会長に告げ口したな
目玉が飛び出そうだった。時計を何度も確認したが遅刻は間違いない時間だった。朝のHRは諦めなければならない。
莉奈も寝坊したのか、とも思ったが、制服に着替えているうちに思い出した。
俺と莉奈とは敵同士になったのだ。
敵を起こしに来るわけもない。
遅刻は確定。
しかも理由は寝坊。
朝の挨拶運動ももう終わってしまっているだろう。
天音先輩に嫌われてしまったかもしれない。
幸先は悪いが俺はもう決めていた。
今日、天音先輩に思いを告白する。
遅刻してしまった今日はやめておいた方が良いだろうか。
いいや、思い立った日が吉日だ。今日を逃すときっとずっと言い出せないままになる。莉奈とも決別してしまった今、ためらう理由もない。
走ってもいないのに、心臓が早鐘を打っている。
朝食を摂らないまま、軽く寝癖を直し俺は学校へ走った。
○
すでに何かが行われている場所に入っていくのは緊張する。
静かに入った方がいいのか、それとも堂々と入っていった方がいいのか。迷ってしまう。
「すみません、遅刻しました」
姿勢を低くして頭を下げながら入っていく。
「ああ、笹川か。あとで職員室に行って担任の先生に釈明するように」
怒られるのかと思ったが、案外あっさりとしていた。
ひやひやしながら席に着く。
未可子が声を押し殺して笑っていた。
忙しなく鞄をかけ、授業の準備をしながら弁明した。
「寝坊してな」
「莉奈っちは?」
言いにくい。
「その、喧嘩した」
「喧嘩!?」
未可子が存外に大きな声を出した。
先生の注意が飛ぶ。
「おい、うるさいぞ」
「すんませーん」
未可子が俺にささやく。
「あとでちゃんと教えなさいよ」
○
未可子にことの成り行きを説明するのは二時間目の休み時間になりそうだ。
一時間目の休み時間は職員室で遅刻の説明をしたからだ。
なぜ、遅刻したのかを紙に書かされ次はどうするかを書かされる。一体全体何の意味があるのかほとほと謎である。
担任の三河先生は「無駄だと思うけどちゃんと書いときなよ」とペンを貸してくれた。
「君は素行は良いけど、外見で誤解されやすいから気を付けてね」
「地毛なんですけど駄目ですかね」
「ま、私は仕方ないと思うけどそう思わない先生も多いから。髪色と髪形、服装についてはよく職員会議でも議題に上がるの。これ、私から聞いたって内緒だよ? ま、気を付けて」
忠告を受けて職員室を出た。
こんな有様では莉奈との戦いどころではない。
だからといって諦めるわけにはいかない。
○
「今日のお前はいつもに増してチャラいな」
貴也の感想に未可子が「まじそれ」と相槌を打つ。
「そんなにか?」
「いつもは七三分けにしてるから女が好きそうな大学生だけど、今の祐介はバンドマンみたいだぞ。しかも売れずにファンの女の子に食わせて貰ってるタイプ」
「まじかよ」
「見てみ、見てみ」
未可子が手鏡を開く。
いつもは七三分けにして横や奥に流している髪が垂れ下がっている。
そのせいで貴也の指摘通り、売れずにファンの女の子に食わせて貰っているバンドマンのようになっている。
誠実とはもっともかけ離れた頭だった。
「でもうちは結構好みかも」
「莉奈に聞かれたら殺されるぞ」
この貴也の言葉に、そういえば、と未可子が膝を叩く。
「莉奈っちとどうして喧嘩したの?」
「喧嘩したのか」
貴也も声を大きくした。
「それなんだけど」
話してもいいかもしれないが、さすがに好きな人がいると打ち明けたら敵対関係になったとは言い出せなかった。あくまでも俺と莉奈との問題だ。
「理由はあまり聞かないでくれ」
はぐらかす俺を見て貴也と未可子が顔を見合わせた。
「ま、女関係でしょ?」
「喧嘩したならそうだろうな」
俺の憧れの人を知っている未可子はともかくとして貴也にも理由が見透かされている。
貴也は特に鈍いはずだ。
「なんで貴也まで」
「莉奈がお前と喧嘩する理由なんてそれくらいしかないだろ」
未可子が貴也の腹を肘で突く。
「どうするぅ? 莉奈っちが祐介から離れたんなら狙い目じゃないの?」
「でも、莉奈は昔からの友達だからな。女っつーか家族って感じだ」
