蜘蛛の糸 上
昼間の商店街は穏やかな人波に溢れていた。
裏通りで人影を見かけ、まさかと思い、つけ回してきたが、確認するならいましかない。先回りした耀真はコンビニに入って、週刊誌を手にしながら、意識を外に向けていた。
内容の入ってこない雑誌のページを思い出したようにめくり、汗で湿った指先を擦り合わせる。
先ほど裏通りで見つけた人影の足音は完璧にロックオンしている。
たとえば、人混みの中で一人の人間を見つめているように、地面を鳴らす無数の足音の中でたったひとつの足音を追うのは難しい話ではない。百メートル離れていようが、屋内屋外の隔たりがあろうが、シアから授かった力の前では些細な問題だ。
重そうなブーツの足音が目の前の道を横切るまで、時間にしてあと一分ばかり。待つ間に何度時計を確認したことか。自分の気の弱さに嫌気が差し始めたそのとき、ようやく相手を肉眼で捉えることができた。
白髪を角刈りにした男だ。剣先のように鋭くぎらついた目元。不機嫌そうに閉じ合わせた口もと。焦げ茶色のジャケットを着たビール樽のような寸胴。
あらかじめ写真を挟んでおいたページまで雑誌をめくる。
やはり間違いない。
隠し撮りしたらしい写真の中の男はこちらを向いておらず、ピントもややずれていたが、特徴はよく捉えていた。ぎらついた目もと、不機嫌そうな口もと、ビール樽のような寸胴。白髪のオールバックだった髪型こそ変えているが、全身から滲み出す雰囲気は写真で見た姿そのままだ。
ああ、間違いないな、ちくしょう。
三度、よくよく確かめた耀真は右耳にさしていたワイヤレスイヤホンに手を添えた。ジャケットの襟もとに刺してある翼を模したラベルピンを指先で確かめ、気持ち金属の羽根を揺らすように声を吹きかける。
「見つけちゃいましたよ、ユーグさん」
「やあ、さすがだね。そのまま気づかれないようにあとをつけてくれ。これから増援を送るから」
「早くしてくださいよ。俺だって素人なんですから、長々と追いかけてられませんよ」
「わかってるよ」と応じたユーグの声が乱れて聞こえなくなる。直後、回線の向こうで「耀真」とほとんど叫ぶ声が聞こえた。百合華だ。
慌ててマイクになっている羽根を塞ぎ、周りを確かめる。実際、百合華の声が出ているのは耳のイヤホンだと思い出し、取り繕うようにジャケットの襟を正した。
「急に大きな声出すなよ」
「気をつけてね、迂闊に近づいちゃダメだからね」
「そんなに心配するなら私もついていったのに」
「シアみたいに目立つ人が尾行なんてできるわけないでしょう。もっと危ないじゃない」
「できるかもしれないじゃない」
「できるわけない」
「お二人とも落ち着いてください」
「美緒は黙ってなさい!」
「あう、ごめんなさい。……百合華さんは怖いです」
「なんですって?」
「いえいえなんでもないです」
「私だって変装の一つや二つ、テレビで勉強したから」
「テレビ」と失笑する百合華。
「なによ」
「だいたい、シアは……」
にわかに騒がしくなってきたイヤホンのボリュームを落とし、コンビニから出た。
前方を歩く男の気配を感じながら、耀真は自分の巡り合わせの悪さに心底辟易する。ユーグに依頼された件とはいえ、こんな危ない橋を渡ることになるとは、いや、町の命運もかかっているんだから、渡り切らなきゃならないか。
内心に気合いを入れ直したとき、上の空だった足が路上の水溜まりを踏みつけた。水飛沫がジーパンの裾を濡らす。
昨日までの数日間降り続けていた春の嵐は桜を散らし、名残はまだ町を濡らしている。ユーグがアイリを連れ立って綾薙邸を訪れたときは嵐の夜だったな、と思い出す。
○
「昨日から続いている春の嵐は今日で峠を越えますが、あと数日は不安定な天候が続くでしょう。時折吹く強風にご注意ください」
居間のテレビに映る女性キャスターが笑顔でいった通り、外で風が鳴り、窓がガタガタと震えた。同時に百合華の体もびくりと震える。
「風使いなのに、風にビビるなんて……」
「ビビってるんじゃなくて、気配に敏感なのよ。剣士として」
「さすが、一流だな」
百合華は四つん這いになって障子に這い寄り、ちょっと隙間を開けて外を確認する。だが、暗くて見えるはずがない。そそくさとテーブルまで戻ってきた。「うーん、嫌な気配がする」と神妙にいって、耀真の隣で縮こまった。
「強がっちゃって」
「強がってなんて……」
ピンポーン、とチャイムが鳴って、百合華が座ったままで飛び上がった。
ユーグだろう。依頼したいことがあるからこれから向かう、と数分前、事前に連絡があった。
「嫌な気配ってユーグさんの依頼のことかな?」
「そ、そうね、そうかもしれないわね」
頬を掻きながら百合華は居間を出ていった。私服姿のユーグとアイリを連れて戻ってくる。ラフなジャケットにチノパンを合わせた男の隣にメイド服の女性、外ならまだ見られるが和室に来ると異様である。
「やあ、こんな時間に押しかけて申し訳ない」
「構いませんよ。こちらこそ、パジャマ姿で申し訳ないです」
「それこそ構わないよ。無理をいったのはこっちだから」
耀真の隣に座った百合華が四つの湯呑みにお茶を入れ、自分を含めた四席に並べていく。彼女は正座をすると、軽く握った手を膝の上に置いた。そして、訊く。
「こんな嵐の夜に来るなんて、なにか急なご用件だったんですか?」
「急な用件だったんだ」
「非常事態です」
一方は笑いながら、一方は眠たそうにいうものだから、非常事態が急に迫ってきたようには感じない。
「具体的には?」
耀真は先を促してみた。具体的には、とユーグがテーブルの上に前腕を置いて、身を乗り出す。
「非常に危険な人物がこの町に潜伏している。そいつを捕まえるために耀真くんの力を貸してもらいたい」
胸ポケットから出した写真をこちらに押しやる。耀真が覗き込んだその写真には、見覚えのない四十格好の日本人男性が映っていた。頬と頬が触れ合うほど近くに来た百合華が眉根を寄せる。耀真は身を引いて、彼女の難しそうに歪んだ顔を眺めた。
「タツミ・セイジですか」
「百合華の知ってる人なの?」
「非常に危険な人物だとは知ってるけど、直接の面識はない」
ちらとユーグを見据えた百合華はアイコンタクトしたらしい視線を耀真に戻し、ひと舐めした唇を重たげに開いた。
「この男は、細菌を使うんだって」
「細菌って、どういう?」
「感染してから数十秒で死に至る、非常に致死性の高い細菌」
「高いって、どのくらい?」
「わたしは生き残った人がいるとは聞いたことがない」
「僕は一件知っている。が、この一件、非常に特殊なケースだから、通常の人間が感染すれば確実に死ぬと思ってくれていい」
「嘘でしょう」と耀真は笑ってしまったが、ずいぶんと場違いらしい。小さく咳払いして、ユーグの話の続きを聞く。
「細菌の射程距離は状況により様々だが、気温二十度の昼間で数メートル程度。生き物から生き物へ空気感染して範囲を広げ、あらゆる生き物を殺し続ける。凶暴性では無類の能力だ」
「そんな殺人的な能力があるとは……」
「彼は東欧を中心にテロ活動をしているとわたしは聞いていましたが……」
「しかも、テロリストかよ」
「しかも、リジェクターと呼ばれる第一級のテロリスト集団だ」
「そいつらは聞いたことがありますよ」
耀真も記憶を掘り返す。規模はともかく、実行力においてはトップクラスの過激派集団。近年になって創設され、急速に台頭してきた組織だ。
「確か、東欧とか中東で活動してた」ああ、そうか、と先ほど百合華が話していたことを思い出す。「そのタツミってやつと同じ活動範囲なのか」
「そうそう」と百合華が頷く。「彼らがいうには、エルは自分たちに都合のいい人間に力を与え、間接的に世界を支配している。すべての誓約者を抹殺し、歴史を人の手に取り戻す。我々は世界を回帰させる者、リジェクター」
「物騒だな。というか、あいつらだって誓約者の力を使ってるんだろう。エルが都合のいい人間に力を与えてるってのは論理破綻だ」
「自分たちの意思に賛同するエルが力を与えてるって」
「そんな都合のいいことあるか」
「ま、建前じゃないかな。戦うための」で、と百合華は続けた。「そのリジェクターの一味がいるってことは、彼らがこの町でテロを計画してるってことですか?」
「僕が得た情報によると、違うかもしれない」いってユーグは手を振った。「それが、百パーセントとはいえないが、テロとは関係がなさそうだなと思う理由があるんだ」
「理由ってなんです?」
「彼はリジェクターを離反したらしい」
文字にしにくい驚きの声が百合華から上がる。
「なんでですか?」と訊いたのも彼女だ。
「彼の菌によってリジェクターに多大な被害が出たんだ。あれにかかると細胞が壊死して、全身がぐずぐずに黒ずんでしまうんだが、そういう死体がリジェクターのアジトのひとつでいくつも出てね。僕の情報ではリジェクターの首魁も感染したらしい」
「リジェクターの首魁というと、あの……」
口もとを片手で塞いでも百合華の驚嘆が隠せるものではなかった。何事かと耀真が問う前に、ユーグが口を開いた。
「彼がリジェクターに反旗を翻した理由は定かではないんだ。おそらく、金銭的な話でも、権力的な話でもないんだろう。組織を裏切ったその足でこの町まで来ているのだから……」
「この町でなにかしようとしているってことですか?」耀真が訊く。「ここにしかない特別なものというと、中央庁くらいですよ」
「攻撃するなら中央庁じゃなくてセントラルにすればいいじゃない。エリシオンの総本山がヨーロッパにあるんだから、そっちを襲った方が近いし、インパクトもあるでしょう」
「そりゃそうだ」あとは、と一考して、耀真は言葉を選ぶ。「シア、かな?」
彼女が寝ているだろう部屋の方を黙して見遣った。百合華も同じようにして沈黙している。
「どうだろうね」といったのはユーグだった。「美緒ちゃんたちが姫君の居場所を知ったのは魔女というイレギュラーの介入があったせいだ」
「そりゃそうですけど、諜報能力が高い組織だってやっぱりあるんでしょう」
むう、と唸ったユーグに続いて耀真も腕を組み、沈黙に身を浸した。目的もわからない殺戮者が町のどこかで息をひそめ、なにかを待っている。
「でも」と静寂を破ったのは百合華だった。「それを捕まえるのに、なんで耀真なんです?」
「あの菌は電磁波、特に短波長のものに非常に弱いことが知られている。電球や蛍光灯の紫外線、月明かりでも五秒足らずで死滅させられるんだ」
「それなら俺は相性がいいでしょうね」嫌なやつと相性がいいもんだと苦々しく思う。
「どういうこと?」理解しかねるという言葉を百合華は顔で表現してみせる。
「光は波と粒子の性質を持ってるけど、可視光を中心に置いて短波長側が紫外線。可視光の一番短波長側にあるのが紫だから……」
「余計な講義は結構です」
「なんだよ、百合華の方から訊いてきたのに」
「それより大事な話があるでしょうが」
百合華の両手に押し倒され、ぎゃーっとわざとらしくいってみる。
「バカなんだから」とため息混じりにいう百合華の声が遠くに聞こえた。「それで、光を振動として操る耀真なら菌に感染する前に死滅させられる、と?」
「ほぼ間違いなく感染しない」
「ほぼって……」百合華がむっとするのがわかる。
「限りなく百パーセントに近いが、実証されていないからほぼっていってるだけだよ」
「やっぱりあやふやじゃないですか」
「強制ではありません」とアイリがいう。「非常に危険な任務ですから。それに実のところ、すでに何人か、他の誓約者が着任することになっています」
「じゃ、チームでやるんですか?」
「いえ、百合華さんもご存知の通り、普通の誓約者は、自分の能力も素性も知られたくないから他人とはチームを組まない、という人が大勢います。ですから耀真さんにこの任務を受けていただいても、単独行動であることに変わりはありません。やはり危険なことも」
耀真は起き上がって、表情を緩めたユーグと向かい合った。
「どうする? 耀真くん」
○
「いいかい、耀真くん。万一感染したら助かる方法はひとつしかない。やつを倒すことだ。具体的には気絶させるとか、命を奪うとか、意識を失わせることだ。それで能力は解除される。殺人細菌のことさえ考慮しなければ、やつは戦い慣れてはいるが、凡人と変わらない。君なら勝てる」
ボリュームを戻したイヤホンから聞こえてくる声には応じず、淡々とタツミを尾行する。
足音の特徴はすでに覚えている。いくつも並ぶ黒い頭の向こうにある角刈りの白髪は五十メートルほど離れて見え隠れするが、失探することはない。
自分の身はすでに弱い紫外線で覆っている。体中から振動を出すイメージ。これで菌を死滅させられるはずだが、ユーグがいっていた通り、確証はない。そもそもやつの能力が発動してしまうと、周りにいる人間が犠牲になりかねない。それも数えきれないほどに。
尾行がバレれば、自分と周りの命にかかわる。
自然に自然に、と心がけて気のないふうを装っているが、傍から見たらぎくしゃくしているのかもしれない。浅くなっていた呼吸を意識的に深くする。チャンスがあれば、接近して卒倒させる。耀真が得意とする技術だ。
歩道橋を登ったタツミの気配は、片側二車線の車道を越えて向こう側へ。当然、耀真も同じルートを通る。人のいない歩道橋を歩いていると、タツミの歩みが止まっていることに気がついた。耀真の足も自然と止まる。
どうしよう、と思い浮かんだときには、タツミが駆け戻って来ていた。
ぎょっとして逃げようとした耀真はかろうじてその場に留まった。ここで一緒に逃げてしまうと尾行失格に間違いない。
小太りが向こうの階段を駆け上って、こちらに来るのを黙って眺める。
あれ? これ、チャンスじゃないか?
