぶつかり合う音が響いた。吹き抜けの反対側で、百合華と二階から降りて来た人影が刃を交えている。

「あの女、まさかこのつもりで……」

「あの女?」

蘭子の呟きをくり返した耀真は百合華とつばぜり合いをする人影に横目をやった。

百合華のことか? いや、もう片方、相手の方だ。確かに、ぶかぶかのジャンパーを着ていても体の線は細く見え、女性かもしれないとは思える。ツバのある帽子を目深にかぶり、口もとにスカーフを巻いているから、容姿までは判然としないが……。

そうか。

「女って、百合華じゃない方だな? あいつ、おまえらがテロリストたちを殺したときにそばにいたやつだろう? 何者なんだ?」

「あなたにいう必要は砂漠の水ほどもありませんわ」

 蘭子が両手で鞭をしならせる。

「ちょっと待って。やっぱり俺たちが戦う必要ってないんじゃないか?」

「あなたは例の娘を守りたい。わたくしたちは娘を始末したい。意見が異なれば当然争うことになる。いってわからないなら力に訴えることになる。簡単なことですわ」

「いうのと理論は簡単でも、実際、やってみると億劫じゃない?」

「要らぬ気遣いですわ。わたくしたちは、そういう理論が支配する世界で生きてきたのですもの!」

 いい終らないうちに鞭が振られる。壁を穿ち、ショーケースを溶かす。

「桜子、早く塞ぎなさい!」

 蘭子が一喝した直後、天井からカーテンのように糸が垂れてくる。いつの間にか通路に入っていたらしく、変わらず斬り合う百合華たちの姿が白い糸のカーテンに隠されて見えなくなってしまった。

 耀真はさらに廊下の奥へと下がっていく。完璧に百合華と分断されてしまった。

「あの女の策略に乗るのは癪ですが、百合華とは相性が悪いようですし、あなただけを確保すれば目的は達成なわけですから、万事オーケーですわ」

「確保って……」

 情報がほしいということか。

 耀真は下がりながらもソファーを立たせ、観葉植物を振り回し、あらゆるものを盾に、武器にするが、あらゆるものが容易く焼き切られ、積み上がったゴミの山を蘭子が踏み越えてくる。

「やはり、その程度なのですわね」

 勝ちを確信し、唇の端を歪めた蘭子が駆け寄ってくる。

 やり合うしかない、と決した耀真からも駆けて、間合いを詰めたとき、異常な熱波に肌をあぶられた。蘭子に触れる寸でのところで、のばした腕を引き、身をひねって鞭をかわした。勢い転がって、ボディスーツの脇をすり抜けた。つもりだったが、肘に相手の指先がかすかに触れていたらしい。肉を抉られたような熱が神経を刺す。

 意表をつかれた上に、腕を焼かれ、集中の切れた体が受け身を取ることもできずにリノリウムの床を転がる。すぐに顔を上げて、仁王立ちする蘭子を見据えた。

「全身を熱してるんだな」

「制服にも糸が縫い込んであるのですがね、限界はありますから。このスーツなら燃え尽きる心配なし。こうして防御しておけば、なんてことはない。なんの能力者かはわかりませんが、殴ることしかできない野蛮人など相手ではありませんわ」

 そのためのボディスーツなのか。

 耀真は立ち上がり、前後左右を確認する。対する手段は?

鞭に打たれた床がじゅっと音を立てる。

「さて、四肢を切り落とし、軽くしてから連れていくことにしましょうか」

「そんなことしたら死んじゃうでしょ」

「心配いりませんわ。傷口は焼いて塞ぎます」

「それも嫌だな」

 鼻で笑い返した蘭子が再び駆けてきた。耀真も向かって走り出す。鞭を薙いだ蘭子の脇の下辺りに頭から飛び込み、床の上で一回転。そのまま通路を走り抜ける。

「お待ちなさい!」と背後で叫ぶのも無視して走る。正面から戦うより百合華と合流する方が得策だ。相性的にもいま百合華が相手にしている敵の方がいい気がする。

 さすがに走るだけなら能力を相乗させた耀真の方が明らかに早い。

 動かないエスカレーターを登り、吹き抜けがある方を振り返る。そこは糸の壁に塞がれていたから、もっと上へ。三階に登ってから左右を見ると、吹き抜けの方はやはり壁。反対方向には遠ざかる人影があった。

「桜子ちゃんっ!」

 その背中に声をかけたが無駄だった。急いで追いかけた耀真は通路の奥へ向かい、開け放たれた扉に入る。高い天井と四角四面の空間を非常灯の明かりだけが辛うじて照らしている広間。コンベンションホールだろう。そこに走り込んで桜子の姿を探したが、どこにもない。エコーロケーションで拾った画に愕然とする。

 糸が張り巡らされているのだ。

 出入口を振り返ると、白っぽいボディスーツに身を包んだ桜子が立っていた。

「これ以上は関わらないでって、いったじゃないですか」

「そういうわけにはいかないって応えたはずだ」

「つまらない義理のために命を落とすのですか?」

「つまらないことないさ。約束を守ること、人の命を救うこと」

 桜子に息を呑む雰囲気があった。

「私たちのこと、調べたとおっしゃってましたね。なら、お義母様のお立場もご存知でしょう」

「ああ、聞いて、知っている」

「お義母様はもっと私たちのような人たちを救い、世界をいい方向に変える力を持っていらっしゃる方です。そのために汚れ仕事が必要だというのなら私たちがやるということです。もうすでに、私たちは血に汚れているのだから」

「俺は違うと思う」

「違う……?」桜子が身を引いて瞳を揺らす。

「君のお義母様は、君たちが血に汚れないように、その汚れがいつの日か落ちると信じて、君たちを迎えたんじゃないのか? 人の優しさってそういうもんじゃないのか? 少なくとも、俺はそう思う」

 シアから、陸彦から、百合華から、優しさをもらったから自分はまだ生きていられるのだ。

「桜子ちゃんはそうじゃないのか?」

「だとしても、私は……」桜子は喉を詰まらせて、言葉を探す。胸元を握った手に力がこもる。「それでも、いまのお義母様を助けるにはこれしか方法がないんです」

「望まれていないことでも?」

「私たちの望みです」

「わかった」耀真は深く頷いた。そして、桜子の瞳を見据える。怯えの色がある。なにに怯えているのか。

「俺が望みを叶えよう。桜子ちゃんたちのお義母さんの」

「お姉ちゃんと戦うつもりですか? 私の結界の中で」

「ああ、俺が二人を倒せば、二人はもう戦わなくて済むだろう。今後百年二度と俺に立ち向かう気が起きないように完膚なきまでに勝つ」

「先輩の能力では無茶です。本当に死んでしまいますよ」

「俺だって死線のひとつやふたつは乗り越えてきてるんだ。これくらいはママゴトさ」

 耀真はポケットの中で携帯端末の通話ボタンを押した。シアの携帯電話に繋がったはずだ。口を動かさなくとも、メッセージは波動に乗せて送ることができる。それが終わったら次の準備を急ぐ。蘭子はすぐそこまで迫っているはずだ。

耀真は手を振り回し、前腕に糸を巻きつけていく。

「ちょっと、探しましたわよ!」

「お姉ちゃん……」

 桜子に変わって、蘭子が部屋の前に立つ。

「ちょこまかちょこまかと。逃げ足だけは立派ですわね」

「お姉ちゃん」と桜子が上体を前に乗り出す。「先輩はなにか考えがあるから、気をつけて」

「腐れ猿の考えることなど取るに足りませんわ」腰に巻き直していた鞭を抜く。「桜子は下がっていなさい。あなたは接近戦向きではありませんから」

 迷った素振りを見せてから、桜子は廊下まで下がった。不安げな視線を耀真と絡め、通路の陰に消えていく。

 耀真は蘭子と向かい合う。

「さて、桜子が狙われることもなくなりましたから、ゆっくりとここをあなたの棺桶に設えて差し上げますわ」

「それはどうかな?」


     ○


 なにかおかしい。

 初撃を撃ち合わせたときから違和感があった。

 ナイフの抜き身に打ち据えられた瞬間、安綱が細かく震える。腕にかかる負担も想像以上に大きく、長い余韻を引く。音叉が響き合うように、腕と安綱を震わせる斬撃。

間髪入れずターンした敵がナイフを薙ぐ。それも安綱で受け止めた。

 やはりおかしい。自分の型に淀みはないはずなのに、切っ先がぶれる。予期していないなにかに圧されている。

 こんなものに構っている暇はないのに。

 吹き抜けの向こうで蘭子に間合いを詰められた耀真の姿が白い糸のカーテンに少しずつ隠されていく。早く合流しなければ、と思っても、背中を見せればやられる相手とわかる。いまは目の前の敵を倒すことに集中する。それが最善の道。

 流れるように繰り出された三撃目もきれいに受けて、二歩下がった百合華はくるりとターン、切り上げてきたナイフをかわした。尻尾のように遅れた髪先が一房斬られる。

 刃に触れたか? そんな距離ではなかったが……。

 回転の勢いも借りて安綱を切り上げ、そこに溜めていた大気の塊を撃ち放つ。のけ反った相手の帽子のつばを弾いて、芯の細い体ごと吹き飛ばした。

 さらに追撃を加えようとした百合華は受け身を取った相手の顔を見て、全身を硬直させた。敵は飛ばされた勢いそのままバク転で間合いを取り、帽子のそばにぴったり着地すると、そのつばをつまみ上げた。膝で叩いて埃を払い、かぶり直す。

「名波先生?」相手の顔はそう見えた。「どうして、こんな……?」

「話すことはありません」

 駆けてきた敵がナイフを振る。余裕を持ってかわしたはずだが、ジャケットごしに刃の感触があった。

 そんなはずはない。体の反応が鈍ってはいるが、それも見越して間合いを取ったのだ。

「これが先生の能力……」

 目には見えない残像、それが先生の一挙手一投足の周囲に無数に現れ、物理的エネルギーをもってこちらを打ち据えてくる。

 百合華は縦横に安綱を振り、同時に風を起こす。相手を押し退けようとしたが、うまくいかない。風をいなし、距離を詰め、舞うように刃を振ってくる。

 バランス感覚と足腰の強さ。ナイフの使い回しといい、相当訓練されている。

何度目かの斬撃をまともに受け止めた。そのまま押し込んで来る敵の体重も受け止める。

「本当に名波先生なんですか?」

「そうですよ」と短く応えた佳奈が体軸をずらして安綱を受け流す。返す刃で脇腹を狙ってくる。それも逆手にした安綱を引き戻して防ぐ。力の入らなくなってきた手が小刻みに震える。

「先生、あまり冗談が過ぎると、わたしも容赦しませんよ」

 沈黙を守った佳奈の体軸が再びずれる。またか、と返された刃を受け止めようとしたそのとき、敵のもう片手に握られたナイフを見た。まずいと判断するより早く動いた百合華の左手が二人の間で大気の塊を爆発させた。

 ただ強めただけの暴風はコントロールもままならず、主である百合華も吹き飛ばして廊下の上を転がした。起き上がり、周囲を確認しようとしたとき、ずきりと右腕が痛んだ。前腕のジャケットがズタズタに切り裂かれ、下にある白い肌から血が流れてくる。

「無尽蔵に大気があるからこそ、風使いは真の実力を行使できる」

 佳奈の声が壁に、天井に、反響して自分のところへ集まってくる。取り囲まれている。

 廊下の向こうでひとつの影が立ち上がった。

「この密閉された空間でどれほど戦えますか?」

 両手にナイフを下げたその姿はまるで幽鬼のように見えた。


     ○


 熱の通った糸が赤く色づく。

宙に直線が走り、縦に、横に、斜めに、錯綜して部屋いっぱいに拡がっていく。ぼんやりと赤く、明るくなったフロアの真ん中は先ほど腕を回して糸を切っておいた。その唯一の空白地帯に立った耀真は腕を開いて蘭子を見据えた。

「これで訊くのは何度目かわからないけれど、これ以上戦うのは無意味だと思わないか?」

「何度も何度も、同じことを。つまらない男ですわね」蘭子が一歩前に出て、カーペットを思いきり踏みつける。「知性の墓場ですわ」

「この部屋には入らない方がいい。怪我をするかもしれない」

「あなたが、ですか?」

「いっておくけど、この部屋に入った時点で追い詰められていくのは蘭子の方だ。さっきまで俺が抱えてた劣勢は返上されて、いまですら五分ってところだぞ」

「五分ですって」と蘭子が失笑して、フロアに踏み込んでくる。「これはわたくしたちの必勝パターン。わたくしたちのテリトリーに相手を誘い込み、糸で絡め取るように獲物を捕らえる」

「ここはヨーロッパでも、中東でもない」

 蘭子の笑声がぴたりと止み、鋭い気配を向けてくる。あけすけな敵意を受け流し、耀真はさらに続けた。

「ここは、日本の近代建築だ。蘭子たちがテリトリーにしていた場所に多い、中世の風情を残す石造りの町とかじゃない」

「安い挑発ですわね」闇の中に赤い蛇の姿が浮かび上がる。その身から放たれる赤い光が怒りに歪んだ蘭子の顔を照らす。「おちょくっていると楽な死に方はできなくなりますわよ」

