やってないよね?
「ただいま」
もう一度声をかけた。
人がいる気配はしていた。玄関には靴が二揃いある。片方は男物の革靴で、もう片方は小ぶりなスニーカーだった。
客でもきているのかもしれない。だが、それにしては静かすぎた。
胸騒ぎがする。
心臓が不規則に鳴っている。
「母さん?」
リビングの戸を開いて覗き込んだ。
「祐介」
まず目に入ったのは、青ざめている秋子の顔だった。
次に目に入ったのは見覚えのある二人だった。
伊智雄さんと奈江さんの二人が俺を見ていた。
「あれ、どうしたんですか」
明るく声をかけたが、伊智雄さんは黙って秋子に視線を送った。
秋子が促した。
「祐介、まず座ってくれる?」
秋子は大人の秋子になっていた。
隣に座った。机を挟んだ向こう側に伊智雄さんと奈江さんがいる。
いつもにこにこしている伊智雄さんと奈江さんだったが、顔つきが険しい。
莉奈と遊んで窓ガラスを割っても、テレビを壊してもこんなに怒ってはいなかった。
伊智雄さんが怒りを押し殺した声でゆっくりと言う。
「君にも心当たりがあるよね」
莉奈の嘘には心当たりがあった。だが、それを除けば覚えはない。まさか莉奈もアレを親に言うほどのことはしないだろう。ウチと莉奈とは家族ぐるみの付き合いだ。
「いえ」
「あれだけのことをしておいて、そんなことを言えるのか」
莉奈とは幼馴染みで伊智雄さんとの付き合いがあったが、怒鳴られたのは初めてだった。
なにがなんだかわからなかった。もしかしたらドッキリか、ともおもったが、秋子の顔は震えていて、青い。
秋子はそんな演技ができる人ではない。
俺が黙っていると奈江さんが声をかけた。こっちはいつもの奈江さんと同じ声で少し安心した。だが、顔には優しさがない。心の底はこの世のどこよりも冷え込んでいるようだった。
「実はね、莉奈が。祐介くんに無理矢理されたって」
この二人に莉奈の嘘を黙っている理由はない。
「俺がそんなことするわけない」
「ふざけるな」
伊智雄さんが机を殴りつける。秋子の肩が跳ねた。
机の上にあるテレビのリモコンが床に落ちた。
「ちょっと、伊智雄さん」
奈江さんが怒り心頭の伊智雄さんの肩に手を置く。
その手を振り払った伊智雄さんが声を荒げた。普段はこんな話し方をしない。そのためか所々抑揚がおかしかった。
「秋子さん、祐介くんにはもう彼のお父さんのこと、話してあげるべきじゃないですか?」
それは、と秋子が顔を上げた。奈江さんもなにもそこまで、と止めに入っているが、伊智雄さんは止まらなかった。
「大事な一人娘を傷つけられて、お前はなにをそんなことを」
「でも、莉奈の言うことが絶対にほんとうというわけじゃ」
「だが、お前も信じてるんだろう」
奈江さんは黙ってしまった。伊智雄さんも奈江さんも俺よりも莉奈のことを信じている。だが、それは仕方のないことだ。あくまでも二人の娘は莉奈だ。
「秋子さん」
伊智雄さんが諭すように誘い水を出す。秋子はためらっていた。
「でも、今じゃなくたって」
「今じゃないと駄目なんです」
強い口調にさらされて秋子は押し黙った。
「それなら、私から話しますよ」
両手を固く組んだ伊智雄さんが俺の目を深く覗き込む。
「君のお父さんは、君が思うような人物じゃない」
息を呑んだ。聞く。
「どんな、人なんですか?」
「間違いだよ、彼はね」
うう、と秋子が呻いた。
泣いてはいないようだが、辛そうだった。
「君はね、その人の血を受け継いでいるんだ。だから、莉奈にあんなことを」
「伊智雄さん」
殴りつけるような口調で奈江さんが止めに入った。
「それ以上は」
「でもね、奈江。俺はどうしても言いたいんだ。もう二度と莉奈のような女の子を生まないためにも俺は言いたいんだ」
伊智雄さんもつらそうに喉を鳴らした。唇を舐め、言うべき言葉を言った。
「秋子さんは騙された。君は、祐介くんはその嘘で生まれた間違いなんだよ」
銃で撃たれたことはない。だが、きっと撃たれたらこんな気分なんだろう。熱い何かが体を通り抜けていき、じわじわと血が溢れるのと同時に痛みが滲み出してくる。実感のない痛みは唐突に激痛に変わるのだ。
言葉を発そうとしても、言い返そうとしても喉を逆流する血のせいで言葉も出ない。目が不自然に泳ぐばかりで体はまるで蝋人形になってしまったかのように動かず、喉にコンクリートが詰まっているのかと思うほど呼吸がうまくできない。
不手際を責めるような口調で伊智雄さんが秋子に詰め寄る。
「こんなことになるくらいなら、話しておいた方がよかったんじゃないですか」
「それはまだ早いと思ってたから」
「そう思っている間に彼はうちの莉奈にひどいことを」
言葉に詰まった伊智雄さんの顔は怒りと悲しみと失望に染められていた。止めようがなく怒りに顎が振るえ、莉奈の苦しみを想像して涙を流していた。
「秋子さん、あなたに話せないのなら、私から話しましょうか」
「あ、でも」
口を動かすだけで秋子の口からは満足に声が出ていなかった。情けないほど迷っている秋子に伊智雄さんがどうするんですか、と聞く。
しばしの葛藤をその苦労で刻まれたしわの上に浮かべている。
秋子はがっくりと肩を落とした。
「お願いします」
伊智雄さんが咳払いをした。奈江さんに、いいな? と確認を取った。
奈江も不承不承ながら頷き返した。
