1.
安アパートの一階の廊下は、横殴りの雨で水浸しになっていた。ウチは二階だから問題ないだろうが、下は浸水したりするんじゃないだろうか?
台風何号だか忘れたが、今回も毎年のようにやって来る「戦後最大級の」という謳い文句は伊達じゃない。一番接近するのは深夜だという話だったから、仕事がそれ程延びなくて良かった。
傘を畳んで外付けの階段を上る。こんな日は熱い風呂に入って、ビールでも飲んで、さっさと寝るに限る。
年季の入った蜘蛛の巣が、明滅する蛍光灯からちょっとだけ光を奪う俺の部屋のドアの前で。
俺は一瞬で心を奪われた。
殆ど黒に近いグレーのショートは、光の当たり方によってはシルバーにも見える。
そして誰かさんによく似た、雨でずぶ濡れになりながらも輝きを失わない強い眼光。
「なー!」
ドアの前に蹲っていた彼女は、こちらに気付くなり立ち上がると、その鋭い目で俺を睨んで一声、鳴いた。
見方によっては迫力に満ちた威嚇にも取れるのだろうが、残念ながら俺には通用しない。むしろ、ご褒美にしかならない。ここまで近寄っても逃げない猫なんて。
「コラットかー……いいなぁー。美人さんだなー。お前、どっから来たんだ?」
「?!ミヤァ~!」
手を差し伸べたら、再び威嚇された。他の猫ならとっくに逃げるか引っ掻くかしているところだから、これはまだ寧ろ僥倖。
「こんだけ美人さんだったら野良ではないよな?」
首輪はしていないけど、すらりと引き締まったスレンダーな身体つきは育ちの良さを匂わせた。
野良だったらオヤツくらいあげてもいいかなと思ったけど、どこかいいとこのお嬢さんだったら下手なことは出来ない。それに。
「ごめんな。俺のアパート、ペット禁止なんだ」
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
いくら育ちが良さそうに見えても、壁や柱を引っ掻かないとは限らない。こんな嵐の中で酷かもしれないが、でも可哀想だからと言って部屋に入れるわけにもいかない。責任の伴わない善行は、真の善行たり得ない。
「じゃぁな」
鍵を開けると猫に小さく手を振ってドアを開ける。
その瞬間、猫は俺の足の隙間を縫って部屋に上がり込んだ。
「ちょっ?!お前!」
「ミアー!」
さっきよりも短く、強く。上り口で俺を睨んで猫は訴えかけるように鳴いた。その声に何故だろう?胸がざわめく。
「何なんだ?お前……?」
答える代わりに猫は俺と目を合わせたまま、まるで目を逸らすなと言わんばかりの面持ちでドアの外に出る。その先で見たものに俺は顔を引きつらせた。
猫が口に咥えて持ち上げて見せたそれは、明らかにただ事ではない事件の匂いがした。
引き摺られて、擦り傷だらけで、画面の割れたスマートフォン。
俺の足元にそれが置かれた時、俺は心臓が凍り付く思いがした。
猫の口から吐き出されたのは、ドヤ顔した猫のラバー・ストラップ。
いや、スマートフォン自体にも見覚えがあったけど、そんなのいくらでも同じ機種は出回っているし……という俺の甘い考えをそれは一撃で粉砕した。そのストラップだって安い市販品だが、スマートフォン本体と合わせて考えたら、さすがにそれはもう、偶然であるとは思えなかった。
それは、俺の彼女の持ち物だ。震える手でそれを拾い上げる。
黒猫が、不吉を運んできた。
自分の彼女の所持品がボロボロになって届けられて、それでも冷静でいられたら、それは彼氏失格ではないだろうか?
その点俺は、恋人として合格点がもらえると信じたい。
上ずった声で、真面目に猫に問い質していた。
「どういうことだよ、オイ……それ、美亜のだろ?」
「ミァ!」
大嵐は、すぐそこまでやってきていた。




