2.
猫が事件現場へと道案内してくれるかとも思ったが、逆に猫は俺の部屋に上がり込んだ。
玄関マットの上で立ち止まると、ごろんと寝転がり、濡れた身体をこすりつける。
「あ、おい!ちょっと待て!」
慌ててバスタオルを取って来る。濡れたまま部屋中を駆け回られたら大惨事だ。嫌がる猫をざっくり拭いてやりながら心を落ち着かせる。
どうする?どうしたらいい?まずは警察か?
違う、まずは確認だ。
拭き上がった猫を新しいバスタオルの上に寝かせてやる。落ち着いたのか、随分と大人しくなった。相変わらず俺を見詰める視線はキツいが、それが敵意ではないことは何となく分かってきた。多分、コイツは不安なんだ。
いや、不安なのはこっちの方だ。
まずは携帯に電話してみるが、通じないし、手元のスマートフォンも反応しない。もっとも、そのスマートフォンはひび割れていて、おまけに雨でずぶ濡れなのだから、壊れていると考えた方が自然だ。
次はどこにかけるべきだ?
彼女の実家は……一応、面識はあるけれどやっぱり憚られる。もうこんな時間だし、それに俺の取り越し苦労という線もまだ完全に消えたわけではない。大体、ここ最近は研究が大詰めで忙しいとかそんなことを言っていた。まだ帰宅していない可能性が――
「そうだ!まずは職場だよ!あっ、畜生!アイツの職場の番号って何番だ?」
頭を掻いて出てくれば世話はない。だが幸い、ネットで検索するというアイデアは出てきた。
電話の呼び出し音に業を煮やしながら待つ。
ふと、猫を見ると顔はこっちを向いていたが、目はこちらを見ていなかった。これがフェレンゲルシュターデン現象ってヤツなのか?止めてくれよ?縁起でもない。
「はい。こちら第一生化研」
電話口の声に我に返る。
「あのっ!俺、田村琢磨といいます。美亜の……二宮美亜のこっ……」
そこで声が詰まった。電話口の守衛さんと思しき人の訝しがる声に憔悴は更に込み上げてくる。
「そちらにお勤めの、二宮美亜の婚約者です」
ガタンッ!
物音に驚いて振り返ると、いつの間にか猫がPCデスクに飛び乗っていた。その拍子にキーボードを踏ん付けたのだろう。今はそれはひとまず置いておこう。
「彼女と連絡が取れません。何か事件に巻き込まれた可能性があります。えぇっと、美亜はまだ、そちらにいますか?」
「……少々お待ち下さい」
猫が立てた物音にびっくりして一呼吸置いたおかげか、落ち着いて話せた。それに咄嗟に婚約者とか言って偽ってしまったが、それも良かったのだろう。少なくとも悪戯の類いだとは思われなかったようだ。
「二宮さんでしたら、退館記録がありません。今日はまだ、お帰りになられていないみたいですね」
「本当ですか!?」
まだ、職場にいる。瞬く間に安堵が胸の内を埋め尽くした。全身から力が抜けていくのが分かる。
「良かった……それではあの、俺に連絡するように伝えてもらえませんか?」
「では、念のためご連絡先をお伺いしても?」
こちらの番号を伝えて、一旦電話を切る。もう身体を支える気力もなかった。腰掛けていたベッドに俯せに倒れ込む。
スマートフォンは出勤時に落としたのか、それとも本当にただの偶然だったのかも。
兎に角、帰宅途中に暴漢に襲われたとか、そんなんじゃなくて本当に良かった。
そんな安心感を揺さぶって携帯が鳴った。表示された番号は先程自分がかけた番号。きっと美亜からのコールバックだ。この番号、後で登録しておかないとな。
「はい、田村です」
「もしもし、田村さんですか?こちら、第一生化研です」
しかし、予想に反して電話の主はおっさんの声だった。急に目の前が暗くなる。
「二宮さんは研究室にも実験室の方にもおられませんでした。今しがた警察にも連絡を入れましたが、先程、何か事件に巻き込まれたかもしれないと仰いましたよね?何かお心当たりがおありでしたら――」
「ミャー」
思わず携帯を取り落とす。
もう、何が起こっているのか理解できなかった。
例え、猫の鳴き声で遮られていなくても、守衛さんの声はきちんと聴きとれていなかったことだろう。
守衛さんの語る事実よりも、もっと受け入れ難いものが、俺のすぐ目の前にあった。
美亜の職場である第一生体化学研究所のホームページを表示していたはずのパソコンの画面、今は猫が踏んだ弾みで切り替わってしまったのかWordになっている。たったの四文字だが、ハムレットが全文打ち込まれているよりももっと衝撃的なものが、そこには表示されていた。すなわち――
私が美亜