「いっただろ。この部屋に入った時点で追い詰められるのは蘭子の方だって。もう家に帰って寝た方がいい」

 ふん、と蘭子が鼻を鳴らす。

「あなたを永遠に眠らせてから、ね!」

 赤い蛇が滑らかに身動ぎする。耀真はその頭を右の拳で打ち返した。

「まだですわよ!」

 さらに一発、二発、連続して襲い来る鞭は先端を狙って打ち返す。

 たたらを踏んだ蘭子に、次は耀真の方から歩み寄っていく。近づくなとばかりに薙ぎ払われた蛇の腹に前腕をかかげる。耀真の腕に巻きついて円を描く鞭の赤い軌跡。それを屈んで避けると同時に腕を引き、絡まった鞭も引かれる。パワー負けした蘭子はそれでも鞭を離さず、前につんのめっていた。耀真がもう片腕も鞭に引っかけ、さらに引き寄せると蘭子との距離はゼロに等しい。

 信じられないという蘭子の額に片手を添え、かかとをかかとで払い抜いた。前にうしろに揺らされて、背中からカーペットに落ちた蘭子が呻く。その間に腕から鞭をほどいた耀真は蘭子の上を飛び越えて、入口側に立った。

 後頭部を片手で擦って、上体を起こした蘭子が四つん這いになりながら、こちらを睨む。

「う、腕に糸を巻きつけてグローブにしましたのね」

「ピンチはチャンスなんだ」鞭の熱をもらって、柔らかくもねばつかなくなってきた糸の塊はまさにグローブ。汗で濡れた手に馴染みもしてきた。耀真は両腕のグローブを打ち合わせて、覇気を入れる。「どうする? まだ戦うか?」

「ふん、ちょっと意表をついたくらいで調子に乗ってもらっては困りますわね」

「単純な接近戦なら、俺はちょっと強いよ」

 左腕を差し出し、握った右手を顔の高さにかかげる。


     ○


 息つく暇もない斬撃が安綱を打つ。それに連動して見えない刃が数倍の数をもって、百合華の体を押し込んでくる。右から切り上げてくるナイフを弾き、左から薙ぎ払われるナイフを身を引いてかわす。見えない斬撃が腹部をかすめ、ジャケットにバーコード状の切り込みを入れる。

 距離を取らなければ。

思考する以前に動いた体が壁にぶつかる。背中にあるのは吹き抜けを支える柱の一本。

ぞっと肌が粟立ち、背筋が震える。

正面から振り下ろされたナイフに安綱を盾にするのが精一杯。そのまま押し込まれ、実質張りつけにされた百合華に二つ目の切っ先が襲いかかる。腰を落とし、首を傾ぐ。手のひらひとつぶん離れた壁にナイフが突き立ち、透明で鋭利な力が追って無数の穴を穿つ。そのひとつがかすめた頬は切れ、生温かい血が流れてくる。

「ここまでですね」

 スカーフごしの声が耳朶を打つ。壁から引き抜かれた切っ先がゆっくりと百合華の肌を舐める。ついには頸動脈に触れる。

「自分の生徒を殺してしまうのは気が引けますが、十聖人の子孫はすべて最重要ターゲットです。いずれはやらなければならないことですから」

「殺せませんよ」

佳奈の目が丸くなる。見返した百合華がさらにいう。

「先生が本気でわたしを殺そうというのなら、とっくにわたしは死んでいます」

「わたしが本気ではないと?」

 百合華ははっきりと頷いた。

「本気で殺すなら、斬撃ではなく、もっと刺突を使います。先生の遅れてくる斬撃は武器を盾にすれば防げます。ですが、刺突はどうにもなりません。二度、三度くり返されたら確実に致命傷を負っていました」

「いい答えですね」

 学校のときと同様、あまり表情も変えずにほめてくれる。「ありがとうございます」と返しておいたが……。

「では、答え合わせをしましょうか」

 くっとナイフの刃先が持ち上がった。思わず浮いた顎下の皮に傷を刻む。

 誰か、お願い!

 目をつむって、天に祈りを捧げたそのとき、空から声が降ってきた。

「先生!」

 片手から糸を引いて三階から飛び降りてきた桜子が、もう片手からも糸を放つ。佳奈の二の腕に絡みつき、百合華の首からナイフを引き剥がす。

「西條さん?」

「先生、そんなことはいけませんよ!」

「邪魔を……」

 意識の削がれた佳奈の体を、百合華が全身で押し返し、そのまま安綱を振り抜いて吹き飛ばす。敵の身体は桜子の頭上を越えて、吹き抜けの反対側まで転がり、受け身を取って起き上がる。

「百合華さん、ご無事ですか?」

「助けてくれてありがと。あとはわたしに任せて下がってて」

 心配そうな桜子と視線を交えて、一度頷く。

「大丈夫。次は負けないし、先生にもできるだけ怪我をさせないようにするから」

 早口にいって、佳奈と向かい合う。相手はもうこちらに走ってきている。百合華は腰に刺していた扇子を引き抜き、一振りで開くと、天窓を思いきり扇いだ。瞬間、ガラスが割れて、輝く驟雨のごとく降り注ぐ。

佳奈は立ち止まって腕を頭上にかかげていた。

天窓からは冷たい風が質量を感じさせる勢いで流れ込んでくる。

「確かに、わたしの力は狭い空間では存分に戦えません。ですが、この程度では密閉空間とはいえません」

 渦を巻いた風がガラス片を吹き散らす。百合華は扇子を畳んで、腰に刺し直した。

「一度負けたのは認めます。ですが、次はそうはいきません」

「再戦ですか」佳奈が左右のナイフを持ち直す。「それも一興でしょう」

 中段に構えた安綱を浅く振る。放たれた空気の塊は身をひるがえした佳奈をかすめて床の上で弾けると、周囲を取り巻く風に呑まれる。頭上から来る風圧と足をすくう強風で常人ならば身をすくめているはずだが、佳奈は迷いも硬さもなく、緩い弧を描いて駆けてくる。

 狭まった間合いでナイフが突き出される。一拍速く飛び上がった百合華は敵の頭上を抜けて、一回転、吹き抜けの反対側に降り立つ。剣先に大気を集めて走り出した。佳奈も再びこちらへ向かってくる。間合いの縁に来たタイミングで安綱を上段から思い切り振り下ろす。屈んでかわした佳奈が右手のナイフの刃先をこちらに押し出す。すぐさま右腕めがけ、安綱を振る。今度は速さを重視した力のこもっていない浅い斬撃。しかし、同時に剣先の大気を爆発的に膨らませた一撃だ。相手の右腕をあおり、ナイフを宙に吹き飛ばす。

得物をひとつ失っても表情を変えない佳奈が蹴り上げてくる。前腕で受け止めたが、間断なく連続する衝撃に思わず安綱を落とす。

小さく舌打ちした百合華はくるりと回る。その途中で脱いだジャケットを佳奈の左腕に巻きつけた。黒い生地にくるまれたナイフとその残像を畳んだ片腕で防ぎ、もう片手は拳にして振り抜く。のけ反り、かわした佳奈は勢い一、二歩下がっている。その脇腹を目掛け、回し蹴りを放った。さらに下がった佳奈にかわされたが仕方がない。安綱を取る隙はできた。

床から風を噴き上がらせて舞い上がった安綱をつかみ、回し蹴りでひねった上体に乗せて振る。ジャケットを腕から剥ぎ取って接近しかけていた相手を牽制する。三歩ぶんの間合いを取って、百合華は中段に構えた。大気が渦を巻いて刀身に集まる。

「先生、次で勝たせていただきます」

「それほど甘くはありませんよ」

 駆け出した二人の得物がぶつかり、高い音を立てる。続けて鳴る剣戟。安綱がナイフを叩き落とし、風を巻く。

「とどめっ!」

 返す刃で佳奈の胴を一閃。その体を吹き飛ばし、吹き抜けを支える柱を砕いて、瓦礫の下に埋没させた。

 紙一重の連続だったが、なんとか勝てた。

 膝から力が抜け、倒れそうになった体を安綱で支える。

「百合華さん!」

 声を上げて、駆け寄ってきた桜子は心配そうに眉を寄せていた。

「大丈夫ですか?」

「わたしは大丈夫だけど、いったいなにが、どうなってるの?」

「わ、私、もうどうしたらいいか……」

 ぼろぼろと涙を流し始めた。


     ○


 樹枝にぶら下がる蛇が獲物に食らいつくように、赤熱化した鞭の先が襲いくる。

 ぐねぐねと身をよじる蛇の胴さえ警戒していれば、頭を弾くのは難しいことではない。たとえ、相手が部屋に巡らされた糸を足場にして縦横に飛び回っていたとしても、赤い光跡を宙に刻む武器の軌道は読みやすい。

 冷静にやっていればもらうものではない。

 耀真は背中に錯綜する細い熱源を感じて、前方の蘭子から目を離さず、右手に回った。

 周囲に張り巡らされた熱線はたわんでも千切れることはない。腕以外のところが触れれば重傷を負うというのに。

 頭上から落ちてくる鞭を弾いていると、床に降りた蘭子が駆け込んでくる。

「切り裂いてやりますわ!」

 腰を引いた耀真の胸もとを手刀が過ぎる。さらにそのゼロ距離で鞭を振り上げてくる。耀真は一歩踏み込んで蘭子の手元を打った。糸のグローブごしでは上手く振動が送れず、それ自体が緩衝材にもなっていて威力が弱い。それでも攻撃の軌道を逸らせた。

「ちい、小賢しい真似を……」

「ちょっと賢いだろう」と耀真は笑ってみせる。

「褒めてませんわよっ」

蘭子が鞭を十字に振って威嚇してくる。

耀真は数歩下がり、猫背になって腕を抱えた。指先を手のひらに握り込んで、腕に力を込める。接近してぶっ飛ばず。

その時だ。

カンカンカンと鬼気迫る鐘の音が響く。

「なにごとですの?」

天井を睨んだ蘭子の顔に水滴が落ちる。雨が降り出した。

「なんで、こんな……」

「スプリンクラーだ」

 耀真は細かい雨粒に打たれながら、目を白黒させる蘭子を見据えた。ミトンに似た手をかざし、天井をさす。

「非常灯がついてたから、緊急用の電源とかはまだ生きてるだろうなあ、とは思ってたんだ。入口の鍵とかは壊されてたけど。で、ちょっと仲間に連絡して近くの警報器を動かしてもらったわけ」

「そうじゃない。そうじゃなくて、なんでこんなことをするのかと訊いてますのよ!」

「都合が悪いのか?」

 絶句した蘭子はややのけ反って、口もとに手首を当てた。

「俺が思うに、あのビルの谷間で簡単に引き下がったのは狙撃手がいたからじゃない。桜子ちゃんの糸で目隠しができていたからな。あのまま戦い続けても問題はなかったはずだ。問題は雨の方」

「あなたにわたくしたちの都合などわからないでしょう」

「わかるんだな。さらにいうなら、都合が悪いのは蘭子じゃなくて、桜子ちゃんの方だ」

「どうして、そんなことが……」

「誓約の力といってもあらゆることができるわけじゃない。風を操れるだけ、熱を操れるだけ、とどれも制限があるのは当然のこと、弱点もある」例えば、耀真はシアの近くにいないと充分な力は使えないし、美緒は自分自身を転送できない。「この糸にもなにかしら、制限があるんじゃないのか? あの路地で、あれだけ俺を拘束できたのは、汗に溶けて体に馴染んだからじゃないのか?」

 蘭子の傍らを漂った水滴が蒸気に変わり、高温の霧を作り出す。耀真はさらに距離を取って、鞭を振り回す霧の中心を見つめた。

「くそっ、どこにいますの!」

 周囲から細い赤熱光が消えていく。耀真が身につけていたグローブも水と混ざって粘度の高い液体になったあと、腕を伝って床に流れていった。

糸が水に溶けていく。

「結界が消えたな」

 耀真の能力で干渉された声は周囲の水分に伝播して、蘭子の耳にはかなり響いて聞こえているはずだ。明かりも失った彼女にこちらの位置など特定できるはずもない。

「お姉ちゃん!」と叫ぶ声が入口の方から聞こえる。桜子ちゃんか、と耀真はそちらを振り返る。霧と闇が邪魔をして肉眼ではわからないが、拡げた知覚野には二人の人影が映っている。もう一人は百合華だ。彼女が無事だったことが確認できて、知らず全身にかかっていた圧が消える。蘭子にも桜子の声は届いたらしく、鞭の動きが鈍くなる。

「お姉ちゃん、もうやめようよ、こんなこと。もう人を殺さなくたって」

「なにをやめるっていうのよ」

「もうヤダよ、こんなの、わたし……」

「うるさい」

「お姉ちゃん」

「黙ってなさい!」

 桜子が息を呑む気配があった。赤く閃く鞭がひゅんひゅんと空を切る。

「元老院のクズどもが、男の下らない見栄でお義母様を排斥するなど、そんなこと、許されると思って?」

「それはわかってるよ。でも……」

「これ以外の方法でどうしろというの。千載一遇のチャンスなのよ。それを棒に振るわけにはいかない」

「お姉ちゃん……」

「戦う気がないのなら下がっていなさい。邪魔なのよ」

 身をすくめた桜子に代わって、百合華が部屋に踏み入って来ようとする。

「来るな、百合華」

「耀真?」

「もう、この部屋はかなり危ない状態かもしれない。近づかない方がいい」

「でも、わたしがやれば……」と百合華は前にのめる。

「じきに終わるけど、大きな衝撃があるかもしれない。桜子ちゃんを守ってやってくれ」

百合華は迷ったのも一瞬、「わかった」と応じると、桜子の肩を引いて下がっていった。耀真は蘭子に意識を戻す。彼女は霧の中で顔を左右に回し、こちらを探しているらしい。

「じきに終わるですって? 侮ってもらっては困りますわ」

「侮っているわけじゃない」

 耀真は壁に沿って歩き、ほぼ部屋の中心にいる蘭子を観察する。上がった呼吸、狙いの定まらない鞭、動悸の速さと強さも感じ取れるほどだ。相当に焦っている。

「いいか、蘭子。このまま部屋にいると命に関わるぞ。武器をしまって外に出た方がいい」

「まだそんなふざけたことを……!」

息を切らして、言葉を継げなかった蘭子が闇雲に鞭を振り回す。漂ってくる霧の温度はミストサウナも子供騙しに思えるほどに上がっている。しかし……。

「無駄だな」

 耀真が指を二回、三回と鳴らす。音を重ねることで干渉し合い、強く鋭く蘭子の耳の奥に突き刺さる。この環境下では空気中より早く、水中より強く響く。鼓膜の奥の骨まで揺らす音に蘭子は片耳を押さえた。まだ戦おうとする意志を察して、耀真は再び指を鳴らす。部屋全体に響く音を一身に受けた蘭子が、ついに片膝をついた。

