勝姫異聞
異国からの黒船が江戸の沖に姿を現し、”侍”たちが攘夷だ尊皇だ、と騒ぎ立てている頃、その少年の住む村は大干魃に襲われていた。
この国の未来がどうなるか、よりも、明日の我が身、我が家族のことばかりが思われ、ひび割れた大地を眺める大人たちは、しかし、枯れ果てた身からは涙も出なかった。
***
少年は闇雲に山を登っていた。
賢そうな額に、痩せてはいるものの、愛らしい顔立ちをしているが、その頬には悲しみ表す一筋の涙が伝っていた。
枯れ草が彼を阻む。
本来ならば、青青とした草木に、小鳥のさえずり、川のせせらぎが聞こえる、慣れ親しんだ山のはずが、すっかり余所余所しくなっているように思われた。
誰も彼も、山までも自分を拒絶するのだ―――。
そんな思いに駆られ、少年の足が止まった。
空はどこまでも青かった。今日もまた、この村には雨の恵みは無さそうだった。
えーん、えーん、と静かな山に泣き声が聞こえた。
女の子がいる。
少年はそう思い、泣き声の元に向かって歩いた。
枯れ草の中にしゃがみ込んでいたのは、見たこともない有様の人間だった。顔も身体も、干からびていて、まるで書物で読んだ「ミルラ」のようだ。少女というよりも老婆のようだったが、服は都に住むというお宮さまが着るもののように、美しく華やかだった。袴をはいているので、やはり少女ではないのかもしれない。
とにかく今までに見たことのない女性の姿に、一瞬、怯んだ少年だったが、あんまり悲しそうだったので、つい、声を掛けてしまった。
「君は誰? どうして泣いているの?」
「だぁれ?」
「私? 私は武一と言うものだ。
この村の―――」
そこまで言って、武一は泣き出した。
「ぶいち? なぜ泣いている?」
今度はその老婆のような女性に尋ね返された。
「私はもうこの村の子供じゃないんだ」
「なぁぜ?」
そこで武一は堰を切ったように身の上話をし始めた。
自分はこの村で生まれてこと。
優しい母親はいたが、父親はいなかったこと。
それで随分、村の子や、近隣の村の子に蔑まれ、虐められたこと。
それが今年になって、父親の遣いというものが来て、自分を引き取ることになったこと。
父親は都の偉い人だったこと。
そこに行くように諭し、母がいなくなったこと。
武一の父親は、下働きだった娘に手を出し、妊娠させた。妻も子もある身分の高い男は、幾ばくかの金を渡し、娘を里に戻した。
産むなり下ろすなり、好きにしろ―――そうして彼は娘のことも、子供のことも忘れ去ってしまった。
時は経ち、世情はますます不安になり、男の一人息子は攘夷運動に傾倒し、若い命を散らしてしまった。
その時、男は唐突に思い出した。
自分にはもう一人、子供がいるかもしれないことを。
調べてみれば、男の子で、なかなか賢い子供であるという。そこで彼は、子供を都に呼び戻すことにした。
子供だけ、である。
母親は高貴な血を引く息子に、自分のようなものがいては差し障りがあると考え、初めから身を引くつもりだった。息子がいつまでも自分という存在に捕らわれないように、その幸薄い人生を、自らの手で絶った。
村の人間は、武一が大層な家の息子と知り、掌を返すように媚びへつらった。謎の局地的な干魃にみまわれた村に、武一の父親は水や食料を運んでくれた。
かつて干魃に襲われた際、若い娘を生け贄に捧げたという言い伝えがあった村では、武一と母親がそれに当たると考えた。
なに、生け贄と言っても、これからは都でいい暮らしをするのだ。
むしろ、武一の為になる。
母親のことは可哀想だったが、息子が立派な人間になれば、本望だろう。
大人たちの勝手な言い分に、武一はひどく憤り、村を出て、ここに至ったのだった。
「みんな私をここから追い出そうとする。かかさますら、私を置いて、いなくなってしまった!
私も連れて行ってくれたら良かったのに!」
泣きじゃくる少年を、謎の女は抱きしめた。
かさかさに乾いて熱く、自分の身体からも水分が失われそうな程だったが、どこか居心地の良さを感じた。
「そうか……わらわも皆から追い出される。
ここにもいてはいけないのだ。
しかし、どこに行けば良い?