思うか思わないかのうちに耀真の足がのび、爪先がタツミの足首に引っかかった。豪快に転ぶ背中を横目に耀真は自分のジャケットのポケットに手を入れる。そこにしまっていた誓約者の能力を減じるブレスレット、インタラプター。それを出そうとしたとき、ふと歩道橋の奥にいる男と目があった。
日の下ならTシャツ一枚でも過ごせるこの陽気に、その男は黒色の外套で全身を覆い、厳つい顔をこちらに向けていた。その瞳が嫌に目につく。浅黒い肌にはめ込まれた二つの眼球から放たれる異様な、強烈な漆黒の光。
一般人ではない。同僚か、悪鬼か。そんな様相だ。
手入れの気配が見えない長めの黒髪を揺らし、男が動いた。耀真より二回りも大きな体躯に似合わない素早い挙動で一直線に駆けてくる。
相手が握った拳に戦意を認め、それが細菌使いに向けられているのもわかって、耀真は二人の間に割って入った。交差させた前腕で男の拳を受け止める。振動で衝撃を緩和しても骨に響く重い一撃。堪えて、相手の驚きに見開かれた瞳を見据える。
「もう充分でしょう。殴らなくたって……」
もう一方の拳が脇腹に来る。肘を盾に直撃は免れたが、踏ん張り切れず、歩道橋の欄干に背中を叩きつけられる。
こいつ、とにわかに熱を帯びた頭に促されるまま、男に飛びかかる。間髪入れず出した左右の拳がひゅひゅっと空を切る。わずかに身を揺すった男をかすめてすり抜ける。男が突き出した右肘がカウンター気味に鼻先へ食い込み、左の拳が頬を撃ち抜く。間断のない打撃に意識が白黒と明滅する。
「タフだな、小僧」
重く響く声音に続いてきた掌底は額を叩かれる前に腕でガードした。が、威力は殺しきれず、またしても欄干に背中を預ける。
鼻から生温かい液体が止めどなく落ち、口の中が鉄臭い。ぼたぼたと滴る鮮血がコンクリートに水玉を描く。
強い。
単純に挌闘家としてのレベルが違う。能力で埋め合わせることもできないほどに。
その時だ。細菌使いが向かいの欄干から飛び降りた。下は車道、と思い当たって舌打ちした耀真も欄干から身を乗り出した。歩道橋の下を駆け抜けてきたトラックの荷物室の上に落ちる。直方体の隅をつかんで這いつくばるタツミと同じ格好で向かい合った。
「逃げるんじゃねえよ」
「おまえ、エリシオンの人間か?」
「じゃなかったら、あんたを追ってない」
「そんなこともないんだな」
「なに?」
「おれには敵が多いんだ」
タツミが顎で示した方、トラックの後方を見て、度肝を抜かれた。外套の男が道路脇にあるビルの壁を蹴り、信号機や並木を足場にして、トラックに迫ってきている。トラックは快調に飛ばしているのに。
「なんなんだ、あいつ。化け物か」
「おまえ、エリシオンの人間なのにケヴィンを知らないのか?」
ほんの数秒考え、耀真は首を捻った。
「知らない。仕事にも教義にも熱心じゃないんだ」
「あいつは真性の化け物だよ」と嘲笑う。「銃に撃たれればそれよりかたく、車と走ればそれより早く走るんだ」
「そんな人間がいるわけがない」
「そういう能力だ。誓約者だよ。適応能力と成長速度が著しく高いんだ」
「そんなバカな」
「なにせ、おれの能力に感染して生き残った唯一の人間だ」
「どういうことだよ?」
「ここに来る前に感染させたんだよ。死んだもんだと思ってたんだが、死ぬより早く適応したらしい」
「ちゃんと殺したの確認してから来いよ、あんなもん連れてくるな」
「じっとしてたら追っ手に囲まれるだろうが、ボケ」
「ボケてんのはてめえの方だろうが、クソジジイ」
もう一度うしろを見遣ると、ケヴィンと呼ばれた男は看板を蹴り潰して加速した直後、前宙する勢いで下にあった道路標識を引き千切る。そのまま放り投げられた標識は、フリスビーよろしく緩い弧を描いて耀真たちの乗るトラックのタイヤに突き刺さる。トラックがバランスを崩して蛇行した。
考えるまでもない危険を感じて、耀真はタツミの襟首をつかむ。前方にあった橋の上に投げ出された。横転したトラックは進行車線を塞ぎ、荷台の扉を開いて貨物だった小麦粉袋をまき散らす。対向車線は横滑りした先頭車両の横っ腹に後続車をぶつけながらも停車してくれた。
クソジジイを引きずって逃げようとした耀真の手前五メートルの位置に黒の外套が降りてくる。耀真は拳を肩の高さに持ち上げて、ケヴィンと向かい合った。
「やれるのか?」とうしろにいるクソジジイが訊いてくる。
「やれるかやれないかじゃなくて、やるしかないからやるんだよ」
鼻下をジャケットの袖で拭う。もう血は止まっている。
ゆったりと歩み寄ってきたケヴィンの爪先が勢いよく地面を弾いた。ぐっと寄った巨体が放つ拳を退いてかわし、ローに来る蹴りをまたぐ。左、右とくり出される速いパンチも見えている。重心を振ってかいくぐり、次に来た体重の乗った拳は腕を添えて逸らし、懐に入る。耀真が交互に出した細かいジャブが相手の鼻先と喉元にヒットする。
当たるじゃないか。
冷静さを取り戻し、強めのストレートを頬に撃ち込む。摺り足でさらに詰め寄り、一発、二発。
左右にのけぞった相手にどうだと思った瞬間、胸ぐらをつかまれ、ぐいと引き寄せられる。直後、脳天を襲った頭突きの衝撃で前後不覚に陥り、次撃の回し蹴りもまともに食らう。息もできずにアスファルトに転がって、立ち上がろうとした体がふらりと揺れた。
「くそ、なんてやつだよ」
当てるパンチは効かないのに、当てられるパンチは一撃毎に芯に来る。
指先を地について、体を支えた耀真の目にケヴィンと対峙するタツミの姿が映る。あのジジイ、さっさと逃げればよかったのに。
タツミが腰元から拳銃を抜いた。間髪入れず、発砲音が連続する。
ケヴィンは一発、二発と銃弾をかわして、タツミの至近距離に詰め寄り、三発目の銃弾を素手で叩き落とした。もう片手で銃身を薙ぐ。直後、重たい拳がタツミの胴を撃った。樽に似た図体がくの字に曲がる。
耀真はそばにあった小麦粉袋をつかんで数回転、ハンマーのように投げた。能力で膨張させた紙袋だ。三人の頭上で爆音を鳴らして弾け、小麦粉を粉雪のように散らす。それに注意を引かれたケヴィンの隙をついて、ふらついたタツミの体を抱き止める。重い体躯をそのまま引きずって、橋の欄干へ。ケヴィンが追ってくる。
それを認めた耀真は指先を擦り合わせた。
パチンと鳴った指先から火花が散る。瞬間、小麦粉に引火し、爆発した一帯が火炎に包まれた。
爆風に押され、橋から落ちた耀真はここ数日の嵐で増水した川の濁流に呑まれていった。
○
「ちくしょう、マジでくだらないことになったな」
芝生を引いた河川敷の堤防は低く作られていたため、登るのは難しくなかった。濁流に流された先で岸辺に上がった耀真は右手に引きずっていたタツミに目をやった。苦しげに咳き込み、水を吐いている。
「生きててよかったな。あいつも追ってこないみたいだし」
動こうとしないジジイを投げ出して、ポケットから出したインタラプターを転がっている腕にはめる。これでの殺人細菌の効果はほぼないものになる。
安心した耀真はどっかりと芝生に腰を下ろし、イヤホンに手を添えた。「ユーグさん」と声をかけてみたが、反応がない。水没か、戦闘か。どこかで壊れたらしい。そもそも、ジャケットに刺しておいたラベルピンを紛失している。
ため息ひとつ、起き上がらないまま荒い呼吸をくり返すタツミの顔を覗き込む。あまりにも生気のない青白さ。死人が息をしているようにしか見えない。
「おい、どうしたんだよ?」
タツミの冷たい頬を叩いて、グレーのジャケットの上から上半身を探る。脇腹を押さえていた手を退けると、下に赤黒い穴が開いていた。もうあまり血が噴き出してこない。
あの一撃、橋の上でケヴィンから受けた一撃だ。それが致命傷となり、川の中で出血が促された。
俺のミスだ。
「ちょっと待て。いま救急を……」
携帯端末を出したが、これも水没で使えない。
「くそっ」と呻いて、人を呼びにいこうとした耀真の腕に力ない指先が触れる。振り返った耀真はタツミと視線を交わした。
万一、傷を塞げても血が足りず、息絶えるのは目に見えて明らかだ。
ひざまずいた耀真は紫色の唇に耳を近づける。
「どうした? なにかあるのか?」
「おま……、しんじ、て……」
「ああ。どうした?」
「か……、で……。おれの、むすめの……」
「むすめ? あんた、娘がいるのか? 女の子?」
頷くこともなく、唇が震える。
「きた……、こうこうの……、して」
「こうこう? 高校か? 学校に通ってるのか?」
「まもって……、れ」
守ってくれ?
返すより早く、薄いまぶたが落ちる。脈がなくなったことを確かめ、タツミの体を寝かせた耀真は、開きっぱなしの口も閉じてやった。
○
救急車の開け放たれた荷台に座り、タオルをはおったまま温かいお茶を口に含んだ。ハチミツだろうか、甘ったるいなにかが入れてあり、疲れた体には心地いい。
「耀真っ!」
土手の下から聞こえた声に視線をやると、心配そうな顔の百合華が芝生の坂を駆け登ってくるところだった。
「いつもいつも心配させて、バカっ!」
勢いそのまま、頬を殴られる。
「痛いなあ、いきなり」
「わたしの心はもっと痛いんです!」
こちらを押し潰す勢いで身を乗り出した百合華に威勢を削がれ、痛む頬を擦るのに徹する。
「どおして! 耀真はいっつもわたしに心配かけてばっかりなの? 趣味なの?」
物理的にも精神的にも痛い声は無視して、土手の下から登ってきたシアたちの方に意識をやった。
「よく生き延びたわね」とシアがけたけた笑う。
「お疲れ様だったね、耀真くん」続いて来たユーグも笑顔でいう。「彼が死んだと聞いたが……」
「ちゃんと看取りましたからね。間違いありませんよ」
タツミが息を引き取った直後、土手の上にある歩道を散歩していた男性に携帯電話を借りた耀真が各所と連絡を取ってから二十分あまり。二台来ていた救急車のうち、遺体を積んだ車両は先に行ってしまった。
「そうか」とユーグは真面目に一考する。
「すみません。捕まえないといけなかったんでしょう?」
「仕方がないさ。戦いの中での出来事だ」
ユーグは川ぞいを歩き回る警察官たちを見下ろした。
「彼は耀真くんがやったのかい?」
「いえ、ケヴィンとかいうやつです。古ぼけたコートを着た大男」
百合華の罵詈雑言がぴたりと止まる。
「ケヴィンって、あのケヴィン?」
「そうか。僕も噂には聞いていたが、やはり生きていたか」
「ユーグさんがいっていた、細菌に感染して生き残った一件だけのレアケースってあいつのことだったんですね」
「いやあ、申し訳ない。こちらの情報が未熟だった。生きているとは思っていたが、まさかもう日本に上陸できるほど回復しているとは、ね」
「俺も殺されかけましたよ」
「誰なの? そのケヴィンって」とシアが誰ともなく訊くと、美緒が応じる。
「彼はリジェクターのボスです」
「あいつ、リジェクターのボスなのか?」と驚いたのは耀真だ。
「裏社会では結構な有名人です。現行、最強の誓約者ではないかともっぱらの噂ですよ」
「最強ねえ」確かに、耀真では相手にならなかった。戦って殺される気しかしない。
「なにはともあれ」とアイリが話を打ち切った。「耀真さんがご無事でなにより。タツミ・セイジの能力による被害もなくなにより。といったところでしょうか。それ以上のお話は場所と時間を改めて、でよろしいのではありませんか?」
「その通りか。今日は耀真くんも疲れただろうし、そういう話をする場所に相応しくもない」
確かに、人が行き交い、救急隊が周りにいて、警察がそこかしこで働いている場所はエリシオンの人間が職務の話をする場所ではない。
「また後日、百合華ちゃんの家にお邪魔して耀真くんをねぎらうことにするよ」
じゃまた、とユーグはアイリを連れて、土手を降りていった。
「耀真はケヴィンと戦ったの?」と百合華が驚いた顔でいう。「本当に?」
「すげー強かった。もう追ってこないかな?」
「わたしたちみたいなヒラの異端審問官なんて歯牙にもかけないと思うけど……」
「そんなに強くて有名なのか?」百合華が怖気づくくらいなら相当だ。
「あらゆる攻撃はその肉体を傷つけられず、あらゆる守りはその拳を防げず、あらゆる足はその追跡を逃れ得ないっていうくらいだからねえ」
それと戦って生き残るとは、と呟いた百合華には心配の色より見直した色の方が濃く出ている。
「でも耀真さんは逃げなかったんですね」と、美緒がへらへらしながらいう。「細菌使いなんて置いて逃げてしまえばよかったのに。さすが、シアさまの誓約者さま」
「逃げる? 俺が?」
「置いてきたらタツミが向こうの手に渡っちゃうでしょう」
百合華が反論するが、美緒は「でも死んじゃってますよ」と首を傾げた。
「連れて帰るなら殺したりしないでしょう」
いわれてみればその通りだ。美緒に論破されたのが悔しいのか、百合華は下唇を噛んで黙る。
なぜだろう、と耀真も思う。ケヴィンがタツミを殺しに来ているのは初見でわかった。初手の時点ではないとしても、逃げる隙はいつでもあった。トラックの上でも、橋の上でも。
なぜ俺はああも必死に戦ったのか。逃げなかったのか。
「おまえを信じる、か」
確かに、あの男は色あせた唇を震わせて、そういった。
○
タツミ・セイジ。推定四十代後半。生まれは東アジアや日系アメリカ、南米、ヨーロッパと諸説あり、日本が最有力とされている。しかし、同姓同名の戸籍情報は数十人に及び、なによりその名は偽名とされている。
彼の存在が初めて確認されたのは二十三年前、アブラビ事件だ。当時の独裁政権の弾圧と制裁に対して、民衆は武装化、各地でテロを起こしながらひとつの巨大な勢力となり、アブラビで衝突。緒戦は独裁政権が近代兵器と物量により武装勢力を圧迫、数日の戦闘を経て、町の外殻まで押し出す。一時は政権側から勝利宣言も出たという話もあった。
だが、突如として政権側の部隊は瓦解する。
