世界一面白い小説
趣味であれ何であれ、何かをするからには一番を目指したいというのが人間の心情だろう。
小説を細々と書いている身としては私もそんなことを想わないでもない。
だったら、世界一面白い小説とは何だろうか。
現在に至るまで、創作・フィクションを紙に記録したものは無数に存在する。電子的に記録されている創作物を含めればこの限りでないが、少なくとも何らかの記録媒体に言語情報を保存しているという点においては、小説と呼んでもいいだろう。
しかしその中には当然、言語の違いもあれば文化の違いもある。
同じ日本の同じ時代という括りの中でさえ、一つの小説が長期間にわたって注目の頂点に君臨することなどまずありえない。一過的に熱狂的な人気を集めることがあっても、高々数年でブームは去り時代遅れとなってしまうだろう。ましてや、時代や国家を超えて一番であり続ける小説となれば、それはいったいどんなものになるのだろうか。
誰にでも共感できる内容で、なおかつ誰にでも理解できる伝達方法でなければならないとしたら、そこにはどんな思想も言語も存在してはならないのではないか?
一つの文化を善とすれば、必ずそれに反対する派閥がある。
一つの言語で書けば、必ずそれを読めない集団がいる。
それどころか内容に問題がなくとも難癖は付けられるし、いくらでも揚げ足をとることはできる。
であれば、世界一面白い小説は読むことを前提としてはならない、と私は考えた。
「まだ読まれていないこと」にこそ、真の価値があるのではないだろうか。
冷静に考えてみると、人間というものはなにか「楽しい」ということを経験しているその最中よりも、その事柄を待ちわびている期間の方が幸福であるように感じられる。
これを小説で例えるならば、「面白い本を読んでいる期間の幸福の総量」よりも、「面白い小説を読めると楽しみにしている期間の幸福の総量」の方が大きくなるのではないか、というのが私の意見である。
作品の内容が悪ければ、「ずっと発売を待っていた作品が思ったよりいまいちだった」ということはある。これでは当然世界一面白い小説とは言えない。
しかし、内容がどんなものであろうと「待っている時間がつまらなかった」ということは原理的にあり得ない。
つまり、極論を言えばある作品の内容が全くの無であったとしても、その内容に期待する心情はいくらでも発生させることができるということである。
であれば、「これは世界一面白い小説である」と保証された作品があることを知っていて、それを読むことができるにもかかわらずまだ読んでいない、という状況においては、「これから世界一面白い小説を読める」という期待が事実として存在し、それはまだ消滅していない。
このようにして、究極の小説を仮想的に存在させることができるのだと思う。
文章そのものは面白みのない無機質な投影機であっても、そこから世界一面白い小説の虚像をスクリーンに映すことができるのだ。
ということでその仮想的な世界一面白い小説を読者の皆さんにも体験してもらうため、こうしたいと思う。
重ね重ね言うが、世界一面白い小説とは中身の問題ではない。
中身は何だっていいのである。読まれないから関係ない。
「いつか時間があったら読もう」くらいの気持ちで頭の片隅にこの作品を覚えていてもらいたい。
というわけで、以下に世界一面白い小説を著す。
ただし、決して読まないこと。
読んでしまうと虚像は消え失せてしまうから。
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とはいったものの、私もただ文章を書くのが楽しいのでなにか意味のある文章を書いてみようと思う。
こんなの小説じゃない、とか野暮なことを言ってはいけない。
だって内容は関係ないのだから。
私は柑橘類が結構好きなのだが、グレープフルーツほど意味の分からない果物もないと思う。
だって名前の由来が「グレープみたいに房になるフルーツ」なんだから。
いや、ブドウだってフルーツじゃん。
フルーツをフルーツで例えるのは反則でしょ。
「グレープフルーツってどんなもの?」って聞かれたとして
「ブドウみたいに実るフルーツ」って言われたら、「いやそれブドウじゃん」ってなる。
2020年2月現在流行っているお笑い芸人、ミルクボーイのネタかよ。
人気が出る前に生で見たことあるけどサインは残念ながらもらえなかったぞ。
なんでそうなったの?
アボカドみたいに「森のバター」っていうのならわかる。
なぜなら森にバターはないから。
「あー森にあるバターみたいなやつってことね」ってなって納得できる。
ただ、アボカドの油分が豊富という特徴を指して「森のクルミ」なんて言った日にはもう意味が分からないじゃん。
「オカンが好きな食べ物があってな、なんでも油分が豊富な植物で、森のクルミって呼ばれとるらしいで」
「それクルミやないかい」
こうなるに決まっている。
どうしてグレープフルーツはそれで許されているんだ?
梶井基次郎の檸檬よろしく、デパートに放置してやろうか?
グレープフルーツが人知れず爆発する様を想像してすがすがしい気分になってやろうか?
まあ、もったいないからやらないけど。普通に食べたいし。
高校生の時は国語の時間にあれを読んでも特に何とも思わなかったけど、大人になった今では良さが分かってきた気がする。
そもそも梶井基次郎の檸檬がどんな話かというと、重病にかかった主人公が将来に一切希望を見いだせないまま、かといって重大な犯罪行為に手を染めるほど落ちぶれることもできない中途半端な生活の中で、ふと手にした檸檬に生命力とか可能性の爆発とかそんなものを連想していたずらを思いつく、といったような文学だ。
主人公は人生に対してやけにもなれないから、「もしもこの檸檬が爆弾だったら面白いだろうな」などと考えながらデパートに檸檬を放置し、それが爆発する妄想をしながら愉快な気持ちで帰宅する程度の悪事で収まってしまうのだ。
出所不明の檸檬を放置して帰るというちょっとした迷惑を他人にかけて、そんな無意味な行為で自分の生活が好転するわけでもなし。
それなのに、なんかちょっとあこがれてしまう。
別に本物の爆弾で他人を傷付けたいわけではない。
仮にそんなことをしたって後悔をしただけだろう。
でも、世界中の柑橘類がある日一斉に爆発して、シトリックな香りで世界が包まれたとしたらかなり面白くないか?
それが世界一ではないにせよ。
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