わらわを受け入れてくれる場所などないのだ」
「ならば私と共に行こう?」
賢い子と言われていた武一だったが、そこは子供の浅慮だった。彼は自分のその言葉が、何を引き起こすのか、全く考えていなかった。
ただ、自分と同じように居場所がないもの同士、仲良くしたくなったのだ。
「いいのか?」
「いいよ」
ねぇ、名前は?
―――カツ
かつ? ”おかつ”だね。よろしく。
こうして、武一は生まれた村から、都へと旅だった。
それと同時に、干魃もどこかに去り、雨が村を潤した。
村人は、武一が生け贄として効果があったとこを知り、驚き、その見えなくなった後姿に手を合わせた。
しかし、それも僅かな期間であり、彼らはすぐに、武一と、そして儚く散った彼の母親のことを忘れ去った。
***
血なまぐさい争いがそこかしこで起こり、古い価値観と新しいそれがせめぎ合う中、武一の父親は、上手く立ち回っていた。そのため、同じ家柄の中では飛び抜けて金回りが良かった。
夜毎、剣呑な顔立ちの”侍”が、彼の屋敷に集まって、何事か言い争っていた。
異国の者たちを野蛮だなんだと言う口で、帰って行った”侍”たちを同じように言う父親に武一は困惑した。
しかし、裕福だったお陰で、武一が来て以来、枯れてしまった井戸を補うために、人と金を使って水を運んで来て貰えたのには感謝していた。
井戸には”おかつ”が住んでいた。
彼女はすぐに井戸の水を飲み干してしまった。
ああ、これは人ではなく、干魃をもたらす者だったのだ―――そう、武一は気づいた。
もしも、近隣の屋敷の井戸や、近くに流れる川まで枯れ始めたならば、彼は”おかつ”を連れて逃げようと思っていた。けれども、幸いなことに”おかつ”は地下水を飲み続けてはいるものの、井戸を一つ、枯らしただけで事を済ました。
よく見れば、初めて会ったときよりと、肌や髪が僅かだが潤っている気もしていた。
「やぁ、”おかつ”は都の水が合ったと見える。
羨ましいことだ。
私はさっぱり馴染めないよ」
「寂しいのか?」
「寂しくはない。”おかつ”がいるからね。
君がついてきてくれて、本当に嬉しいよ。
さぁ、今日は清水寺のお水だよ。どう? 美味しいかい?」
「あぁ、とても―――美味しいよ、武一」
屋敷の女中たちは、いつも枯れ井戸の側に居る、新しくやってきた跡取り息子を、薄気味悪く見ていた。彼は井戸の側で本を読み、わざわざ金を出して買い求めた水を、枯れ井戸に注ぐのだ。
初めは近隣の井戸や、近くの川、沢から運ばせていた水も、いつしか、あそこの清水、そこの霊水と、名のある水を求め、時には、武一自ら足を運ぶこともあった。
当家の若様には良からぬモノに取り憑かれているらしい。
父親も鄙びた村から呼び寄せた子供の様子に眉を顰めた。
けれども、枯れ井戸に固執する以外は、優しく親切で聡明だった。水を求め、街や山を歩き回る頑丈さもあった。
都に来て、よく食べるようになると、その本来の愛らしさが、より一層、際だった。
賢そうな額はそのままに、ふっくらとした頬。
どこか寂しげな瞳。
幼い内に母親から引き離され、鄙びた村から、華やかな都に連れてこられて、戸惑い、混乱しているのだ。
次第に、周りの目、特に女たちの目は優しくなっていった。
武一の義理の母となった女も、高慢ではあったが、彼の愛くるしくも悲しそうな様子に心動かされ、なにくれと世話を見るようになった。
しばらくは、そんな風に、武一と”おかつ”は、それなりに穏やかに過ごした。
***
武一は十五歳になった。
時代の節目は、その国に住むものたちに安穏さを許さなかった。
世はさらに乱れ始めた。
そんな中、ついに武一の家の近く井戸の水位が下がり始めた。
”おかつ”は関係ない、と思いたかったが、言い切ることが出来ない。
武一はよくよく気を付けて、なるべく彼女の側にいるように心がけた。
「喉が乾いているのかい? どこか飲みたい水はあるかい? 最近は物騒で、なかなかいい水を持ってこられなくてすまないね。
近くの川も不逞浪士が浮いたとかで、ケガレてしまったようだ」
と、している内に、井戸の水は戻り始めたという。
なんだ、やはり”おかつ”は関係ないのだ。