前線の将士たちから次々と連絡が途絶え、ゲリラ勢は一度にその勢力を拡大、政権側の部隊を破り、アブラビを占拠、そこを足掛かりに首都まで進軍し、政権のトップを抹殺。新しい社会主義国家が生まれたのだ。
この国家、現在は新しく生まれた大統領が首相を逮捕したり、大臣を放逐したり、多くのイザコザがあって、いまなお激しい内紛の最中にあるが、それは別の話。
タツミはアブラビ事件の終盤において、ゲリラ勢力に参加したことが認められている。政権側の遺体は一部、黒ずみ、腐っていたというから、彼の能力が行使されたのは間違いなかろう。
「タツミの娘が高校にいるとして、十八から十五歳であるなら、生まれたのはこの後だ」
耀真はエリシオンから送られてきた資料のコピーを机に投げ出す。でも、と続けたのは百合華だ。急須の中のお湯を回しながらいう。
「娘がいるとして、その母親はわからない。国籍、人種、生まれた町のすべて。当時、この国には各国治安部隊、NPOにNGO、エリシオン職員等々、様々な国籍の人間が出入りしていたから」
「このあと、タツミはヨーロッパを巡ってる。そこでケヴィンと出会い、以後行動を共にするってあるんだ。だから、このヨーロッパ巡りの最中に母親と出会った可能性だってある」
「もっと細かい情報はないの?」とシアは苦虫を噛む。
「これ以上の情報はエリシオンからは望めない。美緒に頼んでる」
美緒は弄っていたシアの携帯電話から顔を上げた。
「ヒエログリフのメンバーが現地で情報を検索しています。シアさま、これのGPSをわたしのスマホに繋げていいですか?」
「なにそれ?」
「シアさまの位置がわかるやつです」
「こいつ、変態ストーカーですよ」と耀真が笑う。
「ち、違いま……」
「重要なのは」と百合華が話をぶった斬り、急須から四つの湯呑みにお茶を注いでいる。「その娘が本当にいるとして、能力を受け継いでいるのか、受け継いでいるなら、その能力に気づいているのか」
「気づいてると危ないですよね。シアさま、GPS繋いでおきましたから」
「なにそれ? いまどうなってるの?」
シアは美緒が握る携帯電話の液晶を覗く。「気づいていない方がいいわね」という百合華は二人をあからさまに無視して、耀真と向かい合った。
「性質は似ているけれど、細かいところまで似るとは限らないもの。娘の能力で生まれた菌は紫外線では死なず、数分、数秒で世界全体を包む力を持っているかもしれない」
「世界全体っ!」と美緒は叫ぶ。
「ちょっと、せっかく買った携帯電話、壊さないでよ」シアは美緒の胸から携帯電話をひったくる。自分でポチポチ押してみる。
「地球全体なんてこと、あり得るのか?」と耀真。
「極端な話だよ」
「シアも一般人と誓約者の見分けはつかないんだよな?」
耀真の問いにシアは首を振った。
「無理ね。いまの私じゃ、エルの姿を見ることも話すこともできないもの」
「ならどうするかな」
「人海戦術に頼るのが一番ね」百合華がいう。「早いところエリシオンと連絡を取って、捜査してもらいましょう」
「もし、エリシオンがその娘を見つけるとどうすると思う?」
質問の意図を察したのか、百合華が眉をひそめた。
「異端審問官のことを心配してるの?」
「異端審問官はエリシオンの暗部、素性も素行も秘匿されているから、人を拷問し、殺すことも厭わない闇の組織」
「世間の評判ではね」百合華が事もなげに、長い髪を耳にかける。「実際はいうほどでもないはずだけれど」
「少なからず、そういうやつらがいると、俺は思ってる」
「そういうやつらに見つかると、娘は即刻死刑になることもある、と。そう考えてるわけだ」
「この間の旧市街のことだって、誰も止めなかっただろう。エリシオンにはそういう素養があるんだよ」
「あれはあの女がいたからだと思うけど」と百合華は俯く。
「どうだか」耀真は他所を向いて、さらに続けた。「俺は他の異端審問官より早くその子を見つけ出して保護したい。危険がないことを証明してからエリシオンに引き渡せば、そうそう手荒い真似はできないだろう」
「危険な子だったらどうするの?」
「それはそれで法に任せるよ」
「私は別に構わないわよ」シアは携帯電話をテーブルに置き、隣のミカンに手を伸ばす。皮を剥きながらいう。「耀真が決めた方針なら」
「シアさまがそうおっしゃるならあたしも」
「悪いな」とうなだれてから百合華を見遣った。「どうする?」
「どうもこうも」こちらをひとつ睨んでから全身の力を抜いた。「かなりリスクは高いけど、そういうからにはなにか考えがあるんでしょうねえ」
「父親のいない女の子を探せばいいんだろう。難しいことじゃない。この辺りの高校っていったら、北峰原しかないだろう。すぐ見つかるんじゃないか?」他の高校は電車で二、三個の駅を越えなければならない。「この辺り、あの高校しかねえぜ」
百合華はため息をつく。
「簡単にいっても、生徒が千人いるとして、半数の五百人が女子。その身元を四人で調べるとなるとどれほどかかることか。そもそも、わたしたちの持ってる権限なんてないに等しいし」
「その点もあたしにお任せください」と美緒が豊かな胸を張って揺らした。「そんじょそこらの高校のパソコンに侵入するのなんてお茶の子です」
「美緒、そんなことができたのか?」
「データ取った後、照会するのに二、三日かかりますけど」
「これは楽に行けそうだなあ」
「いやいや」と百合華が手を振る。「犯罪行為だよ、さすがに」
「えー」と美緒と二人で肩を落とす。「それじゃ一生かかるぜ」
「ですねえ」
「世界滅ぶわ」
じ、と百合華を見つめると、狼狽えた彼女は再びのため息で肩を竦めた。
「仕方ないわね。ニュースにならないようにね」
「お許しが出たぞお」
「盗みまくりですね」
「ちゃんと節度を守ってやるのよ」
「節度のある奴は盗みに入らんぜ」
「早速あたしは仕事に取り掛かります」と美緒が部屋を出ていく。耀真はそれを見送って、腕を組んだ。
「俺たちのやることはなくなってしまったな。美緒待ち」
「とりあえず」と百合華が手を上げる。「わたしに二人ばかり心あたりがあるけど……」
○
北峰原高校。
耀真たちが暮らす町にあり、生徒数は千人にのぼる巨大な私立高校だ。名門大学に進学する者もいれば、平日の昼間から街角に座り込んでいるような者もおり、学力は様々。スポーツ等の文化活動に至っても、全国大会に出場するものから部室が漫画喫茶になっている運動部まである、非常に自由な校風の高等学校だった。
「そこであたしはいってやったのよ。それ、あたしのじゃねえですよ、ってね」
がははと豪快に笑うと、天使の輪ができた栗色の髪が肩の上でさらさらと揺れる。この女子生徒、身長は耀真の胸までしかないのに、いったいどこにこれほどのスピーカーが詰まっているのか。常々疑問に思う。耀真は廊下の窓枠に背中を預け、けたたましい笑い声を聞くともなく聞いていた。
学校の二階廊下は窓が開け放たれていて、夏の入口を感じさせる風が吹き抜けていく。こんな清々しい場所でわざわざ騒音に等しい音響に耳を傾けているのは仲良しだからではない。まん丸の茶髪の向こうにいる別の女子生徒を観察するためのカモフラージュだ。この偽装に意味があるのかないのかは定かではないが、いまのところ気づかれている様子はない。
「ちょっと、あんた聞いてんの? あたしがこんな腹筋よじれる話してんのに」
「いや、聞いてない」
「衝撃の事実」わざとらしくのけ反った小娘は隣にいる百合華に向き直り、ねだるように身をくねらせる。「百合華ちゃあん、バカがバカな顔してバカみたいにあたしをバカにするよう」
「よしよし、美々子はいい子なのにね」
美々子と呼ばれた少女は百合華に頭を撫でられながら「ああん、ママン」と声を上げた。そのまま抱きついて、胸元に顔を埋める。「愛してるよ、永久に」
「ママンじゃないよお」
「ママンのような愛情を注いでくれる百合華ちゃんを愛してるよ、永久に」
「でも、わたしがママンならダッドは耀真かしら」
「それはイヤ、絶対」
耀真はいつもの小芝居を眺めながらも、意識は別の女子生徒に飛ばしていた。
頭の両側に結んだ黒い小さなリボンをアクセントに、ウェーブした赤っぽいロングヘアーが足を踏み出すたびに尻尾のように右へ左へと流れていく。整った顔立ちと猫のように蠱惑的な瞳が人の目を惹きつける。細い腰に巻きつけた金属のベルトもアクセサリーだろうか、ブレザーの制服姿には少しそぐわない気がするが、堂々としている立ち振る舞いが多少の違和感をオシャレに変換してくれている。
美人といって相違ないが、どことなく近づきがたい美人。白い肌に触れようとすれば、炎に似た髪に焼かれ、火傷しそうだ。
あれが西條蘭子。百合華のいっていた心あたりのひとつだ。エリシオンを二分する勢力である騎士団と元老院、後者を構成する枢機卿の一人、西條伊織の養女。
百合華の話によると、西條伊織という人物は、近年力をつけてきた枢機卿の一人で、様々な災害により生まれた孤児を何人か引き取っているそうだ。伊織自身は独り身で実子がいないため、西條家の嫡子は悠然と廊下をこちらに向かってくる彼女、蘭子ということになっている。この高校に通っている西條家の人間は蘭子と実妹の桜子の二人。これが百合華の話にあった心あたりだ。しかし、どちらがタツミの娘かわからないし、それ以前に、二人とも違うということだって大いにあり得る。
ちらちらと見ていてもわからないな。じっと見てもわからないだろうけど。
どうしたものか、と一考していると、猫のような瞳が耀真たちに据えられた。真赤な唇が愉悦に歪む。
「あら、綾薙さんのところの百合華さんとその飼い犬たちではありませんか」
「飼い犬だとぉ!」美々子が歯を立てて唸る。「あたしゃ、犬より猫派だっちゅーの!」
「飼われているところは否定しませんのね」
「引っかくぞっ」
蘭子に飛びかかろうとした美々子のうしろ襟をむんずとつかんで引き寄せた百合華は平然と微笑んだふうだった。しかし、装っているのは明らかで、口角が痙攣している。
「こんにちは、蘭子」
「こんにちは、百合華。取り巻きを二匹も連れて、いいご身分ですこと」
「取り巻きでも飼い犬でもありません。わたしの友人です」
「友人、ね」失笑した蘭子が肩にかかった髪を払った。「そんな傷のなめ合いなんてしていないで、先日の失態を取り返すことに真剣になってもらいたいですわね」
百合華の眉間に皺が寄って、今度はあからさまな不機嫌を露呈する。
なんの話さ、と美々子が視線で問うてくる。
「騎士団がやったあれのことだろう」
ああ、と美々子は頷いた。
「あれはひどかったもんねえ」
先日の一件で、旧市街の半分を壊滅させたのは実際騎士団だったが、一般には冥魔の出現と公表され、事なきを得ていた。しかし、第六騎士団は町の被害を拡大させたとして騎士団適性不審、すなわち相応しくないからという理由から解体、現在は再構成中の身にある。余談だが、現在、第六騎士団の管轄である東アジア一帯の冥魔を狩っているのは、ヨーロッパを拠点にする第一騎士団とアラビア・西アジアを拠点にする第五騎士団の人間が半々といったところで、大まかに管轄を分けあっている。
「エリシオンは基本的に騎士団と、枢機卿で構築された元老院議会で出来上がってるから、今回の騎士団の不祥事は議会が取り仕切ったことになるな」
「それって正解?」と疑う目を向けてくる美々子に耀真はムッとする。
「もっと正確にいうと、元老院議会があるのはヨーロッパの総本山だけで、日本には騎士団がいても枢機卿は数人しかいなかった気がする。確か、他に司祭様を何人か入れて委員会を作ってたっけ」
「その通りですわ」と蘭子が詰め寄って、睨め上げてくる。甘い体臭を嗅いで、一歩引き下がった耀真の背中が窓枠にぶつかり、肩は外に落ちる。
なにか、この眼差しに込められた敵意は本物のように思える。いままでの冗談が冗談みたいだ。
「わたくしのお母様が四方八方に手を回してくださったからエリシオンの名が失墜することは免れましたが、あなた方現場の人間がぼんやりとしているから、あのような恥をさらすのです。よく肝に銘じておきなさい」
「ええ、そうさせてもらいます」
殊勝に頭を下げた百合華を蘭子は、ふん、と鼻を鳴らして見下してくる。
「だいたい、あなた方は……」
「ちょっとあんた」と仁王立ちした美々子が口を挟む。「いい加減にしなさいよ。これ以上百合華ちゃんを罵倒するようなら本当に引っ掻くよ」
「ほう、チンチクリンがどうするですって?」
「にゃにおー!」
美々子が前に乗り出したとき、「なにをしているんですか」と別の声が割り込んできた。美々子の体がびくんと跳ねる。その首がゆっくりと動き、向いた先にはパンツスーツ姿の女性がいた。黒髪を背中で簡潔に束ねた彼女は、日ごろでも鋭い視線をさらに鋭くして耀真たちを順繰りに射る。
「四人でなにを揉めているんですか?」
「違うよ、佳奈ちゃん。あたしゃ悪くないかんね。この感じ悪い女が悪いんだからね。雰囲気そのまんまの悪さだよ、この女」
「喧嘩両成敗です。二人とも悪いんでしょう。それと、佳奈ちゃん、ではなくて、名波先生です」
「お騒がせして申し訳ありませんでした」蘭子が意外にもあっさりと謝る。「それでは、わたくしはこれで」と残して、これもあっさりと去っていく。
「あ、待ちなさいよコラ」
追いかけようとした美々子の腕を佳奈が捕まえる。
「待つのはあなたです、篠原さん。きちんと謝りなさい」
「あたしゃね、佳奈ちゃんに謝るような悪いことなんてなにひとつしてないよ。というか、生まれてこの方正義しかしてないよ」
「ここで謝るというのは、もう騒ぎを起こしません、と周囲に約束する意味合いです」
「あたし、騒ぎなんて起こしてないよ。静かにしてること林の如し」
「やかましいこと工事現場の如し」
