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とにかく沢山食べたいです

 皿の割れる音にはっとした。


「なにやってんだ馬鹿」


 静夫さんの叱責に肩が浮く。手から滑り落ちた皿が床で割れていた。すぐにしゃがみ込み、破片に手を伸ばす。


「すみません、すぐに片付けますから」


「ボサッとしてんじゃねぇよ。おい、いいから立て。熱でもあんのか?」


「いえ、そういうわけじゃ」


 静夫さんの手が俺の額に触れる。


「熱もねぇのにこんなのじゃ使い物になんねぇよ。ここは俺がやっとくから裏で休んどけ」


「すみません」


 ロッカールームのロッカーにもたれ掛かる。


 失敗してしまった。情けない。

 こんなときに天音先輩のことを思い出したら泣き出してしまう。

 我慢をしなければ。男は泣かないものだ。


「うーす、やらかしたね」


 裏にやって来た文香さんの顔色が変わる。


「ちょっと」


 駆け寄ってきた。


「なに泣いてんの」


 我慢できていると思っていた。それは思い込みだった。

 熱い涙を流していると自覚したらもう止まらなかった。

 体を支えに来てくれた文香さんの腕で俺は思いきり泣いた。


「そっか、フラれちゃったか」


 静夫さんはいつの間にか帰っていた。


 閉店した店内には俺と文香さんの二人しかいない。

 静夫さんに泣いている姿を見られてないかが心配だった。


 文香さんはカウンターに座って珍しく紙巻きのタバコを吸っていた。

 強く吸い込んでいるらしく、ちりちり、と紙の燃える音が聞こえてきた。


「で、どうしてフラれちゃったの。そんな悪くなさそうだったのに。会長さん好きな人でもいたの?」


「多分、いないと思います」


「なら、よけいに分からないな」


 家柄や髪の色に肌の色から導き出される推論。

 いくらでもあった。

 だが、俺は天音先輩がそんなことで俺を嫌わないと信じていた。


 同時に、それ以外にも気がかりがある。


 もしかしたら、と前置きをして俺は莉奈と敵対関係になったことを文香さんに伝えた。


「莉奈ってもしかしてショートカットの女の子? 鞄から香水の匂いがする」


「ええ、その子です。どうして?」


「前に訪ねてきたんだよね。良いお店ですねって。学生なのにこんな高い店大丈夫かと思って、値引きしてあげたからよく覚えてるよ」


「それってどのくらい前ですか?」


「君が入ってきてすぐだよ。ほんとに」


 ということはかなり前だ。


 事情を呑み込めたようで、そっかそっか、と文香が何度も頷いた。


「とんでもない子敵に回しちゃったね。彼氏でもない男の勤め先が心配で偵察に来るような子ってストーカーじゃん」


「そのとき、莉奈なんて言ってました?」


「別に変わったことは言ってなかったよ。けど」


「けど?」


「ちょっと視線が怖かったかもね」


 ふぅ、と煙を吐き出す。


「俺、莉奈に勝てそうですかね」


「ま、無理でしょ。一〇〇%無理。その子に勝つだけじゃなくて会長さんも手にしたいんでしょ?」


 俺は頷いた。


「よけい無理。地獄に落ちた悪人を皆善人にして天国に行かせるくらい無理」


「そんな」


「その会長さんってさ、ご令嬢なわけでしょ?元々から生きてる世界が違うと思って諦めちゃった方が良いんじゃないの?」


 文香さんの言うことも一理あるのかもしれない。

 一理どころかそれがすべてなのかもしれない。

 人間はすべて生まれで決まる。そうやって割り切った方が楽なこともきっとある。


「その子がなにもしなくても、きっと君には会長さんは無理だったんだよ」


「でも、俺は天音先輩のことが」


 あんな風にされたのにまだ、好きだった。

 天音先輩とは昨日まで良い関係だった。

 莉奈がそれを壊してしまった。だが、俺には莉奈を憎めない。


「やめときなって」


 なぜこうも否定するのだろう。相談しておいて何だが、腹が立ってきた。

 こういうときは、ちょっとは背中を押してくれても罰は当たらないのではないか。


「どうしてそんなにやめさせようと思うんですか?」


「だって、このままいったら君、ストーカー。うちのバイトから犯罪者は出したくないわけ」


 納得と同時に溜飲が下がる。


「すみません」


「それに、会長さんいなくなったらうちでバイトする時間も増えるでしょ?」


 重くなりそうな空気を軽くするために文香さんは冗談を言ってくれたみたいだった。


「はは、そうですね。じゃあ、生徒会も辞めてその分バイトに使おうかな」


 冗談に冗談で応じたのに、文香さんの顔は浮かなかった。

 なにか気付いて貰えていないのが悔しい。

 そんな顔をしていたが、すぐに笑いながら切り返してきた。


「そんときは時給下げるけどね」


「ええー」


 はは、と文香さんが笑う。


「もう、涙も乾いちゃったね。残念。まかない作ったげるわ。なにがいい?」


「とにかく沢山食べたいです」


 空腹感が戻ってきていた。


「緊張しすぎて昼飯でも抜いたの?」


「朝から食べてなくて」


「君を泣かせたの多分、会長さんでも莉奈って子でもなくて君の空っぽのお腹だね」


 文香さんの優しさが心に染みた。