その度に、青年になりかかった少年は胸をなで下ろした。
しかし、何度もそんなことを繰り返す内に、嫌な噂が立ち始めた。
あそこの枯れ井戸には良からぬモノが憑いているらしい。
井戸の水位が、またもや下がった。
人々は武一の屋敷に押し寄せ、抗議した。
各地から集まった”侍”たちは好き勝手に争い、自分たちの住処を脅かす。それだけでも耐えられないのに、度々、水という命に深く関わるものまでこう不安定では、やっていられない、と言うのが彼らの気持ちだった。
武一はそんな彼らの前に立った。
かつての愛らしさは成長とともに、涼しげな美しさに変わっていた。
多くの町娘が恋文を届ける若さまは、周囲を圧倒させた。
頭は下げなかった。
「そのような根も葉もない噂で、こちらにこられても困ります。
水は自然のもの。満たされる時もあるでしょうし、枯れる時もあります」
後ろ暗いところのない言い方に、町のものたちは、それもそうかもしれない、と思った。
なにしろ武一は”偉い人”なのだ。おまけに賢い。
間違っているのは自分たちかもしれない。
そこに武一はつけ込んだ。
「我が家が水を求めるのは、清らかで美しい水を良しとしているからです。
こう毎日、都中でケガレが蔓延していては、かないませんね。
しかし、それが皆様の不安を煽っているとは、申し訳ないことです。
残念ですが、これからは我が家の井戸から水を汲むことにしましょう。
ああ、あなたはウメ吉のててごですね、明日からは水はいらないと伝えて下さい。
それから、太郎も……いつもいい水を運んできてくれて大変、ありがたかったですよ。
それから―――」
「えぇ!」
ひどく惜しそうに武一が言うと、集まった人々の中から、慌てた声が上がった。
彼らは気がついた。
武一の家に水を運ぶことで、彼らは小金を稼がせてもらっていたことを。
水は重いものだったが、小さな子供が近くの井戸や沢から、ほんの少し運ぶだけでも、お金を貰えることになっていた。ちょっと気が利いて、大きな子供となれば、少ないながらも名水を運ぶことで、かなりのお金を貰っていた。そのお金は、大いに各家庭を潤していた。
「そいつは困ります」
「しかし、そういうことだろう?
あなたたちは、我が家が水を買うのは、何か良からぬ理由があると考えている。
そうではないということを明らかにしようとしたら、あなたたちからの水は必要ないことを見せなければならない」
それで集まった人々はいなくなり、次の日も、武一の屋敷には水が届き続けた。
「すまない」
「いいや、”おかつ”。
私は分かったよ。水を運んで貰ったことで、あのウメ吉は寺子屋に通えたようだし、太郎は姉を売らずにすんだらしい。
父上は金を”侍”ばかりに費やし、あちこちで戦を起こしている。
そんなのに金使うよりも、よほど意味のある使い方だよ。
”おかつ”のお陰だ。ありがとう」
その日、近隣の井戸は満々と水を湛えたという。
町の人間は思った。
若さまの言うとおりだ。
水は枯れる時もあれば、満ちる時もある。
それが自然の摂理だ。
だが、町が戦火に見舞われるのはそうではない。
ある日、彼らの町は争いに巻き込まれ、火がつけられた。
逃げまどう人々の中で、武一は枯れ井戸に走った。
「”おかつ”逃げよう!」
子供の時、彼女を入れてきた竹の水筒を差し出した。
井戸から枯れた手が出てきた。
武一は水筒の栓を抜いたが、”おかつ”はそこには入らなかった。
枯れた老婆のような女性が、今まさに、猛火に包まれつつある町に出て行った。
「”おかつ”!!!」
追いかける彼女の姿は、走っている訳でもないのに、早く、武一は逃げまどう人々に阻まれ追いつけなかった。
群衆の頭の向こうで、乾いた髪の毛に艶めいた光が宿るのが見えた。
その時、親からはぐれ、恐怖で物陰に隠れていた少年・ウメ吉は見た。
とても美しいおべべを着たお姫さまのような女性が、両手を天にかざすと、俄に暗雲が沸き立ち、空から大粒の雨が大地に降り注ぐのを―――。
その勢いは激しく、辺り一面が白くなった。
視界の利かないその中で、ウメ吉は美しいお姫さまが、こちらを向いて、何事か伝えたあと、微笑んだのを見た。
