これがお前を産んだ雌犬か?
俺の悲鳴に続いて、また悲鳴があった。
「わっ」
明るくなった教室。教壇にいるのは。
「先輩?」
天音先輩が眩しそうに目を細めていた。
「ようやくお目覚めか」
教卓には例の如く書類が積み上げられていた。手には手動のシュレッダーがある。
しゃり、しゃり、という異音は天音先輩が暗闇の中で手動シュレッダーを動かしている音らしい。
「にしても驚いたな」
と天音先輩は久しぶりの茶目っ気を見せた。
「いつからここに?」
「図書室を出てお前がいなかったからな。卑劣な外道と別れられるとせいせいしていたが、戸締まり点検の際に生徒会室の鍵が開いるのを見つけてしまってな。そしたらお前がいたから、ここで作業を続けていた」
救われたような思いだった。
「来てくれたんですね」
「お前は約束を破るような奴じゃないから、なにかあったのかと。いや、そうじゃない。そんなつもりはなかった。執行部生徒を残して会長が帰るわけにはいかない。だから作業をしていただけだ。手動のシュレッダーを私も貸してもらったということもある」
「俺が起きるのを待って、ですか?」
「あまりよく寝ていたからな。寛大さがなければ生徒会長など務まらん」
やっと報われた。
ただ、待ってくれていたと言うだけだ。なのにこれほど嬉しいとは。波のような物が背骨から流れて喉で止まった。
それだけに残念だった。
ここで地毛であることを証明したい。だが、写真は俺の手元にない。
そんな好条件の中で不本意だが、謝らなければならなかった。不注意も俺の責任だ。俺がもっとしっかりしていればなくこともなかった。
「今日の約束のもの忘れてきちゃいました」
不可解な顔をした天音先輩が何かを持ち上げた。
「これのことか?」
天音先輩の手にあるのは俺が写真を入れておいたファイルだ。なくなった、と思っていたが先輩が持っていたらしい。胸を撫で下ろした。
「見たんですか?」
「盗み見るような真似をして悪かった」
申し訳なさそうに天音先輩がファイルに視線を送る。
「だが、どうして母親の証明写真まであるんだ?」
笑顔で答えた。
「母が地毛を証明するなら親の写真もあった方がいいだろうと」
「仲がいいんだな」
しばらく沈黙があった。教卓へ近づいていく。まだ、書類が残っている。
「手伝わせて下さい」
だが、天音先輩は書類を渡そうとしなかった。
「どうして黙っていた」
地毛のことだろう。
「ちょっと恥ずかしくて」
「教えてくれないか」
問い詰められて隠すほどのことではない。
「母が髪を染めるのを嫌うんです」
そのために秋子が泣いた、と伝えると嘘っぽくなりそうだった。若干表現を和らげた。
「それになんだか、この年にもなって髪を自分の意志で染められないのはかっこ悪いかな、と思ったので」
天音先輩は打ちのめされたように眉を曲げていた。
「じゃあ、お前は私が髪を黒く染めるというのをどんな気持ちできいていたんだ」
と呟いていた。
答えようとしたが、天音先輩が手をかざして止める。
俺に答えさせるために、というよりは自分で考えるために声に出したようだ。
ファイルが帰ってきた。
観念したように天音先輩が息を吸い込む。
「どうやら、この件に関して恥知らずだったのは、私だけのようだな」
言うなり天音先輩が頭を下げた。
「すまん」
謝罪を正面から受け止めた。
「でも、悪いのは先輩だけじゃないです。ちっぽけなプライドのためにほんとうのことを言わなかった僕も悪いんです」
「だが、どうしてそんなことを黙って」
言いながらも天音先輩は俺の告白を思い出したようだった。
「そうか、お前は私のことが」
俺は天音先輩のことが好きだ。だから俺は先輩に地毛である理由を打ち明けられなかった。
