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莉奈によろしく言っておいてくれ

 作業がこなれてくると会話をする余裕も生まれる。俺の手際が良くなっているのを察してか、天音先輩が話しかけてきた。


「それで、笹川はどうして図書室に?」


「参考書を借りに来てるんですよ」


「参考書?」


 天音先輩が顔を上げた。


「もう、大学受験の勉強をしているのか?」


「いや、そういうわけじゃなくて。ただ、授業について行けなくて」



「それでも立派だな。どの教科が苦手だ?」


「数学です」


 言うなり天音先輩が床に寝かせてあった鞄を膝の上に置いて中を漁りだした。


「これ、使ってくれ」


 差し出されたのは角が取れ、よれたところのある参考書だった。


「その参考書はなかなか分かり易かった。二年生の内容も網羅してある。もう、中身は覚えてしまったから笹川が使ってくれ」


「ありがとうございます」


 感激のあまり胸に抱き締めたいのを堪えなければならなかった。


 両手で持ってまじまじと見つめてしまう。これが、先輩の参考書。


 なんだか恋する乙女の気分である。参考書は角が取れたり、よれたりしているだけでなく無数の付箋もついている。

 付箋はどこのページをめくっていてもついていた。


 最初から最後まで付箋がついている。インデックスとして使用している気配もない。これでは付箋の意味がないのではないか。


「その付箋は取ってしまっても良いぞ」


「でも、大切な物なんじゃ」


「覚えたところに付箋をつけるんだ。魚のエラみたいだろう? だから私は魚のエラを増やすと呼んでるんだ。学生にとって覚えたページは社会という海に生き抜くために必要なエラになるだろう? 手前味噌だが言い得て妙だと思う」


 子供っぽく言う先輩はいつもとちがって可愛らしい。


 言われてみればそう見えないこともない。だが、センスはあまり良くない


 それでもうれしい物はうれしい。


「大切にします」


「時間は大丈夫か?」


 まだ六時前だ。学校を二〇分前までに出ればバイト先には十分間に合う。


「はい」


「じゃあ、最後の追い込みだ」




 ○




 図書室に蛍の光が流れるのは六時だ。それで閉館する。


 同時に作業も終了だ。蛍の光が流れ出したので、天音先輩が右手を挙げてぐっと伸びをする。先輩の豊かな胸が押し出された。


 見るのが失礼な気がしてとっさに視線をそらした。


「にしても助かった。笹川が来てくれなければどうなっていたことか」


「これですもんね」


 俺が悪ふざけと断定した申請書類たちが、百科事典一冊分ほどに積み上がっている。


「すまないが、シュレッダーの手伝いもしてくれるか?」


「喜んで」


 両手で書類を抱える。たかが紙が重なった物だというのにこれがずっしりと腰にくる。


「先輩はこれを毎日?」


「そうだ。おかげで健康だぞ」


 手こずる俺を置いて天音先輩はすいすいと進んでいく。


 プリント室には先生が残っていて電気がついていた。


「あとで鍵戻しといてくれよ」


 そういうと先生は天音先輩に鍵を渡して去って行った。


「信頼されてますね」


「ああ。嬉しいが、たまに疲れるな」


 どさ、と書類を置きシュレッダーのスイッチを入れる。天音先輩がシュレッダーに書類をかけ、あとは俺が渡していくというただの単純作業になった。


「私は君に謝らないといけないかもな」


「先輩がですか?」


 そんなにひどいことをされた覚えはない。


 なにかの間違いじゃないか。


「私は笹川を誤解していたよ。謝らせてくれ。すまない」


「でも、謝られる理由がないと」


「もう謝ってしまった」


 天音先輩が笑う。


 天音先輩の笑顔を見るのは今日で二回目だ。


「理由はあまり言いたくないんだ。笹川を傷つけてしまうかもしれない」


「どうしてそんなことを?」


「私もきっとそう感じるだろうと思ったんだ」


 迷っている様子だったが、天音先輩はそんな迷いを雑な申請書と一緒にシュレッダーにかけてしまったようだった。


「実は、皆に完璧生徒会長なんて呼ばれるのが辛くてな」


「知ってたんですね、そうやって呼ばれてること」


「聞こえてくるんだ。たまにな。こんな風に思うのは申し訳ないが、私自身じゃなくて、完璧な私が評価されているんじゃないかと思ってしまう。きっと完璧じゃない私を受け入れてくれる人はいない、なんてな。少々傷心が過ぎるが」