貴也も俺と同じようなとらえ方をしているようで安心した。
「なによ、つまんない男。だから片っ端から粉かけてんのに彼女出来ないのよ」
「お、おまえ。そんなことをお前」
真剣にきくべきではない意見を真に受けて貴也は分かり易く落ち込んだ。
「で、莉奈っちと喧嘩するくらいなんだから覚悟は決まってるわけだよね?」
覚悟。
それは思いを伝える覚悟のことだろう。
頷いた。
おお、と貴也と未可子がどよめいた。
「ついに、莉奈も祐介離れを、祐介も莉奈離れをする日が来たのか」
俺の親のような口調で貴也がしみじみとしていた。
そんな貴也とは対照的に未可子は煽り立てるように腕組みをしていた。
「気を付けた方が良いよ。莉奈ちゃんああだからさ、何してくるか分かんないよぉ。そもそも、女絡みで喧嘩して生きてる祐介が信じられない」
昨日、もう少しで目を突かれるところだった。
俺がなにも言わなければ莉奈はきっとほんとうに俺を刺していただろう。もしかすると貴也と未可子は俺のことを新聞かニュースで被害者として見ることになったのかもしれない。
そう思うとぞっとした。俺は莉奈を危うく加害者にするところだったのだ。
貴也が目をぱちくりさせる。
「未可子は知ってるのか?」
「知ってる。だからこそ、莉奈っちがどんな手段を講じるかが予想できちゃうわけ。祐介一人じゃ太刀打ちできないかもよ」
未可子の言葉に誤りはない。
莉奈はきっと俺以上に俺のことを知っている。
そんな女の子を敵に回しながら、天音先輩と付き合えるのか。
考えるだけで気持ちが萎えそうだった。
「うちらも手伝おうか?」
嬉しい申し出だったが、俺にそのつもりはなかった。
「いや、いい。これは俺と莉奈とのことだ。見ていてくれ」
はいはい、と未可子はあっさりと引き下がる。
「で、祐介の好きな人って誰なんだよ」
「馬鹿な貴也には突き止められないかもしれないけど、莉奈っちなら簡単にわかるだろうね」
さらに未可子が主張を補足した。
「莉奈っち今まで祐介に好きな人がいるって認めたくなくて考えてなかっただけだろうし。証拠とか心当たりはいっぱいあるはずだよ」
莉奈は俺のためにならなんにでもなってきた。
だからこそ、俺を傷つけるためにもなんでもするだろう。
きっと、自らの評判を傷つけるようなこともいとわないはずだ。
俺の名前が書かれた遺書を抱いて自殺することもありえるかもしれない。
だが、莉奈は最終的に俺と一緒になるつもりだ。それなら自殺したり、体を傷つけるようなことはしないだろう。
すると莉奈がとりそうな手段が一気にわからなくなった。手元までたぐり寄せていたロープがお守りに引っ張られてどんどん底へ落ちていくのを眺める気分だ。
これでは対策の立てようもない。
つくづく厄介な相手を敵に回した。
過去に俺を守ってくれた人と傷つけ合うようなそんな関係になってしまった俺の前に敷かれているのは苦役の道だろう。
だが、それでも俺は天音先輩に守っても良いですか、と自然に聞けるような、そんな存在になりたかった。
つまりは恋人に。
信じられなさそうに貴也が顎に手を当てる。
「でも、朝見た莉奈、そんなに変わった様子はなかったどな」
「だからこそ、怖いわけよ。考えが外に漏れないってことだから」
そういう未可子はどこかわくわくしているようでもあった。ちょっとした恋のいざこざくらいにしか捉えていないのかもしれない。
こええな、と貴也が笑いかけてきたが、俺はそれに笑い返せなかった。
○
放課後がやってきた。
一限一限と時間が過ぎて行くにつれて心拍数が嫌が応にも高まっていく。
朝昼となにも食べていない空腹感を忘れるほどに緊張している。
今も、体の腰から下がないような感覚だ。
とりあえず、生徒会に顔を見せなければならない。今日は天音先輩が来るような大きな会議ではない。
ほとんどが現状確認という名の雑談だ。だが、いつもとは様子が違う。
昨日、御劔が髪を黒に染めた生徒か地毛が黒の生徒しか認めないという言語道断な提案をした。
今日はその投票の日だ。
生徒会室に入ってきた御劔は表面上は、平然としていた。
だが、顔や姿勢などには隠しようのない落胆の色が浮かんでいた。