 ○




 三食分と言うことでいつもの三倍のまかないがでた。

 ハンバーガーが三つ。それもただのハンバーガーではない。

 ナイフとフォークで切り分けて食べるようなボリュームだ。メニューでは一個二〇〇〇円だったような気がする。


 かりかりのバンズに輪切りのトマトとしゃきしゃきのレタス、パティにチーズという定番の組み合わせだ。

 パティにはマジックソルトとレストラン特製のソースがかけられてある。

 パティはそれだけでハンバーグに見えるほどの肉厚さだ。てらてらと透明な肉汁に光っていた。


 押し殺した声で文香さんがいう。


「これ、私が作ったってお父さんには内緒だからね」


 ナイフでハンバーガーを切ると透明な肉汁がじわ、と溢れてくる。

 みずみずしい野菜がパティとバンズの熱でしんなりしている。

 頬張るとしゃきしゃきと食感を伝えてくる。

 一口食べて、胃が驚いた。

 特製ソースにはタマネギとニンニクやニラなどが混ぜ込まれてあり、濃いめの味付けだ。

 美味しすぎて顎が痛くなる。ソースのかかっていない場所は素朴な肉の味を楽しめる。

 噛むと肉汁とはまた違う滋味がじわりと溢れて歯茎に溶け込んでいく。


「うまいです」


「だからってもう泣かないでね。私まで悲しくなるから」


 二個、あっという間に平らげた。

 文香さんがパイプを吸いながら上機嫌に俺の食いっぷりを眺めていた。


 口いっぱいのバーガーをあまり噛まずに思い切り飲み込む。

 喉を押しのけていくバーガーと一緒に胸に支えている絶望と苦痛の入り混じったよからぬ感情が胃の中に落ちていく気がする。俺は暴食の楽しさをこのとき、初めて知った。

 それだけ、俺は莉奈や貴也に守られていたのだ。


 食べきれるか心配だったが、もう三つ目も半分平らげてしまった。

 最初から最後まで美味しいのもすごいが、一個目から三個目まで美味しいのはもはや神業である。


 普段、店内をふらふらして暇さえあればタバコを吸いに行く人。

 そういうイメージが文香さんにはあったが、料理を食べると毎回見直してしまう。


 文香さんがパイプを咥えてもごもご喋る。


「ちょっと貰って良い?」


「新しい食器は」


「いいって、いいって」


 俺の手からナイフとフォークを取り、パイプを咥えたままでハンバーガーが崩れないように器用に切り分ける。

 そのまま、フォークで口にハンバーガーを運ぶ。

 俺はただ、薄い口紅の向こうにハンバーガーが運ばれていくのを眺めていた。


「やっぱ、うまいわ。たまには自分で食べないと、自信なくなっちゃうのよね」


 ナイフとフォークが戻ってくる。

 上手に食べるものだった。フォークに口紅がついていなかった。

 賞賛の気持ちやら、残念な気持ちやらを抱えてどぎまぎしながら最後の一個を平らげた。


 食後にコーヒーまで出てきた。ここまでされると気を遣う。


「すみません、こんなによくして貰って」


「バイトくんにはそれくらいするよ」


 バイトならこれくらいして貰えるらしい。


「バイトくんだからって理由じゃ残念?」


「ええまぁ」


「じゃあ、友達だからってことにしといてあげる」


「勝手ですね」


「そう、私は勝手なの。だってこの店のオーナーだし」


「静夫さんとの共同経営じゃないですか」


「はは、バレてた?そう、私が好き勝手出来るのは君と二人きりの時だけ」


 コーヒーを飲む。温かいコーヒーが体によく染みこむ。


「君さ、まだあの子と戦うつもりでしょ」


「はい」


「その餞別だよ」


 それに、と文香さんがつま先を俺のほうへ向けた。


「もし、どうしようもないくらい打ちのめされても、私がいるから」


「それって」


 婿に来いと言うことか?


「そ、それは」


「なに、赤くなってるの? 店員として雇ってあげるって言ってるの。お父さんも君のこと結構買ってるんだから」


 なんだ、そういうことか。勘違いに顔が赤くなった。


「時給は下がるけどね」


 だが、就職先の候補が出来たことは、まだ人生の設計図すらも書いていない俺にとっては嬉しいことだった。

 一つたしかな足場がある。

 そう思うだけで、ちょっと背伸びをすれば天音先輩に手が届くような気がしてしまう。

 それは、きっと俺のうぬぼれなのだろう。


「嬉しいです」


「そ。じゃあ景気づけにタバコもいっちゃう?」


 紙巻きタバコの四角い箱を文香さんが振る。

 ほんとうは駄目だ。だが、今の俺はタバコにでもなんにでもすがってみたい気分だった。

 こんな紙に巻いただけの葉っぱでどれだけ救われた気分になるのかが気になっていた。


「じゃあ、一本だけ」


 ぽこ、と文香さんの拳が俺の頭を叩いた。


「馬鹿、パッケージに勧められても吸っちゃいけませんって書いてるでしょ。タバコを吸うと肺がんで死ぬリスクが四倍にも増えちゃうんだからね?」


「でも、勧めてきたのは文香さんじゃないですか」


「だって、勧めちゃいけません、なんて書いてないから」


 はは、と文香さんが笑う。


「ま、今はこれで我慢しときなよ」


 濃い煙を顔に吹きかけられて俺はむせた。

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