「なによ、耀真。ケンカ売ってんの? 引っ掻くわよ」
爪を立てた美々子の腕を佳奈が引っ張る。美々子は顔をしかめて、ひいと呻いた。
「あたしは正義を成そうとしただけなのに」と安っぽい涙を流す。
「名波先生、美々子にはわたしからよくいって聞かせますから」
いった百合華と目を合わせて眉をひそめた佳奈は一瞬のあと、重いため息を吐いた。
「まあ、綾薙さんがそういうのなら……」
腕を解放された美々子が百合華の胸に飛び込み、歯を立てて先生を威嚇する。その頭を百合華に叩かれ、工事現場然とやかましかった威勢がようやく静まった。佳奈がまたため息を吐き出す気持ちは耀真にもよくわかる。「あとは任せますからね」とだけいってグレーのスーツ姿が去っていく。
「佳奈ちゃんは厳しすぎるよね。冬のロシアの寒さくらい厳しいね」
「おまえ、ロシアなんて行ったことないだろ」
「ナポレオンもヒトラーもロシアの寒さに負けたんだよ。そして、あたしもロシアの寒さに匹敵する女の前に敗れるのです」
「余計なことばっかり知ってるんだな」
「美々子、名波先生は新任なんだから、追い詰めちゃダメだよ」
「追い詰められてるのはあたしの方ね」
「そんなこといわないの。名波先生もあれはあれで心労があると思うよ」
「へん、どうだか」
鼻を鳴らした悪態を最後に美々子は百合華の胸に顔を埋める。
もう、と項垂れた百合華は次いで眉を上げた顔を耀真に向けた。
「どうだった?」
蘭子のことは、といいたいのだろう。
「感じの悪さと騒がしさしか印象に残ってない」
ちなみに、後者は蘭子と関係ない。
「だよね」
力なく笑う百合華を横目に、耀真は蘭子が消えた先に視線をやった。「ただ」と無意識に口からこぼれる。百合華に目を戻すと、不思議そうな顔をしていた。「ただ?」と問い返されると逃げ道がなくなる。
「ただ、あの悪辣な雰囲気は、あのジジイを思い出させるな」
○
ユーグとアイリが綾薙邸を訊ねてきたのは、その日の夕方だった。
「先日は面倒をかけたね。お礼といってはなんだが、夕飯をご馳走しよう」
耀真たちはそう誘われて焼肉屋に来ていた。関東近郊では珍しくないチェーン店で、耀真たちがボックス席に案内されてから立て続けに客が入ってきた。見える範囲は人で埋まっている。
「焼肉なんて久しぶりですね」と美緒が割り箸を割る。
「この時代のご馳走ってこういうものなのかしら?」
「この国だと結構あることじゃないかな、チェーン店だけど」
「耀真、ご馳走される身でそんなふうにいわないの。もっとお肉にこだわった店がいいだとか、時価しかないお寿司屋さんがいいだとか」
隣に座った百合華がタレの皿をせっせと並べていく。
「ははは、時価しかないお寿司屋さんは昨日行ったからね」
「え」と美緒が体を震わせ、割り箸を落とす。悠々といったユーグを見遣った。「だとしたら昨日誘ってほしかったです」
「さすがに出費がかさんでしまうね」
そこで肉と飲み物が運ばれてきて、ビールに口をつけようとしたユーグが「そうそう」と思い出したような声を出した。
「お酒が入る前に聞いておくけど、例の件はどうなったかな?」
「進展なしですよ。昨日の今日ですから」
タツミの娘の件はユーグに話してある。エリシオンの方には情報を流さず、内々に処理することも了承を得ている。
「しかし、悪いね。手を貸せなくて。管轄外の日本で出しゃばり過ぎたから、もうにっちもさっちもいかなくて。いまやっている仕事で手一杯だよ」
「そのいまやってる仕事はどうなんです?」いまだ国内にいるリジェクターの動きを追っているのだそうだ。「あいつ、まだ生きてるんでしょう?」
粉塵爆発で吹き飛ばしてやったケヴィンのことを思い出す。アイリにはイメージが通じたようだ。
「まだまだ健在ですよ」
「あいつ、なんでまだここにいるんです? あのジジイは死んじまったんだから、もう目的もないでしょう」
「まだわかりません。まさか、耀真さんやシアさんが目的とは思えませんが」
「それは」と呟いて不安になる。本当にそうだとすると、正面からあの化け物と戦わなければならなくなる。なにか切り札を考えておかなければならないな、と適当に結論を出して目前の会話に戻った。切り札は一人になったときに考えればいい。「それはこっちで気をつけておきますよ」
「他にも仲間がいるようです。お気をつけて」
「マジですか? どういう仲間です?」
「誓約者でしょうが、詳細はわかりません」
「万一対峙すると、非常に面倒なことになりそうですねえ」
相手の能力がわからないとなると対策の立てようがない。
「そういうのを捕まえるのが耀真やユーグの仕事でしょう? こんなところでのんびりしてていいのかしら?」
意地の悪そうな顔のシアが割り箸の先を耀真に、ユーグに交互に向けてくる。
「わたしたちのところには指示が来てないものねえ」
頬に手をやった百合華は困り顔を浮かべ、ユーグは笑う。
「僕も勝手に動くと怒られるもの」
「悪党と不真面目ばっかりなんだから」
「というのは冗談だよ。僕も一人ぼっちじゃないからね。なにかあれば仲間から連絡が来るからさ。それまで英気を養うのが僕の仕事」
「ふーん」とシアが鼻から息を出す。「ちゃんと考えてるんならいいけど」
「僕は例の娘がいるのを知ってて、探しに来てるんじゃないかと思うんだよねえ、リジェクターたちは。そう考えれば、タツミが急に宗旨変えした意味がわかるもの」
「リジェクターに娘の存在が知られたから、タツミが反旗を翻して守りに来たってことですか?」
「そうそう、耀真くんのいう通り。リジェクターが娘も仲間に引き込もう、もしくは、抹殺してしまう恐れがあったんじゃないかな。で、守りに来た」
「確かに、タツミが裏切った理由も、娘がいるだろうこの町に来た理由も、わからないんですよね」
「うん。だから、リジェクターを追っていれば娘の場所もわかるし、娘を追っていればリジェクターの場所がわかる、と僕は思ってる。二つを並行して調べていけば挟み撃ちの形にもできるし、二つの危険要素を取り除くことができる、と思うんだよねえ」
「その推測が当たっていると嫌だなあ。リディクターといずれかち合うことになるんでしょう?」
「そのときは無理することないよ。ケヴィンは僕がおさえるから、耀真くんたちは自分たちの安全を確保することに専念してくれ。……さ、仕事の話はこれで終わりだ」
ユーグが一気にビールをあおった。くぅ、と唸ってテーブルにジョッキを叩きつけるように置く。
「今日は僕のおごりだから、好き勝手に楽しんでくれたまえ」
○
糸に反応がない。
家の電気もことごとく消えているから本当に留守なのだろう。
昨日聞いた娘の話。
すぐにでも行動を起こしたい、といって焦りを滲ませるあの人を押し留めてきたのだが、新しい情報がなにもないとすると、もう止めることはできないだろう。
千載一遇のチャンスをものにできず、他に挽回の手段も得られず、袋小路に追い詰められているのは自分にもわかる。もはや手段を問うている暇はないというのも事実かもしれない。自分たちを救ってくれた人のために、その恩に報いるために。
木の葉が擦れ合い、ぽつぽつと滴の落ちる音がする。雨だ。
腕時計に目をやると、もう二十二時を回っている。もう帰らないと心配させてしまうかもしれない。
立ち上がり、尻についた砂を叩いて払う。立木の上に向かってのばした腕の手首から動脈を延長したように白い糸が放たれた。高い枝葉に貼りつき絡まった白糸はその高い伸縮性をもって、主の体を引き上げてくれる。簡単に綾薙邸の土塀を上回る高さに来て、通りに人影がいないのを確かめると、公道に飛び降りた。霧雨を降らせる厚い雲の下を駆け、住宅街の闇に呑まれていく。
○
翌日の学校で耀真は一階廊下に並ぶ自動販売機の前にいた。缶を傾け、ウーロン茶を一口含む。
「これね、あたし」
背伸びした美々子が上段にあるイチゴミルクの紙パックを指さした。爪先立ちの小さな背中はぷるぷると震えている。しばらく見つめていると、美々子がかかとを落として、憤怒の顔を耀真に向けてきた。
「早く。小銭」
「自分で買えよ」
「ケチだな。ケチここに極まったな」
舌打ちしながらスカートのポケットに手を入れ、出したピンクのがま口財布から百円玉を抜いた。銀の硬貨を指先でもてあそびながら、自販機を睨め上げる。
百合華はクラスの雑務で席を外している。しばらく来ないだろう。
「あのさ、美々子」
「なにさ?」
「西條さんの家の場所って知ってる?」
「あ?」と舌を巻いたような声を出し、美々子が振り返る。「なによ? あんた、あんな悪党に惚れたわけ? あんなド悪党に」
自分でいっておかしかったのか、ストレスを発散できたのがよかったのか、陽気に笑う。
「だとしたら、人を見る目がないね。節穴だよ。レンズが入ってないよ」
「惚れるわけないだろう」
「なら妹ちゃんの方か。あっちはふわふわしててプリチーだもんね。あたしも妹に欲しいわよ」
「妹がいるのは知ってるけど、顔は知らない」
「あんた、人生損してるね」
「そこまでいうか」
「あの子はね、桜子ちゃんていうんだけど、園芸部だからね、この時間でもお花のお世話してるかもしれないね、園芸部のエースだからね」
「エースってなんだよ?」笑いながら返す。
「桜子ちゃんはお花を育てるのが上手なんだって。しょげてた花も次の日には生き返るらしいよ。伊達にお花の名前を取ってないよ。姉はあんなだけど」ぷふっと美々子が堪え切れずというふうに噴き出す。
「花の世話に技術的な差なんてあるのか? 知識さえあれば一緒な気がする」
「あたしに訊かないで。あたしは水をあげ過ぎて花を腐らせる派だから」
美々子は自販機の隣にある窓から身を乗り出した。短い足が宙に浮き、スカートの裾がひらりとそよぐ。そんなものを見ても動揺のひとつもしないが、なにをしているのか、とは思う。
「おおーい! 桜子ちゃんやーい!」
右手奥にある校舎裏に向かって、全身で手を振る。あまりに大胆な行動に驚くより呆れた。
「こんなところでバカでかい声出すなよ、恥さらし」
「あんたが顔を知らないっていうから紹介してあげようってんでしょ、このトンチキ」美々子はシーソーのように揺れながら、さらに身を乗り出す。「ちょっとこっち来て、お姉さんとお話しましょー!」
「そもそもいないかもしれないじゃないか」
耀真も窓辺に近づいて右手の方を見遣った。小さな赤毛の女の子が不安げに駆け寄ってくる。二人の前まで来たその瞳は明らかに怯えていた。頭に結んだ片ポニーも慄いている。
「いやー、よく来てくれたね」美々子は桜子に向かって手をのばす。が、届かず、落ちそうになる。「もうちょいこっち来て」
いわれるまま近づいてきた赤毛の頭を楽しげに撫でる。
「あの、篠原先輩、あまり大きな声で呼ばれると、その、恥ずかしいです」
桜子は蚊が鳴くような声でいうと、自らを抱くように腕を組む。体格は美々子に並ぶほど小柄だが、手足が内側に向きがちな挙動とおどおどとした雰囲気でより一層小柄に見える。この子があれの妹かと思うと驚きだが、人柄はともかく、髪の色といい、顔のパーツの雰囲気といい、外見は似ていなくもない。姉と血は繋がっている。
「ごめんね、騒がしくして」
口だけで悪びれるふうもない美々子の襟首をつかんだ耀真はそのまま廊下に引き込んだ。
「なにすんのよ」
「怯えてるじゃないか、いい加減にしろ」
「あたしゃ、いつだっていい加減だっての。いいは良好の良の字で」
「どうしたのよ、いったい」と廊下の向こうから駆けてきたのは百合華だった。窓の外に視線をやって、眉を上げる。「あら、桜子ちゃん。こんにちは」
「あ、はい。こんにちは、百合華さん」
「三人とも知り合いか?」
「耀真は会ったことなかったっけ?」
「すれ違ったことくらいはあるのかな」しかし、確かなことはいえない。
「女同士には、男には永遠にわからない絆があるのさ」
「美々子なのに偉そうな」
「なのにってなにさ」
「桜子ちゃんはそんなところでどうしたの?」
百合華の問いに桜子は、あの、その、といいよどむ。
「美々子が呼んだんだよ」と耀真が助け舟を出すと、美々子がない胸を張った。
「会いたくなってね、呼んでみました」
怪しい。
美々子のやつは耀真が桜子に興味を持ったことを黙っているつもりらしい。耀真の発言、特に女性関係、は尾ひれと背びれと胸びれまでつけて原形をなくしてから、率先して百合華に話すのに。どういうつもりだ、と警戒心がもくもくとわき上がってくる。
「ああ」と百合華が手を打つ。「桜子ちゃんは園芸部だったものね。校舎の南側に花壇があるのか」
「そうです」と桜子は頷く。
「確か、顧問は名波先生だったかしら?」
これも桜子は頷いた。「そうです」
「あの冷血女が園芸とはね」と美々子が笑う。「お笑い草よ。植物だけに」
「いえ、名波先生はお優しい方ですよ。マメにお花と私たちの面倒を見てくれています」
桜子が正確に聞き取れるくらいの声を出したのは初めてかもしれない。
「マジか? お花さんとお話ってタマじゃないけどね、佳奈ちゃんは。むしろ、スパイとか、暗殺拳とか、そっちの方がお似合いじゃない? アチョーなんていってね」
「悪かったですね。お花さんとお話ってタマじゃなくて」
美々子の笑顔が凍りつく。校庭には緑のジャージを着た佳奈が立っていた。
「篠原さん、あまり邪魔をするようならあなたにも手伝ってもらいましょうか?」
「いえいえ、邪魔だなんて、トンでもございませんことよ、おほほ」
「あまりに邪魔ですから手伝ってもらうことにしましょう」
腕をつかまれた美々子は信じられないという顔だ。
「ちょっとなに、謝ってんでしょうが!」
「あれが謝ったといいますか」
「ちょっと待って」と叫ぶのも構わず、窓から引きずり出された美々子はそのまま佳奈の肩に担われて校舎裏に運ばれていった。「強制労働だ、人権侵害だ」と暴れる美々子をものともせずに歩ける佳奈は細みのわりになかなかの豪腕だ。