「昨日の提案ですが、中断させて貰います」
やった、と日村が俺に笑いかける。
「ただし、これは別に何かの圧力がかかったわけではありません。昨日の、笹川くんの素晴らしい意見を加味し、私の良心から導き出した結論なので、誤解なく」
ぱちぱちとまばらな拍手が起きた。
御劔が扉の方へ移動する。罰も悪そうだし、このまま帰るのだろうと思ったが、お呼びがかかった。
「そんな笹川くんお礼を述べたいので、少しよろしいでしょうか?」
御劔についていく。
御劔は俺を人気の少ない廊下に誘った。
○
誰もいないのを確認した上で御劔が口を開く。
「会長に告げ口したな」
「あれは人間的におかしな提案だと思いますけどね」
野心に光る目がいっそうぎらりとその光量を強くした。
「お前のような人間はいらない存在だ」
「それは」
「髪が金色で肌が浅黒い人間は俺の生徒会にいらないといっているんだ」
あまりにも差別的だった。唐突な痛みに言葉をなくした俺をそのまま黙らせるために御劔はまくしたてた。
「今日、遅刻したらしいな。この件については俺からも先生方にはよく言って聞かせておいた。もちろん会長にもな」
「先輩にも?」
「やっぱりな、という顔をしていたよ。笹川はこの学校に相応しくない、とも言っていたな」
信じられなかった。そんなことを天音先輩が言うはずがない。
「分かるように言ってやろう。この素晴らしい学校には、お前のように片親で髪も金色で普通でもないくせに成績も悪い貧乏な出来損ないを置いておく場所はないということなんだ」
いますぐ、この御劔の顔を殴りつけてやりたかった。拳を思い切り握り締めた。
だが、御劔のような陰湿な男はなんの考えもなしに、挑発し相手を怒らせたりはしない。どこかに罠がある物だ。ただ、黙ってきいた。
「お前の母親は若いうちに計画性もなく馬鹿な男とくっついてまるでペットでも飼うような感覚でお前を産んだのだろう。だからお前のような人間の出来損ないができあがるんだ」
忍従を自分に強いた。体が熱くなり、顔に血の気が登るのを自覚した。
握り締めた手からたら、と血が流れる。
爪が手のひらの皮膚を破ったのだ。唇を噛みしめていたが、ここにも血の味がした。
「出来損ないを馬鹿な雌犬に産ませてすぐに雄犬のほうは逃げたんだろう?」
「父さんは死んだ」
「死んだ? そう思ってるのか。まったく馬鹿を親に持つと子供まで馬鹿になるんだな」
「なにがいいたい」
「ほんとうのことを言いたいんだ。お前の父親はクズだ。お前はそのクズの血を引いてるんだよ。雌犬とクズとの相の子がお前というわけだ」
脳裏に秋子の笑顔が浮かんだ。秋子がどんな思いで俺を育ててきたか。
「どうりでこんなゴミが出来上がるわけだ」
ここでこいつを殴っておかないと、それらを全部認めてしまったことになる。だが、拳を震わせるに留めた。
俺を震える両手の拳を見て御劔が傲慢に鼻を鳴らした。
「意外と臆病なんだな。これだけ言われてもなにもしないのは、それらが事実だとお前が認めているからだろう」
育ちの良さそうな手が俺の肩を突き飛ばす。
「次、俺のことを会長に話したら、その時はこんな風に言葉で殴るだけじゃすまないぞ」
左手で俺を壁に押しつけながら御劔は細い指を俺の顔につきつける。その憤怒にまみれた熱い吐息を浴びないように俺は顔をそらした。
「お前は敵に回してはいけない人間を敵に回したんだ。俺という選ばれし人間をな」
惨めさと怒りとにまみれながら俯いている俺の耳に御劔が許可を出した。
「行っていいぞ」
指示に従うようにして俺は御劔の脇をすり抜けて走り出した。
はやくここからはなれたい。その一心だった。
もし、一秒でも長くあそこにいたのなら俺は思いきり殴りつけてしまっただろう。だが、それこそが奴の狙いだったに違いない。
俺が御劔を殴れば、遅刻どころではない。退学さえもありえる。御劔は学校に多額の寄付金を納めているとも言われている。
なんとか抑えた自分を褒めたかった。だが、褒め言葉が出ないほどに俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。