今、なんて言った
御劔の言うことを思い出し怒りに燃えた。
だが、そのまま海に沈んでしまいたくなるほど惨めな気分でもあった。
父親がクズ? そんなわけがない。
俺の父親は俺や秋子を愛していたはずだ。そのはずだ。
俺が父だと思っている人はほんとうに、父として尊敬してもいい人なのだろうか。
不安を煽るのも御劔の作戦かもしれない。
俺に出来ることは父はそんな人じゃない、と自分自身に言い聞かせることだけだ。
精神は最悪だった。弱った獲物を追いかける狼のように絶望がずっと俺の背中をつけ回している。
絶望に捕まえられてしまう前に、希望に飛び込みたい。
ずっとなにも食べていないせいで目眩もした。
倒れそうになって壁により掛かった。
吐き気に襲われてトイレに駆け込んだ。
個室から出た。ずっと腹になにも入っていなかったので、胃液だけが流れていっただけだった。
姿見に移る俺の顔は青い。口をゆすいだ。気分を入れ替えなければ。
顔色も悪いし、髪形も誠実さからはかけ離れている。
出来るだけ誠実に見えるように髪形を整えた。
状況も最悪だった。御劔に打ちのめされていた。
しかもこういうときに俺を支えてくれる莉奈とは敵同士だ。
だが、俺には希望がある。
毎日昨日のような作業をしていると天音先輩は言っていた。会おうと思えば会える。
それに俺には口実がある。
御劔の考えを改めさせたくれた礼をいう口実もあるし、天音先輩の手伝いをするという口実がある。
この口実を利用して話しかけて、天音先輩に告白しよう。
昨日の友好的な様子ならチャンスはゼロではない。
鏡に映る顔を見て活を入れる。
お前ならやれるぞ。
始まりはいつも辛いものだ。
きっと天音先輩は手伝いに来た俺に笑いかけ、俺と交わした約束の達成を報告してくれる。
一年生が喜んだことを伝えると笑顔さえも見せてくれるかもしれない。
希望を胸に俺はトイレを出た。
○
図書室に顔を出す。
思った通り、天音先輩がいた。
昨日より書類は少ないが相も変わらず紙の山に囲まれていた。
早まる心臓を抑えるために入り口で何度も深呼吸を繰り返す。
熱いわけでもないのにいつの間にか、顔に汗もかいている。
それを拭った。俺の脇を怪訝そうな顔をした生徒たちが往来する。
図書委員の視線も気になった。ずっとこうしているわけにはいかない。
俺なら大丈夫。
言い聞かせて図書室に入っていった。
邪魔をしないようにこっそり、奥のテーブルに近づいていく。
何度も喉を鳴らして声の調子を整えた。
声が震えると格好が悪すぎるからだ。
「あの、すみません」
「ん?」
俺の声に天音先輩が顔を上げた。
ああ、笹川か、と顔を明るくして、どれでどうだった? とたずねてくれるだろう。そう期待していた。
だが、天音先輩の顔は浮かなかった。
俺を見てうんざりしたようにも見えた。
「それで、今日はどうしたんだ」
目もあわせず、書類に目を戻しペンを走らせていた。
身に覚えのないつっけんどんな態度に気圧された。
機嫌でも悪いのだろう。
とにかく会話を繋いでなんとか場を盛り上げないと話にならない。
「あの、御劔先輩の件ありがとうございました」
「そのことか。気にするな」
会話は呆気なく途切れた。
天音先輩は黙々と書類に目を通し、必要に応じて淡々とペンを走らせる。
焦る気持ちを抑えて必死に俺と天音先輩との共通点を探し出した。
「さ、参考書。すごく使いやすいです。ありがとうございます」
「ああ、私もそう思ってたから渡したんだ」
この話題では興味を引けなかったようだ。まだ、なにか。
「今日遅刻しちゃって」
「そうか、だったら次からは気を付けろよ」
冷たい風が俺の燃えたぎる心臓を吹き抜けていった。
これ以上関わるともっとひどい拒絶が待っているかもしれない。
だが、火はなかなかつかないものだ。
文香さんの言葉を思い出し、気力を充填させる。
引き下がれ。心のどこかでもう一人の俺が喚いていた。もう、無理だ。
口に厚い膜が張っているような感覚があった。
