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あんたらさ、さっさと結婚しちゃってよ

「ぎりぎりだね」


 店の裏口で文香さんがタバコを吸っている。

 耳に沢山ついている金属のピアスが薄明かりに光った。

 文香さんはちょっとロックなお姉さんだ。

 煙が風下の方へ流されていく。


「静夫さんに休みすぎだって怒られちゃいますよ」


「君の方こそ、大変だよ。お父さん遅すぎるってカンカンになってるから」


 文香さんの脅しつけるような口調に慌てて店に飛び込んで、着替える。

 着替えるとはいってもエプロンを掛けるだけだ。

 こっそり、厨房に入っていく。


「遅れました」


「ああ?」


 フライパンを振りながら静夫さんが厨房の時計を確認する。


「時間通りじゃねぇか」


「そうっすね」


 怒っているどころか、上機嫌で鼻歌まで歌っている。

 文香さんはああやって俺に意地悪をする。


 さっそく、仕事に取りかかる。


 割り振られた仕事はシンプルだ。客はほとんど常連なのでいつどういう動きをするかはある程度分かっている。

 休日だともう少し忙しいが、この時間帯ならレジに立っておけばいい。


 食べ終えたお客さんが会計をして出て行く。


「ご馳走様って言っといて」


 そんな風に一言残しながらそそくさと悪いことをしたように帰って行く。そういう客の多い店だ。

 初めは変に思っていたが、今ではそういう客が通う店があっても悪くないと思うようになった。


 このレストランは静夫さんと文香さんの親子が経営する店だ。


 名前はアンゾー。グーグル翻訳で穴蔵を英語で翻訳すると出てきた言葉らしい。


 訳は間違っているが、気に入っているのでそのままにしていると静夫さんが話してくれた。


「客が少ないのに時給一五〇〇円なんて貰って大丈夫なんですか?」と聞いたことがある。

 静夫さんにメニューを見ろ、と言われたが、納得した。どの料理も俺の知っているレストランとは比べものにならないほど高価だ。

 さらにチャージ料もあるらしい。


 これほど高価な料理を毎日食べに来る客がいるというのが驚きだった。


 暇が多いのは良いことだが、あの金額と時給とを考えると少しの時間も気が抜けない。


 ほんとうにこんな適当な制服でいいのかとも思ってしまう。


 店は九時に閉める。


 あとの一時間は閉店後の掃除だった。俺の仕事はむしろ、閉店後が本番だ。一時間で店中の掃除を一人でしなければならない。


 最初の頃は、汚れのたまっている場所が多かったが、毎日ここへ来て繰り返しているうちにその汚れも取れていった。


 二ヶ月も通った頃には、なんとか時間内に店中を綺麗にする技術を身につけ、積もった汚れもなんとか消えた。


「じゃあ、俺は先に上がるから、あとは文香やっといてくれ」


 そう言って静夫さんが帰っていく。

 すると文香さんは急にだらけ始める。

 いつもだらけているがそれに輪がかかる。


「手伝ってくださいよ」


 助けを求めても「時給分働きな」と返されるのがオチだ。


 閉店して電気もほとんど消した薄暗いカウンター席のスツールに腰掛けて一人でぷかぷかとパイプ煙草をくゆらせはじめる。


 俺の仕事が終わりそうになるとまかないを作り始める。


 器用にも、煙漂うパイプをくわえたままでちゃちゃっと料理を作ってしまう。

 それがどれほどすごいことなのか、俺には理解できない。だが、文香さんは「すごいっしょ」と自賛して笑う。


 今日もいつものようにパイプ煙草をやりながら文香さんがパスタを作ってくれた。


 美味しそうなカルボナーラだ。卵とチーズ、ミルクのソースはかなり濃い。

 小さく切られたパンチェッタと粉のようなパセリが盛り付けられ、これでもか、とパルメジャーノチーズが振りかけられる。


 これが店に出ると二五〇〇円するという事実を考えないようにして食べる。

 相変わらず舌が馬鹿になるほど美味い。

 犬に美味しいおやつを食べさせるといつものご飯を嫌がるようになるという話をきいたこともあるが、このカルボナーラを食べると犬の気持ちも分かりそうになる。


 いつもの自分の料理や莉奈の料理が不味いというわけではない。