わらわのことは、内緒だ―――。
そうしてお姫さまは、”武一さま”の屋敷に入っていった。
その様子は、はっきりとではないものの、僅かながらの人々に見られていた。
”武一さま”は枯れ井戸に水神か龍神を住まわせているのだ。それが今回、町を、自分たちを助けたくれた。
なんと有り難いことだ。
町の人々は手を合わせ、より一層、武一の屋敷に水を運ぶのに励んだ。
その後、世界は大きく代わり、武一が二十歳の頃、天子さまに従って、居を東の都に移すことになった。
多くの戦火から免れた武一の町の人間は、それを惜しんだが、引き留めることは出来なかった。
武一の家は、最後まで上手く立ち回り、政権の中枢に入り込み、華族に列せられつつも、商売に手を出し、実利を出していた。
それには今やすっかり一人前となった武一の力も大きかった。
立派な若さまに縁談の話は引きも切らなかったが、全て上手くいかなかった。
東の都に移動するときも、身から離さず、抱いて寝るほど大事にしている竹の水筒の中身が、その理由だと多くの人間は思った。排除したくても、その中身の力の強さに、不可能なことも知っていた。
武一は東の都での住まい探しに細心の注意を払った。水が豊かな所でなくてはならない。
それでも”おかつ”を迎えたその地は頻繁に、水が枯れ始めた。それは西の都の時の比ではなかった。武一は忙しい仕事の間を縫って、井戸の上に作られた社に詣った。
「”おかつ”新しい都は嫌いか?」
「喉が乾いた。武一、喉が乾いた」
”おかつ”はそれを繰り返すばかりだった。
彼女には不思議なところがあった。全てが不思議と言えばそうだが、特に、水が必要な時と、そうでない時がある。
たとえば、武一が村を離れて都に行く時は、小さな竹の水筒の中の水だけで、その旅を終える事が出来た。
対して、東の都に移動する時は、初めは三頭の馬に大きな樽を二個ずつくくりつけ、そこに水満たした。武一の持つ竹の水筒の中の”おかつ”は、道中、それを飲み干した。宿場の宿屋でも武一の寝床の周りに、同じく樽を置き、水を満たした。それも朝には無くなった。
二日目、宿屋に落ち着き水を手配していると、雅なお方は水にも拘るのだろうと、店の主人が、その地の名水を教えた。武一が旅の疲れをおして、そこに行き、竹の水筒に少しばかりそれを入れただけで、次の日の朝、樽の水は減っていなかった、
武一が出立前に再びその水を水筒に入れると、馬の水も無くならなかった。
その後、泊まる宿場毎に、その地の名水を求めることで、後半の旅程、馬は重い水を運ぶことを免れた。
水が気に入らないのかもしれない。
武一は稼いだお金を使って、東の都のみならず、遠くの地まで水を求めた。
船や馬だけでなく、鉄道と呼ばれる新しい交通機関も利用した。重い水を陸路で大量に、馬よりも早く運べる鉄道に、武一は夢中になり、新しく路線を開発する事業にも進んで出資し始めた。同時に同じように海路を用いる船にも興味をもった。もしかしたら、外国の水を持ってこられるかもしれない。異国の水は”硬い”と言う。水が硬いとはどういうことだろうか。彼は知りたくなった。
また、遠くの水を家々に引き込む事が出来る水道の整備にも目を向けた。もっと使いやすく安定した供給が望めれば、重い水を運ぶ労力をなくせるはずだ。
変わった趣味だと思われたが、そうして水を求めていくうちに、事業は大きくなっていった。
山や野を歩き回っていくうちに、各地に様々な人脈も出来、土地に詳しくなっていった。
ついに、異国の水のように、泡がフツフツと湧いて出てくるという水を求めて立ち寄った山で、鉱脈を発見することになった。
そこから武一の家はさらに潤った。
石炭は黒いダイヤと呼ばれ、莫大な利益を生み出した。
さらに忙しくなる武一。枯れる井戸。
いくら大量の水そそぎ入れても”おかつ”は満足しなかった。それでも武一は彼女を手放さなかった。
思い出すのは”おかつ”との楽しい旅路だった。
新たな地に赴くのに、不安もあったが、”おかつ”がいたから、それも楽しさに変えられた。
武一は小さな声で”おかつ”によく話しかけたものだ。
ご覧、あの滝のなんと見事なこと!