それを舌で押し破る。
「あの、手伝わせてくれませんか?」
「私は一人で大丈夫だ」
顔すらも上げてくれなかった。
今までの冷たい態度。それらが実は俺への優しさだと、そう気付かせてくれるような徹底的な拒絶だった。
原因が分からない以上、このままここにいても悪印象が残るだけだ。
「邪魔してすみません」
謝って図書室を後にした。
○
外は曇りだ。雨が降りそうな気配がする。
図書室前の廊下で待った。
きっと天音先輩は仕事で忙しいからああいう態度をとるのだ。
だったら仕事が終わるまで待っていればいい。
だが、よく考えて見てればやっていることはストーカーと変わりがない。
それでも俺には待つ以外に選択肢がなかった。
今日、告白すると決めていた。
待たれてもいないのに待つ。
その身の置き所のなさに不安が募る。
ほんとうに俺はここにいて良い人間なのだろうか。似たような自問が浮かんで消えていく。
それにしてもだ。
どうして天音先輩はああも邪険にするのだろう。
仕事が忙しいのか、それとも体調が悪いのか、もしかしたらただ単に機嫌が悪いのかも知れない。
そうでなければ、きっと俺のことが嫌いになったのか。
嫌いになったとしてもどんなことで。
覚えはなかった。
もしかすると。
頭に悪い考えが浮かんだ。
もしかしたら、御劔がなにか俺の親のことを言ったのか。それとも遅刻のせいか。挨拶運動をサボったからか。
だが、どれも説得力に欠ける。
となると心当たりは一つだけ。
莉奈だ。
彼女がなにかを言ったか、あるいはしたのだ。
天音先輩と友達同士である以上、俺に関する何かを言ったり、したりする時間は十分にあった。
としてもどんなことをしたのかは想像もつかない。
あんなに優しい天音先輩が、ああやって俺を扱うようなことなど思い当たらないからだ。
告白が上手く行かなくても、どうして天音先輩が俺を嫌ったのかは知りたい。
永遠ほどに長い時間を、俺はただ一人きりで待った。
絶望に囚われないように逃げながら待った。
こういうときにパイプがあったらな、と文香さんのことが、大人が羨ましくなった。
子供と大人の中間にいる俺たちにはすがるものがあまりにも少なすぎる。
○
図書室の灯りが消える。もう、時計は六時を指していた。
そろそろ天音先輩が出てくる時間だった。
「遅くまですまないな」
図書委員を気遣いながら天音先輩が出てくる。
両手には例の如く書類を抱えている。
驚かせないようにゆっくりと正面から歩いていった。
天音先輩が表情を硬くした。俺を見つけたのだ。
手のひらを上に向けて手を出す。
「手伝いますよ」
「いい、気にするな」
視線さえもくれず、天音先輩は俺の目の前を歩き去って行った。握手を無視されたような気まずさだった。
確信に満ちた足取りの天音先輩を色々な疑問がこもった俺の足音がついていく。
「鍵ですよね」
天音先輩の先回りをして職員室へ駆け込む。
だが、天音先輩に貸してくれるようには誰も貸してくれなかった。
男の教師が腕組みをしていた。
「どうしてプリント室の鍵が必要なんだ?」
「それは、シュレッダーを使いたくて」
「なんだ? 部活か? 委員会か?」
「ええと」
そうこうしているうちに天音先輩に追いつかれてしまった。
「すみません、プリント室の鍵を貸して頂きたいのですが」
「丁度良い、生徒会長と一緒に使いなさい」
呆気なく鍵がキーボックスから取り出された。鍵は天音先輩の書類の上に置かれた。俺は手ぶらなのに。
「戻しておいてくれればいいから」
教師はさっさと自分の椅子に戻っていった。
プリント質は職員室から歩いてすぐのところにある。
書類を置いて鍵を開けようとしている。
書類に置かれた鍵に手を伸ばした。
「俺が開けますよ」
「やめろ」
「でも、先輩両手が塞がってて」
「鍵を借りたのは私だ。信用された私だから鍵を使って良いんだ。お前には駄目だ」
いつの間にか苗字すらも呼んで貰えなくなっていた。