「こんな、こんなことで……!」

 ふらつく足をなんとか立たせた蘭子が「殺してやる」と呪詛のように呟く。

 そろそろ限界か。

高い天井を見た耀真はたっぷりと濡れたカーペットを踏みしめながら、少しだけ蘭子に近づいた。鞭が届かず、スチームにもされないギリギリの距離。ここまで来ると、熱い霧の中でも鞭の赤熱に照らされた蘭子の姿を目視することができた。

「蘭子、水蒸気改質って知ってるか?」

 は、と気の抜けた声を出した蘭子が動きを止める。

「工場で水素を作る方法なんだけれど、金属の触媒、要するに反応を促進させるものを放り込んで、炭酸ガスと水蒸気を接触させると水素と炭酸ガスが生産される」

「だからなんですの?」

「他にも水素を生産する方法がある。電気分解もあるし、熱だけでも二千度あれば水を直接分解できるそうだ。これも金属触媒があるともっと低温で反応するはずなんだよ。酸素分子が金属に結合するから」

「ペラペラペラペラと」鞭が濡れたカーペットを叩く。「だからなんだっていいますの!」

 さらに振りかぶった蘭子に「わからないか」と声をかける。

「ここには高温の蒸気と金属触媒がある。水素は空気より軽い気体だから上に溜まる」耀真は天井を指さした。「いま、上の空間にかなりの水素が溜まってるんじゃないかな。水分子の三分の一は酸素だから、酸素も充分に溜まってる。俺の能力でも水はある程度分解できるから、それも上乗せされている。水素と酸素が混ざった状態に、エネルギーを加えてやれば爆発的に反応する」

 蘭子の鞭を持った腕が強張り、小刻みに震える。

「そのままゆっくり鞭を下ろせ。俺は爆発に巻き込まれても構わない。衝撃を和らげる方法があるからだ。でも、蘭子はタダじゃ済まないだろう」

「またハッタリですの?」

「俺にも実際のところ、どうなるかわからない。蘭子に任せるよ。まだ戦うのか、帰るべき場所に帰るのか」

「あなたにはわかりませんわ。わたくしたち母子の、血よりも濃くてかたい絆は」

「そうなのかもしれない。でも、血には血の、強い絆があるんじゃないのか?」

「そんな惰性に等しいものは……!」

「違うだろ。おまえにはわかるはずだ。ああも妹を愛して、愛されてるんだから」

 蘭子が絶句して、丸くした瞳をこちらに向けた。

「俺にはわからないよ。親の代わりになってくれた人はいても、血を分けた親も兄弟もいなかったから」

 一歩踏み出した耀真に対して、蘭子があとずさる。その口もとはかたく引き結ばれていた。

「それでも、ただひとつわかることがある。一個の命がその存在を賭けて守ろうとしたものがあるってこと。俺は、それを守ってやりたいと思う。蘭子も同じ想いで生きてきたんじゃないのか?」

そんな、と蘭子は頭を振った。くしゃくしゃな、不細工な笑みを浮かべて、耀真をまっすぐに見据える。

「そんな屁理屈でわたくしを懐柔しようなんて浅はかですわよ」

「任せるっていっただろう。蘭子が選べばいい。戦うのか、帰るのか」

 蘭子の顔を覆っていた笑みが剥がれ落ち、戸惑いの色が浮かんできた。

「さあ、どうする?」

 鞭が放つ赤熱光に照らされて、蘭子の瞳が震えている。その目尻から上がって見える蒸気は、なにから生まれたのか。


     ○


 ボタンを押すと、画面に光が灯り、黒いそこに白い文字がずらずらと並んでいく。

「シアさま、もう大丈夫ですよ。あとはあたしがやりますから」

「ならいいけど」上から下へ、文字の流れる速度が増すのを見て頭が痛くなり、目をそらした。パソコンの横に刺したUSBなんとかの尻が青く点滅しているのをなんとはなしに眺める。

「警備室のパソコンに繋がりさえすれば、スプリンクラーを動かすなんて楽な仕事ですね」と携帯電話から聞こえる美緒の声がいう。「どこの部屋でしたっけ?」

「コンベンションなんとか」

「はいはい、かしこまりました」

回転椅子に腰を下ろしてまぶたを閉じようとしたところで、どこか遠くでカンカンと警報が鳴るのが聞こえてきた。

「なんの音?」

「スプリンクラーが動いたんです。任務完了です」

「もう?」

「シアさまもUSBを抜いて戻ってきてください」

「はいはい」

いわれた通りに引き抜いて、代わりに紙片を一枚ポケットから取り出して、開いた。美緒の作った転移口は一方通行だから、入った際はこうして帰りの転移口を用意する必要があるのだそうだ。

紙を床に投げ捨て、内側に隠しておいた空間の歪みを踏んだ。景色が暗室からデパートの外観に切り替わり、自然の風が肌を撫でる。デパートの向かいに建つファミレスの屋上に転移したのだ。

「シアさま、お疲れさまでした」

 美緒は膝の上に置いていた薄っぺらいパソコンを閉じ、尻の下に立てていた折り畳み式のパイプ椅子も片づける。

「耀真さんたちはコンベンションルームにいるんですか?」

「そうみたいね」

突如携帯電話が鳴ったと思ったら、特殊な音波でそういう連絡が来た。

「スプリンクラーを動かせって、耀真さんは時々わけのわからないことをいい出しますね。なにを考えてるのか、さっぱりですよ」

 迷路より複雑怪奇です、と美緒はいじけたようにいい、ハンドバックにパソコンを片付けて代わりに双眼鏡を取り出した。

「あたしたちはあたしたちの仕事をするしかないですねえ」

「そうねえ」と応じて、シアも周りに監視の目を巡らせる。エコーロケーションでは人の存在を事細かに感じ取れても、雰囲気までは察せない。こういう作業は肉眼の方がいい。

「しかし、よく暗視機能のついた双眼鏡なんてものが家にありましたね。綾薙家恐るべし、です」

「仕事に使うんでしょう。夜目が利くようになるっていうのなら、こういう監視役にはもってこいじゃない」

「耀真さんが覗きに使ってたりして」うひゃうひゃ、と笑い、双眼鏡と一体化させた顔を左右に振り回す美緒は、あれ、と声を上げた。「あれ、なんでしょう?」

 美緒が指さした施設の屋上を見る。ちょうど黒い人影が高空から降りてくるところだった。

「普通の人間じゃないわね」

「パラシュートもなしに空から降りてきましたからね」

 上には暗い空しかない。ふむと顎に手をやったシアはじっと佇む人影を見つめた。

「私が様子を見てくるわ」

 えっ、と美緒が表情を曇らせる。「危ないですよ」

「怪しいやつが近づいてこないか、監視して、有事ならなんとかするのが私たちの仕事でしょう」

「それはそうですけど……」

 美緒の言葉は最後まで聞かず、シアは屋上の縁に足をかけた。夜空に飛び上がる。

「ああ、待ってください」という美緒の声が遠ざかり、足元を町の光が過ぎていく。黒い人影が近づいてきた。黒の外套ごしでも筋肉の隆起がわかるほどに鍛え上げられた肉体。粗雑な長髪を風に流した男は浅黒い肌の中にある白い眼球をこちらに向けた。

「あなたがケヴィン?」

 耀真から訊いていた人相そのものだ。

 男がいる屋根とは隣の施設の屋上に降りたシアはケヴィンと思われる男の姿を正面から見上げた。

「エリシオンの人間か?」

「ちょっと。質問したのは私でしょ」

「おれがそのケヴィンだとして、どうするというんだ?」

「いったい、こんなところになにしに来たのよ?」

「必要なものを回収しにきただけだ」

「は?」シアがきょとんとしている間に、ケヴィンは左手の腕時計に目を落とした。

「邪魔をすれば命を落とすことになる。ここで黙っていた方がいい」

 直後に跳ねたケヴィンの軌道は目で追うには難しい速度だったが、デパートの屋上に向かったのはわかった。

「逃さないわよ!」

 同じく跳ねたシアは両手に赤い光球を呼び出すと、ケヴィンに向かって放った。着弾より一足早く、屋上に降りたケヴィンはさらに一歩駆けた。光球はコンクリートの床を穿つ。その間にシアはデパートの貯水タンク上に着地、下に飛び降りながらケヴィンの行く先にレーザー光を撃ち込む。それも飛び上がってかわされたが、相手から間合いを詰めてくる様子を見、自然と口角が上がった。

ようやくやる気になったか。

シアが右腕を振る。赤く閃く残像が腕を離れてブーメラン然と宙を飛び、五メートルほどの距離に入ったケヴィンを直撃する。前腕を重ねてガードした巨体を押し留める。続けざまに光弾を左右に放ち、低速で展開させる。

「まだだからね」

 呟き、再度閃かせた両の腕から光のブーメランを飛ばす。

右、左、と上体を振ったケヴィンは二発の連撃をかわす。展開していた光弾が間髪入れず加速して、ケヴィンを中心に十字を描く軌道に入る。体を硬直させたように見えた標的が爆光に包まれた。

やったか?

強烈な光と音、粉塵でエコーロケーションが利かない。シアは焼かれた埃の臭いに顔をしかめながら距離を取る。

「この力」と噴煙の向こうから低い声が聞こえた。「貴様、エルの姫君か。目覚めたと聞いてはいたが、こんなところで会えるとは。思ってもみなかったぞ」

 傷ひとつない体を直立させたケヴィンがしっかりとこちらを見据えてくる。強い光を持った黒い瞳。

 身じろぎしたケヴィンの姿が突如として消えた。シアの視界がほの暗くなる。すでに二歩ほどの間合いに敵がいる。

咄嗟にのけ反り、左手を突き出したシアの前に赤い薄膜が展開される。ケヴィンが振った拳と激突した薄膜が赤く閃き、スパーク光を爆ぜさせる。直後、薄膜が砕けて散った。振り抜かれた拳が屈んだシアの金髪を撫でて過ぎる。大男の懐に入ったシアが白い光をまとわせた手刀を相手の脇腹に叩き込んだ。かたくて重い。

 あまりの手応えのなさに歯噛みしながら、脇腹に食い込んでいる白光を爆発させる。これで吹き飛ぶはずの巨体は半歩も下がらず立っている。

 なぜ効かない?

頭に湧いた戸惑いに集中を断ち切られた。その間隙に、ケヴィンの拳が腹にめり込む。膂力にものをいわせた雑な一撃。それでも飛び退かなければ半身が千切れそうな威力だった。

受け身を取り、なんとか体勢を立て直す。が、前を向いたシアの目に映ったのは至近距離に迫っていたケヴィンの姿。勢いのままに蹴り飛ばされ、無防備にコンクリート上を転がった。

「幸運に思うんだな。いまは貴様より優先する事柄がある」

「偉そうに……」

 肘を突いて上体を起こしたが、右腕が動かない。どこかに異常をきたしたかもしれない。せめて立ち上がろうとしたが、膝にも力が入らず、それも叶わない。

「大人しくそこで寝ていろ」

 シアがまともに動けないと認め、ケヴィンが背中を向けた。

「ま、待ちなさいよ!」と怒声を上げた甲斐もなく、ケヴィンの姿がデパートの下へと落ちていった。

「なんて強さなの、もう」

 顔より太い配管になんとか背を預け、深い呼吸をくり返す。落ち着いてきて、敵を取り逃した事実が頭に染み込んでくる。耀真と連絡を取った方がいいか。

 携帯電話を手に、耀真の番号を呼び出したそのとき、遠くの方で爆音が鳴り、世界が揺れると同時にデパートの一角から大きな噴煙が上がった。


     ○


「けほけほ」と咳が出た。爆発の直後、崩れてきた天井を吹き飛ばすのに集中していて、粉塵にまでは手が回らなかった。

「お姉ちゃん!」

 叫んだ桜子が爆発の中心に向かって身を乗り出した。百合華はその肩をつかんで押し留め、彼女の脇の下に腕を通して抱え上げる。不安定になっていた床が崩落する前に飛び退いて、エスカレーターホールまで戻ってきた。下からも吹き上がってくる噴煙がリノリウムの床を濡らす水と混ざって、泥状になっている。上下前後左右から来る煙を風で吹き散らすと、スプリンクラーが止まっていることに気がついた。どこかで配線が切れたのか、水がなくなったのか、ともかく足もとが多少ぬかるんでいるだけで安全だと確認してから桜子を下ろした。途端、片ポニーを揺らしながら、噴煙渦巻く爆心地へ駆けていく。見ていられず、腕をつかんだ。