天音先輩の中で色々なことの辻褄が合いつつあるようだった。
男は好きな人の前ではどうしても格好がつけたくなる。それを理解した上で、天音先輩は俺をどういう風に見るのか。
口出しをせず、俺は静かに待った。
しばらく考えて天音先輩が頭を抱えた。
「私は、分からない。私はお前をどんな人間として受け止めていいかが分からない」
あまりにも弱々しい天音先輩がそこにいた。
「四角のこともそうだ。私は四角を信じてお前をひどい奴だとなじった。だが、それは勘違いだった。お前の金髪は地毛ではないと私は思っていた。だが、それも勘違いだった」
天音先輩の中でなにかが音をたてて崩れつつあった。
「俺は、先輩には嘘をつきません」
いつもなら突き放されてるところだ。
にもかかわらず、天音先輩は小さく頷いた。
「そうだ、お前は私に一回も嘘をついていない。毎日挨拶運動に来て、しかも私が押しつける仕事を毎日こなしている」
「俺はほんとうに天音先輩のことを手伝いたいんです」
苦しそうに天音先輩が俯く。
「私の友達の言うことをきくとお前は最低の人間だ。だが、お前の行動を見ていると私にはとてもそんな」
乞うような目で天音先輩は俺を見た。そんな風に人を見る天音先輩も初めてだった。
「私はお前をどんな風に見れば良い?」
「見たいように見て下さい」
「だが、それだと私は」
天音先輩の声が力なく萎んでいった。
色々と考えることもあるだろう。ここで返答を急くのはあまりにも酷だ。
「手伝いますよ」
「まて」
書類の束を許可もされていないうちからとった。
もうここ数週間で慣れっこになっていた。
鞄に書類を詰めて天音先輩を生徒会室に残し、生徒会室を出た。
○
背中には書類。手には鞄。道も暗い。だが、急いでいた。
部活動の手伝いという文香さんがつくってくれた口実があるからと言ってバイトをないがしろにしていいわけではない。
玄関は閉まっている。
靴をとって渡り廊下から外へ出た。まだ正門は開いている。
そちらの方へ走って壁際。ふいになにかに足を取られた。
前のめりに倒れた。つまずくような物は何もないはずだ。手をついて地面に転がった。
部活生も帰っていて誰もいないはずだった。
なのに人が寄ってくる気配がする。
「早くしろ」
しかりつけるような声に、すみません、と続く。
起き上がろうと手を前について四つん這いになった。がら空きの俺の脇腹に蹴りが吸い込まれるように入った。
体が転がる。天を仰いだ。星空が輝いている。
呼吸が上手く出来ない。痛みと苦しみは遅れてやって来た。
もう一度、脇腹を蹴られる。
「うぐっ」
呻いた。
星空をかき消すように四人分の真っ黒な影が俺を取り囲んだ。
かち、とクリック音がする。眩しさに目を細める。ペンライトかなにかで俺の顔を照らしているようだ。
「笹川だ」
確認するような声の直後、また脇腹が蹴られる。
痛みに呻く俺の胸を誰かの靴が踏みつけた。呼吸が抜けていく。
足がどけられると今度は髪をつかまれ思い切り引っ張り上げられた。
上半身が起こされる。倒れていることは許されていないらしい。
闇雲に腕を振る。
「いて」
一人の足を強かに打った。
だが、その分仕返しは強烈だった。
無防備な体に何度か蹴りを浴びせられた。体から力が抜ける。
「おい、後ろ行け」
指示が飛ぶ。
一人がぐったりした俺の後ろに回った。まるで羽交い締めのように俺を捕まえるとずるずる、と引きずっていく。
靴の踵がすり減ってしまう。ケチくさいことを考えてしまった。
「こっちだこっち」
連れてこられたのは校舎の裏側だった。
奇しくも俺が四角を助けた場所だ。
壁に投げ捨てられるような形で突き離された。
後頭部と背中が校舎のざらついた壁に当たる。