 だが、出来るなら毎日これを食べたい。きっと常連さんもそんな気持ちで通っているのだろう。


「で、今日は会長さんとどうなわけ?」


 秘め事をささやくように文香さんがきいてくる。

 俺は隠し事をするのが苦手だ。自分のことなら場の空気によってぺらぺらと喋ってしまう。

 学校関係者ではない文香さんには軽い口が羽のように軽くなり、大切な秘密が鳥のようにぱたぱたと飛んでいってしまう。


 だが、相談相手が女性、しかも大人だというのはかなり勇気づけられる。

 有益なアドバイスを貰えるのならば秘密を喋っても損はしない、と打算的なところも正直なところあった。

 それに文香さんのような人には俺などほとんど猿のようにしか見えていないだろう。だからこそ、安心して話せた。


「今日は上手く行きましたよ」


「へぇ、どんな風に?」


 今日あったことを文香さんに話す。天音先輩の手伝いをして、笑い合ったこと。

 それで参考書を貰い、しかも天音先輩に味方して貰えるようになったこと。

 そのおかげでなんだか仲良くなったような気がした、と感想も添えた。


「脈ありですかね」


「さぁね、で。君はどう思ってるの?」


「どうって?」


「今日、大変そうな会長さんを見てどうしたいと思った?」


 大変さに鎌をかけて仲良くなりたい。そういう気持ちもある。俺の中にわだかまっていた気持ちも仲良くなりたい、と統一されている。だが、一つだけ違うところがある。


「もっと仲良くなりたいですね」


「ふつうだね」


「そしたらもっと自然に助けていいですかって、聞けるような気がしたんです」


「助けたいじゃ駄目なの?」


「それじゃあ、ちょっと我がですぎかなって」


「ふぅん、てことは?」


「多分、恋人同士になりたいんだと思います」


「へぇ」


 文香さんがパイプをくゆらせる。

 なにか考えているようだった。

 出し抜けに言う。


「ねぇ、パイプの吸い方教えてあげよっか」


「俺未成年ですよ」


「いいのいいの。教えるだけだから」


 そう言うと文香さんはパイプの中身を変な金具で掻きだし、新しく葉っぱを詰め始めた。


「私は長く吸いたいから最初は固めにして徐々に柔らかくしていくんだよ。お父さんは味わう派だから逆だけど」


 そう言いながら親指で煙草の葉を押すように詰めていき、八分目まで埋まったところで先の平べったい棒で平にならしていく。


 マッチで火を灯し、またならして、また灯し、またならしてようやく満足したようだった。


「三本も使うんですか?」


「煙草の葉が勝手に燃えると思ってるでしょ。実は違うんだよ。煙草の葉っぱはなかなか燃えない。紙巻のタバコなんかは紙に燃焼を促す物質が含まれてて良く燃える」


「へえ」

 まだ見知らぬ世界の情報はただ単にそれだけでおもしろかった。


「だけど、ただの葉っぱはそうじゃない。焚きつけないと燃えないわがままさんだから、こうやって前準備をしないと駄目なの」


 言いながら一度吸って、息を吹き込む。

 パイプから濃そうな煙が昇っていく。


「燃えた、と思っても放っといたら勝手に消えちゃうんだ。パイプなんて吸うだけだろって思ってるでしょ?」


「はい」


「だけど、火種くんといかに良好な関係を築けるか、ってそういう楽しみをもつ娯楽でもあるわけ。火種くんと仲良くしたければ細心の注意を払って吸ってあげないといけない」


「どのくらい保つんですか」


「本気でやれば九〇分くらい」


「そんなに?」


「まかない作りながらだと集中力が落ちちゃうから一時間くらいかな。二時間四四分吸ったって人もいる。だいぶおじいちゃんで、もう死んじゃったけど」


 文香さんが優しくパイプの中に呼気を送り込んだ。

 パイプの中で火種がぼんやりと赤く光る。


「火種の位置が真ん中にあるとオッケー。でもね、どこに火種があるかはパイプを触って手で感じてみないと分からない」


「それって意味あるんですか?」


 素人考えだが、火種を見ればそれでいいような気がしていた。


「今は見えるけど、火種はどんどん灰に潜っていっちゃうから。それに、見えるところと位置が違うこともあるんだよ。それを見誤ると火はあっという間に消えちゃう。奥の奥にまで潜った火種くんを探すにはこの手でパイプを触るしかない」