「さすがにまだ危ないよ」

「放してください。お姉ちゃんが……」

「耀真はこうなることを見越していたはずだから、蘭子が怪我をしないようにしていると思うよ」

「でも……」

 泣きそうな顔を振り向けられて居たたまれなくなってきた。

「わたしも一緒に行く。能力は解除されているわね。足場が悪いのに熱線まで敷かれていたらたまらないから」

頷いた桜子を背中に負って、戦場だったフロアの方へ向かった。

爆心地は視界が悪く、床も抜けているらしい。一階分下に飛び降りて風を吹かせた。思いのほか強くなった風に煙が吹き散らされ、夜の空と明かりのまばらになった町並みが遮るものなく眼前に映えた。歪な球状に抉れたデパートの一画は、床と壁の断面からパイプや鉄骨、コードを剥き出しにして、その廃墟に似た無残な惨状を星のない夜空の下にさらしている。

桜子を降した百合華は崩れ果てた壁に近寄って路上を見下ろしてみた。百合華のいるここは二階部分らしい。下には大きめのブロック片が散乱していたが、人が下敷きになった気配はない。通りを歩くまばらな人影も遠巻きにこちらを見上げているだけで、まだ大きな騒ぎになっていないようだ。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

と、声を上げて瓦礫の中をさまよう桜子の方に意識をやる。

「この瓦礫の中から探すのは難しいわね」

 携帯端末の着信音で探せるかしら。シアなら簡単に見つけられるのに。思いながら携帯端末を取り出したそのとき、瓦礫の一画が音を立てて崩れた。ブロック片を押し退けた片腕に続き、埃を被った耀真が顔を出す。胸には同じく薄汚れた蘭子を抱えていた。

「お姉ちゃん!」

 悲鳴に近い声を上げ、桜子が姉に飛びついた。

「大丈夫だ。気を失ってるだけだから。怪我はないよ」

「先輩が助けて下さったんですね」

「追い詰めたのが俺だけどね」

「しかけたのは私たちですから」

 力なく笑う桜子に笑って返した耀真はブロック片をどかして作った隙間に蘭子を横たえた。その隣に桜子がひざまずく。

「お疲れ様。無事でよかった」といった百合華は自分の頬が緩むのがわかった。耀真は額の汗を手の甲で拭う。

「百合華も怪我がなさそうでよかったよ」

「でも、こんな派手な戦い方すると始末書じゃ済まないよ」

「うっ」と怯んでも耀真は顎を上げた。「ま、これで丸く収まったし、よしってことで」

「丸く収まったの? 蘭子と?」

「収まったよ」

 たぶん、と自信なさそうに付け足しているから、実際のところは疑わしい。

「まあ、それはいいとして」と百合華は話題を変えた。「先生は耀真が思ってるような人じゃなかったよ」

「会ったのか?」

うん、と頷く。「あの、黒いジャケットの女の人がそうだったよ。リジェクターの一味なんだって」

ウソだろ、と呟いた耀真の目が見開かれた。「本人から聞いたのか?」

「私がお話したんです」と立ち上がった桜子がいう。「昨日の夕方、リジェクターの人たちと戦って、三人いたんですが、そのうちの一人が名波先生でした」

 悲しげな顔をうつむける桜子に代わって、百合華が補足する。

「あのとき、路地から飛び出してきたジャケットの人が先生だったみたい」

「あれが?」

「先生は簡単に糸を切って逃げたんです。あとの二人も続こうとしていましたが、私の結界で絡め取ったんです。二人には悪いことをしてしまいました」桜子は自嘲気味な笑みを浮かべた。「殺してしまった私に悲しむ資格なんてありませんが」

「まあ、仕方がないだろう。命の取り合いをしてるんなら人を殺すこともあるだろうさ。でも、それを悲しいと思えないやつはクズだと思うよ」

 耀真は事もなげにいう。

息を呑んだ桜子の瞳が小さく揺れていたが、耀真はきっと気づいていない。「で、佳奈ちゃんはなんでこんなところに来たんだ?」とさっさと話を継いでいる。

「わたしに訊かれても困る」

「あの、私もわかりません」

「じゃ、いまどこにいるんだ?」

「下にインタラプターを嵌めて寝かせてある。しばらく起きないと思うよ」

「応援は?」

「呼んでない」

「なんで?」

「今回のことは自分たちでやるっていったのは耀真でしょう」

「それとこれとは話が別だろ」

「どう別だっていうの?」

「これはテロリストの話であって、例の娘の話じゃない。別の話。わかるだろ」

「わからないわよ」

「あの」と桜子が胸元で両の拳を握って割り込んでくる。「なら、先生の様子を見に行きませんか? 私も気になります」

 一理ある。百合華が思案している間に耀真が口を開いた。

「姉さんのことはいいのか?」

「幸い怪我は小さなものばかりでしたから、もう治してしまいました。あとは自然と目を覚ますのを待つだけです」

「治した?」と耀真は首を傾ぐ。

「先輩も、火傷をなさっていたりしていませんか? 見せてください」

 桜子が差し出した手のひらの上に耀真が両腕を乗せる。

「耀真、もしかして、その袖の下……」

「実はたいぶ焼かれてるんだ」と笑う。

「どうして早くいわないのよ!」

「いったら騒ぐだろ」

「騒ぐわよ、バカ」

「しょうがないだろ。蘭子を抱えて腕が残ってるだけラッキーだよ」

 陽気なバカを見ていると怒る気も失せてしまう。

「バカの極みなんだから」

「そんな怪我をしてまでお姉ちゃんを助けてくださったんですね」

 耀真の手首に細い糸が巻きつき、するすると袖の中に忍びこんでいく。次の瞬間、耀真の目が丸くなった。袖をまくり、両腕を確かめる。真新しく見える皮膚には腫れどころか、赤みさえ見えなかった。

「治ってる……。痛みもない……」耀真は驚いた顔を桜子に向けた。「いったいなにをしたんだ?」

「私、傷を癒すこともできるんです」桜子がはにかむ。「唯一、私の能力が人のために使えることです」

「わたしの腕も治してもらったのよ」

 百合華は袖の千切れたジャケットをかかげた。耀真がまじまじと眺める。

「そんなに見られると、なんだか恥ずかしいなあ」

「まさか……」と絶句した耀真がゆっくりと呟く。「まさか、これなのか?」

「これってなにが?」

 耀真がひとつずつ確かめるように話す。

「細胞なんだ。生き物に取り付いて細胞を食いもするけれど、細胞になりもするんだ。代替細胞だよ。だからウイルスでも、毒ガスでもなかったんだ。細胞膜のある生き物だったから」

「これが細菌使いの能力ってこと? タツミにも傷を癒す能力があった?」

「わからない。でも、これならケヴィンが必死になって探している理由はつけられる」

「ただ、テロに利用するってわけじゃないの?」

 耀真は首を振った。

「ケヴィンの適応能力がいくら高いっていっても限度があるだろう。回復させながらトレーニングを積んだんだ。死ぬ間際まで自分を追い込んで、能力で回復させる。やつらが探してるのは桜子ちゃんの可能性がある」

「私?」と呟いた桜子は理解できないという顔を耀真に向けていた。

「桜子ちゃんは、生みの親のことを覚えてるか?」

「いえ、物心ついたときにはお姉ちゃんと二人で……」

「だったら……」と早口に重ねたが、次の瞬間には頭を掻きむしっていた。「ああ、そうか」

「どうしたの?」と百合華は訊く。

「はめられたんだ。佳奈ちゃんは俺たちと西條姉妹に追跡されてるのがわかってて、デパートに誘い出したんだ。で、俺たちをぶつけ合って漁夫の利を得ようとしたわけ。自分じゃ桜子ちゃんを捕まえられないから」

「そんな、考えすぎじゃないの?」

「たとえ考えすぎでもこれ以上ここにいるのは不味い。さっさと逃げるぞ。ケヴィンから身を隠す」

 そのときだ。「無事だったのね」という声と一緒にシアが空から降りてきた。

「ああ、シアのおかげで助かったよ」

「一件落着という雰囲気じゃないわね」

「うん、いますぐこの場所を離れないといけない」

「知っているの?」とシアが首を傾げた。

「なにを?」と耀真が聞き返す。

「さっき、ケヴィンがここへ来ていたわ。恐ろしく危険な男ね」

「リジェクターのケヴィン?」と訊き返したのは百合華だ。シアが頷くのを見て、全身が粟立った。現存人類最強ともいわれる敵が近くにいる。耀真の予測は当たっているらしい、と彼の方を見ると、口元を不快そうに歪めていた。

「蘭子は俺が背負う。百合華は桜子ちゃんの護衛、シアは周囲を警戒してくれ」

「わかった」と耀真に頷いてみせる。「桜子ちゃんはわたしから離れないでね」

「はい」と桜子は戸惑いながらも頷いた。

「よし、行くぞ」

「待って。誰か来る」

 シアがいってから間もなく、夜空から黒い人影が飛び降りてきた。

 蘭子を担ごうとその傍らに立っていた耀真は諦めて、その影と向かい合う。

「テロリストってのは暇なのか?」

「貴様、あのときの小僧か」

「覚えててくれてありがたいよ」

「そうか。貴様が姫君の誓約者だったのか」

 耀真がちらとシアの方に視線をやる。シアはかたい表情をケヴィンにぴたりと据えていた。

「だったら、なんだってんだよ? 文句あんのか?」

「いや、文句はない。邪魔をしなければ見逃してやるが……」

「別に邪魔はしないよ。俺はここの四人を連れて家に帰るだけだから」

「そこの赤毛の二人は置いていってもらおう」

指でさされた桜子がじりとあとずさる。

「人さらいを見過ごすわけにはいかない」

「寿命を縮めることになるぞ、騎士殿」

「ここで女の子置いて逃げ出すくらいの余生なら、ない方がマシだって、そう思わないか?」

 ケヴィンの姿が消えたように見えた。次の瞬間には耀真と拳を交えている。ケヴィンの速度も脅威だが、それに反応し、一撃もらって踏み止まる耀真にも驚いた。想像以上に成長しているのかもしれない。

「百合華、蘭子も頼む!」

 体を屈めて拳をいなした耀真がケヴィンの懐に入る。打ち上げてくる膝もかわして振った耀真の拳は身をひるがえしたケヴィンの腹をかすめる。

「耀真!」

「さっさと行け!」

 百合華は歯を噛んで、蘭子を肩に背負った。外に向かって走り出すと桜子もついてきた。こちらに向きかけたケヴィンの前に赤い光線が刺さり、巨体を押し留める。

「行かせないわよ」

 シアが光線を連続させ、四方から光弾も飛ばしてケヴィンを狙う。光弾を砕いて散らし、光の帯もかわしたケヴィンを横目に百合華はデパートの縁から飛んで、道路を越えた。向かいの施設に降りる。糸を勢いよく収縮させた桜子がついてくるのも見、もうひとつ跳ねる。次の足場の近く、屋上の出入口のそばで人の動く気配があった。

 腰元にしまっていた安綱を抜き、伸長させると、気配に向かって振り抜いた。大気の塊がコンクリの壁を削り、そこにいた誰かを陰の中から引きずり出す。が、正確な風体をつかむ前にまた物影に隠れられる。排気ダクト、種々雑多なパイプ類……。

 先に着地した百合華は桜子がついて来るまでの数秒間、敵の姿を探す。どこにいる?

「百合華さん、どうかしたんですか?」

 と、うしろから声が聞こえた。

「誰かいるから……」

 気をつけて、と続ける前に物影から黒いシルエットが飛び上がり、宙で回転する。長い金属パイプを放って百合華の眼前のコンクリートに突き立てた。パイプごしに桜子と交えた視線が細い背中に遮られる。あれは……。

「先生っ!」

 百合華の制止を聞く様子もなく、佳奈は目を見張った桜子に近づく。遅れて身の危険を感じた桜子が防御の糸を網状に展開する。が、間に合わない。佳奈は柔軟な糸を歪めてもろとも、桜子のみぞおちに拳を沈める。くの字に折れた小柄が佳奈の腕にしなだれかかり、動かなくなる。

 安綱を薙ごうとした瞬間、佳奈は桜子を胸に抱え、こちらに向き直った。

 このままでは桜子を巻き込んでしまう。

「くっ」と歯を噛んだ百合華は動きを止めざるをえない。「卑怯な……!」

 あとは接近して佳奈にピンポイントの一撃を見舞うしかない。

 動き出そうとした百合華に佳奈がナイフを向ける。その腕にかけてきたはずの手錠がないことを見て取って、百合華は前にかけていた重心を元に戻した。

能力封じの手錠が外されている。肩に蘭子を背負った状態で、あのナイフをかわし、一撃を喰らわせる自信はない。

百合華がためらっている間に、佳奈はあとずさり、ビルの谷間に落ちていった。駆け出した百合華がビルの谷間を覗き込む。百メートル近く左右にのびる路地は狭く深い闇が広がっているだけだった。


     ○


回し蹴りを防いだ二本の腕が痺れて、指が痙攣する。それでも無理矢理に握り込んで拳を作ったときだった。ケヴィンが唐突に動きを止めたのだ。

「ここまでだな」

「なに?」

「騎士殿、また会うときもあるだろう」

「逃すかよ!」

一歩踏み出し、腕を突き出す。なにもつかめず空を切った。つんのめった体勢を立て直した耀真は傍らに道路へ向かうケヴィンの姿を見た。そちらに手をのばしたが、届かない。

シアのレーザーが放たれ、宙に赤い扇形を描く。それも屈んで避けたケヴィンは遅れてきた光弾も手の甲で受け、一心に逃げる。というより、こちらなど眼中にないといったふうだった。

