覗き見は蜜の味
「帰るの?」
「帰ります。誰かさんに踏まれた足が痛いので」
イルデはツン、と顔を背けた。
ふん、拗ねたって可愛くないわよ。
「先に変なこと言い出したのはイルデの方でしょ?誰が殿下にキスなんか」
ドレスの裾を翻し、怒ってバルコニーを出て行こうとすると、
「……違うんですか?」
と怯えたような声が聞こえた。
「ん?」
あれ?何?泣きそうな顔して……。
「殿下はとても魅力的な方です。男の私が見ても、時々はっとするほど美しい表情をなさる。初めてご尊顔を拝し、あなたが一瞬で虜になってしまっても不思議はありません」
ゴソンガン?言われてみればまあ、美形ではあったかな。眼鏡がないからぼんやりとしか見えなかったけれど。
「そうね。綺麗な顔してたわ」
「……」
「イルデ?」
「何でもありません。行きましょう」
夜会の場に戻ろうとするイルデの袖を引き、夜の庭園を指さした。
「ねえ、お開きになるまであっちで話さない?」
「え……ですが、二人きりで庭園にいるところを誰かに見られたら……」
ええい、もじもじするな。こっちが悪いことをしている気分になる。
イルデを放置して私は庭園に駆け出した。
◆◆◆
四阿の傍に差し掛かった時、人の話し声に気づいた。会話ではなく独り言だ。
「もう終わりだわ。……セレドニオ様と婚約なんて」
あのキラッキラの王子様の何が不満なのか。目が笑っていない作り物っぽい笑顔とか、潔癖症っぽい仕草とか、『僕カッコいいでしょ』って言わんばかりのあれやこれやがいちいち鼻につくけど、国で一番の権力者の妻の座は美味しいでしょう?なりたいって言ったって誰彼なれるものじゃないわ。
もっとよく話を聞こうと、木立の陰から忍び寄る……と。
「……盗み聞きとはいい趣味ですね」
イルデが私を後ろから抱きしめた。
「放して」
息がみ、耳にかかって……くすぐったいのよ。
「嫌です。放したらビビアナ嬢に悪さをするつもりでしょう?」
「悪さって何よ。私、鼻垂らした悪がきじゃないわ」
私が髪を引っ張ったり足をかけて転ばせたり、くだらないことをすると思っているのだろうか。
「ええ、単なる悪がきではないから止めているんです。殿下の婚約者に手を出したら、ただではすみませんよ?」
「手を出すって……」
唖然、絶句。
こいつは私を何だと思っているのか。
王子にキスを強請った挙句、婚約者をぶん殴るとでも?
「あのねえ……」
「しっ、静かに。誰か来ます!」
イルデは咄嗟に木と木の間の隙間に私を押し込み、通路に背中を向けて覆い隠した。
「……っ。苦しい」
「すみません。少し、辛抱してください」
イルデの顔が近い。一つ年齢差がある私達は、男女の違いはあってもまだ身長差がそれほどない。雲に隠れていた月が現れ、彼の銀の髪を神々しいほど輝かせ、美しい顔に影を作る。間近で見ると呆れるほど整った顔立ちをしているなあと見つめてしまった。
私に巻き込まれて、結局二人で盗み聞きに興じているような奴でも、乙女ゲームの登場人物なのだ。
どんな乙女ゲームなのか知らないけど、この顔に惚れる女子も多かろうなあ。普段は無機質っぽいのに、照れると一気にポーカーフェイスが崩れるんだもの。面白いわ。
「綺麗……」
「へ?」
「イルデが綺麗だって言ってんの」
「……あ、え、ええと」
真っ赤になって口をもごもごさせている。
「ねえ、来たの、誰?セレドニオ殿下?」
私の問いにはっとして、イルデは四阿に目をやった。
「いいえ。ルカです。ビビアナ嬢を追って来たのでしょう」
「どれどれ?」
「……リナ。もう帰りましょう?」
静かに言ったイルデは、何度もルカとビビアナ嬢を振り返りながら、
「彼の気持ちを思うと、そっとしておいてあげたいのです」
と私の背中を押した。
私は少し背中が開いた大人っぽいドレスを着ていた。
意図したものではなくても、肌に直接触ってしまったとイルデが慌てていたから、
「痴漢か」
「初めから触ろうと思ってたんでしょ?」
「こんなことされたらお嫁にいけないわ」
などと言って散々弄って楽しんだ。
お嫁云々の話で、イルデが神妙な顔になった。
「リナ……私は……」
「冗談に決まってるでしょ?私は学校を卒業したら、夜会で運命の相手を見つけるんだから」
「……ええ、そうですよね」
何なのよ、その残念そうな顔!
私に一生独身を通せとでも?
イライラしたから、思いっきりほっぺたをつまんで引っ張ってやった。
「ひ……いひゃいっ!」
やっぱり、イルデのお綺麗な顔を歪ませられるのは、付き合いが長い幼馴染の特権かしら。