聞いたかい? あの鳥のさえずりは美しいね!
ここの名物の団子は美味しいよ!
もしかしたら、”おかつ”は退屈しているのかもしれない。
ずっと枯れ井戸に閉じこめているのだから―――。
武一は舶来の綺麗なガラスの瓶を手に入れた。
「これは本来、香水と呼ばれるものを入れる器らしい。香水とは焚き物を水に溶かしたようなものだそうだ。
あちらの婦人は、それを吹きかけて、身に香りを纏うのだよ。
とても綺麗だから、あの竹の水筒よりもいいだろうと思って……どう? 気に入ったかい?」
それまでにも”おかつ”に似合いそうだと、着物や櫛を井戸に投げ入れていた。
もったいない、と思った下女が、夜中に井戸を漁ったが、何も出てこなかったというから、それは”おかつ”に届いているらしい。井戸の中が一体、どのようなことになっているのか分からないが、武一は気にしなかった。気にしたのは、下女の扱いだった。
多くは田舎から家の為に奉公に上がった貧しい身の上の女たちだった。高い着物や、値の張る櫛を惜しげもなく井戸に投げ入れられては、反感も買うと言うものだ。
そう”おかつ”が教えてくれたので、それからというもの、彼は盆暮れには、男女問わず、給金とは別に、”彼らのもの”と言える品物を贈ることにした。家族の中に賢いものが居ると聞けば、援助もした。
それを西の都からついてきたウメ吉は、大いに賛成したものだ。彼はその援助でもって、大学まで行かせてもらい、武一に対し大いに尊敬していた。竹の水筒の中身も知っていたので、主人がいつまでも結婚しないことも、ガラス製の香水瓶を持ち歩くようになっても、何も言わなかった。
「ほうら”おかつ”、これが鹿鳴館というものだよ。
みんな変わった格好をしているだろう?
あの男爵の奥様の格好をご覧。可哀想に、今まで着たこともない”ドレス”と言うものに、慣れないようだ」
そういう武一はすでに髪は短髪になり、洋装にもすっかり馴染んでいた。
「”おかつ”も着物ではなく”ドレス”を着てみるといいかもしれないね。
いつか一緒に踊れると良いね」
古来からこの国に住んできた”人ならざるもの”は、舶来のものを好まないらしく、香水瓶が不機嫌そうに曇ったのを見て、武一が声を掛けると、思いもかけず「欲しい」との声が聞こえた。
普段、自ら求めることのない彼女の望みに、彼はいたく張り切り、飛びっきりのレースで飾ったドレスを井戸に落とした。
果たして、次の舞踏会に大層美しい姫君が、その”ドレス”を着て現れた。
どこぞの大臣のご令嬢だろうか?
どこの花街の女だろうか?