この野郎っ。

悪態が浮かんだ頭が熱くなるのは自覚していた。それでも追いかけて相手の腕をつかんだ瞬間、目の前が大きく揺れた。頬を殴られたらしいと気づいたときには床に倒れ、頬を擦っていた。ケヴィンの背中がデパートの露天から滑り落ちていく。

傍らに降りてきたシアが膝に手をついて、顔を覗き込んでくる。

「耀真、大丈夫?」

「ちょっとくらくらする」

「それくらいならよかったわ。頭が飛んだかと思った」

「そんなだった?」

「まさに」シアは上体を起こした。「彼、元々私たちを殺すつもりはなかったみたいね」

「手加減されてんだ。ナメられたもんだよ」いいながら知覚野を拡げたが、ケヴィンらしき姿はすでにない。「逃げられた以上、ここにいる意味はないし、百合華たちと合流しよう」

「あと美緒もね」

「ああ、そうだった」

耀真たちは路上に集まり始めたパトカーの上を飛び越して、美緒のいるファミレスの屋上へ向かう。そこには美緒だけでなく、百合華の姿もあった。一段高くなった屋上の縁には蘭子がぐったりと寄りかかっている。

「耀真……」耀真に視線を合わせた百合華が眉を八の字にしていう。

「桜子ちゃんはどうしたんだ?」

百合華は唇をうねらせ、舐めたあとゆっくりと開いた。

「名波先生にさらわれた」

理解するのにかかった時間は一秒あまり、「なんでそうなった?」と自然に声が出た。

「ごめんなさい、わたしがついていながら……」

「いや、俺の見積もりが甘かった。百合華に二人も守れってのが酷だったんだ」

「先生にはインタラプターをかけたはずだったんだけど」

「ケヴィンが壊したんでしょう。私と戦ってから現れるまで少しだけだけど間があったもの」

「お一人、ご無事ではなかったんですね」美緒が肩を落とす。「その先生とやら、追いかけますか?」

「行き先が……」

 耀真が思案しながらいっていると、携帯端末が鳴った。アイリからだ。

「はい、耀真です」

「耀真さん、緊急連絡です」

「緊急?」と呟いて、百合華と視線を絡ませる。「どんな内容です?」

「敵を取り逃してしまいました。どうやらそちらに向かっているようなのですが、私たちはヘリを落とされて、車も壊されて、しばらくは帰れなくなってしまいました。彼らが現れるようなら代わりに追跡していただけませんか? 確保はエリシオンに連絡して、彼らに任せてください」

「いやいや、そんなこといったって……」俺も忙しいんですよ、といいかけたのを呑み込んだ。「その、敵の位置ってわかるんですか?」

「ええ、オオカミさんがくっついてますから」

「オオカミさんが? なんすか、クマさんのお友達ですか?」

「GPSのデータを送信します」

 耀真の携帯端末にGPSのデータが送られてきた。起動させてみると、一秒ごとに更新される地図の中心には赤い丸があり、こうして眺めている間にも山を越え、川を越え、町を越えて、一直線に南下してくる。

「どうなってるの、これ?」

耳元に吐息を吹きかけてきたのはシアだ。背筋がぞくぞくする。ちょっと、いや、かなり近い。

「リジェクターのアジトから逃げてる敵の位置らしい。こっちに向かってる」

「じゃ、そいつらを捕まえればケヴィンの居場所がわかるかもしれないわね」

「なら桜子ちゃんのことも?」百合華の顔が華やぐ。

「わかるかもしれない」

 耀真は再び携帯端末の通話口に耳を当て直した。「いかがですか?」とアイリが問うてくる。

「実は俺たちもリジェクターの人間に会いました。たぶん、それを回収する目的でこっちに向かって来てるんじゃないですかね」

「なるほど」とアイリは首肯するような声を出す。「彼らが降りるとすれば、人がいなくて広い空き地のはずです。でなければ目立ちますから」

「降りるって、空を飛んでるんですか?」

 耀真は空を見上げた。薄い雲がかかっていて、星は見えず、三日月の白い影がぼやけている。

「そうですよ。人数はわたしたちが確認しているだけで二人。他にケヴィンの姿があったとの報告も上がってきています」

「わかりました。アイリさんたちはどうするんですか?」

「わたしたちは車を呼んで帰りますよ」

「なら、こっちで帰る方法を手配します」

「耀真さんが、車を、ですか?」

「いえ、違います。あとは美緒に任せますから、そっちと連絡を取ってください」

「あたしですか?」美緒は首を傾げて、目を丸くする。「転送の入口はあたしが触れたところか、手の届く範囲ですから、遠いところでは無理ですよ」

 通話を切った耀真はデパートの前を見下ろした。パトカーや救急、レスキューの車が赤色灯を回しながら崩壊したデパートの一角を包囲している。薄い人垣を見て、さすがに騒ぎを拡げ過ぎたか、と一抹の不安が過ぎったが、それどころでもない。ここからの探し物は諦めて、美緒の方を見た。

「クマを探せ。そいつに転送の入口を貼りつけて、飛ばせばいい。アイリさんも自分の能力で動かしてるんだから位置くらい感じられるだろう。クマさんもGPS持ってるし」

「なるほど」と美緒は神妙に頷く。「それでも、ユーグさんたちのところには正確に飛ばせなくて、何キロとかずれるかもしれませんよ」

「それくらい、向こうでなんとかしてくれるだろ。足が生えてるんだから。車で帰ってくるよりはずっと早いはずだ」

「いいんですか?」

「いい。もうわからないことはないな」

耀真は百合華とシア、順繰りに視線をやった。

「よし、行くぞ」


     ○


 屋根を足場にして夜の町を走る。繁華街から住宅街に入った。このまま行けば、地図上をまっすぐに進んでいる赤い点とはほとんど向かい合うようにして遭遇することになる。

 発つ際に、行くぞ、と仕切ったのは耀真だったが、百合華とシアの方が体ひとつ前を行き、挙動も安定している。二人に速度を合わせて走っているだけでもちょっと苦しい。

「もう少しで敵と合流するけど、二人とも準備はいい?」

「なにをいまさら」

「準備なんて何時間も前からできてるわよ」

 シアと百合華が交互にいう。そりゃそうだろうな、と思いながら屋根をひとつ踏み切る。家屋の中に足音が結構響いているかもしれない。

「この先は学校じゃないかしら?」と百合華がいう。

「広くて人目のつかないところだって、アイリさんがいっていたから、学校に着陸して三人を回収するのかも。佳奈ちゃんには土地勘もあるだろうし」

 起動させた携帯端末の画面にGPSが表示される。少しスライドしてみると、確かに赤い丸はこのまま直進すれば学校の真上を通過するルートにある。

 百合華とシアが学校に通じるスロープの中程に降り立った。耀真が一息遅れて着床したときには、もう二人はスロープを登っていた。GPSの赤丸も順調に学校へ近づいてくる。空を飛んでいるとは聞いたが、いったいなにで飛んでいるのか。そろそろ肉眼でも見えるんじゃないか、と空を見渡した耀真はまだらに雲が漂う空に鳥の影を認めた。小指の先ほどの大きさだが、お腹のでっぷりとしたシルエットはフクロウに似ている。しかし、大雑把な羽ばたきを見ると、コウモリか、可愛くいえばハトを思わせる落ち着きのなさだ。

ただ連戦の疲労のせいか、やたらと大きく見える。

「なにかしら、あれ」前を行っていた百合華が速度を落とし、空に視線を巡らせている。隣に耀真が並ぶ。「鳥、にしては大きいし、飛行機でもなさそうだし、羽根が動いて見える」

「百合華にも大きく見えるんだ」

「当たり前でしょ」

 怪鳥のシルエットは見る間に大きくなり、長い首の先にある頭から細い尻尾の先までは二十メートル、広げた羽根の先から先までは五十メートル近くありそうだ。

 校舎裏のグラウンドに降りようとした巨鳥の羽ばたきが、砂埃を含んだ風をスロープの向こうまで巻き上げる。

「なんなのよ、あれ」さすがに呆然とした百合華が立ち止まった。「冥魔の類いかしら?」

 そんな質問を自分もしたな、と耀真は思い出す。

「ドラゴンなんだって」

「どらごん?」

「アイリさんがそういってた」

 リジェクターの入国手段。いわれてみれば、という姿形ではある。まさか、本当にいるとは思わなかった。

「なにかの能力かしら?」

「ドラゴンを生む? そういう考え方もあるか」どういう能力で生み出されているのかは問題だ。

 二人はゆるゆると走り出し、校門の前で奥を窺っているシアと合流した。

「二人とも、遅いわよ」

「シアはあんな生き物を見ても驚かないんだな」

「あれ? 普通にいるんじゃないんだ?」

「いないよ、あんな奇怪な化け物」

「でも、車とか飛行機と一緒よね。私も初めて見たときは驚いたもの」

「車、飛行機、ドラゴン」

 シアにとってはどれも未知のものか。

 三人は校門を抜け、前庭を横切る。校舎裏にあるグラウンドを窺うと、巨大な丸い影がまず目についた。折り畳んだ羽根を体の側面にぴったりとくっつけて、長い首を折り、小さな頭を地につきそうなほど垂らしている。

「マジでドラゴンだ」

「お話の中でしか知らないわ。どう倒せばいい? 冥魔と同じでいい?」

 百合華はどこか興奮して見える。

「戦うことしか考えてねえのか」

「ち、違っ……!」

「人影は五つ。ひとつは桜子って子ね。抱えられて動かないわ。それを囲む影が四つ」

 シアの台詞に耀真は思わず苦虫を噛み潰したような顔になる。

「分が悪いな。二人はケヴィンと佳奈ちゃん。残りの二人も誓約者で、一人はドラゴン使いとしても、もう一人は見当もつかない」

 アイリも、敵は二人、といっていた。確保はエリシオンに任せておけ、ともいっていたが、この様子ではいまにも飛び立ってしまいそうだ。増援を待ってはいられない。

「このまま無視はしないのでしょう」と訊いてきたのはシアだった。

「当然捨ておけない。でも、このままじゃ負けるだけなのも目に見えてる」

「最悪、今度こそ殺されるかもね」

「うーん」

唸っていると百合華が痺れを切らした。

「作戦なんていいから、さっと行って桜子ちゃんを取り返してくればいいんでしょう」

 校舎の陰から出ようとする百合華の腕をつかんだ。

「百合華は好戦的だな」

「隠れてても逃げられるだけじゃない。アイリさんの能力もどこまで持つか」

「前に月まで行けるっていってたよ」

 百合華の眼差しがすっと鋭くなる。

「冗談だよ」と愛想笑いで和ませようとしたが無駄だった。「絶対チャンスが来るからさ」

「どんな?」

「いいか? ああいう生き物が空を飛ぶってことはさ……」

 いっている間に姿勢を低くしたドラゴンが羽根を広げ、振り扇いだ。緩やかな風が吹き、細かな塵が舞い上がる。

「チャンスだぞ」

 耀真は空を指さし、校舎の壁を登っていった。一階ごとにある屋根をつかみ、乗って、蹴り、もうひとつ階上の屋根をつかむ。シアは続いてきたが、百合華にはひとっ飛びで追い越され、屋上に出たのは同じタイミングだった。

「あれに乗るぞ」

 怪物の巨体が浮き上がる準備をしているのか、ドラゴンの頭部と翼の先が屋上の縁で見え隠れする。屋上を横切った三人は飛び降りて、ドラゴンの背中、首の付け根辺りに着地する。高価な絨毯のように滑らかな深い毛の下に豊かな筋肉の弾力を感じる。爬虫類じゃないらしい、とかすかに驚きながら、広い背中の真ん中、複数の人間が集まっている方へ視線をやる。ケヴィンと見たことのない女と男の子、三人の真ん中で桜子が倒れている。

「おまえたちは……」

 ケヴィンの冷静な視線が耀真たちに向けられる。

 ぐっと加速したドラゴンの体が一息に上昇する。四十度近い傾斜と進行方向から吹きつける強風に、深い毛をつかんでいても飛ばされそうになる。悲鳴を上げるどころか、息をするのもままならない。だというのに、リジェクターの三人はぴくりともしない。なにかしらの能力であそこに固定されているのか。

「どうするのよ、耀真!」

 隣で百合華が絶叫する。ドラゴンの体が町を越え、森林の多い一帯に入ったのを認め、耀真は肺の中の空気を全部思い切り吐き出した。

「風を止めろ! できるだろ!」

「これを?」

 驚愕の声を発したのも一瞬、百合華は全身に気迫をみなぎらせた。すぐに向かい風が力を失くし、ドラゴンが失速する。さらに風は弱まって、無風に近づくと、ドラゴンは二度の羽ばたきを最後に落下し始めた。当然、耀真たちも落ちていく。リジェクターのメンバーと桜子の四人は一塊のまま宙に投げ出され、慣性の力に従い飛んでいく。

 耀真は四肢を振り、中空に振動を放つ。それで体勢を立て直し、きりもみ状態で落ちるドラゴンを足もとに見た。

「なにをどうしたの?」と百合華が訊いてくる。

「こういう生き物が空を飛ぶっていうのは基本的に揚力あってのもので、揚力は向かい風あってのものだ。風がなくなれば、飛行機だって失速して落ちていく」

「なるほど」

「で、幸い空を飛ぶこともできないケヴィンと分断されたあのドラゴンを仕留めれば、リディクターの足を止められる」

「セコいことばっかり考えてるんだから」

身をひるがえした百合華は地面に頭を向けて一気に加速する。瞬く間に点より小さくなる。

「シアもいいか?」

「私を誰だと思ってるの」

「よし、やるぞ」

自由落下の軌道を修正し、ドラゴンと百合華のあとを追って森の中に飛び込んだ。樹冠を揺らし、着地する。霞んだ月の明かりしかない森の中、頭上に一際強く輝く二つの光があった。それと対峙するように安綱を中段に構える百合華。