「では、私もこれで」
桜子は小さくお辞儀をする。「うん。またね」と手を振った百合華にはにかんで二人のあとを追っていった。
「耀真」と百合華が声をかけてくる。「もう戻ろうか」
「そうだな」
○
今日は学校のあと、審問部の倉庫整理、旧礼拝堂の掃除を手伝って、係長とのミーティング。耀真たち、異端審問官の仕事は異端者、つまり、誓約の力を使う犯罪者の確保だ。最近はリジェクターのケヴィンという超大物が入国したことでやたらと活気づいており、様々な情報がデスクの間を飛び交っていた。どれが有益で、どれが無益か、膨大な情報は選り分けていくだけでも時間がかかる。やつらが出国するまでに潜伏先を見つけ、捕まえられるのか、甚だ疑問だった。
すべての仕事が終わるころには西空に浮く雲が赤く染まっていた。
車のヘッドライトが目を刺すほどにきらめいて、前にうしろに過ぎ去っていく。繁華街の外れには太い車道と整えられた歩道があるが、他に歩いている人影はない。
「雨が降り出す前に帰れてよかったね。今朝の天気予報じゃ夕方から雨が降るっていってたから心配してたけど」
「天気予報なんて当たんないよ」
「あら、最近は結構当たるよ。科学技術の進歩だね」
「最近雨が降りやすいだけだろう。降るっていっておけば、だいたい当たるんじゃないか。明日は雨が降ります」
「耀真は荒んでるね」
携帯端末の着信音に百合華が立ち止まった。ブレザーのポケットから端末を出し、親指で画面を弾くと、笑顔を上げる。
「夕飯の材料は美緒とシアが買ったって」
「夕飯はなにになったの?」
「湯豆腐と適当に付け合わせ」
「湯豆腐」とくり返した耀真は雲が厚くなり始めた空を見つめた。「まだ夜は肌寒いからな」
「夏でもお豆腐はおいしいよ」
「そうかもだけど……」
続けようとしたそのとき、肌が震えた。
荒い呼吸と足音。
「なにか来るぞ」
「なにかって……」
百合華がいい切る前に耀真は彼女の肩を引き寄せた。
そばにあるビルの谷間から人が飛び出してくる。薄暗いため、帽子のつばがかかった容姿はなおのこと判然としない。ただ、耀真たちと身長の変わらない、黒のジャンパーを着た細身の体だ。女性のように見える。
咄嗟に広げた耀真の知覚野の先、女が出て来た路地の奥に異様な影が映る。
「おい、あんた!」
無視して走る女の背中を耀真は追った。すぐに百合華もついてきた。
「いったい、どうしたの?」
「路地の奥にバラバラの死体が転がってる」
「死体が? なんで?」
「いや、人形かもしれないけど、とにかく、あいつがなにか知ってるんだろう」
「そう」と呟いた百合華は突風を吹かせると、耀真を置き去りにして女との距離を一息に詰めた。百合華の間合いだ。いまにも一撃を食らわせようかというそのとき、突如として逃亡者が振り向いた。腕を振る。
ぎょっとした百合華が手のひらをかざす。
空気の塊が爆ぜ、女の体を軽々吹き飛ばした。交差点の向こうに落ちて、行き交う車の陰に隠される。百合華は交差点を一飛びに超え、着地したままに立ち尽くしていた。耀真も青くなった信号を渡って、追いついた。
「百合華、大丈夫か?」
「ちょっと袖を切られた」
百合華の右前腕の制服は短冊状の切り込みが入っていた。「腕は?」と訊くと、腕まくりして白い肌を見せる。そこには一切の染みもない。
「あいつには逃げられちゃった」
いった百合華の視線の先には駅前に向かう人混みがある。
「あいつ、うしろから仕掛けたわたしより先にナイフを抜いて、しかも吹き飛ばしてやったのに易々体勢を立て直して逃げたのよ。ただ者じゃない」
「エリシオンの人間かな? そのレベルの手練れとなると」
「顔がはっきり見えなかったからわかんないや。でもエリシオンじゃ見かけない雰囲気の人だったと思うよ。身軽なナイフ使い」
「なら……」敵かもしれないな、とはいわず、周囲に気を配った耀真はこちらを気にする目がないのを確かめた。
「あんまりここにいると危ないな」
「狙い撃ちされるかもしれないね。早く移動しようか。あの路地も気になるし」
百合華のいう通りだ。元の道を引き返した耀真は警戒しながら暗い路地の中に足を踏み入れる。百合華もおそるおそるといったふうについてくる。
「血の臭いと肉の焼ける匂いがする」百合華が鼻に手を当てて顔をしかめた。「風上だからまだマシなのかな」
「この調子だとホントにありそうだ」
「どうしようか」
百合華が呟いたときには、足元に丸太のようなものが転がっていた。人間の腕、肩から先だけがそこにある。少し先には胴があり、頭があり、血だまりが……。
「ぐっ」と呻いてのけ反った耀真に対して、百合華はしかつめらしい顔で遺体を注視していた。
「二人ぶんのバラバラ死体、か。猟奇的だね」
確かに、狭い路地の縦横に散らばった成人の男のパーツは二人分ぴったりある。
「百合華はこういうの平気だよな」
「平気じゃないよ。わたしだって気持ち悪い」
いいながら、携帯端末を出した百合華は耀真と入れ替わり、死体に歩み寄る。街頭が灯り、そばに転がっていた下腿部を照らし出す。幸い、膝の辺りにある切断面は路地の奥を向いている。
「ひどいね、これは」
足首に近いズボンの裾を軽くめくった。瞬間、携帯端末をするりと落とす。落下音に混じって粘度の高い水音が鳴る。
「どうした?」と耀真が声を出したときには、百合華が胸の中に飛び込んできていた。思わず柔らかい肩を抱き止める。
「どうしたんだよ?」
「よよよ、耀真、わたし、死んじゃうかも……!」
「なにいってるんだ?」
胸板に額を擦りつける百合華はなにもいわず、死体の足を指さした。
気は進まないが、調べに行かざるをえない。
耀真は離れようとしない百合華を抱いたまま、転がっている足のほうに近づいた。腰を引きながらもズボンの裾に指を引っかける。ゆっくりとめくって、黒ずんだ肌を見た。
「こっ」と短い悲鳴を呑みこんで後ずさる。「こいつ、腐ってるのか?」
「わかんないけど、黒くなってる」
百合華はようやく顔を上げて、耀真の胸もとを握りしめた。震えた声でさらに続ける。
「ユーグさんは、あの細菌のこと、感染者の細胞を壊死させて体中がぐずぐずに黒ずんで死ぬって……」
「その菌にやられたっていうのか?」
百合華が胸の中で顎を引く。
「だとしても、百合華は大丈夫だろ。とっくに三十秒以上経ってる。発症時間はもっと短い」
「ユーグさんが知ってるのとは、ちょっと性質が変わってるかもしれないじゃない。似た能力でも使い手が違えば細かいところが違うのはよくあるもの」
「そのときは俺も死ぬから安心しろ」
「耀真も一緒?」
甘い、蜜のような声でいう。男には未知の音色に背筋がざわめく。
「いまは俺も能力を展開してないからさ。死ぬときは一緒だよ」
気恥ずかしい沈黙のあと、百合華は「うん」と満足そうに頷いて、また胸元に顔を埋めた。
○
のちに来た鑑識の話によると、直接の死因は失血だそうだ。出血の仕方、拡がり方や血液量からだいたいわかるのだという。
路地は現在、立入禁止のテープで封じられ、入口を挟むように警察官が二人立っていた。奥の方はライトが立てられているので眺めようとすれば眺めていられるのだが、血溜まりの光景を思い出すと、覗く気にはならない。
三台やってきたパトカーのうち、一台のボンネットに腰を据えて、耀真と百合華は一息ついていた。「やあ」と声がして、そちらの方を向くとユーグとアイリがいた。
「災難だったね、道を歩いていて死体を見つけるなんて」
「災難なんて言葉で片付けられるものでもありませんよ」
耀真はパトカーから腰を浮かせた。警察に連絡したあと、この遺体が細菌使いと関係があるのか、ユーグに意見を仰ごうとしたら直接来るという話になったのだ。
「見たでしょう、あの惨状」
「見たよ。なかなかひどいものだね」
「なんなんですか、あれ。誰に殺られた、誰なんです?」
「そうだねえ、色々と考えられるけれど」
「警察の方から話は聞きましたか?」と百合華。
「殺された二人は金属線のようなもので締め上げられたあと、高熱を通され、四肢を焼き切られた。体があちこち膿んでいたが、その原因は不明」
「どうして、そんな手間のかかる手段を取ったのでしょうか? 相手が誰であれ、刺すなり、絞めるなり、さくっとやってしまった方が面倒もないでしょう」
「理由として考えられるものは、そうしたかったか、そうせざるを得なかったか。前者は拷問か、嗜虐趣味だね。一般的に後者であることが多いか。現場がどんなところか、よく見たかい?」
「まあ、それなりには」
百合華は唇に人差し指を添えて、宙を見る。耀真も現場はそれなりに見ている。ビルの側面に挟まれた車一台分ほどの幅がある通りだ。地元で生活していて、あまり通る道ではない。
「実際、あの場所に金属線を張り巡らせるのは難しい。なにかしらの能力と考えるべきだ」
「なるほど、そういう能力か」百合華が肘を抱くように腕を組む。
「それだけでなく、大の男二人を縛って、四肢を焼き切るというのは相当なエネルギーがいる。見たところ、そんな熱源になるものも、電源になるものもない。犯人が持ち歩いていたとも思えない」
「それも能力ですか?」
「さらにいえば、体を腐らせるような能力を持つ者も一緒にいると考えるべきだ」
「敵は三人ですか」
「三人以上と考えた方がいい。相手はチームだ。他にも未知の力を持った者がいるかもしれない。そもそも、僕らの敵になる人間かどうかはわからないけどね」
「殺したのが能力者、それもチームということは、リジェクターやエリシオンの人間?」
「まだ娘が犯人というケースは生きている。彼女はすでにどこかの組織に属していることも考えられるから。もし、この殺人に第三勢力が関わっているようなら、その組織に娘がいると断定して捜査してもいい」
「娘の側とリジェクターが小競り合いを起こすのはわかります」と耀真は眉根を寄せる。「でも、エリシオンが娘のことを知っていることって、あり得ます?」
「可能性としては、エリシオンの諜報部がよほど優秀か、それとも、僕らの会話がどこかで誰かに盗聴されているか」
「盗聴ですか?」と百合華が声を上げた。「なんでわたしたちが盗聴なんてされないといけないんです?」
「焼き肉屋で誰かに聞かれていたかもね」ユーグは笑う。「ま、可能性の話だから事実であるかはわからないよ。重要なのは、エリシオンならあの殺し方ができるし、実行もするということだ。それだけで犯人の可能性はある」
「確かに……」
「盗聴が現実的な話かは定かじゃないが、二人とも今後は注意した方がいいだろう。僕の方も気をつけよう」
耀真は咄嗟に衣服を叩いていた。不審なものは入っていない。携帯端末を取り出して、一応電源を切っておく。
「不運な犠牲者の方々のことですが」とアイリが口を開いた。控えていたユーグの陰から一歩前に踏み出す。「顔立ちから西洋の方だということはわかりましたので、入国管理局に照会していただいているそうです。エリシオンの職員データでも顔と指紋を検索してみましたが、ヒットするものはない、と連絡がありました」
「エリシオンの関係者ではないと?」耀真が訊く。
「異端審問部や諜報部の方のデータはその性質上、データの中に入ってませんから、実質当てになりませんが」
「そういうわけで」とユーグは手のひらを宙に放った。「情報がまだ少ないね。僕はもう少しここを調べていくよ」
今日のユーグはいつになく意気込んでいるふうに見えて、耀真は首を捻った。情熱というか、執念のようなものを感じる。
「わたしたちにできることはありませんか?」と百合華が訊く。
「いけないね。のめり込みすぎると、フェアにものが見えなくなる。二人は今日はゆっくり休んだ方がいいよ」
気をつけてね、といい残すと、ユーグは背を向け、アイリもそれに続く。路地を警備する警官と言葉を交わし、立入禁止線を越えていく。
「帰ろうか、耀真」
「ああ」と惰性で応え、路地の奥を見遣ると、逆光に映えたユーグの背中があった。精力的に働く姿も珍しい。自分と同族だと信じていた。
「耀真?」先に歩き出していた百合華に心配そうな声をかけられ、耀真はそちらに意識を向けた。彼女と並んですっかり暗くなった街路を歩く。
「ユーグさんはさ、もっと怠惰な人だと思ってた。結構てきぱき働いてるんだな」
「あれは働いているんじゃないんだよ」百合華が当然ですというふうに話すものだから、耀真は目をしばたたいた。
「なんで? わざわざ現場にまで出てきてるのに」
「ユーグさんは第一騎士団長でしょう。仕事はあくまで冥魔への対策であって、騎士団の運用なの。間違っても異端者の追跡でも、テロリストの捕獲でもない。そもそも第一騎士団の管轄はヨーロッパだから、いまは臨時でこの辺り、東アジアの管轄も半分持ってるなんていっても、本来の拠点を一ヶ月も空けておくなんて、上層部は怒ってるんじゃないかしら」
「そういうもんか」
「管理職には管理職のストレスがあるのよ」
「それじゃ、ユーグさんは仕事を放ってまでなにしてるんだ?」
「なにしてるんでしょうねえ」
綾薙邸に着くと、シアと美緒が居間で寝転がってテレビを見ていた。お帰り、お帰り、と双方気だるげにいう。
「なんという怠けっぷり」と百合華はため息をつく。
「だってやることないし」
「だってあたしがお夕飯を作っても失敗するだけですし」
「できる仕事探すから、寝てないで手伝いなさいよ」
百合華は半死半生の二人を連れて台所に向かっていった。
耀真もついていこうとしながら携帯端末を見て、しばらく前に着信があったことに気がついた。美々子からだ。手早くかけ直すと、すぐに通話口ががなり立ててきた。思わず耳から離す。
「あんた、あたしが電話かけてんだからさっさと出なさいよ」
