事件1⑵一家無理心中殺人事件
次の講義は憲法だった。
しん…と静まる教室内に、古びたレコードを再生しているかのようなかすれ声がしんしんと響く。
『ェー…なので犬払事件が表現の自由の侵害が問題になる事件であるのに…ェー…緩やかな違憲審査基準が用いられたことに対する憲法学会からの批判は強かったのでありまして…ェー…』
この教授はひたすら一方的に喋り続ける講義スタイルなので、稲葉が物思いに耽ることが咎められることはない。他の生徒たちも各々自分の受任している裁判の準備や講義の予習に精を出している。
(やっと僕にも殺人事件が…。もちろん被害者には気の毒だけど…でも、念願の第一部配点事件だ。『異議あり!待った!』…なーんて、ずっとやってみたかった…。だけど検察官が新堂愛…あの凶暴女が相手になるのか…。こんなに早く戦うチャンスが来るなんて…。しかし僕が一部配点…ククク…)
稲葉の妄想と脳内アドレナリンの分泌は止まらない。
『稲葉、稲葉よ。何をそんなニヤニヤしてるんだ。』
隣の土田が教授に聞こえないヒソヒソと声を掛けてきた。
『これ、見ろよ。』
『ん、なにこれ…は、え?第一部の事件がなんでお前に!?あ、お前が被告人か…?いや、ちげーな…うわ、マジじゃん…』
『僕もなんで回ってきたのかはわからないけど、とにかくこれは僕、やるっきゃねえよな!?』
『羨ましいぜ友よ。そうだ、俺の事件と交換しよう。ほら、猥褻物頒布罪….違法AVの『穴とムチの女王』…これを200本売ったアダルトショップの店長…どうよ?』
『しない。絶対しない。念願の一部事件だ、この手で弁護するよ。それに土田、証拠品としてそのAVの中身の観覧が許されるかもよ?わいせつ性の確認だとかなんとかゴネてみれば。』
『え…証拠品…?中身…観れる?そうか…うぉぉー!俄然燃えてきたぜぇー!』
単純な奴だなぁ…ははは…。
悲しき男子高専生土田。性欲の前に理性は屈服するのみ。
『ん?あれ?なんかでてきたぞ。』
『なに?』
土田が配点表の入っていた封筒の中を覗くと、さらに一枚紙が出てきた。
弁護人選任届
席次十位
緑ハヤテ殿
『えっ…』
『あっ…』
稲葉はその紙を見つめて固まる。土田はその稲葉を哀れむような目で見つめる。
…やっぱり、これは僕の事件じゃなかったのか。
稲葉は急速に体が冷えていくような感覚とともに、高揚感のない無味乾燥な現実へと引き戻されるのであった。
教授は教室の隅で起こったそんな一幕を知らないまま、ひたすら退屈な時間を紡ぐ。
『というわけで、ェー…誤解すると先に進めないのでありまして…クラスの皆様におかれましても…ェー…ぜひ判決文を読む際には、ね、細心の注意を…』
『稲葉よ、緑にそれ渡したほうがいいんじゃねえか?』
『あぁ、わかってる…』
憲法学の講義が終わった放課後、全体が帰り支度を始めるクラスの喧騒の中、同情を込めた声で土田は稲葉に声をかける。
『えーっと緑は…あれ?もういない。』
教室を見回しても、緑ハヤテの姿はすでに消えている。
『土田、緑のいる場所に心当たりあるか?』
『緑はいつもカフェテリアでコーヒーを2リットルくらい飲んでるぞ』
『わかった。ありがとう、行ってみる。』
荷物をまとめて稲葉は緑を探しにカフェテリアへ。
『緑、今ちょっといいか?』
カフェテリアに着くと、緑ハヤテの姿はすぐに見つかった。隅の席にゆったりと腰掛け、優雅に書類を読んでいる。
『よお、稲葉のボウズ。俺のコーヒータイム、お供してくれるのかい?』
緑ハヤテは長身でガタイがよく、パーマがかかった髪に浅黒い肌、あごひげに色付きのメガネと、とても高校生には見えない風貌をしている。以前から弁護クラスでは少し浮いた存在だ。
しかしそれは決して人付き合いが悪いというわけではなく、一人で過ごすことを好んでいるような雰囲気から、周りが勝手に忖度していることによる。
たしかに、お前いくつだよ!とツッコミを入れたくなるようなキザな口調ではあるのだが。
『ボウズって…お前同い年じゃないのか…。それはそうと、これ、緑に。』
稲葉は配点表と弁護人選任届を緑に手渡す。すると、
『ん?あぁ、配点表と…こっちは選任届か。お前さんのところに間違っていっちまったんだな。苦労かけちまったな。中身は…殺人事件の…2人か…量刑相場から行くと死刑か無期懲役だな。なかなか骨の折れそうな事件だ…。』
緑は配点表を見て深く息をつき、ゆっくりコーヒーをあおる。眉間にしわを寄せたまま、自分のテーブルの上の書類と配点表を交互に眺めている。
『今急ぎの事件が…放火が1件、名誉毀損の損害賠償請求が1件、建物の明渡し請求が3件に開発許可の取消訴訟が1件か…うーむ…』
『お前そんなに時間抱えてるのか!?』
『捌ける仕事の多さが男の甲斐性だぜ、ボウズ』
『ははは…』
さらっと心を抉ることを言ってくれる。しかし緑ハヤテは席次10位、弁護クラス第2位の実力者だ。この仕事の量も、流石と言える。
『なーんてな。長引く事件が多かったんだ、冗談だぜ稲葉よ。それにしても…俺は見ての通り手一杯、新しく殺人を受任する余裕はねえ…。』
そんなことを言いながら、じっと考え込む緑。すると、ふと何か思いついたような顔で、緑は稲葉をじっと見据える。
『ボウズ、お前、これやれ』
『うん…て、えぇ!?』
素っ頓狂な声が思わず出た。この事件を任せる?正気か?そんな言葉を発しようとしても、稲葉は驚愕のあまり口をパクパクさせるだけだった。
『なーにパクパクしてるんだ、鯉かお前は。俺は忙しいんだ。頼むぜ兄弟、請け負ってくれないか。』
そう言って緑は頭を深々と下げる。
『そんな、頭下げるなよ…最初自分に配点されたと思った時はたしかにやる気に燃えたよ。だけど冷静になって考えたら…』
『依頼人には毎日接見しにいく。そいつが俺のポリシーだ。…だが俺には今それができねえ、悔しいがな。俺じゃこの被告人を守りきれねえ。だから、稲葉よ、頼む。』
『でも僕、そんな殺人なんて扱った経験ない…』
『じゃあまだ無敗じゃねえか。負けたことがねえってことだ。それに誰もが最初は初心者だ。もちろん俺も出来る限りのサポートはする。だから、是非、頼む。』
普段はクールな緑が、今はこんなにも頼み込んでいる。余程、今扱う事件でいっぱいいっぱいなのだろう。
しかし稲葉の頭の中は『僕にできるのか?』、そんな言葉で埋め尽くされる。
だがこれが千載一遇のチャンスであることもこれまた真実。
しばらくの逡巡のうち、稲葉は1つ結論を出す。
『わかった。僕、やるよ。』
『そう言ってくれると思ったぜ兄弟。これが委任状だ。よろしく頼む。この被告人を救ってやってくれ。』