実はやめようと思ってる
痛む体をゆっくりと起こして体の具合をたしかめた。
ところどころ痛みはあるがひどくない。特に痛む部分に触れてみるが、激痛というほどでもない。骨は折れていないらしかった。
頑丈な体に生んでくれた秋子に感謝した。
汚れた服からなるべく汚れを払って、まき散らされた書類を一つ一つ拾っていく。
さて、あとは教科の類いだ、と顧みる。
教科書や参考書、筆記用具も綺麗に整えられていた。
「いるんだろ?」
呼びかけると戸惑いがちな影が現れた。莉奈だった。
「また助けられたな」
「私はなにも」
「途中で足音がなったけど、あれ莉奈だろ?」
答えはなかった。
「また、やめにしようって言うのか?」
莉奈が首を横に振る。
「その逆だよ」
「もっとひどいことをするつもりか?」
莉奈がまた、首を横に振った。
「もう、ひどいことしちゃったから」
やはり、御劔にあの話を伝えたのは莉奈らしい。
「楽しみにしとくよ」
リュックを背負い、鞄を拾う。
体を引きずるようにして歩く俺に、莉奈が手を伸ばした。
「そんなになってるのに行っちゃうの?」
言葉はいらない。俺は月に向かって歩いた。
○
「今日は大分お疲れだね」
「ええ、まぁ」
まかないを食べながら頷いた。
食欲はある。やや不整脈が出ていた。心臓に突っかかるような違和感を抱いた。
御劔たちが顔を殴らなかったのは、きっと暴行の事実をそれと分かるように残さないためだろう。だが、そのことは俺にも有利に働いている。これなら誰にも心配をかけないですむ。
「手、どうしたの?」
すぐに手を引っ込めた。見れば手の甲にあざがついていた。
「転んじゃって」
「だったら引っ込めなくてもいいでしょ。ちょっと待ってて」
席を立った文香さんが救急箱を持って帰ってきた。
「そこまでしなくても」
「いいからさせて」
アルコールで湿らせた綿をピンセットでつまむ。つつくようにして消毒していった。そのたびにちくりちくりと痛む。
「痛い?」
「はい」
「我慢してね」
「だったらきかないで下さいよ」
「そんな生意気を言うんだったら次はもっと痛くするから」
「すみませんでした」
軽いやりとりに体の痛みが若干引いた。
無言で両手の傷を消毒し、塗り薬を塗布したガーゼをあてて包帯で巻いていく。
「やりすぎですよ」
「まぁまぁ、化膿しちゃうとそこから熱が出ることもあるんだから」
されるがままになっていた。
隙を見て文香さんが俺の服の袖をはぐった。手の甲よりもくっきりとあざが残っていた。
慌てて隠した。手遅れだった。
「ただ転んだだけでそんなにあざが出来る物なの?」
「階段から落ちたので」
袖を戻した。
疑いの視線に絡まれて俺は戦う気を失った。
「静夫さんには言わないでください」
「なに? 喧嘩?」
「そんなところです」
文香さんがパイプの火を消す。放っておけば勝手に消えると言っていたのに、わざわざ火のついた葉を掻き出していた。
「ねぇ、服脱いで」
「なんでですか」
「こういうのでも大変なことになったりするんだから」
服を脱ぐ。自分でも驚くほどの痣が出来ていた。湿地帯を描いた地図のようになっている。
「思った以上にひどいわね」
「俺もそう思います」
文香さんが俺の目を真っ正面から見つめた。唇をぺろ、と舐めた。
「下も脱いで」
「下もですか?」
「恥ずかしいの?」
「でも」
「いいから、お父さんに言われたいの?」
立ち上がり、言われるがままにズボンを下ろす。
椅子に座ったままの文香さんが俺の体をじろじろと舐めるように見た。
「こんなになって可哀相」
立ち上がった文香さんが俺の耳にじゃれるようにささやく。背中の方に文香さんが回りこんだ。
指で痣をなぞっている。くすぐったくもあったし痛くもある。
それに何の意味があるのかは、文香さんにしかわからない。
俺はそう思い込んだ。
指が体に触れる度に、俺は身もだえた。
くすくす、と文香さんが笑う。
静かな店内のこの雰囲気になんとなく期待が膨れあがっていった。
俺の腰に腕が回される。細い腕が俺の腰をだきながら、俺の腹を撫でた。くすぐったさに耐えた。
なにか柔らかい物が俺の背中に当たった。その正体は流石に思い込みで知らないふりできなかった。
「なにしてるんですか」
手を力尽くで引き剥がして振り返った。
目に見えて狼狽した。文香さんがあとずさる。
背中に当たった感触。間違いなく唇だった。
それを感じたとき、風船が弾けたような気がした。
よろよろとよろめいて文香さんは椅子に座る。
俺が背中に受けた感覚は誤りでない。
文香さんの態度が俺の感覚の正しさを裏打ちしていた。その前後のやり取りの意図もなんとなく見えた。
なくしたものを探すように机の上を探って、文香さんはようやくポケットからマッチ箱を取り出しパイプに火をつける。だが、中身のないパイプは煙をあげない。
情けない文香さんから目を逸らすようにして俺は服を着た。
「今日は、帰ります」
返事はなかった。
○
苛ついていた。
俺には好きな人がいる。文香さんに打ち明けたのは文香さんを信頼していたからだ。なのに、どうして俺の心を揺らすようなことをするのだろう。文香さんはただの友達だった。そんな人の急変は恐ろしくもある。
だが、正直なところ、俺の心は揺れていた。文香さんのことは尊敬している。一緒に働いた仲間という以上に、女性としての魅力もあるな、と思い直した。