「悪かったよ。ちょっと面倒があって」
「面倒? ま、いいけどさ、その面倒に百合華ちゃんが巻き込まれてなけりゃ」
「大丈夫だよ、俺たちは」
「あんたの心配はしてない」
「心配されたくもない」それで、と言葉を継いで、話を続けた。「どうしたんだよ。急に電話してきて」
「ま、どうしたんだよ、とは、なんという言い草」
電話の向こうで美々子がケタケタと笑う。
「あたしゃね、親切であんたにお電話差し上げてるんですよ」
「どんな親切?」
「西條姉妹のお家の場所、知りたいんでしょ」
「ああ、あれか」昼間は美々子が佳奈に連れていかれて、うやむやになってしまったことだ。「教えてくれるのかよ?」
「いいわよ。あんたが知ったところで桜子ちゃんにはお近づきになれないから」
「どういうことだよ?」
「行ってみればわかるのよ。これからいうから、メモ取りなさい」
「メールで送ってくれればいいのに」
「やーよ。メモが見つかって百合華ちゃんに怒られなさい。そんで見限られなさい。そんで百合華ちゃんはあたしのもの。にしし」
通話口の向こうの声は無視して、自室に急ぐ。引き出しにあったペンと紙を机に並べ、「いいよ」と呟く。
「いうわよ。覚悟しなさい」
○
ランタンに似たデザインの照明を頂いた街灯が道の向こうまで等間隔にずらりと並ぶ。その光に照らされて、敷かれたばかりのアスファルトが星空のようにきらめく。あずき色の煉瓦を敷き詰めた歩道も、充分に明るかった。
西條家は数年前に整備された新興住宅街の中にある石壁の洋館だった。三階ぶんはあろう家屋は広げた両翼に先鋭な屋根を五つもいただき、山脈然と連ねてひとつの建物を織りなしている。敷地は三メートル近い鉄柵に囲われているだけで、庭に植えられた芝生と低木が丸々見える。外から自由に眺めるのをよしとするほど潔く、堂々と衆目にさらして恥じない気風が路上まで溢れ出して、通行人を溺れさせそうだ。
鉄柵でできた正面門の奥には車寄せまである。その前に立った耀真は呆気に取られ、真ん中の屋根の先端にある風見鶏を見るともなしに眺めていた。
近所に綾薙邸と並ぶ豪邸が建ったのは耳にしていたが、まさかここが西條家だったとは。
屋敷の裏手からぐるりと回ってきて十分ばかり、横から見ても前から見ても、石壁に点在する窓からはオレンジ色の明かりが漏れ、人の生活を感じさせる。まだ起きている人間は多数いるらしい。
さて、と手を揉んで頭を回す。夜中にほとんど面識のない女子生徒を訪ねようというのだ。あの手この手で不審に思われないようにしなければならない。
気合を入れてチャイムを鳴らそうとしたそのとき。
「なにか、ご用ですの?」
予期せぬ方向から声をかけられた。二つほど向こうの街灯の下に見慣れた制服姿があった。顎を上げ、挑発的な瞳をこちらに向ける赤毛は間違いない。
「西條蘭子さん?」
「ええ」と頭を動かさずに肯定した蘭子は耀真と拳ひとつぶんの距離まで来て、腕を組んだ。自分の肘を抱えて、品定めするような視線を向けてくる。「藤崎耀真。何度か顔を見たことはありましたが、話をしたことはありましたかしら?」
「昨日、学校で、百合華と一緒にいたときに少し。個人的なのは覚えてないな」
「では、ないのでしょう。わたしがあなたのようなパッとしない男と話す必要があるとは思えませんし、あなたがこのわたくしに話かけられて忘れるはずがありませんもの」
付き合っていられない。
耀真は「ああ、そう」とだけ返して、愛想笑いを浮かべた。「少し話があるんだ」
「話、ですか」妖しく口もとを歪める。「よろしくてよ。ですが、ここでは家の者の目につきます。場所を変えましょう」
きびすを返し、蘭子が歩き出す。耀真はなにもいわず、その背中についていく。住宅街を抜け、線路沿いに歩き、踏切を越え、繁華街へ。蘭子は途中薬局に入って、消毒液を買っていた。その間、耀真は外で待っている。
「なんだ、買い物かよ」
「でもなければ、あなたを連れて夜の散歩などしませんわ」
蘭子は消毒液をブレザーのポケットに放り込むと、さらに繁華街の奥へ歩いていった。
「どこまで行くんだよ?」
「人のいないところの方が都合がよいでしょう」
蘭子の足がようやく止まったのは、六階建てのビルに挟まれた路地だ。二人の人間がやっとすれ違えるくらいの幅しかない。
「さて、この辺りならよいでしょう」蘭子は大仰に振り返って、腰に手をやった。「話というのを聞きますわ」
「誓約者っていうのは知ってる?」
「当然。神の御使いたるエルと誓約し、人ならざる力を得た人のこと」
「正直にいうよ。君のこと、妹の桜子ちゃんのことも調べた」
耀真のブラフに蘭子の顔色が変わった。眼光が鋭くなる。
「昔、とある件がきっかけで西條家の養子になった。でも本当の親は誓約者だった。その能力は家系で伝わりやすい。君たちも誓約者なんだろう?」といったのもブラフだ。養子になったのならそのきっかけがあってもおかしくはない。誓約者であるかどうかは完全にカマをかけただけだ。
「それがどうしたとおっしゃいますの?」と素っ気なくいう蘭子には若干の脈を感じる。
「もし、君たちが危険な存在だとするなら俺は異端審問官として捕まえなきゃならない。でも、そうじゃなくて話し合えるんなら……」
うつむいた蘭子の唇からふっとため息が漏れる。それは笑声となってビルの谷間に響き、次いでぎらついた彼女の瞳がきょとんとした耀真を刺した。
「捕まえる、ですって? 笑わせてくれますわね」
「笑わせてるつもりはないけど」
「わたくしたちはエリシオンに認定された誓約者です。あなたがわたくしたちを捕まえる意味はありませんわ」
「エリシオン認定っていうと、同僚かよ」
当たりはしたが、違う的だ。
エリシオンは誓約者の情報を一切公開しない。名前の一字、能力の前兆だけでも本人の命に関わることだからだ。知られれば、暗殺の危険にさらされ、戦闘では不利を被る。当然、耀真も親しい人間、十人ばかりの能力しか知らず、中央庁が抱えている無数の誓約者のことは全体数すら知らされていない。
「どういう能力なの、と訊いても教えてくれないよな」
「教えて差し上げても構わなくてよ」
「え? マジで?」予想外の反応だ。
「ええ」と蘭子は腰に巻いていた金属のベルトを引き抜いた。鞭のようにしならせるとアスファルトを打ち鳴らす。「あなたの命と引き替えに、ですが」
ちょっと耳を疑った。「なんて?」
「だから、わたくしの能力を教える代わりに、ここで八つ裂きにされるってことですわ。準備はよろしくって?」
「よろしくない。俺は戦いに来たわけじゃないんだから」
「わたくしを捕まえに来たのでしょう」
「いやいや、危険があるなら、の話だよ」
「これからあなたの命を奪おうというわたくしが危険ではないと?」
「それが事実なら危険だけど……」
「だったら戦うしかないのではなくて?」
「ちょっと待って。同僚じゃないか」
「わたくしの同僚は妹のみ。それ以外はすべて踏み台でしかありませんわ」
「踏み台にけつまずくぞ。俺と戦ったってマイナス点にしかならないだろう」
「例え、あなたを殺したところで……」
「殺すってのは真っ当な人間がやることじゃないよ」
「それを差し引いてもプラスになるだけの情報をあなたは持っているのでしょう?」
「情報?」
「タツミ・セイジの娘。どこの誰かは見当がついているのかしら?」
蘭子が不敵な笑みを浮かべて吐いた台詞は耀真の背筋を震えさせた。
「おまえ、どこまで知ってるんだ?」生まれた疑問が引き金になって、ドミノ倒しのように隠れていたものが見えてくる。「盗聴していたな? ビルの谷間の死体も……」
気がついて、耀真は前後を振り返った。不味い。
感覚を拡げると、狭いビルの間、縦横数十メートルに及んで、細いテグスのような糸が張り巡らされている。肉眼では薄闇に隠れてほぼ見えず、エコーロケーションで辛うじて認識できる程度のものだ。
この糸はまるで……。
「蜘蛛の巣ですわ」
蘭子が手のひらで宙を仰ぎながら悠々という。右手にある金属のベルトは薄闇の中で赤く色づき、鮮血に似た光を路地に放つ。
「気づきました? こうして場所を選んだのも、ぺらぺらと中身のない話をしていたのも、すべてわたくしに都合のいい空間を手に入れるため。それに気づかず、話し合い? 滑稽すぎて片腹痛いですわ」
熱を操る能力、金属の糸を操る能力、肉体を腐らせる能力。
ユーグの推理を頭に蘇らせて思考を巡らせる。
敵は? どうすれば倒せる? どうすれば生き延びられる?
「あの死体を見つけたのはあなたでしたか。因果なものですわね。こうしてあいつらと同じ道を辿るのですから」
「それは御免こうむる」
「あなたに決定権はありませんの。あなたは蜘蛛の巣にかかったハエも同然。都合よく単独で来るのだから、ここで洗いざらいぶちまけていってもらうことにしますわ。情報も、ハラワタもね」
じじっと鳴った赤いベルトが蛇のように身をよじった。宙に平面的な残像を描いて頭上から降りかかってくる。
耀真は腕を盾にして振動を放つ。先に打ちつけてきたのは蛇の腹、順にしなって垂れてきた頭。滑るように身を引いて初撃は丁寧に弾き返すことができた。しかし、何度もくり返すことはできまい。タイミングと距離、不規則な軌道のどれを取ってもシビアで、その上直接鞭に触れていない前腕が焼かれたように熱く疼く。
熱を操る能力だ。
「やりますのね。普通の人間ならもう腕が落ちていますわ。伊達に異端審問官ではない、ということですか」
耀真は一歩だけ下がって、鞭を振る蘭子から距離を取る。背中に糸が触れた。が、簡単に切れる。一瞬ののちには触れたことも忘れそうなほどに呆気ない。
金属の糸ではない。なんなんだ、いったい?
周りを確かめるために少し体を動かしただけで二本、三本と糸が切れる。
「よそ見をしている余裕がありまし、て!」
勢いよく鞭が振り下ろされる。弾いてそらした切っ先がアスファルトをえぐり、間髪入れず跳ね上がってくる。上体をのけ反らせた耀真の腹をかすめて過ぎる。そばにあった換気口の屋根がじゅっと鳴いて、切り裂かれた。軽い音を立てて地面に落ち、赤々と光る切断面が外気にさらされ、間もなく闇に沈む。
「偶然ではありませんのね」と蘭子が神妙な声を出す。「わたくしの鞭を素手でかわすとは、どういう能力者ですの?」
「答える義理はないな」
「まあ、些細なことですからね。わざわざ会いに来るというのは、自分の戦闘能力にそれなりの自信があるから支援系ではない。顔を合わせている状況を嫌煙しないのなら遠距離系でもない。この距離でなにもしてこないということはゼロ距離でなければ攻撃性がない。要するに、必要以上に近づきさえしなければ、あなたはゴミ同然、もとい、蜘蛛の巣にかかったハエ同然」
蘭子が頭の上で鞭を振り回す。オレンジ色のケミカルライトを仕込んだプロペラのようだ。左右にあるビルのコンクリが音もなく削られていく。溶かされている。
「ハエらしく、手を擦り合わせて慈悲を乞いなさい。乞うても受け入れてあげませんがね」
あとずさった耀真の体が糸を切る。腕に、足に、背中に、張りついた糸が糸に張りつき、その糸がまた糸に張りついて体に張りつく。少しずつ、少しずつ、耀真の体を絡め取っていくかのように。
「この糸……!」
腕に絡んだ糸が繋がりあって一枚の生地のようになっている。剥ぎ取ろうとした右手が腕にくっついた。糸を引くだけで腕と手が剥がれない。薙ぎ払われた鞭をのばした糸で受け止め、弾いた。だが、自然と足がうしろに下がり、また糸を切る。靴の裏もべとついて、いつの間にか脇腹と右上腕がくっついている。
「滑稽ですわ」と蘭子が笑う。「逃げても構いませんが、路地の外に出るころには糸まみれでしょうねえ」
路地の出口までいっぱいに張り巡らされた糸。これを切りながら脱出することができるか? 無理ではないかもしれない。しかし、リスクが高すぎる。糸に絡め取られ、動けなくなる。失敗が死に直結する。
額から汗がこぼれてくる。いつの間にかシャツも湿って、皮膚にまとわりつく。
「じわじわと、じわじわと、迫ってくる死の恐怖を肌身に覚えなさい」
赤熱化した鞭を両手で引いて、ぴんと張る。オレンジ色の光に照らされた蘭子の顔には狂気を孕んだ笑みがあった。
やるしかないな。
耀真はアスファルトに指先が触れるほど腰を落として蘭子を見返した。蘭子の顔から笑みが消え、冷たい視線が耀真に刺さる。
周りの気温が上がっている。地面においては、真夏の日射しをいっぱいに浴びたようだ。
ユーグが話していた殺人者、熱を操る能力者は蘭子で間違いない。それと糸を扱う能力者。それはおそらく……。
「桜子ちゃんが近くにいるんだろう? たぶん、右手のビルの上だ」
かろうじて動く指で空をさして示すと、蘭子の体から滲む敵意が増した。当たるに決まっている。エコーロケーションで探せば、ビルの谷間を覗く小さな人影はすぐに見つかった。
「もし」と耀真が続ける。「もし、俺がまだ本気を出していないとして、遠距離にも攻撃できる能力だったら、どうする? 正直にいうと、俺の脅威は蘭子の能力じゃなくて、こっちの糸の方だ。これさえ解除できれば、俺は簡単に逃げられる」
「だったら、なんだとおっしゃいますの?」
「わかるだろう? ちょっと考えれば」
人差し指と親指で宙を挟んでみせる。
蘭子の両手がくり返し鞭を引く。膝を折り、腰をかがめ、わずかに姿勢を低くする。
疑心暗鬼だ。
蘭子はいま、耀真の能力を疑っている。妹の方を狙っているかもしれない、と。そんなはずはないと確信していても、どこかにわだかまりが生まれた。それが動きに隙を作る。そこを見つけて一撃を見舞うしかない。
「ハッタリですわ」
「俺から答えを教える必要はないんだ」
路面に触れて、小さく十字を刻んでみせる。蘭子の赤っぽい瞳が左右に、わずかに動く。意味のない動きに意味を見出しているか?