乳白色の毛並みを逆立てて、牙を剥き出しにしたドラゴンが咆哮を上げる。コウモリに似た薄い翼が広がって木々を蹴散らし、扇がれて巻き起こる突風が木片を吹きつけてくる。

安綱をかかげた百合華が作る大気の壁でも弾ききるには至らない。足もとに来た丸太をかわしたシアは風の力も借りて飛び上がり、ドラゴンの首元に向けて手のひらをのばす。放たれたレーザーに撃たれたドラゴンは歪めた顔を横に背けながら、口の中に空気をためる。次の瞬間、白い火花を散らした口腔から紅蓮の炎が吐き出された。百合華が風で吹き散らすが、これも完全ではない。周囲の草と木々を燃やして耀真たちを取り囲み、嘲笑うように炙る。

「すごい熱」百合華が顔をしかめる。

 彼女が立ち止まって大気を操作しているのは自分が足を引っ張っているからだと耀真にはわかる。

「俺とシアで援護するから百合華は接近して戦えるか?」

「でも、わたしから離れると危ないよ」

「大丈夫だよ。これぐらいは自分でなんとかする」

 一時の間を置いて頷いた百合華から離れ、燃える木片が散在する一帯を走る。目顔でシアに合図を送った。火のついた丸太を拾い、深く息を吸うドラゴンに向かって思いきり放り投げた。ドラゴンの顔面に直撃する寸前、シアの指から伸びたレーザーが丸太を撃ち抜き、砕く。強烈な散弾となってドラゴンの全身を打ち据えた。しかし、これも目眩まし程度の効果しかない。その隙に百合華が距離を縮め、高く飛び上がり、ドラゴンの首筋に安綱を撃ち込んだ。

「ギャァッ!」

 長い悲鳴を上げたドラゴンは大きくしならせた首を持ち上げる。百合華をはっきりと睨み、剥き出しの敵意そのまま翼の内側にあった前足を力強く振るった。百合華は中空で踏み切り、爬虫類に似た鋭利な爪をかわすと、もう一度、今度はドラゴンの頬を薙いだ。その反発も借りて後退すると、かたく牙を噛み合わせるドラゴンと見合った。

「百合華、無理なら羽根を潰すだけでいいんだぞ」

「無理じゃないわよ。ちょっとこいつが思ったよりかたかっただけ」

「本当かよ」

 耀真は呟いてシアに手を振った。

「シア、頼むよ」

 一声かけて、天を覆う巨体目指し走り出す。ドラゴンの扁平な顔が頬を膨らませ、首を巡らせると同時に火焔を吐き出した。茂っていた低木に火がつき、炎の池を作り出す。飛び上がって逃れた耀真は直上に浮いていたシアの両手を両手で握り、ぶら下がる。

「本当にやるの?」

「もう時間がない。百合華が無理なら俺たちがやる」

「じゃ、加減はしないわよ」

 シアはさらに高度を取る。ドラゴンもこちらを追撃しようとしていたが、百合華に気を取られてそれどころではなさそうだ。

「行くわよ、耀真!」

「オーケー!」

 宙で一回転したシアは耀真をまっすぐ下へ放った。弾丸然と飛んだ耀真からレーシングカーのエンジンに似た音が響く。

「喰らえっ!」

特攻に等しい蹴りがドラゴンの脳天に炸裂し、もろとも着地した耀真が地を砕いてぐらぐら揺らす。黙した爬虫類似の頭頂を足蹴にし、片腕振って空を切った。

「ヨウマ!」と百合華が歓喜の声を上げていた。

 直接の一撃だけでなく、シアに最大限増幅させてもらった振動も撃ち込んだのだ。それは皮膚や毛髪のかたさに関係なく、体内を直接かき混ぜられるような衝撃のはずだから、普通の生き物なら耐えられまい。

「これでどうよ」

 ぐいっと踏み込んだ足裏が押し返された。一瞬の感覚を疑っている間に耀真の体が浮き上がる。堪らず地面に降りて、頭上からこちらを睥睨するドラゴンを見返した。

「ちょっと待って」耀真が胸元で手を振る。「冗談みたいにタフだな」

「少しだけ強いわね。ほんの少しだけ」

百合華が親指と人差し指で小さな隙間を作る。そのまま跳ねてドラゴンの頭を叩く。唸ったドラゴンが振った手の甲を宙でかわし、再び撃ち込む。

「相変わらず、百合華もすごいな」

「感心してる場合じゃないでしょう」

 そばに降りたシアが手のひらをかかげ、薄膜のバリアーを展開する。直撃した火焔が四散し、火の手が拡がっていく。

「お腹の中にコンロでも入ってるのかしら? スイッチひとつでシュボッてなるやつ」

「口もとの髭でスパークを焚いて、口の中から可燃ガスを出しているんじゃないかな。可燃ガスは哺乳類でも体内で作るし、強い電気を起こす生き物もいる」

「なら、ああいう生き物がいてもおかしくないってこと?」

「おかしいとは思う」

「どういう攻撃が効果的だと思う?」

「俺たちができる技の中でなにが一番効果的か?」百合華の技、シアの技、自分の技。思い当たる節はある。「お腹の中に可燃ガスがあるなら、火をつけて爆発させられる」

 シアと視線を交わし、耀真は走り出す。火の手の合間を縫って加速し、最高速からの飛び蹴りをドラゴンの腹にめり込ませる。肉厚過ぎて、まったく響いている気がしない。

 ドラゴンは嘲笑うようにこちらを見、口もとを歪める。赤い口腔を大きく広げ、胸もとを膨らませた。火焔が放たれようとしたその瞬間、シアの光球がドラゴンの口中に飛び込み、長い食道の奥まで滑り込んで起爆、爆光が口腔の奥から噴き出して煙を上げ、ドラゴンの頭を高々とのけぞらせる。

「やったか?」

 淡い期待は黒煙とともにドラゴンの牙に噛み砕かれた。顎を引き締めた扁平な顔が怒りを蓄え、耀真たちを睨み据える。

 これもダメか。

 何度目かの火焔が吐き出され、翼によって風を送り込まれると、火勢が増す。蘭子との一戦で流しきったと思っていた汗が体を伝う。だが、服を濡らす前に蒸発する。顎を拭っても意味がない。

「今日はこんな相手ばっかだなあ」

「お困りのようですわね」

 不意に声をかけられ、ぎょっとする。火事場の外にある樹枝の上に蘭子が立っていた。

「おまえ、なにしに、というか、どうやってここまで来たんだ?」

「あなたのお仲間に送っていただいたんですの」

 こいつもオオカミさんのGPSを追ってきたわけだ。

「ちょっとお話したら快くご協力してくださいましたわ」などと、蘭子はうそぶくふうにいう。

「どんなお話したんだか」

 西條姉は枝から飛び降り、炎の中を悠然と歩きながらいう。

「桜子はどこ? 近くにいるのでしょう?」

「いまはいない。敵に連れ去られた」

「なら、その敵はどこにいますの?」

「目の前にいる」

「あんな化け物に連れ去られましたの?」

「ちょっと違うけど、あいつらの足止めにはなる」

 口元を撫でた蘭子はドラゴンにやっていた視線を耀真に据えた。

「あれを倒せばいいんですの?」

頷いた耀真に、蘭子は口もとを舟形に歪めて返す。

「あなたはわたくしのことをみくびっていますわね」

「倒せるのか?」

「馬になりなさい」

「はあ?」

「わたくしをあれの頭上に運びなさい」

「そりゃ、いいけれど……」

 話していると一陣の熱風が吹いた。ふわりと百合華が降りてくる。

「蘭子? なんでこんなところに……」

 いいながらも風のコントロールは忘れない。吹きつけてくる火焔を押し返し、飛んでくる木片を吹き飛ばす。

「百合華、その棒きれ、どの程度の温度まで耐えられますの?」

「安綱のこと? えっと……」

データシートに目を通していない百合華に見つめられ、耀真が応えた。

「グラファイトだから、三千度ちょっとまで耐えられるかもしれないけど、まさか……」

「まだヌルいですが、まあ及第点でしょう。貸しなさい」

「え」と百合華は眉間に皺を寄せた。「これ、高いんだよね、二本目だし」

 それでも渋々手渡された安綱を握り、感触を確かめた蘭子が耀真の肩を押し下げる。

「あとは時間を稼いでなさい」

「偉そうにいわないで」

 扇子を取り出した百合華は十字を切って火を払うと、ドラゴンの周りを回るように走る。シアと連携して縦横に攻撃を仕掛ける。吹き抜ける熱風と目を眩ますほどの閃光の中、耀真は蘭子を背負った。

「行きますわよ! 一撃で焼き切ってやりますわ」

 安綱の切っ先でドラゴンの頭を指した蘭子が耀真の首に細い腕を回し、柔らかな上体を背中に預けてくる。自身の肌が粟立ち、体温が上がった気がするが、後者は気がするだけにして、耀真は走り出した。

燃える芝生と木片を飛び越え、爪先に強烈な振動を送って踏み切る。土を抉った勢いを受け、高く飛び上がった。緩慢に振られたドラゴンの手も足蹴にして、羽根の付け根、右肩の直上を取った瞬間、自分の背中を思いっ切り蹴りつけられた。なんだ、と思ったときには蘭子が背中から飛び降りていく姿が眼下にある。

「あいつ……!」

 安綱が真赤に染まり、黒のボディスーツが紅蓮に閃く。

ドラゴンの爪が空を裂く。蘭子と交差した瞬間、太い指先が切り落とされ、赤黒い血が噴き出した。

「ギャアアアッ!」

 獣そのものの悲鳴を上げ、のたうつドラゴンの羽根に安綱が突き立つ。薄い翼の下半分を切り裂いていく。蘭子は着地も猫のようにしなやかだ。さらに安綱を薙いで、ドラゴンのくるぶしを深々と斬ったのを最後に、ボディスーツの赤熱化が収まっていく。

ドラゴンが前のめりに崩れる。

蘭子の背後に降りた耀真の口から自然と感嘆が漏れた。動きを止めたシアと百合華も同じような雰囲気だ。

「おまえ、そんなに温度を上げられたのか」

「ふん、これくらい、まだ涼しい方ですわ」蘭子は優雅に髪を払う。「これ以上体温を上げると服がもたないのでやりませんが」

 いわれて視線が服に行く。まだ熱を持っていると思える生地は赤黒く静かに光って、その奥が透けそうだ。

「ジロジロ見ないでくださいます?」

「あ、ごめん」迂闊に認める言葉を吐いてしまってから頭を掻いた。「服の話が出たからさ」

「ま、わたくしの美貌を前にしては仕方のないことですが」自分で結論を出し、光を失った安綱を振りかぶる。「さあ、トドメを刺しますわよ」

 威勢のいい蘭子の声に紛れて、得体の知れない波動が耀真の知覚野を揺らす。呼吸とも、足音とも、大気の揺れともつかない、荒々しい波。

 来る!

「トドメはいい! 早く下がれ!」

全身を声にして叫び、耀真は振り返った。いまだ燃え盛る炎の向こう、蠢く影がひとつ。盾にした耀真の両腕に衝撃がかかる。己の能力ではね返してもなお、押し込んでくる力。辛うじて踏み止まり、反撃に転じようとしたが、指が動かない。腕が痺れる。

「くそ……」

一歩踏み込んできたケヴィンが蹴り上げてくる。脇腹に抉り込む前に畳んだ足で防いだが、体は易々と飛ばされる。炎の中を転がって消し炭を蹴散らし、火の粉を舞い上げる。受け身を取って体勢を立て直したが、全身が不調を訴えてくる。

「あなたが桜子を……!」

 安綱を真っ赤に閃かせた蘭子がケヴィンに向かう。

「蘭子っ!」と声にした耀真は助けに入ろうとしたが、間に合わない。

雑然と振られた安綱をケヴィンは素手でつかみ取る。ドラゴンの翼を斬り裂いたほどの高温だ。それを気にしたふうもなく、驚きに目を見開く蘭子を引き寄せて回し蹴りを彼女の腹にかます。吹き飛んだ蘭子を耀真が受け止めた。もう体温は人肌に戻っていて、肩を支えることもできる。意識はないが、目立った怪我もない。しかし、身体の中に放ったエコーは異常を捉えていた。骨は折れ、内臓はひどく損傷している。このままではいくらももたないかもしれない。

 とどめを刺しに来るケヴィンの目の前に光線が落ちた。

「耀真、下がってなさい」

 シアが乱発する光線を前にケヴィンが軽くあとずさる。その隙に巨体の背後に迫った百合華の手刀が首元を狙う。が、ケヴィンに手のひらで受け止められる。百合華も驚いていたが、さすがに戦い馴れしているだけあって、立て直すのも早い。砂塵を舞い上げるほどの風を加速に使い、即座に間合いを取り直す。だが、ケヴィンの追撃もやはり早い。

「遅いな、風使い」

 開いた距離は瞬時になくなり、ケヴィンが構える。攻撃の姿勢を取った上体を赤い光球が撃ち据える。一秒に満たない時間、ケヴィンの動きが止まる。いや、動きを止めたのは光弾の衝撃ではなく、周囲を取り囲む景色に反応したのかもしれない。砂塵の奥が赤く閃く。一つ、二つ、三つ、と姿を露わにした光弾は総計百を上回り、中心のケヴィンを狙う。