 ががが、とシュレッダーが紙を飲み込んでいく音だけが響いていた。


「誰かに中身を見て欲しいと私は思ってるんだろうな。だが、笹川のことを外見で誤解してしまっていた。庶務に推薦で上がってきたときは真っ先に落とそうかと思ったほどだ」


 そうやって語られた天音先輩の内面に俺は驚いた。そんなことを考えているとは少しも思わなかったからだ。


 自嘲するように天音先輩が笑う。そんな笑い方をするのは先輩が初めてだった。ただでさえ笑わない先輩が自分自身をそんな風に笑うのは想像すらもできなかった。


「こんなことを言うのは笹川が初めてだ」


 だが、と弁解するように天音先輩が続ける。自信なさげな天音先輩を見るのも初めてだった。


「だが、別に笹川が適当な話をするのに都合のいい存在だというわけでもないぞ。むしろ、よく頼れるというか、もっといて欲しいというか」


 あ、これは、とまだ続ける。


「そういう意味じゃなくてだな」


 なんだか俺も先輩に謝りたくなっていた。


「ごめんなさい」


「どうしたんだ」


「実は俺も先輩のことをずっと完璧な人だと思ってて。そのことがもし、先輩を苦しめていたのなら俺も謝らないと、と思って」


 また、俺も天音先輩のように言い訳がましく続けた。


「それと先輩のことがちょっと頼りなく見えちゃって。そんな風に振る舞わせたのが申し訳なくて」


 かなり失礼なことを言ってしまった。


 怒られるかと思ったが、天音先輩の表情は和らいだ。


「じゃあ、これでおあいこだな」


 できれば、もっともっと申請書類が増えていて欲しかったし、シュレッダーが紙を食べるスピードが遅くあって欲しかった。書類が多くて、シュレッダーが遅ければ遅いほど、ここで先輩と一緒にいられる。


 バイトのことは忘れてしまっていた。


 だが、紙の量は多くてもシュレッダーはあっという間に紙を食べ尽くしてしまう。


 最後の一枚を食べさせて先輩が息を吐いた。名残惜しそうに見えたのは俺の先入観かもしれない。


「さ、帰ろう、といいたいところだが」


 天音先輩が俺の前に立つ。


「笹川、なにか悩み事はないか? 私に礼をさせてくれ」


「でも、参考書貰いましたし」


「それは書類を整理してくれた礼だ。シュレッダーに付き合ってくれた礼はまだだ」


 先輩と一緒にいられただけでも十分です。そんな風に言えていたら俺はきっと、今頃彼女がいただろう。


 だが、俺はそう言えず彼女もいない。


 なんだか遠ざけられているような気がしていた。対価を払うことで、仕事上の関係だと切り離されているような、そんな気さえもする。

 それが意図的なものだ、と感じられるのは天音先輩に俺を好きでいて欲しいという俺の思い込みなのかもしれないが。


 もし、ここでもっと踏み込めるような。そんな関係だったら。俺はそう思わずにいられなかった。だが、俺と先輩とはそういう関係ではない。


 辞去するのも手だったが、天音先輩のほうから礼をさせてくれと言っている。タイミングよく悩みもあった。


「実は」


 打ち明けたのは先ほどの御劔の話だった。髪の色が黒でなければ生徒会から追い出す。御劔の言ったことを、そのまま伝えた。


 天音先輩が悩ましげに額を親指で撫でる。


「またか」


「前にもこんなことが?」


「稀に私に言ってきてたからな。だから、私から笹川に言うようにしておいたんだが。そうか、私のいない隙にそんなことを」


 わかった、と天音先輩が頷いた。


「私が何とかしよう」


 頼れる先輩の顔に戻っていた。


 そんな先輩の顔に一瞬だけ陰りが見えた。


「莉奈によろしく言っておいてくれ」




 ○




 家に帰ると莉奈がいた。エプロンを着けたままリビングのソファに膝を抱いて座って、テレビを見ている。


 鞄をリビングに置き、制服の上着を椅子にかけた。


「遅いよー」


「すまん、生徒会の会議が遅れた」


 二階の自室に飛び込む。


  バイト先には制服がない。だから私服に着替えていかなければいけない。そうしないと店長の静夫さんが嫌がるのだ。


 バイト用のシャツとジーパンをはいて階下へ転がるように降りる。


 キッチンには今日の晩ご飯らしい鍋があった。


 時計を見る。バイトまであと二〇分しかない。


 走ればまだ間に合いそうだが、一緒に食べられるような時間ではない。


 慌ただしく降りてきた俺に莉奈がたずねる。


「今日もバイト?」


「ああ」


「じゃあ、晩ご飯は?」


「一人で食べといてくれ」


 返事を待たずに走り出しそうになったところで、止まった。


「すまん。次は連絡入れる」


「いいよ」


「あと会長がよろしくって」


「早月ちゃんが?」


 これ以上、悠長に過ごしていられない。俺は家を飛び出した。


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