それでも鍵を取りに行く。
天音先輩が鍵を守るために身をよじる。
床に書類が散らばった。
「す、すみません」
這いつくばって散らばった書類を拾う。
忌々しげなため息が書類を拾う俺の頭に投げ落とされた。
無事だった書類を床に置き、天音先輩も無言で書類を拾う。
「これ、すみません」
拾った書類を差し出すと天音先輩はそれをひったくった。
「邪魔をするくらいなら帰ってくれないか?」
真っ正面からの言葉に打ちのめされそうだった。
もう、今日はここで引き下がっておけ。
俺の内側では警報が鳴りっぱなしだった。
だが、ここで引き下がればもう明日からどんな顔をしても先輩と会話できない。そんな気がする。
鍵を開けた天音先輩が書類を抱えてプリント室に入っていく。
天音先輩がプリントを置いている間に、俺はプリント室の電気をつけた。
やや暗めの電灯がついた。
外は雨が降っていて、窓についた水滴が軽く光を反射していた。雨音が重々しく響いていた。
思いを伝えて楽になりたかった。
そうすれば、こんな時間を過ごす必要もない。
嫌われていると分かっていながら、同じ部屋で過ごし、嫌われながら呼吸をする時間はもう、こりごりだ。
胸の高鳴りは希望を求める高鳴りから、恐怖に戦く臆病なリズムに変わっていた。
「今日は、その先輩に話があって」
返事はなかった。だが、聞いて貰えている。
勇気を振り絞った。
「俺、先輩のことをその、守りたくて。だからそのために、俺と、俺と特別な関係になってくれませんか」
弾かれたように天音先輩が俺を振り返った。
書類のいくつかがぱさぱさと床に落ちる。
「今、なんて言った」
「だから、俺。先輩のことを守りたくて。だから、俺の恋人に」
静かに光る雷と共に天音先輩が遮った。
遅れて雷が何かを引き裂くように鳴った。
「お前はやっぱりそういう奴だったんだな」
「な、なにが」
「とぼけるな。莉奈から全てきいたぞ。お前が莉奈にしたひどい仕打ちのこともな」
積み上げた書類が崩れるのも構わず、天音先輩が大股に迫ってきた。
抵抗する間もなく胸ぐらを掴み上げられた。
壁に思い切り押しつけられた。
左腕で俺を押さえつけながら右手は固く握り締めている。
怒りを握り締めているその手がいつ振りかぶられてもおかしくなかった。
「莉奈には手出しをするなと言われていたが、お前の態度を見るともう我慢も限界だ」
怒りが握られている手が開かれ、振りかぶられる。
左の頬に熱い感覚があった。
頭がじん、と痺れる。
押さえつけていた左手が俺を突き放すようにしてはなれていく。
左の頬を抑えながら俺は、壁をゆっくりとずり落ちていった。
頬を殴られてそのままずり落ちていく情けのない俺を天音先輩は軽蔑を込めた目で見下ろしていた。
「外道が」
「俺はほんとうに先輩が好きで」
「しつこいぞ」
天音先輩が警戒するように腕組みをした。
「莉奈から聞いた。お前は女に飽きるとすぐに他の女に乗り換えるような男らしいな。莉奈の次は私か?」
そんなことを言っていたのか。
だが、それだけではなさそうだった。
「お前のことを少しは良い奴だと、少しでも一緒に働けそうな奴だと思った私が間違いだった」
ただの怒りとは違う口惜しさのこもった口調だった。
天音先輩の手はまだ怒りに震えていた。
「それだけならまだしも。お前莉奈に、私の友達にあんな仕打ちを」
拳が硬くなるにつれて天音先輩の肩が上に持ち上がる。拳を握る音が聞こえそうなほど、強く握り締められていく。
怒りを押し殺すように抑えた声で天音先輩がぼそりと呟く。
「出て行け」
「でも俺は」
「お前が少しでも私を思いやっているのなら、私が退学にするようなことをお前にしでかす前にここから出て行け」
有無を言わさぬ天音先輩の声に俺はなにも返せなかった。
まるでネズミのようにこそこそと、泣きそうになりながら俺はプリント室から這い出した。
逃げていく俺の背中に天音先輩が追い打ちをかけた。
「二度と私の前に顔を見せるな」