大人の女性の雰囲気がある。一緒にいると自分もなんだか大人の男になったような気分になる。一緒にいると安心するし、ついでに誇りも持たせてくれる。そんな人だ。
もし、文香さんと一緒に暮らしたら。
そんな空想をする俺自身にも苛ついていた。
服を脱げ、と言われたとき文香さんがなにをしようとしていたのか。俺はどことなく想像がついていた。
手慣れている様子にもまた、苛ついたし、そんなことを気にしてしまう自分がもっと苛立たしい。
あの雰囲気で服を脱ぐように言う。それが医療行為のためでないくらいは分かっている。
俺は自分が期待していたことを文香さんにされたから拒絶したのだった。
そうやって自分をつぶさに見つめていくとどうしようもなく、わがままで自分勝手な自分が浮かび上がってくる。
こんな俺に、天音先輩は振り向いてくれるのか。
空を見上げた。目指すべき月は、雲に隠れて見えなくなっていた。あまりに雲が深すぎ、光は少しも漏れていない。
蹴られたせいか胸も痛む。
写真をなくしたというと秋子は、あっそ、と軽く答えた。
夕飯も食べず、シャワーを浴びそのまま床に入った。
眠ろうとしても眠れず、ようやく書類の処理を思い出した。
書類を片付けた。
深入りしようとしない秋子が俺の救いだった。だが、今日という夜は少し話していたかった。
秋子には俺と同じように明日があり、しかも仕事がある。
だというのにそんなことを望んでしまうのは罪ぶかいことなのかもしれない。
もしかすると俺は最低の人間なのかもしれない。
俺の身勝手のせいで色々な人がしなくていいことをし始めている。
俺はこのまま、突き進んでしまって良いのだろうか。
湧き上がる不安から逃げ去るようにシュレッダーをかけた。それもどことなく虚しい。
○
目覚ましに叩き起こされ起きる。
機械のように支度をすませて家を出た。
寝不足で目がしばしばする。徹夜明けの太陽を見るように光を見ると目が痛い。睡眠も十分でなく疲れと痛みが体をひたすら刺激していた。だが、なにもしないと気が狂いそうだ。
家で待っていても、悪い知らせが訪れる。だったら、こちらから訪ねていった方が良い。
朝の挨拶運動の時間だ。天音先輩はすでに来ていた。
だが、挨拶をしてはいけない。俺はあと一回しか先輩と話せない。
「おはよう」
耳を疑った。天音先輩から俺に挨拶をしてくれたことは、初めてだった。
何も言えない俺に天音先輩が腕章をさしだす。
「これはお前の分だ」
腕章を巻いて登校する生徒に挨拶をした。
天音先輩から挨拶をしてもらい、挨拶運動の腕章ももらった。俺は信頼を取り戻しつつあった。
だというのに心は思った以上に心は晴れなかった。
それはこれからのことを思ってか、それとも天音先輩への情熱が薄れかかっているからだろうか。
出来れば、前者を信じたかった。
心の中で天音先輩に呼びかけた。なんだ、と返ってくるだろう。
そこまでシミュレーションしたが、俺は答えを思い浮かべられないでいた。
すると先輩は俺にこう問う。お前はどうしたいんだ。
俺は一体どうしたいのだろう。
○
「なんか雰囲気悪くない?」
まず気付いたのは未可子だった。
「そうか?」
見て明らかだったが、貴也は無遠慮に辺りをきょろきょろし、他の生徒に「なにかあったのか」ときく始末だった。
未可子が気付いて俺が気付いていないわけもない。校門からクラスへくるまでの間、もっといえば挨拶運動の間にも動物園の動物になったような気分になった。
俺が視線を向けたほうでは不自然に顔が背けられている。
御劔は俺との約束を守ったようだった。あの話は、静かに、だが着実に生徒たちの間に浸透している。
貴也と未可子を誘う。
「少し良いか?」
「でも、もうHRだぜ?」
渋る二人を立たせた。HR間近と言うこともあって、踊り場に生徒は少ない。
「あの話が皆にバレた」
「なんだあの話って」
とぼける貴也の腕を未可子が小突く。
「莉奈の嘘話。それ信じて祐介殴っちゃったのにもう忘れてんの?」
「ああ、それね。それ」
へらへら、としている貴也の顔が徐々に強ばっていく。
「それってヤバくね?」
「だから皆ちょっとおかしいのか」
腕組みをして未可子が頷く。俺にたずねた。
「どうしてわかったの?」
「きいたからだ」
「きいたって誰に?」
未可子の目が鋭くなる。
「あんた、他に何かされたんじゃないの?」
疑る視線が俺の手に貼られてあるガーゼをなぞっている。手を握って隠す。
「あんたね」
未可子が俺の手を取ったところで始業のチャイムが鳴った。
○
放課後、天音先輩の書類を受け取る前にどうしても貴也と未可子と話したくなった。
未可子は快諾してくれた。
だが、貴也は「俺はちょっとな」と歯切れが悪い。
未可子が問い詰める。
「あんた部活もやってないでしょ」
「そうだけどさ、今日だけは駄目なわけ。な? 今日だけは勘弁してくれよ」
まるで家から追い出さないで欲しいと頼んでいる家賃滞納者のようである。
そこまでなにかしたいことがあるのだったら、それをやめさせる理由もない。
「またな」
俺が言うと貴也の顔が明るくなった。
「おう、またな。後でちゃんと説明するから」
鞄をひっつかんだ貴也が俺と未可子の間を走りぬけていく。
「どういうこと?」
未可子が問うが俺にも心当たりがない。
「ま、とにかくあんたの話しきかないとね」
今思っていることを率直に口にした。
「実はやめようと思ってる」