「潰しなさい!」

 シアの令に従い、光球の檻が中の目標を握り潰す。強烈な爆光と余熱が周囲に放散される中、指先を天に向けた百合華が一身に風を集める。

「これで、決め!」

 巨大な大気の塊を叩きつけ、相手を圧殺する百合華の必殺技。

「なんつー連携してんだよ、あいつら」

 出会ってまだ一月ばかり。猪突と奔放を常とする二人がいつの間にチームプレイを学んだのか。それとも、闘争本能の為す業なのか。

 耀真は地を這う風と熱から蘭子をかばいつつ、細めた目を爆心地にやった。吹き散らされた爆光と粉塵の中で黒い影が悠然と立っている。信じられない思いは耀真も百合華も同じで、唖然としたまま立ち尽くしてしまう。

「これで終わりか」

 深く息を吐いたケヴィンが一歩百合華に詰め寄る。百合華も一歩下がる。シアの光線を片手で遮ったケヴィンの爪先が地面を蹴った。

百合華が振ろうとした扇子は鉄拳に押し潰され、彼女を守るには至らない。細い体は殴り飛ばされ、地面を転がると、焼け残った芝生の上に倒れ伏す。

「百合華っ!」

地面を伝わる振動に百合華の心臓の鼓動を感じて、ほっとする。どんなダメージを受けているか、ここからではわからないが、まだ生きている。

「まあ、いいだろう」ケヴィンは腕を組んで、耀真を見据える。「さて、次はどっちだ?」

「俺がやる」

「耀真……!」

 絶句するシアを手のひらで制す。

「ケヴィンに通らないシアの攻撃じゃ時間がかかる。二人のことを頼むよ。近くにまだ二、三人は敵がいるはずだから」

「でも……」

「それに」と耀真は細めた目を悪鬼に向けた。「陸彦さんがやり残したこと、最後の弟子になった俺が決着をつける」

「ほう」とケヴィンはため息に似た息を吐く。「貴様の技、綾薙陸彦から学んだ拳闘というわけか。面白い」

 腰を落としたケヴィンが胸元に両の拳を持っていく。耀真も同じく構え、相手の腰元目がけて駆け出した。

二、一、ゼロ距離。

瞬間、二人の拳がぶつかりあう。かなり重いが集中していればやり合える。太い腕の向こうにある黒い、ぎらついた瞳を睨み据える。

「やはり、筋はいい。師の教えをよく守っている」

「なにを、偉そうに」

耀真は押しつけられていた鉄拳をかいくぐると、一歩だけ退がったケヴィンに追いすがる。拳の一発を低くなってかわした。二発目を腕で防ぐ。擦れるように体を入れ替えた瞬間、ケヴィンの脇腹を殴りつけた。岩石よりかたい。人間とは思えない。

すぐに向き直って、振り向きざまに放たれた回し蹴りを両腕で防ぐ。全身が軋んで、潰れそうだ。が、受けた衝撃はすなわち振動。能力で操り、反作用として体の節々に流して溜める。

「くらえっ!」

拳に乗せて吐き出した。ケヴィンの重ねられた腕を直撃しても手応えがない。

「くっそ……!」

「やるじゃないか、騎士殿。少しばかり効いたぞ」

 台詞とは裏腹に相変わらずの拳を振ってくる。右からフックしてくる鉄拳をガードしたが、ほとんど同時に左の脇腹に衝撃が走った。体がくの字に折れる。次いで眉間をアッパーで打ち抜かれ、体が浮いた。景色が一回転して、暗い空が視界いっぱいに映る。

 こいつ、強すぎる。

 四つん這いに体を起こして、歩み寄るケヴィンを見据えた。

「十四年前だ」耀真はゆっくり口にする。「あんたはエリシオンに、いや、エルに絶望するなにかを見た」

 ケヴィンの歩みがぴたりと止まる。

「ユーグ・フォン・ストラトスに聞いた。あんたは十四年前、エルに絶望して出ていったんだ、と」

「口の軽い男だ」

「事実なんだな? いったいなにを見たんだ?」

「貴様は知っているだろう。エルは人間に害悪でしかない。だから抹殺する」

「なにがどう害悪なのか、わからない」

「まさか」とケヴィンはシアを振り返る。「教えていないのか?」

「わたしは人に害を成そうだなんて思っていない」

「貴様……」続けようとした言葉を笑みの下に呑んで、耀真に向き直った。「どうやら姫君は無知なようだな。残念なことに」

「わたしが無知ですって」

 シアが身を乗り出したのを耀真が目で抑える。

「教えてくれないか? 無知な俺たちに、あんたの知っていること」

「俺の口から教えることなどなにもない」そうだな、と顎をつまむ。「魔女にでも訊けばいい。やつなら知っているはずだ」

「あいつはすでに死んだ。俺が殺した」

「いいや」ケヴィンは頭を振る。「やつはまだ生きている」

「なんだと?」

「冥魔は消滅するとき、黄金の雪を降らせる。おまえはそれを見たのか?」

 耀真は目を見開き、真夜との決戦の夜を思い出す。あの空に散っていたのは……。

「黒い霧しか……」

「やつはいまこのときも身をひそめて力を蓄えている。おまえはどうだ?」

「俺は……」ひざまずき、指は芝を弄っているだけだ。

「おれがやつを仕留める」ケヴィンはいう。「騎士殿はここで眠っていてくれていい」

 この男は。

耀真の内奥が沸々と煮えたぎる。奥歯をかみしめ、指先を握り込み、震える膝とおぼつかない爪先に気合いを入れる。芝生を踏み直した身体に覇気が漲る。魂が燃えている。

「ふざけるなよ」

 耀真は拳を構える。

「俺が倒す。あんたも、真夜も」

 ケヴィンも合わせて構えた。

 二人は接近し、ゼロ距離の拳を交える。

耳元で風が唸り、目に見えない圧力が耀真の肌を粟立てる。


     ○


 耀真から放たれる波長は凄まじいものだったが、美しくない。乱れている。

 これでは本来の力を発揮できているとはいいがたい。

 シアは受け取った波の形を整え、さらに強めて押し返す。敵の頑強さと敏捷さ、腕力を考えれば、相手は突破力の高い耀真に任せ、自分は彼の力を高めるのに専念した方がいい。

 ひとつ、ふたつ、と二人の拳が交差する。そのたびに空間が歪むほどの波紋が宙に響く。

 耀真の発する波はさらに荒々しく、猛り狂う。

「どうやら……」

 耀真は能力を使いこなせている。シアが思っている以上に。こちらが波長を整えるのを勘案して、一心不乱に戦うことだけに注力している。

 ここ五百年の眠りの間、到達しえなかった高みまで波の形が昇華されていく。

 ケヴィンの拳を片腕で受けた耀真は逆の手を握り、鉄槌を頬にかます。のけ反った敵の顔面に左右の連打、右のストレート。きれい決まった。が、次の瞬間、耀真の頭が跳ね上がる。顎下を裏拳が殴打したのだ。足を踏み締めたケヴィンが体重を前に傾ける。かたくした拳で耀真の喉元を側面から撃ち抜いた。

 たたらを踏んだだけで踏ん張る耀真はかなり強靱な肉体と精神を持ち合わせているようだ。そして、波紋はさらにその激しさを増していく。

「これではいけない」直に危険域に達することになる。「やめなさい、耀真!」

「この程度で負けるなら、俺はそこまでの人間てことだ」

「いいぞ、騎士殿」

 ケヴィンが耀真に歩み寄る。

 耀真は意識的に力を高めているのは、まさか独自にあの『秘技』を悟ったということか。この先の世界を。

 シアが波形を整えるのをやめても、もはや耀真の波紋はとめどなく増幅されていく。

「耀真、止めなさい!」

 制止の声は雷鳴に似た音にかき消され、視界は真っ白に塗りたくられた。ソナーもノイズにまみれ、あらゆる知覚が麻痺してしまう。

 思わず強くつむった目を開いてもブラックアウトしたままで、轟音に苛まれた聴覚もきんきんと痛む。真っ当な視界を取り戻すまでさらに数秒。その間、シアはノイズの弱まったソナーで、交錯した二人の姿を見た。耀真は膝を屈し、ケヴィンは右肘を握ったまま、動かずに向かい合っている。

「貴様……!」

 呻いたケヴィンの右肘から先が切り落とされている。あの技を喰らえば当然そうなる。しかし、耀真の方は……。

「久しぶりに効いただろ? 冗談じゃなくてさ」

 声音は笑っていても、頭から指先まで血に濡れていた。いまもなお流れる血は顎から一滴ずつ、短い間隔でこぼれ落ちる。まるで全身が溶けていくように。耀真の命が溶けていく。

「エネルギー変換か」

 ケヴィンが絞り出すようにいう。悪鬼の形相に笑みが浮かんでいるのが、さらに不気味だ。

「自らの肉体を粒子レベルで振動、亜光速まで加速させてぶつけたのかどうか、似たようなことをしたわけだ」

 耀真は荒い呼吸をくり返すだけで応えず、伸ばそうとした膝も折れてしまった。

「まだだ。もう一撃……」

 それ以上は言葉の代わりに血を吐いただけで、握った短い草を赤く汚した。

「だが、そんな技は相手より自らにダメージが行くだろうな。貴様の肉を核融合させたようなものなのだからな」

 重たそうな汗を流すケヴィンの問いに応える声はない。手足を痙攣させ始めた耀真の胸から聞こえる鼓動が次第に弱く、遅くなっていく。

「その覚悟、尊敬に値するが……」

 耀真の前に一歩踏み出したケヴィンを見、シアが滑るように宙を駆けた。耀真を挟んで、向かい立つ。

「許さないわよ、ケヴィンとやら」

 指先で赤いスパーク光が弾ける。金色の髪が扇状に拡がっていく。

 この男、ここで殺していく。

「待ってください!」

 と叫んだのは見たこともない赤髪の少女だった。ケヴィンが舌打ちする。珍しい、人間じみた行いだ。

 少女は林から走り出て、シアの前に立つ。及び腰ではあるが、髪の色や瞳の色、輪郭などはどことなく蘭子に似ている。

「あなたが桜子ちゃん?」と訊いたシアに頷いた桜子はケヴィンに震える声をぶつけた。

「私があなたの傷を治します。そこの、えっと、大きな竜さんの傷も治します。ですから、これ以上、お姉ちゃんたちを傷つけるのは止めてください」

 傷を治す? 従前聞いていた能力は糸を操るというものだったが、治癒の力もあるのか。

 シアが驚いている間に、思案を終わらせたケヴィンは身を引いた。

「その取引には、おまえを連れていってはいけない、というのは入っていないな?」

「はい」と桜子がはっきりと頷いたのを見、ケヴィンは長い息を吐いた。

「わかった。いま姫君と戦っても相打ちになるのは目に見えている」

 ケヴィンの探るような目は気に入らなかったが、シアも一歩下がる。

「あなたがそれでいいのなら。ただし、耀真たちの治療もお願いできる?」

 桜子はケヴィンを見据えた。

「いいだろう」

それからの桜子の行動は早かった。ドラゴンの傷口を糸で覆い、ケヴィンの腕を繋げる。耀真たちの処置が終わるころには、ドラゴンは起き上がり、ケヴィンの右腕もつながって、指まで動くようになっていた。

「すごいのね」

 我知らず呟いたシアは近くに別の人間がいることに気がついた。林の向こうから駆けてくる少年と女。ドラゴンの上でケヴィンと寄り添っていた連中だ。

「あいつ、こんなところに……!」

 十歳程度に見える西洋人の少年が粗野な声を上げる。びくりとした桜子の片ポニーが大きく揺れる。

「逃げてんじゃねえよ。面倒かけやがって」

「あの……、ご、ごめんなさい」

 消え入りそうな声で謝った桜子が首をすくめる。少年と桜子の体格は似たり寄ったりだが、年齢においては桜子の方が上だろうに。怯えて見えるのは、彼女の性質か、迫力に圧されたのか。

「ごめんなさいじゃねえよ」

 いまにもつかみかかろうとする少年をケヴィンが「待て」と制した。

「その娘には手を出すな。使える人間だ」

「あ?」と眉をひそめた少年は桜子にのばした手を引っ込め、シアの方に視線を送る。「そっちの姉さんは?」

「そっちもだ。そういう約束をした」

「他の寝てるやつらは?」

「寝てるやつらも、だ」

「この辺じゃまともなエサが手に入らないんだよ。おれのニルヴァーナが腹を空かせてるのに」

 舌打ちした少年が近づいていくと、ドラゴンが頭を垂れた。下顎を撫でられ、目を細めている。

「姫君」と呼ばれ、シアはケヴィンに視線を戻した。

「我々は去るが、背後から攻撃してこない方がいい。ニルヴァーナが暴れ回って町に無用な被害が出るかも知らんからな」

 ケヴィンが歩き出すと細身の女がうしろに続く。どこか、背後霊のように生気のない女だ。

「あの」と声をかけられ、桜子の方を向いた。「お姉さん、先輩、藤崎先輩のお友達ですよね?」

「ええ」と頷いてドラゴンの方を見る。「本当にいいの?」

「お姉ちゃんたちを助ける方法が他にありませんから」

 力なく笑って桜子はうつむいた。

「お姉ちゃんに伝えてください。私は大丈夫だからって」

「それは構わないけれど」このまま連れ去ろうにも、次は身動きの取れない耀真たちが危険にさらされる。シアは頭を振った。「ごめんなさい。力になれなくて」

「いえ、ご迷惑をかけたのは私たち姉妹です」

 すっと一歩下がって丁寧なお辞儀をしてみせる。

「それでは、これで失礼します」

 きびすを返し、歩いていく。みんなが守ろうとした小さな背中を見送ることしかできないのかと握った拳に力がこもる。

「ケヴィン」と少年の声が聞こえた。「こんなのがあったんだけど、なんだと思う?」

 少年にわしづかみにされていたのは黒いオオカミのぬいぐるみ、その頭だ。

「それは」呟いたケヴィンが眉根を寄せる。「そういうことか」

 大きな手がオオカミの顔を乱暴につかみ、放り投げた。クルクルと宙を回ったオオカミは、思わず立ち止まった桜子の前に二本のうしろ足で着地した。

「あいつ、立ちやがった」

 少年がのけ反り、桜子の目が丸くなる。奇異の視線を小さな身に集めたオオカミはどこからか取り出した携帯端末をペンで操作し始めた。あー、あー、と喋っているのは、その携帯端末だ。