一、二、三。
タイミングを計って蘭子を観察する。来るか? いつ来る? 気温が露骨に上がってきた。四十度? 五十度? 体のいたるところから汗が噴き出してくる。顎を伝って、アスファルトに落ちる。わずかな音を立てる。
前に重心を置いた蘭子が生唾を呑み下した。
「嘘ですわ」
耀真は沈黙を守る。
四秒後、蘭子が走り出し、間合いが詰まった。
来た。
耀真も駆け出し、急制動をかけた蘭子との距離はゼロ。
慌てたように振り上げられた鞭が姿勢を低くした耀真の脇を過ぎる。懐に入って鞭を持つ手を叩いた。細い指先から鞭がこぼれ落ちる。さらに耳元へ向け、拳を振った。が、蘭子のバックステップの方が早い。宙を振動させただけの拳を引き戻し、さらに蘭子へ詰め寄った。
直接胴へ撃ち込むしかない。
手加減していられる相手ではない、と噛み締め、蘭子の腹部の向こう側に打点を置いた。拳を振り抜く。しかし、それも空を切る。飛び上がった蘭子が糸をつかんでいた。ゴムのようにたわんだ糸が細身の体を上に持ち上げ、反動を利用した蘭子がさらに上へ、跳ねるように登っていく。
そんなバカな。あの糸の強度でそんなことできるはずがない。
「やはり、ハッタリでしたわね」
人二人分の高さ、路地を登って、糸の上に立った蘭子は自分の両肘をつかんでこちらを見下ろす。スカートの裾が熱を持った上昇気流にひらひらと揺すられる。
「驚いていますわね」口もとを舟形に歪めた蘭子が目の前にあった糸に指先を引っかけ、大きく弾く。琴の低音に似た音が、余韻も長く鳴る。「わたくし、まだカードを伏せていましたの」
蘭子が乗っている糸が朱色の光を帯びる。ペンで線を引くように、朱の光が路地の中を満たしていく。一本、二本、三本……。まばたきをしている間にも、張り巡らされた糸を辿り、枝分かれをくり返し、増えていく。
「これは……」
耀真は換気口の屋根だった鉄片を拾い上げた勢いそのまま朱の糸に叩きつけた。糸をたわませることなく、鉄片の方が切断される。
「あのビルにあった死体はこれのせいか」
熱が通ると強度が増す性質があるのか。迂闊に触れれば、この鉄片と同じ運命を辿るのは間違いない。
「あの死体、おまえと桜子ちゃんがやったのか?」
「その桜子ちゃんというの、気安くて気に入りませんわね」
「関係ないだろ」
「あるに決まっているでしょう。わたくし、あの子の姉ですもの」
「そもそもそんなこと聞いちゃいない」
「わたくしとあの子ですわ。テロリストを始末しましたの。なにか知っているかと思いましたが、存外口がかたくて。生かしておく必要もありませんし、殺してしまいました」
「おまえ、テロリストとはいえ、裁かず殺すのもどうかだが、妹に手伝わせるってのはゲスが過ぎるぞ」
「勘違いしているようですわね」と人差し指を舐める。「人の命なんぞ、それほど重くはありませんわ。むしろ、軽いくらい」
「おいおい、ずいぶんな過激発言じゃないか」
「あなたはわかっていませんのね。命の軽さを知らなければ、生き延びることのできない世界があることを」
本気でいっているらしい。一体過去になにを体験したらそんな台詞を吐けるのか。
ともかく一発殴ってやりたい。しかし、三メートル近く上方に離れていては近づけない。熱線に阻まれ、進むも引くも自由がない。そもそも、時間が経ったせいか、糸が体によりフィットしてきて上手く動けないし、六十度を上回っていると思われる外気に体の水分も吸い尽くされていく。
いやいや、サウナに入っていると思えばもう少し持つはず。その間になにか考えねば、と思案した頭がぐらりと揺れた。
「あ、あれ……」と呟いた体がほとんど勝手に膝を折る。どうしたんだ?
「いつまで耐えられるかしらねえ。もう少しでローストになるかもしれませんが、その前に限界が来るかしら?」
蘭子が嘲笑する。
なにかされている? 蘭子はまだ知らない手を隠している。残る敵の能力は……。
「体を腐らせる能力か……」
敵はどこだ? 三人目の敵は。それらしい影はエコーロケーションにも映らない。
「お姉ちゃん」
空から降ってきた声の主は桜子だ。糸を編んで作ったらしいロープを支えに下りてきて、足元に渡した無加熱のロープの上に立つ。
「もういいでしょう。これ以上先輩を苦しめなくても……」
「いいも悪いも、まだなにも聞き出せていません。それに能力を見られたからには始末は最低条件です」
「そんな……」
「弱気ではダメよ、桜子。すべてはお母様のため」
桜子は言葉を継ごうとした口を閉じてうつむいた。蘭子の温度のない瞳が耀真に向き直る。
「さあ、このまま苦しんで死ぬよりは一思いに殺された方がマシでしょう。知っていることを話してくだされば、その軟弱な首を切り落として差し上げますわ」
「おととい来やがれ、ボケナス」
ボケ、と呟いた蘭子は素になっていた顔をしかめた。
「あなた……!」
「先輩」と桜子が割って入る。蘭子も口を閉じて声の方を見た。「もう降服してください。そうすれば私たちも引き下がります」
「降服ってなにかな? そもそも俺は戦う気なんてないよ」
「それは……」
「情報を開示しなさい」
「蘭子は話にならない。こっちの命を奪うと胸を張っていうやつは」
「なんですって?」
「お姉ちゃん」桜子に釘を刺され、蘭子は舌打ちをしながらも再び口をつぐむ。
「細菌使いの娘のことを教えてください。それと、もうこの件からは手を引いてください」
「知ってどうする?」
「必要なら始末します」
「必要でない場合は?」
むっと桜子が喉を詰まらせると、蘭子が代わりに口を開いた。
「必要でなくても、エリシオンに引き渡し、然るべき処置をとっていただきます」
「だったら断る」
「なにを血迷ったことを。それが異端審問官の仕事であり、エリシオンに籍を置く者の責務でしょう」
「頼まれたんだ。守ってくれって」
「頼まれた?」桜子が大きな目をさらに大きく丸くした。
「もう話になりませんわね」
視線を鋭くした蘭子は一段糸を降りる。桜子はその背中から耀真に視線を移すと、早口にいった。
「先輩、この糸は人から養分を吸い取ることができます。いまは全身がだるくなったように感じるだけかもしれませんが、あと何分もせずに細胞が壊死し始めて死に至るでしょう」
思わず蘭子が声の方を振り向き、耀真も目を見開いた。自分の能力をつまびらかに話すとは……。
「桜子、余計なことはいわなくていいの」
「条件を呑んでくだされば、私たちは絶対にこれ以上の危害は加えません。信じてくださいませんか?」
「申し訳ないけれど、そういう問題でもないんだ。娘を殺させるわけにはいかない」
「私たちも遊びでやってるんじゃないんです。だから……」
「もういい」と蘭子が一喝する。「あなたは下がっていなさい」
「でも……!」
蘭子は妹の声を無視して耀真を睨む。
「あなたに近づくのは危険とわかっていますから、別の方法を取ることにしますわ」
ポケットからティッシュを取り出して、角をつまむとそこから火が噴き出した。さらにブレザーのポケットから出された消毒液のボトルを見、耀真は全身を粟立てた。糸に覆われて体と一体化してしまったジャケットをなんとか緩めて、頭に被る。一息遅れてボトルが落ちてくると、膨らみ弾け、中身のアルコールをぶちまけた。続けて落とされた火種に引火し火炎を作る。が、ジャケットの表面を舐めて、すぐに飛散した。
「ち、やはり火力が少ないか。日本では酒瓶が買えないからな」蘭子は独りごちると、手刀で空を切った。「仕方がありませんわね。このまま温度を上げて焼き殺すことにします」
計算ずくで躊躇もない。このままではマジに殺される。
耀真はシャツの胸ポケットに手を入れようとして諦め、布地を力任せに引き千切った。中に入れておいたコインが転げ落ちる。拾い上げて路上に叩きつけると、高い音を立てて跳ねた。
一人で対処できるかとも思ったが、とんだ思い上がりだった。アスファルトから湯気が湧き、先ほどまで濡れそぼっていたシャツも乾いてきている。もう唾液も出てこない。
「ほほほ、アフリカでは猿の燻製を売っているそうですが、ここで実物を見ることになるとは思いませんでしたわ」
「なにが猿だ、鬼ババア」
「おに……?」
「地獄で釜の番でもしてるのがお似合いだよ」
表情を凍らせた蘭子の眉間がピクピクと痙攣する。
「な、なんといっているのか、よく聞こえませんでしたわね」
「おまえがいれば地獄の火起こしも楽だろうよって話だよ。二度も聞かないとわからないのか、鬼ババアが。脳みそまで煮えたぎってるんじゃないのか。もうじき鼻水になって出てくるぞ、気をつけろ」
「猿の分際でやかましいのよ。あんまりほざいてると切り殺しますわよ」
蘭子がそばにあった糸をひったくるように千切った。その糸が赤く光る。
「やってみやがれ、チリチリパーマ!」
「きー! 頭に来ますわね!」
かなぎり声を上げる蘭子の体が上下するとともに、糸がたわむ。
小さな赤い光点がビルの壁面に現れた。獲物を探して這い回る。見えなくなったのは蘭子に照準が合ったからだろう。
「お姉ちゃん、伏せて!」
桜子の声に驚いた蘭子はしゃがもうとして地面に落ちた。遅れて、パンッという破裂音が路地に響く。
「なに? 伏兵?」
蘭子がいっている間に、桜子が腕を振る。狭い路地を塞ぐように糸を張り巡らせて、できあがった白い生地がビルの谷間を塞いだ。
「先輩、いまのは……!」
「ミスったか」と耀真はうなだれる。険しい目を向けてきた桜子を見たのが最後、首が上がらない。
頭がぼんやりとし、喉が震え、まぶたが重くなってきた。体力の限界が近い。吐きそう。
「なんて卑劣な男かしら」
「おまえだって、桜子ちゃんを伏せてただろ」
コインの合図は潜んでいるシアに上手く通じたようだが、桜子の存在は予定外だった。ここから先はなんとかシアと連携して……。
思案しているうちに空から水滴が落ちてくる。雨が降って来たのだ。
蘭子は目を丸くして、黒いだけの空を見上げていた。桜子に目配せして立ち上がる。
「ふん、猿が小賢しい真似をするから、今日はこれくらいにしておきましょう」
所々で蒸気を上げる糸から朱色の光が消えていく。狭い路地に暗闇が勢いよく流れ込んできた。桜子が指先から糸を垂らして路上に転がっていたベルト状の鞭を引き上げている。
本当に逃げるつもりらしい。
「おい!」
「もうあなたと話すことなどありませんわ」
蘭子は糸を足場にしてビルを登っていった。桜子は空に向けた手首から太い糸を放つ。ちらと地上へ目を向ける。
「もう私たちに関わらないでください」
「関わるなっていわれたって……」
娘を探す以上、できない相談だ。
耀真の答えを聞く前に背を向けた桜子は飛び上がって、瞬きの間に夜に紛れた。
張り巡らされた糸は溶けるように消え、静寂を取り戻した路地に霧雨を乗せた寒風が吹き込んできた。
○
とある古ぼけた商店の軒下にあった自販機に背中を預けて座り込み、スポーツドリンクを喉に流し込む。胸から腹、全身へ水分が拡がっていくのがわかる。五臓六腑に染みわたるとはこのことだ。一息に一本がなくなり、ゴミ箱に放り込んだ。引いていた汗が毛穴という毛穴からどっと噴き出し、下着を濡らしていく。額に沸々と滲み出し、顔の至るところを伝って眉や顎から滴り落ちてくる。
「もう一本いる?」
隣に立つシアが自販機の明かりに照らされながらいっていた。頷いて返すと、シアが蓋を開けてないボトルを手渡してくれる。
「ありがと」
「私はそれほど喉が渇いてるわけじゃないもの」
遠慮なく受け取ったボトルを開けて口をつける。これも一息で半分がなくなった。
「百合華に黙って出て来たから、あとで怒られるわね」
シアが身を寄せ合うようにしゃがんで、こちらの顔を覗き込んでくる。触れ合う二の腕が柔らかく温かい。
「まあ、相手が細菌使いかも知れなかったから、対抗できない百合華も美緒も、連れてくるわけにはいかないよ」
結果的に外れだったけどね、と耀真が自嘲するとシアはくすりと笑った。
「でも、必要な選択だったとは思うわ。結果がすべてではないもの」
「そうかな」と耀真は雨脚が強まってきた屋根の外に視線を転じた。汗に濡れた肌に湿気の富んだ空気は刺すように冷たい。
「まだ手を引かないんでしょう?」
「なにを?」
「例の娘のこと」
「ああ」と頷き、頭を掻いた。「そりゃ、このまま放っておくわけにはいかない」
「あの子たちに任せておいてもこの町は安泰だと思うわよ。エリシオンに情報が流れているかはわからないけれど、ユーグもいるし、姉はともかく、妹は聡明そうだったし」
「そんなことを聞いたらまた怒るぞ、あのチリチリパーマ」
ひとしきり笑ったシアがこちらに探るような瞳を流してくる。ため息を吐いた耀真は口を開いた。