多くの女たちが扇の影で噂しても、答えは出なかった。
その様子に、異人の将校は、まるで昔聞いたペローの御伽噺に出てくる灰被り姫のようだと思った。
彼女は誰の誘いも受けず、水ばかりを所望した。
武一の付き添いのウメ吉は「あっ!」と小さく声を上げ、伏して主人に、彼女をダンスに誘うように懇願した。
もとから舞踏会に顔を出しても、とんと、女を誘うことのない武一は、その点では、女たちに不評だった。美しい顔もそろそろ加齢の陰が忍び寄ってきた。
結婚もせず、愛人も持たない彼には子も無かった。
その内、親戚から養子でもとって、その大きくなった事業を継がせるのだろうと囁かれ始めていた。
その彼が、舞踏会で最初で最後に踊ったのが、その日だった。
武一は”おかつ”がどんなに望もうと、それ以来、二度と”ドレス”は作らなかった。
鹿鳴館は短い役割を終え、彼もまた、舞踏会に顔を出すことはなかった。
相変わらず香水瓶を袂に入れ、各地を忙しく飛び回る日々に戻った。
***
武一の炭坑では最近、小さな事故が多く起きるようになっていた。
そこで、どのようなことになっているのか、視察に出向くことになった。
山はどこか不穏な気配をはらんでいた。
胸の中の香水瓶が震えた。
あちこちで落盤が起き、濁った水が湧いていた。
坑道は石炭を求め、山の腹の中を、縦横無尽に走っていた。
「これは良くないな」
そう武一が炭坑の中で、言ったか言わないかの内に、坑内のどこかの天井が落ち、大量の水が濁流となって流れ込んだ。
山が、荒らされた怒りをはらすかのように、人間たちを襲った。
ああ、私はなんということをしてしまったのだろう。
欲望に我を忘れ、自分では把握しきれないほど多くの事に手を出していた。
そのせいで、このような事態を引き起こしてしまったのだ―――。
水に襲われ、もがき苦しむ武一は、それでも袂から香水瓶を取り出した。
”おかつ”、お前だけでもお逃げ。
今までありがとう。
すると、香水瓶はするりと彼の手から抜けた。
武一は安心して目を閉じた。
次に目を開けた時、彼はむしろの上に寝かされていた。ウメ吉が主人が気がついたことに歓喜の声を上げた。
「これは一体、どういうことだ? 水は?」
「水は全て、そこの香水瓶から現れた姫君が飲んでしまいました」
見れば抗夫たちが香水瓶を取り囲んで、手を合わせていた。
「おかげで誰も失わずに済みました」
”おかつ”はいくらでも水を飲めるのだった。
そのことに気がついた武一は苦笑した。
すっかり忘れていた。
同時に、なぜか胸が苦しくなった。これは鹿鳴館の時と同じ感覚だった。
多くの男たちが”おかつ”を取り囲んでいる。
武一は、もう少しここにいて欲しい、と懇願する抗夫たちに別れを告げ、東の都に帰った。
帰るとすぐに炭坑の閉鎖を命じた。
「それは困る」「おまんまの食い上げだ」、と怒る抗夫たちに、「もうあの山はいけない」「これ以上、掘っても石炭は出ないし、山の神が怒っているのだ。堪忍してくれ」と、一人一人説得して、職を世話した。
それから事業も整理し、なるべく人の為になるようなことに力を入れた。
***
いつしか武一は、「おすくい武一さま」と呼ばれるようになっていた。と、同時にその屋敷を守るという、枯れ井戸に祀られた美しい姫を”勝姫”さまと呼び、敬い始めた。
***
「どうした武一? なぜ怒っている?」
いつもは武一が”おかつ”に気を使うのに、その日は逆だった。
「怒ってはいない」
「わらわには怒っているように見える。
わらわが何かしたのか?」
ちりちりと、熱気を感じた。最近ではついぞ感じなかった感覚だ。これは、武一が二十代の頃が一番強かった気がした。
それと同じほどの熱が、香水瓶から放たれ、武一の薄くなった髪の毛は乾き、逆立った。
「”おかつ”は何も悪くない。
悪いのは狭量な心の私だ」
「武一の心は狭くはない。
わらわの居場所を作って守ってくれた。
みなも武一を誉めておる」
「そうだ、みな、私を慕ってくれている。
そして”おかつ”、お前のこともだ。
それは”おかつ”がみなに受け入れられたということ。もう、どこにも追い出されはしないということ。
喜ぶべき事なのだ。それなのに、私は一体、どうしたことだろう。
みなが”おかつ”を慕うたびに、お前の名を呼ぶ度に、どうしようもないほどの嫉妬心に襲われる。
”おかつ”は私のものなのに。私だけのものなのに―――ああ、分かっている。
そうではないことを。
”おかつ”はとても力の強い神さまなのだろう?