体中が痛んでいた。どこを抑えたらいいか分からないほどだ。
四人が俺を囲んで逃がさないように立ちふさがっていた。
徐々に、目が慣れてきてそれが誰だかが分かってきた。
御劔だ。
御劔と彼のシンパ。彼らが俺を囲んでいた。
力の抜けた腕から鞄が奪い取られていく。
「いい格好だな」
御劔が俺をあざけ笑う。シンパも音が鳴ると反応するおもちゃのように、はっはっは、と歌った。
通学用の鞄のジッパーが切れるような音で開かれた。逆さまになった鞄をシンパが振る。
教科書や筆記用具、ファイル。天音先輩に貰った参考書や取った付箋が落ちていく。
真っ暗なアスファルトの上でそれらが音をたてた。
思わず手を伸ばした。
「やめろ」
そんな俺を一瞥して御劔が下知を飛ばした。
「黙らせとけ」
蹴りの嵐が俺を襲う。体中に大きな石を投げつけられているような感覚だった。丸まって腕の隙間から御劔を見えた。
ペンライトで地面のものを物色している。
ファイルを御劔が拾い上げる。そこには俺と秋子の写真が入っている。
中身を見て、御劔がにやり、と笑った。暗闇でも分かるような陰湿な顔だった。
御劔が俺に近寄ると蹴りの雨が止んだ。
「これが小さい頃のお前か?」
ペンライトの光が目に染みる。そんな俺の様子すらも楽しんでいるようだった。
御劔の手には俺の写真がある。俺が父親と写っている唯一の写真だ。
答えずにいると蹴りが飛んできた。
「答えろ」
「そうだ」
御劔が笑う。
「お前の頭が地毛だというのは事実か。勘違いをしていたおわびをしてやろう」
神経質そうな手つきで御劔が写真を摘まむ。互い違いに引き裂いていった。ゆっくりと、皮を剥いで楽しんでいるように。
写真が真ん中から裂けていった。俺のふてぶてしい顔が真っ二つにされていく。俺を抱いていた父親の腕が離れていく。
「やめ」
俺の指のほんの数寸のところで一気に写真が裂かれた。
御劔はさらに小さく破り、手で丸めると地面に投げ捨てた。写真の残骸を足で踏みつける。
ははは、と心地よさそうに御劔が笑った。
御劔の手には秋子の証明写真がある。
「こいつはお前の母親か」
待て、と俺に返答を待たせる。
「これがお前を産んだ雌犬か?」
答えないでいると再び蹴りが俺を襲った。
だが、それだけは言うわけにはいかない。
固く口を閉ざす。脇腹や腹や胸に鋭い蹴りが差し込まれ、えずいた。
それでも黙りっぱなしの俺に業を煮やしたのか御劔が俺の首に手をかける。
ぐ、と力が入った。
「言え、これが俺を産んだ雌犬だと言え」
声を出すどころではない。
自分の物ではないみたいに手足が勝手に動いた。
「それ以上やりすぎるとヤバイですよ」
「うるさいぞ」
意識が途切れそうだ。
するとどこかから靴音がした。
手の力を御劔が抜く。
自由になった喉で空気をたらふく吸い込んだ。
俺の喉がひゅーひゅー、と笛のように鳴った。
俺が声を出したらいつでも絞めるつもりだったのだろう。御劔の冷たい手は俺の首筋に当てられていた。
「そろそろ引き上げにしませんか」
シンパが助言する。
それを無視して御劔がリュックへペンライトの光を向けた。
「そっちのリュックは?」
もたついているシンパに苛立たしげな声を投げた。
「急げ」
シンパが食べ物を埋めるリスのように素早くリュックの中身を物色していた。
「書類だけです」
「どんなだ」
受け取った御劔がそれを改める。
馬鹿にしたように笑った。
「なんだ、これか」
御劔が束を一つとると札束を放り投げるようにばらまいた。
「最近、会長が妙に動いているのもお前のせいか」
「どういう意味だ」
「会長は有能だが、所詮は女だからな」
書類の束を手で握りつぶす。