「あのジジイ、俺がエリシオンの人間だって知っていながら、純粋に信じて遺言を託したんだ。それなら、俺は最善を尽くしたいと思う。例え、相手が犯罪者であれ」
「耀真しか託す人がいなかったから、仕方なく託したんじゃないの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それなら俺は信じたい方を信じる」
「意固地なんだから」
「優柔不断よりいいだろう」
「一長一短よね」
穿いているデニムを叩いて立ち上がったシアは空を見上げた。
「そろそろ止みそうね」
「そうだね」
立ち上がった耀真はシアと並んで小降りになった雨の下に出ていった。
○
「もうバカなんだから」
と、案の定怒られた。
パジャマ姿の百合華が両手で胸元を押してくるのを、耀真はぐらりと揺れた椅子のバランスを取って踏み止まる。
フローリングの台所は真ん中にダイニングテーブルが置いてあり、そこに並べられた救急セットを横にして百合華と向かい合っていた。
百合華は寝ているだろうとたかを括って帰ってきたが、間違いだった。玄関の前に仁王立ちして、耀真の帰りを待っていたのだ。雨に濡れた耀真に驚き、腕を火傷していることにさらに驚いた百合華に手当てをしてもらっている最中、西條姉妹のことを話したのだが、聞き終わった途端こうだ。
「押すなよ。危ないじゃないか」
「これくらい、耀真の無謀に比べれば危なくない」
「そんなこといったって仕方ないだろう。百合華を連れていくわけにはいかなかったんだから」
「わたしを連れていけなかったっていうのはだいたい理解できるけど、なにも相談がないってどういうことよ?」
「相談したらダメっていうじゃないか」
「だからって」と叫び、頭を掻きむしると肩を落とした。「ああー、もうなんでこんな勝手な人なんだろう。わたしって不幸だなあ」
「もういいじゃないか。過ぎたことなんだから」
「今回が過ぎても次が待ってるんです、どうせ」と唇を尖らせる。
「お二人とも、大変です」と慌てふためき、台所に飛び込んできたのは美緒だった。
「どうしたのよ?」
「あの姉妹は危険かもしれません」
「知ってるわよ。誓約者なんでしょう」
「あれ? もうご存知でしたか」
美緒がずれた眼鏡をかけ直す。
「耀真がバカをした成果です」
「耀真さんはまたバカなことをしたんですね」
「違うって。見解の相違ってやつ。俺の選択は賢かったんだよ」で、と耀真は続ける。「ヒエログリフから連絡が来たのか?」
「ええ、来ましたよ。彼女たち、相当危険な誓約者かもしれません」
美緒は片手に下げていた紙の束を耀真に差し出した。
「あんまり人の過去を暴露するのは、気分のいいものじゃありませんねえ」
A4の質素な紙が五枚。したためられたら文字列は一部箇条書きのようであり、一部文章であり、どこかの地図に書き込まれていたり。まとめる時間も惜しんで、集めたデータだけを送ってきたようだ。
「面倒かけて悪かったな。ありがとう」
「へへ、あたしは連絡を取っただけですから、大したことはしていませんよ」
恥ずかしげに身をよじりながら頭を掻く。耀真はそれを横目に資料へ目を落とした。百合華が隣から覗いてくる。
「あとはお任せしますね。あたしはシアさまのお風呂のお世話してきますから」
美緒は軽くステップを踏んで台所から出て行った。
○
今日も空は晴れていた。一年中温かいこの地域では雨も少なく、乾燥した風が吹くのが常だ。
ぱぱぱ、ぱぱぱ、と散発的に発砲音が連続される。前者と後者でやや音程が違うから、政府軍と反政府ゲリラが撃ち合っているのだろう。一際強く爆発音が鳴り、赤煉瓦の町並みを揺らす。三角屋根の向こうで煙が上がり、青い空に一筋の黒い筋を作る。
民家の三階にある窓枠から一望した町の景色がこれだ。
「今日もいつもと変わらないわね」
姉の声に振り向くと、彼女は屋根に転がった男のポケットをまさぐっていた。男は肩口から脇腹にかけて深い傷を刻まれ、流れる血も止まっているから、心臓も止まっているのだろう。
「コレとコレは使えそうね」
姉は乾パンとナイフを遺体から抜き取り、自分の懐にしまうと、妹と並んで外の景色を眺めた。直下にある広場の真ん中には井戸があり、そこに水を汲みに来る人間をこの男は狙撃しては殺し、その物品を略奪していたようだ。武装しないで出歩く人間ももはや少ないから、いい金になるのだろう。この町にはそういうポイントがいくつもある。
「もうあれには近づけないわね」姉はいう。「他に監視している人間がいるかもしれない」
「水はどうするの?」
「しばらくはアジトにあるぶんで耐えるしかない。帰るわよ」
二人で糸を伝い、屋根から降りる。姉は煤けた外套のフードをかぶり、細い道を選んで妹の前を進んでいく。飢えた犬を追い払い、羽虫のたかる遺体を飛び越え、前後上下を確認しながら足早に次の路地へ。遠くから女性の悲鳴も聞こえた。が、いちいち気にしていてはこちらの神経と命が持たない。
アジトに使っている倉庫の前に、子供が二人いた。兄と弟だろう。弟は兄のTシャツを握って離さず、兄はせり出した目でじっとこちらを見つめている。二人ともに共通するところ、手足は痩せ細り、お腹だけがでっぷりと飛び出していた。
姉は立ち止まると、その二人に視線をやっただけで、再び歩き出そうとする。
「お姉ちゃん」
「他人のことを助けている余裕などないわ」
「そうじゃなくて、つけられてる。たぶん、大柄な男の人、二人はいる」
「なんですって?」
姉は振り返り、左右を見遣る。
「あなたは先に入っていなさい」次いで、兄弟を睨む。「あなたたちも死にたくなければ早く建物の中に入りなさい」
兄弟はしばらく目を合わせていたが、倉庫の中に入った。部屋の隅に逃げていく。姉はそれを見送ると、フードを深くして、通りを走り出した。
こちらも建屋に入り、手首から出した糸を天井に貼り付けて、身体を上階の梁にまで持ち上げる。天井から二メートル近い大きさの繭を吊るしてあるが、太い骨組みの上を歩くのに問題がないようにはしてある。開け放たれた倉庫の入口直上にひざまずき、その時を待つ。
外でハンドガンの発砲音が鳴る。二発、四発。
「お姉ちゃん……」
どうか、姉が無事でいますように。
両手を組んで祈りを捧げていると、見慣れた外套が足もとの入口をくぐり抜け、倉庫の奥で立ち止まり振り返った。怪我のない無事な姿にほっとする。
姉が腰の辺りで立てた二本の指を認めて、頷く。姉の視線は戸口を向いたままなのでこちらの返答に意味はないのだが。
ほどなく体の大きな男が入口を抜けてきた。縦も横も自分の倍はあり、浅黒い肌をグレーの迷彩服で覆った大男だ。そいつはなにもいわず、二度引き金を引いた。
発砲音とともに撃ち出された二発の銃弾は姉を外套の上から直撃する。そして手のひらを押し当てたように拡がって鈍色の染みになる。うろたえた大男のうしろからもう一人、似たような格好の男が現れる。
妹は腕を振った。手首から放たれた糸がうしろの男の首に絡まり、大きな体を持ち上げた。
もがいて悲鳴を上げる相棒に気づいた男が振り向き、次いで視線と一体化させた銃口をこちらに向ける。
「アラクネかっ!」
叫んだ男が引き金にかけた指には力がこもっても、銃弾を発するには至らなかった。先に間合いを詰めていた姉が飛びかかって、体をひねる。鋭くひるがえった外套の裾が男の両腕を切り落としたのだ。血飛沫が石の床と姉の外套を赤黒く染める。
絶叫が家屋にこだました。
自分の腕の断面を見つめる男に頭上から細かい糸を降りかける。身動きができなくなったところに糸を巻きつければ、二メートルほどの繭の完成だ。糸の片端を天井に向かって投げると、どこかの屋根材にくっついた。収縮した糸が重い繭を引き上げてくれる。こうなってしまえば、じわりと赤い染みが滲んでいる以外、他にぶら下げてある繭となんら変わらない。
天井裏から降り、吊るし首にした男の腕を取る。脈はない。確かめてから遺体を繭で包み、天井に引き上げた。
糸は獲物が腐るまで養分を吸い続け、主人に供給するバイパスの役割を果たす。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「なんてことないわ、この程度」
姉は外に出て、脱いだ外套をはためかせていた。冷えて固まった鉛の塊が二つ、道に落ちて軽い金属音を立てる。
「これで桜子はしばらくもつわね」
「うん。これだけあればね」
「あの子たちは?」と姉が外套をはおりながら訊いてくる。
「あの子たちは」裏口に張っておいた糸が切られている。そこから出て行ったらしい。「まさか……」
急いで裏口へ向かうと、そこに置いてあったボトルがなくなっている。
「水が……」
姉は悲しげに笑っていた。
「人を信じるとロクなことにならないわね」
○
不意に扉が開く音がして五年も昔に飛んでいた意識が戻ってきた。霧雨に濡れた窓に、はっとした自分の顔が映る。
「カーテンを開けていてはダメでしょう」
振り向くと、ティーセットが乗ったトレイを片手にした蘭子が廊下の明かりに照らされて、そのシルエットを浮き立たせていた。
「敵がどこから狙っているのかわかりませんわよ」
敵。
口中に呟いた桜子はもう一度窓外を見遣ってからカーテンを引いた。
一拍置いて、シャンデリアがぱっと灯る。スイートになっている部屋を照らした。あのころ住み処にしていた倉庫と同等の広さを持ちながら、毛が深い絨毯を敷いたチューダー様式の豪奢な部屋だ。入口脇のスイッチから手を離した蘭子が唯一のインテリアといっていい丸テーブルに二つのソーサーを並べ、カップを置いていく。白磁の丸いポットを手に取って柔らかく揺らす。
「ハーブティーを入れてみたの。この間、桜子が持って来てくれたハーブをいくつかブレンドしてみて」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「ええ。落ち着くと思いますわ」
蘭子が困ったように笑う。
窓に映っていた自分の顔を思い出し、意識して柔らかい表情を作る。
「心配させちゃったかな」
「気にすることはありませんわ。姉妹ですもの」
琥珀色の液体がカップに注がれた。湯気とともに花の香りを立ち昇らせる。
「どうぞ」
蘭子に薦められて手に取ったカップを軽く揺らしてあげると、水面が波打ち、立ちのぼった濃い芳香が鼻孔をくすぐる。目尻から涙がこぼれそうなほどいい香りだった。張り詰めていた神経が解きほぐされていく。
「明日は学校を休みますわよ」
半分予期していた台詞を聞いて、蘭子の横顔を見据えた。こちらを見ようとしないで紅茶をたしなんでいる。
「まだ続けるの?」
「すべてはお母さまのためですもの」すっと目を細める。「わたくしの手でタツミ・セイジを葬ることができていれば、こうする必要もなかったかもしれませんがね」
「エリシオンの人に刃を向けてまでやらなきゃならないことなのかな?」
「貴重な情報源ですから仕方がないでしょう。それにしかけてきたのは向こうですわ」
「先にしかけたのはお姉ちゃんに見えたよ」
うっ、と呻いた顔を澄ましていう。「あいつ、わたくしを狙撃しようとしましたのよ」
「あれは」といいよどんで、改めて口を開く。「ああでもしないと先輩は本当に死んじゃってたかもしれないから」
「信じられませんわ。あんな男」
「お姉ちゃんが怪我をしないように手加減しているようにも見えた」
カップを置いた蘭子がこちらを向いた。いつも白い頬が赤らんでいる。
「なんなんですの? やけにあいつの肩を持ちますわね」
「だって、同じエリシオンの人だよ」
「忘れたわけではないでしょう? 他人など敵でしかありませんわ」
ならお母様は?
桜子は開きかけた口を閉じた。お母様は特別だから。それが理由だと問わずともわかる。
「ともかく、わたくしたちのことが藤崎耀真に知られた以上、一刻の猶予もありません。おそらく、あのいけすかない百合華にも話が伝わっているはず。だから明日は学校を休んででも娘を探します。それさえ見つけて始末できれば、お母様の立場は約束される」
そう、世界を滅ぼしかねない誓約者。それを葬ったとなればどんなに疎まれている人間でもある程度の地位は約束される。
「これを飲んだらもう眠りなさい。明日も朝は早いですわ」
トレイを持って蘭子が立ち上がる。
「いいよ。私が持っていくから。これも残ってるもの」
桜子が自分のカップを持ち上げてみせると、蘭子は一呼吸開けてからトレイをテーブルに置いた。
「なら、あとは任せます」
蘭子は扉を出ようとして振り返る。
「お休みなさい」
「お休みなさい、お姉ちゃん」
姉の柔和な笑みに同じ顔で返したつもりだった。
桜子は小さな音を立てて閉まる扉をただ見つめていた。