良い匂いじゃん
声が聞こえて覗きに行った。
そこには三人の生徒がいた。だが、楽しく話をしているようには見えない。
背の高い女生徒。その足が地面の土を蹴り上げていた。うずくまっている女の子のスカートを汚す。
土をぶつけられた女の子の肩は揺れている。
それを団子鼻の女子がにやつきながら眺めていた。
これはいじめだ。
息を呑んだ。俺に出来ること。
七三分けにしている髪を下ろした。
なるべく、荒れた学校の生徒をイメージする。
この容姿には随分悩まされてきた。
威圧感とチャラ男感がなくなるように工夫してきた。
そんな俺だからこそ、その両方が最大限に表れる方法を熟知している。
髪を後ろになでつけた。
オールバックにする。
制服を着崩し、シャツの前を開け、ズボンを腰まで下げる。
ポケットに両手を突っ込んだ。肩の力を抜いてダウナーな感じに。
窓で自分の姿を確認する。
自分自身でも震え上がる。
どこの底辺高校の生徒が紛れ込んだのだろう。
相手は進学校でいじめをしているような小心者だ。
俺の姿を見るなり脱兎の如く逃げ出すに違いない。
深呼吸をした。間違いなく上手く行く。
言い聞かせてもドキドキが止まらない。
すぅ、と息を吸って角から出て行った。
「おい、お前らなにしてくれてんの?」
ドラマで見た不良の口調を真似る。強気に、強気にだ。
「ああ?」
背の高い女生徒がこちらを振り向いて固まった。
「な、なにあんた?」
声が震えている。
効果てきめんだ。
「だからさ、なにしてくれてんのかきいてんの」
「あ、あんたうちの生徒?」
「そうだけどなに?」
俺が一歩進むと背の高い女生徒がすごすごとその分が下がる。
こちらは問題なさそうだ。
だが、もう一人の方。団子鼻の女生徒はどっしりと構えていた。口元には笑みが浮かんでいる。
ヤバくね? と慌ている背の高い女生徒を団子鼻が「まぁまぁ」となだめる。
団子鼻が声を掛けた。
「で、なに?」
「だ、だから、なにしてくれてんのかを」
「だからなに?」
うっ、と息詰まった。
本物の不良ならここで気の利いた一言が出てくるのだろうが、生憎とそういう世界と関わりがない。
団子鼻が笑った。
「あんたさ、笹川だよね」
どうやらバレていたらしい。
「誰?」
背の高い女生徒が訊く。
「笹川だよ。執行部の」
馬鹿にするような口調で団子鼻の女生徒が教えた。
すると背の高い女生徒の顔に余裕が戻った。
「なーんだ、お執行部さんが良い奴気取りに来ただけか」
旗色が悪くなった。背の高い女生徒は胸を張って俺を見下すように見ている。
「うちら友達だからさ、今のうちに帰っといた方が良いよ?」
団子鼻の女生徒が動いた。
頭を抱えてうずくまっている女の子の髪を掴む。
「痛い」
悲鳴を上げ、女の子が顔を上げる。泣いていた女の子。
四角だった。
涙で顔がぼろぼろになっている。
だが、たしかに四角だ。
声を上げた。
「痛がってるだろ」
「あー? これうちらのノリだから」
「仲良しだもんね?」
脅しつけるように二人が四角を見下ろし、詰め寄る。
団子鼻の性格の悪そうな目が四角にドスの効いた声でたずねた。
「友達だもんね?」
「うん、友達。友達」
四角が何度も頷く。震えていた。
それどころか、笑みを浮かべていた。
俺に言う。
「だから大丈夫」
二人のが怖いのか、口調はほんとうに大丈夫に聞こえた。
だが、四角の涙に濡れている目を見てしまったら、それが助けを求める声にしか聞こえない。
「ということであんた用なしだから。帰ったら?」
生意気に顎をしゃくる団子鼻にスマホを突きつけた。
「他の誰かが見てもそう思ってくれるかな?」
背の高い女生徒が目を剥く。どうやら悪いという自覚はあるらしい。
「撮ったの?」
「当たり前だ。証拠も押さえずに飛び込むなんてこと、生徒会執行部はしないからな」
嘘だ。
スマホで証拠を押さえる。そんな発想したのはたった今だ。
どうして撮っておかなかったのだろう、と後悔していた。
このハッタリがどこまで通じるか。
「めんどくせ」
団子鼻の女生徒が舌打ちした。
背の高い女生徒に頷き、こちらへやってくる。
にげて、と声に出さず口で四角に伝えた。だが、四角はなかなか動かない。
「で? どうして欲しいわけ?」
団子鼻の質問に答えた。