「君のお父さんはね」
伊智雄さんが話してくれた。
俺の父親はクズだった。ひどい男だった。女を騙して金を巻き上げる。
そんな男だ。評判の悪い男だったが、秋子はその男を愛していた。だから、両親に反対されても振り切るようにして結婚した。秋子は少なからず家からも金を持ってきていた。
絶縁料として少なくない金額を貰っていたのだ。
生活は苦しくなかったそうだ。羽振りの良い男で良い暮らしをさせてくれていた。だが、それが罠だったのだ。
いつか、マイホームを持とうと秋子に話しその気にさせた。父親名義でローンを組んだ。その家が俺と秋子がすんでいる家だった。
だが、ローンを支払っているのは秋子だった。その頃には、秋子のお腹に俺がいた。三人で住む家だから、と秋子は家にすべての金を注ぎ込んだ。
すると俺の父は秋子と離婚すると言い出した。この家の名義は父でローンの支払いも父親がしているということになっていた。
それはこういう絡繰りだった。父親は秋子に家のローンに金を注ぎ込ませることによってそれを自分の貯金箱にしていたのだ。秋子がありったけを注ぎ込んだこの家はたっぷりと肥えていた。
あとは、名義主である父が売るだけで利益が出る。ここら一帯は再開発が進んでいて不動産の価値が上がることを見越していたのだ。
行く場所もない秋子は、どうにか家は残して欲しいと懇願した。父は秋子に卑劣な取引を迫ったらしいが、秋子がそれを実行する前に捕まった。
秋子の他にも似たようなやり方で女に投資だけさせ、アガリを掠め取るようなやり方をしていたのだという。秋子の件では詐欺が成立しなかったが、他の件で詐欺と見なされそれで逮捕されたようだった。
名義の変更を銀行が渋ったため、住宅ローンを完済してから名義を変更する合意をその男と取り付けて秋子は離婚した。
この際のゴタゴタでも伊智雄さんと奈江さんがただ隣人だというだけで手伝ったらしい。だからこそ、
男は刑務所でも問題を起こして、刑期が延び今でも塀の中にいるのだという。
「君はそういう男の息子なんだよ」
ぞっとするような声だった。
奈江さんが眉をひそめる。
「そんな言い方」
「こう言わなければ、祐介くんだって気付けない」
「でも、祐介くんがほんとうにしたって決まったわけじゃないし」
「もう言うな」
ばっさりと奈江さんの言葉を切り捨てた。こうした態度を取られたのは初めてのようで奈江さんは心からの侵害を感じているようだった。
「祐介くん、私がこんな厳しいことを君に言うのはね、もう二度と秋子さんのような被害者を、もっといえば祐介くんが加害者にならないためなんだ」
ようやく俺の喉から声が出た。掠れていた。
「俺はやってないんです」
父親がどんな人物だったかを知り、そんな父親の血を引いたという事実を知った。
俺の中で色んなことがぐしゃぐしゃになって入り乱れていた。
こんなに俺を敵視する伊智雄さんも見たことがなかったし、申し訳なさそうにしている秋子も見たことがない。
「信じてください」
そうとしか言えなかった。
「君があくまでも否定するというのなら、私にも考えがある」
「でも、それは莉奈が」
秋子が床に伏せ、四つ指を立ててお願いする。
「裁判だけはどうかご勘弁お願いします」
「それも、祐介くん次第ですよ、秋子さん」
同情するように伊智雄さんがいうと、奈江さんを連れて帰っていった。
○
しばらく、二人が帰っていった扉をぼんやりと見つめていた。
こんなことになったのだから、秋子は取り乱すだろうと思っていたが、案外冷静だった。
「ねぇ、ねぇ」
放心している俺を呼んだ。
「やってないよね?」
秋子の目を見た。
「やってない」
へなへな、と芯のなくなった人形のように秋子がくずおれた。
俺の方へしなだれかかった秋子を支えてたずねた。
「信じてくれるの?」
「当たり前よ。親子だから」
秋子が俺の肩を両手で押さえた。
「でも、伊智雄さんを恨んじゃ駄目」
俺にもそのつもりはなかった。一人娘を傷つけられたと知った父親にはああやって怒り狂う権利がある。
「勘違いしてるだけだと思うから」
「父さんの話はほんとう?」
苦しそうに秋子が頷く。
「やっぱり伊智雄さんは優しい。あれでも言葉を選んでくれてたと思うよ」
「そんなに?」
「捕まるまでは毎日家に来てすごかった。まだ、ちっさい祐介がいるのにお構いなしなんだもん。この人、祐介を愛してないなって思ったから、私全力で戦ったの」
「伊智雄さんと奈江さんも?」
「そう、隣にいてしかも同い年の子供がいるっていうだけで」
「今度会ったらお礼言わないとな」
「その前に許して貰わないとね」
伊智雄さんは俺のことを間違い、と呼んだがそれを認めるつもりはなかった。
だが、それを証明するためには欠かせない人物がいる。
莉奈だ。
俺と一生を過ごすために名誉もなにもかもをなげうっている。
家族との絆も持ち合わせている物を精一杯に叩きつけている。
これで俺が音を上げなければなにをしてくるのか。
簡単な想像すらも出来そうになかった。
もしかすると軍隊でも連れてくるかもしれない。
莉奈ならばありえそうだ。
そんな莉奈を説得できるのか。
自信がなかったが、まだやらなければならないことが山のようにあった。
だが、幸せなことに俺は誤解によって失われてしまった信頼を取り戻す方法を一つだけ知っていた。