「難しいんですね」


「んーん」


 文香さんが首を横に振る。


「そこまで行けば案外簡単。初心者が一番つまづくのは火のつけはじめ。長く吸いたくて葉をぎゅっぎゅってつめたときは思い切って強めに吸ったり吐いたりしないといけない」


「なんか怖いですね」


「そう怖い。でも怖いことしないと火種すらも産まれない。つけ初めが鬼門なんだぞ、パイプは。でもま、火が消えちゃえばつけ直しちゃえば良いだけなんだけどね」


 ふぅ、と文香さんが煙を吐く。


「だから、君もさ、自分の心にどう息を吹きかけるか考えた方がいいよ」


「それってパイプに恋心を例えたアドバイスですか?」


「いうなよ、恥ずかしいだろ」


 文香さんが笑ってパイプの吸い口をかりっと噛んだ。

 八重歯が白かった。


「いつか君とパイプやってみたいな」




 ○




「かんぱーい」


 家の玄関を開けるなり騒がしい。この声は母親の秋子だ。

 どうやら莉奈と飲んでいるらしい。


「おう、祐介おかえりー」


 スーツ姿の秋子が缶ビールを片手に騒いでいる。俺の姿を見るなり、ビールを持った手を高く掲げる。

 テーブルの上にはすでに缶が四つも開けてあった。


「おかえり祐くん」


 莉奈はオレンジジュースを飲んでいた。秋子の話に付き合ってくれたらしい。


「うひょー、私の息子だよ、莉奈ちゃん」


 せっかくの休息の時間なのだろうが、あまりにうるさすぎる。


「母さん、夜遅いんだから静かにしないと」


「ごめんねぇ!?」


「平気ですよ、隣私んちなんで」


 そうやって秋子をフォローし莉奈が席を立つ。

 シチューを深皿に入れて持ってくる。


「これ今日作ったシチューだけど、まかない食べてきた?」


「食べるよ」


 夕食は安全だ。夕食は秋子も食べるときがあるので、異物混入はされていない。多分。


「あんたらさ、さっさと結婚しちゃってよ」


 べろべろに酔った秋子が喚く。

 それに莉奈ものりのりだった。


「私はそのつもりですよ、お義理母さん」


「あらまぁ、じゃあ祐介の部屋の鍵あとで渡しとくからちゃちゃっとやっちゃってよ。男なんてさ体と料理でたらし込めば一発なんだから」


 うはははは。


 これにはさすがの莉奈も顔を赤らめて席を立つ。

 さすがにデリカシーがなさは一級品である。

 職場で働く秋子のことが心配になった。


 ぐびっとビールをあおる。


「うひひ、なんだか楽しくなっちゃったから脱ごうかな」


「やめてよ母さん」


 そうしている間に莉奈がシチューを入れた皿を持ってきた。

 俺の分はすでにある。


「あれ、食べてなかったのか?」


 秋子がひゃっひゃと笑い俺の肩を叩く。


「莉奈ちゃんずーと待ってたんだよ、あんたが帰ってくるの。まぁ、なんていいお嫁さんなんでしょね。私なんてね、あいつが帰ってくる前に料理捨てちゃってたからァ!」


 がはは、と笑う。


 あいつ、とは俺の父親のことだ。

 俺が幼い頃に死んだらしい。

 だからどんな人だったのかは詳しく知らない。


 こんな秋子の旦那だったのだから、相応の人柄と懐の深さがあったに違いない。


 俺たちがいまこうして過ごしている家は父が無理してローンを組んだ家だ。

 秋子はこれといって守るべき家でもないのに出て行かず、ちまちまと女が一人で稼ぐには多すぎるローンを払いながらまだ暮らしている。

 だから、父とは愛し合っていたのだろう。


「で、莉奈ちゃんは今日も泊まってくの?」


「家、隣ですしね。どこに泊まっても関係ないですよ」


「ま、それもそっか。だからこそ結婚してよ。挨拶とか帰省とかめちゃくちゃ楽でしょ。莉奈ちゃんの家族とは知り合いだから気持ちも楽だし。こんな秘密基地じゃなくてさ、祐介の部屋で二人きりでさー」


 うひょひょ、と笑いながら秋子がさらに酒を流し込む。

 母親ならそこは家に帰れ、と説得するところであるが、秋子は秋子だ。


 散々飲んでシチューを食って、秋子はそのまま床に寝転んでしまった。


 酒臭い秋子を莉奈と二人で寝室に移送する。

 勿論俺は足の方だ。


 こんなになっても朝の五時前にはぱりっと着替えて遠くの職場へ出勤していくのだから大した物だ。

 高速道路で行くというので交通手当が出ているがそれをケチるために一般道で走って行く。


 酔った秋子が言っていたが父と半ば駆け落ちのようにして結婚したらしい。

 頼れる親戚もいないので俺が小さい頃は今以上に苦労しただろう。

 莉奈の親である伊智雄さんと奈江さんがただご近所だという理由だけで母を助けてくれた。そういうわけで莉奈の親は俺の第二の親でもあった。


 激動の人生を歩み、今も働き続け酒を飲み騒ぐ。

 こんなに豪快で喜怒哀楽の哀の字が欠落しているのではないか、と思えるのが秋子だ。


 だが、俺が髪を染めるというと泣く。

 泣いて普通に産んであげられなくてごめんね、と謝る。

 だからどうしても染めるとは言い出せない。


 秋子の顔に言う。


「おやすみ、母さん」


「ああ、莉奈ちゃん、伊智雄さんと奈江さんによろしく言っといてね」


 むにゃむにゃいうなり秋子は布団に食らいつくようにして丸まる。


「うちに泊まるのにいつ言うんだよ」


 そんな俺の言葉を最後まで聞かず秋子はそのまま寝息を立て始めた。


 俺が父とローンのことをきくと秋子は、


「癌で死んでくれたら保険でローンがゼロになったのに」


 なんて冗談めかして言う。


 正直なところ、父が背負い込んだきり死んだこの家のローンに家計は圧迫されていた。

 だから家は立派なのに家具は少ない。


 それでも秋子は文句一つ言わない。

 中学生の多感な頃、俺は秋子にローンのせいで辛い暮らしをしている、と文句を垂れたことがある。

 すると秋子は「お父さんのことを悪く言っちゃだめだぞ」と俺をたしなめ、「返し甲斐があるじゃない」と意気込んだ。


 秋子が肩に背負っている物をみるとこんな間抜けな姿でも尊敬すべき姿に見えてしまうから不思議なものである。


 責任を負って成長したのか、それとも責任によって成長せざるを得なかったのか。


 どちらにせよ、俺は秋子を母親として尊敬していた。

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