「いじめをやめろ」
「いじめじゃねぇし」
「だったら暴力事件か?」
二人が顔を見合わせた。
諦めたよう。そう言い合うように二人が首を横に振った。
「分かった。あんたが私たちに証拠を見せて。それを私の目の前で消したら二度とあの子に関わらない」
「信用できるない」
「うちらだってたかだが暇つぶしのために内申落としたくないからさ」
けろっと言ってのける。
たかだか暇つぶしのためにあんな風に人を追い詰めていたのか。
証拠を即座に教師に突きつけてやりたかった。
だが、肝心の証拠はどこにもない。
「分かった」
とりあえず要求を呑んだ。
四角に逃げるように仕草で指示する。
だが、四角はどうしていいのかわからないらしかった。
団子鼻がずい、と前に出る。
「で? 証拠は?」
「先にお前たちがやめるという証拠を」
「いいからさっさと見せなって」
団子鼻が俺の手をひねった。
「おいまて」
万が一に備えて、カメラ機能は起動してあった。それが裏目に出た。
団子鼻の手でフォトライブラリが開かれた。
ライブラリに残っている写真。
それは道すがら撮った猫の写真くらいしかない。
かわいい猫の写真を見た団子鼻の手に怒りが籠もる。
「お前さ」
スマホをひったくり四角に叫んだ。
「走れ!」
四角が弾かれたように立ち上がり走っていく。
「待て、コラ」
女生徒たちが四角に気をとられた。
その隙に俺も走って逃げた。
○
「ちょっとあんた」
体育の時間に未可子が俺の脚に目を留めた。
「それどうしたの」
丈の短い体操服のショートパンツから太ももが見えている。
あるものが見つからないように下げてはいていた。
履き心地が悪かったため上げたのだが、上げすぎたらしい。
俺の太ももは内出血を起こしてところどころ紫色に変色していた。
よく見れば指でつねったと分かる。眠らないようにつねりすぎたのだ。
だが、痛みはない。
「転んだんだ。平気だよ」
誤魔化したが、未可子は納得し切れていなかった。
体育も気合いで乗り切り、授業も真面目に受ける。
ノートの上にミミズがのたうつと唇の内側を噛み、さらに太もももつねる。
座りながら眠気を抑えるには、踵を上げ下げするのもいい。
たまに脈拍が飛ぶ。足や手には常に燃えているような灼熱感がある。睡眠時間を削っているせいだろう。
こんな無茶な生活がなんとか続けられているのも、なにかが進んでいるという実感があるからだ。
とはいってもまだ、天音先輩からはなにも言って貰えない。
莉奈もなにもしてこない。
莉奈はこれを無駄なことだと思って放置しているようだ。
だが、俺の中ではそうではない。
何かが変わりつつある。そんな確信めいた実感があった。
時間が過ぎていき数学の時間がきた。
数学の時間になるとどんな怠慢な生徒でも背筋を伸ばす。
未可子以外は。
「抜き打ちテストだ」
教室にざわめきが広がる。
いつも寝ている未可子が机から飛び起き教科書をめくる。
だが、俺の心は落ち着いていた。
毎晩、天音先輩に貰った参考書で勉強をしていた。
現在の授業範囲を網羅するページの付箋は大体とれていた。覚えた箇所の付箋を取ることにしていたのだ。
このあと、英語の時間にも、小テストがあるはずだ。
小テストも抜き打ちテストも他の生徒たちにとっては成績に関わるテストだ。
だが、俺にはそれ以上のものだ。気合いを入れた。
○
図書室の前でいつものように天音先輩を待っていた。
「あの」
控えめな声。主は四角だった。
「昨日はありがとうございます」
昨日、俺は二人の女生徒にいじめられていた四角を助けた。その礼だろう。
「あの二人は?」
「それは」
「無理じゃなければ、話してみて」
おそるおそる辺りを見渡して四角が口を開いた。
「一人は、委員会の人なんです」
「図書委員?」
「はい。色々あってシフトが変わっちゃったんですけど」
よっぽど辛いのだろう。四角の唇が震えていた。
「新しく一緒になった人が意地悪で」
「背の高い人?」
四角が首を横に振った。
とすると図書委員なのは団子鼻の方なのだろう。図書委員は二人一組だ。
とすると背の高い方は団子鼻に付き合っていたのだ。暇つぶしで四角をいじめるために。
薄い筋のような涙が四角の頬を伝う。
「いじめられてるって恥ずかしくて誰にも言えなくて」