「ケヴィン、次は僕と取引をしないかい?」といった電話の声はユーグらしい。

「貴様と取引することなどなにもない」

「僕が提供するのは君たちの安全な帰還だ」とユーグは勝手に話す。「代わりに、そこにいる儚げな少女をここに置いていってもらいたい。確か、名前は西條桜子といったか」

「貴様に保障される必要はない」

「それがあるんだな。ドラゴンくんに触れてみるといい」

「なんだと?」

 ケヴィンに代わって少年がドラゴンに手をのばす。小さな手のひらはベージュ色の毛先を撫でずに肌の奥まで通り抜ける。

「あれ? 透けてる……」

 あとずさる少年を見、ケヴィンはオオカミを睨んだ。

「なぜここにいる? 貴様の射程距離は数百メートルがせいぜいのはずだ」

「たとえ、飛田とか高山とかの山奥に置き去りにされたとしても、三十分のうちに帰ってくる術が僕にはある。優秀な友人がいるからね」

 シアは耀真に視線をやった。敵の足止め、敗北、ユーグの援軍。この子はいったいどこからどこまでを予期していたのか。

「君たちの取る道は二つに一つ。取引に応じて無事アジトに帰るか、無理を通してエリシオンに袋叩きにされるか」

「こちらにはざっと数えただけでも人質が四、五人いる」

「構わない。その五人を犠牲にしてでも君の息の根を止める価値はある」

 ユーグの迷いがない直截な言い様は本気のように聞こえる。

「なんだよ、こいつ……!」

 前に出ようとした少年をケヴィンが片腕で制する。一息の間を置いて、口を開いた。

「……取引に応じよう」

「ケヴィン!」叫んだ少年は自分の倍はあるかという巨体に詰め寄っていく。「エリシオンの腰抜けにそんなことできるわけない。こいつは嘘つきだよ」

「こいつはエリシオンの人間の中でも狂人の部類に入るやつだ」

「狂人って……」

「誉め言葉として受け取っておくよ」とユーグが笑う。「それで、どうするんだい?」

「娘を渡しはする。だが、先に能力を解除してもらいたい。仲間の無事を確かめてから俺がここを去ろう」

「わかった。ケヴィンを除いた二人がドラゴンに乗ることを許可しよう。もう能力は解除してあるから安心して移動してくれたまえ」

 少年は舌打ちする一方、女の方は表情もなく、ドラゴンの尾から背中に登っていく。二人を背負ったドラゴンが上体を起こし、羽根を拡げた。ふわりと風が流れる。

「ケヴィン!」少年がドラゴンの頭に乗って、声を上げる。「本当にいいの?」

「早く行け」

 ふて腐れた顔を隠そうともしない少年が右手を上げると、ドラゴンの体が浮き上がった。一息に高空へ飛び上がっていく。

「いいだろう。取引は成立だ」

 ケヴィンは空にやっていた目をこちらに向けてきた。身をかたくしたシアは桜子の隣に立つ。彼女の肩を引いてうしろに下がらせると、自分の陰に隠すようにする。

「成立したんならとっとと帰りなさいよ。一人で残ってるとお仲間が心配するわよ」

「その小僧に伝えておけ」

「なにを?」

「その程度の力であれば、これから先は生きていけんとな」

ケヴィンは飛び上がると、きれいな放物線を描いて林の向こうに消えていった。


     ○


 翌日学校へ行くと、佳奈が教壇に立っていたことに度肝を抜かれた。

「あの、佳奈ちゃん、昨日は……?」

「昨日の授業ですか? どこかわからないところでもありましたか?」

「いや、そうじゃなくて、昨日の夜はどうしてたの?」

「藤崎くんは独身女性の夜の生活に興味があるんですか?」

「いやいやいやいや、そうじゃなくて、佳奈ちゃんはなにをしてたのかな、と」

「先生を口説くのはせめて卒業してからにしなさい。藤崎くんとならお付き合いを考えなくもないですよ」

「え? マジで? いや、そうじゃなくて……」

「それと、先生のことは佳奈ちゃん、ではなく、名波先生と呼びなさい。ここは学校で、先生と生徒です」

「ああ、ごめんなさい」

 それっきり佳奈は職員室に消えていってしまった。

「わけがわからないよ」と放課後の住宅街を歩きながら愚痴る。

 心地いい日の光を浴びた枝葉がきらきらときらめき、温かな風に柔らかくなびく。目映いばかりの陽気なのに、内心はすっきりしない。

「百合華は昨日佳奈ちゃんを見たんだろう?」

「名波先生に見えたし、そうですか、って訊いたら、そうだっていってた」

「デパートの中、結構薄暗かっただろう。ちゃんと顔を確認できたのか?」

「ちゃんと見たよ」たぶん、と百合華は小さく付け足す。「あれだけ堂々とされると、こっちの自信がなくなるね。教師としても採用されてるから、身元はしっかりしてるんだよね。東欧のテロリストだったら、そういう人を作るのって難しいかな?」

「難しかねえだろう。人の人生乗っ取るのも、現地人スカウトすんのも。掃いて捨てるほど手段はあるだろ」

「そういうものかしら」

「どうも。二人とも」と横道から出てきたのはシアと美緒だ。「迎えに行こうと思ってたのに、少し遅れちゃったわね」

「家で待っててくれてよかったのに」

「家にいても、あんまりに暇なのよね。寝るか、テレビを見るかしかない怠惰の極みよ」

「そんなもの極めてないで、バイトでもすればいいじゃない」

「シアさまに相応しいアルバイトというとどんなものでしょうかね。お姫様とか」

「バイトじゃない」

「役者とか、劇団ですよ」

「バイトにやらせる配役じゃない」

「アルバイトって、雇い人のことよね。私、自由でいたいのよね」

「わがままなのよ。暇なのに働くのも嫌って」

「面白く生きていたいの」

「世の中、そんなに甘くない。働かないなら食べ物も出さないことにするからね」

「失礼な。私は働いてるわよ」

 そうよね、と耀真は背中を叩かれる。

「まあ、戦闘中は俺のサポートをしてくれてるからね」

「そうでしょう」

「耀真はシアに甘すぎます。ろくな大人にならないわよ」

「私は百合華よりずっと年上よ」自分でいって自信を深めたのか、そうそう、と何度も頷く。「年上なんだから。もう少し敬いなさい」

「人間的に幼いのよ」

「人間じゃないもの」

「そんな言い訳は人間界じゃ通じない」

「あたしは敬ってますよ」

「美緒は黙ってなさい」

 強めにいわれて美緒を畏縮させると、百合華はわざとらしく肩を落とした。

「どうしてわたしの周りはこんなのばっかりなんでしょう」

「こんなので悪かったわね」

「見つけましたわよ!」

 と唐突に別の声が割り込んできた。なにかと思えば、低くなった太陽を背にして、制服姿の蘭子が屋根の上に仁王立ちしている。

「またこんなのの仲間が増えた」

「なんの話ですの?」

「なんのために探されてたのかなって」とはぐらかす。

「昨夜のお礼に参りましたのですわ。覚悟!」

 明らかに百合華を狙って飛び降りてくる。耀真たちは黙って百合華から距離を取る。頭上から落ちてきた蹴りをひらりとかわした百合華は引き抜いていた扇子を開き、振った。突風が吹き荒び、蘭子の華奢な体を浮かして飛ばす。交差点の手前までゴロゴロと転がっていくのを眺めていると、スカートの中が見えたような気がして、耀真は咄嗟に目をそらす。

「もっと早い時間になにかをしかけてくるのかと思っていたけれど、まさか放課後になってからとは思わなかったわ」

 百合華が扇子で口もとを隠す。

「まだ……!」と突進してくる蘭子を扇子の風が再び追い返した。蘭子は無様としか言い様のない姿で転がる。

「もうお姉ちゃん」と耀真たちのうしろから来たのは桜子だ。蘭子のそばまで行って、その手を引いた。「百合華さんにはちょっと勝てないよ、というより、もう戦う必要もないんだから止めようよ」

「こんにちは、桜子ちゃん」耀真がいう。

「耀真さん、みなさん、お世話になっております」ぺこりと丁寧に頭を下げる。「昨日は大変ご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ございませんでした。それに、私たちにお力を貸してくださるなんて。第一騎士団の団長とお知り合いだなんて存じ上げませんでした」

「まあ、大声でいいふらすことじゃないからね」と耀真。

 ドラゴンを退治したあと、西條姉妹の義母に興味を抱いたユーグがなにかとエリシオンにかけ合っているらしい。

「本当に、今回の件はなんとお礼を申し上げたらいいか」

「別にいいよ、お礼なんて。それより、ユーグさんにはマジでなんとかしてもらわないとな。あの人自身、謹慎中で無理してるんだから、毛ほどの力にもならないってんじゃ、話にならないからねえ」

「いえ、そんなことは。お力になってくださると約束していただけただけでもありがたいことです」

「ユーグさんは喜んでたよ」と百合華。「騎士団と元老院は仲が悪いから。有力な枢機卿の一人と接近できてよかったって」

「仲良しこよしなんてできるはずありませんわ」立ち上がった蘭子が服についた埃をはたいて落とす。「騎士団なんぞ、百合華のような嫌味な輩しかいないのでしょう」

「蘭子にいわれたくない」

「なんですって?」

「なによ?」

 それっきり黙って睨みあう。

「百合華は敵が多いな」

 耀真の呟きは百合華の耳には届かなかったようだ。代わりに桜子がそばに来て、「そんなことありませんよ」と朗らかにいう。

「お姉ちゃんがあんなふうに自分をさらけ出せるのは百合華さんくらいなものです」

「自分をさらけ出すとああなのは問題じゃないか?」

「あ、誤解しないでくださいね」と慌てて手を振る。「人に優しくするのも得意な人ですから」

「そうかねえ」

 二人を放って歩き出そうとして、シアに頼んでいたことを思い出した。

「そういえば、シア、エリシオンの方はどうだった?」

「ああ、そうそう。ケヴィンたちはもう中東の方に戻って、活動を再開してるらしいわよ。向こうでリジェクターに新しい動きがあったって」

「昨日の今日で元気だな、あいつらも」

 ケヴィンがここを離れてしまった。ありがたくもあり、口惜しくもある。あいつはいったいなにを知っているのか。シアも知らないエルの秘密? まだ生きている真夜、秘密を握っているケヴィン。またいずれ……。

「そんなことまで調べていただいたんですか?」

 桜子の驚く声に、耀真は意識を戻す。

「訊きに行っただけだけどね」とシアは微笑んでいた。「それと、ユーグはやっぱり近々ヨーロッパの方に帰る、というより、強制送還されるって」

「まあ、しょうがないよね。謹慎してなきゃいけない人間が敵のアジトに攻撃仕掛けて、逃すんだから」

「それは」と桜子がいい淀んでうつむいた。「また、ご迷惑をおかけしてしまいました」

「気にすることないよ。あの人、本来の仕事に戻るだけだから。むしろ、こっちにいる方がおかしいんだってさ」

「そう、でしょうか」

 桜子は曖昧なまま頷いた。駆け足で耀真の隣に並び、一緒になって歩き出す。シアと美緒もついてきた。

「ちょっと待ちなさいよ」

 次に駆けてきたのは蘭子だ。耀真の隣に並ぶ。

「わたしを置いていく気ですの?」

「急に現れて、勝手にケンカするやつのことなんて待たないだろう」

「ち、違いますわ。別にケンカをしに来たわけではありません」

 威勢をなくして目をそらす。指先でくせ毛を弄ぶ。

「どうしたんだよ?」

「その」といい淀み、息苦しそうに唇を動かす。吐息に似た声を漏らした。「ありがと」

 拍子抜けした耀真の喉から「え?」と間抜けな音がこぼれたときには蘭子の背中は町並みの奥にある太陽に走っていく。

「なんなの、あれ?」代わって百合華が隣に並ぶ。「静かにしていたと思ったら、こんなところで仕掛けてくるなんて非常識な」

 桜子と目を合わせて愛想笑いを返す。

「ご、ごめんなさい。悪気はなかったの」

「いえ、お姉ちゃんが無茶苦茶なのは事実ですから。私の方こそごめんなさい」

「ケンカするほど仲がいいんだって、俺は思ってた」

「そういうんじゃないと思う」

「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

「ええ、桜子ちゃんまで……」

 軽く微笑んだ桜子は、「では、また」と頭を下げて、姉の背中を追っていった。


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