「こんな仕事をあてがわれて断ることも出来ん。お前が思っている以上にあの女は弱い」
御劔が奇妙な猫なで声を出した。
「笹川、俺と一緒に来ないか」
「誰がお前なんかに」
「早月はお前が憧れ、こんな風になってまで思い煩う女じゃない。お前は立派だ。俺はお前のような人間が仲間に欲しかった」
「寝言を言うな」
「世辞は素直に受け取っておけ、雌犬の子供」
御劔が俺の顔を覗き込む。目を奥に悪魔が見えた気がした。
「俺があの女を調教する。そうすれば、俺はこの学校でトップになるだけじゃない。あの女の会社も俺のものになる。お前から見ればしようもなく下らない世界だろう」
分かってる、分かっているんだが、と言い訳めいた区切り方をして御劔が続けた。
「お前は雌犬の子供として育つには勿体ない人間だ。だから、忘れろ。お前にはもっと良い人間がいる」
秋子の写真を地面に捨て、それを足で踏みにじる。
地面に散らばった教科書の類いを蹴り飛ばす。
「こんな目にあうこともない」
ふと、御劔が天音先輩のくれた参考書を拾い上げた。
「参考書にこんなに付箋をつけても意味ないだろ」
御劔が嘲笑すると取り巻きも「馬鹿だな」と笑った。
俺は思わず笑みを浮かべてしまった。何も知らない連中が俺にはおかしくてしかたがない。
あんなに天音先輩を知っている風に振る舞っているくせに天音先輩の付箋の意味も知らないのだ。
蹴られるかもしれないが言わずにはいられなかった。
「意味がないように見えるのはお前たちが何も知らないからだ」
「負け犬とは思えない声で遠吠えをするもんだな」
御劔が革靴で参考書を蹴った。
ページがたなびき、カラフルな付箋がぱらぱら、と夜空に散った。
冷たい御劔の手が俺の顎を掴む。
御劔の顔がほんの鼻先にあった。
御劔の線の細い顔。
そこに二つの眼差しが冷酷に温度を感じさせない色で光っていた。
「お前が諦めないなら、俺も諦めない。覚悟の上だな?」
答えずにいると、シンパが「はやく」と声をかけた。
御劔が俺の顔を突き飛ばすようにして放した。
支えを失って垂れた俺の顔に御劔が言葉を吐いた。
「おもしろい話が手に入ったんだ」
俺は眉が興味に動くのを抑え切れなかった。
「笹川、お前がここで俺の軍門に降るか、それとも早月を諦めるのならそのことは秘密にしておいてやろう」
それだけで莉奈の件だと分かった。御劔がこんな大胆な行動を取るにはそれなりの弱みがなければならないはずだった。
いつかは、御劔が嗅ぎつけるだろうと思っていた。だが、こんな時でなくて良かったのではないか。
これも莉奈の計らいだろう。御劔の手に俺が莉奈に関係を無理に迫った話が渡った。
そうなれば話が広まるのは御劔の胸三寸次第だ。
「だが、正直な話。お前がこんなことをするとは思えない」
「だったら言いふらしても意味ないだろう?」
「お前の活躍を見ている俺だからそう思うんだ。ここまで俺を虚仮にしたのはお前が初めてだった。敵愾心を感じたのもお前が初めてだ。ライバルというやつを初めて見た」
感極まったように御劔が空を仰ぎ見た。再び、視線が俺に戻る。
「笹川、俺と来い。あの女は俺にとっては通過点だ。役割を終えたらお前にくれてやる。どうしても欲しいのならな」
顔の前に差し出された手。この手を握れば得られる物は少なくないだろう。
差し出された手を払いのける。
この手を握ってこの世のすべてが手に入れられるとしても、俺は同じ選択を取っていたように思う。
さほど残念そうな様子もなく御劔は淡々としていた。
「そうか、なら遠慮はいらないな」
おい、と御劔がシンパに呼びかける。
「行くぞ」
ようやく去ろうとしている嵐にわざわざ声をかけないものだ。そもそも俺にはかけるような力が残っていなかったのだ。