ポケットのハンカチを渡した。
「すみません」
無地のハンカチで四角が涙を拭った。
四角の顔をあまり見ないようにしてたずねた。
「なにか出来ることはある?」
警戒しるようだ。ふと、四角が「すみません」と謝った。「助けて貰ったのに」
それから、俯いた。
「多分、無理です」
「どうして?」
「私も、あの人とは、西山さんとは嫌だったから委員長に言ったんです。シフトを変えて欲しいって」
団子鼻は西山と言うらしい。
「でも、変えたばっかりだから駄目だって」
打つ手もなくなってすっかり縮こまっている。
「ねぇ私どうしたら良い?」
もう試すべき手段もなく、俺にすがっている。
そんな四角になんと声を掛けて良いかが分からない。
「ちょっと、四角、サボんないで」
図書館の入り口から誰かが四角を呼んでいた。
「あれが西山さん?」
「そう」
涙を拭った四角が顔を上げた。その顔はすっかり元通りだった。
「ありがとう。ハンカチは明日、洗って返すから」
俺に笑いかけた。
「笹川くんってほんとうに優しかったんだね」
○
図書室が閉まった。
四角と西山はさっさと出て行ってしまった。
見送っていた俺の腕にずっしりと書類が乗っかる。
むっとしてる天音先輩の顔。
怖かったが、声を掛けた。
「あの」
「どうした。二回目だぞ」
大切な五回のうち一回は挨拶に使ってしまった。ここで一回。
ということは、俺はあと三回しか天音先輩に話しかけられないことになる。
だが、俺は四角さんにどうにか笑っていて欲しかった。
「いいんです」
「それで、どうした」
「ある生徒のシフトを変えて欲しいんです」
「委員会か? それは無理な相談だ。すまないな、力になれなくて」
行ってしまおうとする天音先輩を追う。
資料を持ったまま、ナンパ男が言い募っているような形で先輩に話し続けた。
「実は、その生徒はその嫌がらせを受けていて」
「嫌がらせ? どんなだ」
天音先輩が立ち止まる。
「なんていうか、良く知らないんですけど泣いてて」
「それだけか?」
真剣そうな天音先輩の顔に呆れが見えた。
「でも、いじめた相手のことも俺は見たんです」
「証拠でもあるのか」
「それは」
言葉に詰まる。
やはり、あのとき撮っておくべきだった。
はぁ、と天音先輩がため息を吐く。
「次から頼み事をするときは、ちゃんと根拠を持ってから話しかけるようにしたほうがいいぞ。もしくは、本人を連れてくることだ。いるのならな」
天音先輩は俺が話しかけるための口実に嘘を持ち出したと思っているらしかった。
だとしたら四角さんに直接話して貰うほかない。
俺にはあと三回しか先輩に話しかける権利がない。
だが、腹は決まっていた。
○
教室にやって来た四角が俺にハンカチを渡す。
昨日、俺が貸したハンカチだった。
洗濯されて柔軟剤の良い匂いがしていた。
「昨日は、その」
言いにくそうにしている。礼の言葉は既に言われた。
俺は先回りした。
「俺から頼みたいことがあるんだけど」
「な、なにかな」
「放課後の六時。図書室に来てくれないか?」
「でも」
四角の顔がくもる。
できれば図書室には行きたくないのだろう。
「中にまで入らなくていい。六時前なら、俺もそこにいる。来たくなったら来て欲しい」
「どうして?」
「頼れる人を知ってるんだ。でも、証拠がないと動きたくても動けない」
「その人に私がいじめられたって言えばいいの?」
言いづらいことは理解していた。
「言いたくなければいい」
四角が俺の手を取った。
「可能性があるんだったら」
思った以上に四角にはガッツがありそうだった。
「だったら決まりだな」
四角の手が離れていく。
「ありがとう、笹川くん」
四角が教室から出て行った。
そろりそろりと未可子がやってくる。
「なに、彼女できたの?」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、どんなのよ。ハンカチなんて貰っちゃって。しかも手を取って『ありがとう、笹川くん』よ?」
物まねをしながら言う未可子に帰ってきたばかりのハンカチを渡した。
「これは俺のハンカチだ」
「ふーん」
疑るような視線を俺に向けてながら未可子がハンカチを嗅いだ。
「良い匂いじゃん」