私のような人間如きがこのような気持ちを持つのは不遜なことくらい分かっている。
なのに―――それでも―――」
私は”おかつ”を自分の側だけに置いておきたいのだ。
節くれ立った手で顔を覆った男に、しっとりとした優しい肌の手が触れた。
「”おかつ”?」
そこには頭の先からつま先まで、水に濡れたように潤った美しい姫が立っていた。
水も滴る美女、とはこういうことを言うのだろう。
身体に満ちる水は、溢れ出さんばかりだった。
ついに一筋の涙が頬を伝い、それが合図のように堰を切ったように溢れ出た。外には雨が降り始めた。
「”おかつ”なのか?」
武一は彼女を見たことがあった。あの鹿鳴館で踊った女性だ。彼が贈った”ドレス”を着て、多くの男たちの視線を奪った。
その時も、彼は嫉妬にかられ、二度と彼女をそのような場に連れて行くこと拒絶した。
思えば馬鹿だった。自分ももっと彼女と踊りたかったのに。
炭坑でもそうだった。
抗夫たちに囲まれているのを見て、早く独り占めしたくて、帰路を急いだ。
「ああ、そうだ。わらわは”渇”だ。
だが、今は渇えてはいない。
わらわの心は今、初めて満たされた。
武一はわらわの心を満たしてくれた。今までもずっとだ。
けれども、わらわは満足出来なかった。
水を求めるように、お前の心を求めた。
なんだ、気がつかなかったのか?
お前が他の女や物事に心を奪われる度に、わらわの乾きが酷くなったのを」
「”おかつ”……私は君と添い遂げたい……そう思っていた……」
「思っていた?」
「そうだ。しかし今となってはそれは無理というものだ。
もっと早く、自分の気持ちに気がつけば良かったのだ。
ご覧、”おかつ”。
私は白髪頭になってしまった。手も顔もこんなに皺だらけで、もうお前の夫には相応しくない」
二人が出会ってから、すでに五十年の年月が流れようとしていた。
「馬鹿なことを……」
そんな彼にころころと”おかつ”は笑った。
「わらわこそ、乾ききった姿をしていた。
そんなわらわを、お前はずっと側に置いてくれたのだぞ。
もし、お前がわらわを拒めば、また、わらわは永劫の渇きの中に戻されるのだ―――」
「”おかつ”……私と一緒になってくれるのかい?」
「ああ、お前が人の生を終えるまで、共にいよう。
困ったな、嬉しくて、雨が止まらないぞ」
いよいよ激しくなった雨が窓に叩きつけた。
「それは困る。川が氾濫したら、また民が困ってしまうぞ。
どうか、雨を止めてくれ!」
「やれ、困ったな。我がこれまで蓄えてきた水が、溢れ出てしまうようだ」
それでも”おかつ”はなんとか雨を止めた。
***
あの「おすくい武一さま」が素性の知れぬ若く美しい嫁を迎えたと聞き、口さがない者たちは「どんなに立派な人間とはいえ、所詮は男だな」と言い合ったが、多くの人間はそれを歓迎した。
なにしろ”おかつ”さまは大変な美人な上に、心根の優しい”お人”だ。いつも朗らかに武一さまを手伝っている。
子供にも恵まれ、家族で散歩している姿に、手を合わせる者も多かった。
けれども、決して驕ることなく、誰に対しても等しく親切にした。
困ったことに、”おかつ”さまが出掛ける時はなぜか雨が多かった。素敵な洋装姿を見たいと望む若い女の子たちは、どうしてこうも雨ばかりなのかと憤慨したが、”おかつ”さまはひたすら楽しそうだった。むしろ、楽しそうであればあるほど雨が強くなった気がするほどだった。
***
時は流れ、武一は天寿を全うした。
”おかつ”の嘆きようは天が破れたような雨になって現れた。
だが、それも短時間で終わった。一頻り泣いた”おかつ”は、毅然と顔を上げ、残されたまだ幼い子供たちに向かった。
それからさらに、末の子供が成人するまで武一の家を守った後、いずこかに姿を消した。
最後まで若々しく、瑞々しい”おかつ”は人間では無かったのだろうと、人々は噂した。
それは夜でもガス灯が明るく道々を照らし、鉄道がもうもうと黒い煙を上げながら全国を駆けめぐる世にはそぐわないような前時代的な考えだったが、多くの人はなるほど、と納得した。
目まぐるしいほどの時代の変化の中でも、人々の意識の根底には、まだまだ変わらない部分もあるようだ。
”おかつ”が去っても、武一の家も、その子孫も、水や火によって被害を受けることはなく、その命と財産を守ることが出来た。
今でも屋敷の中の枯れ井戸の社には”勝姫”という守り神がおられて、彼らを守ってくれているのだと言われている。
ただし、その代償として、武一の子孫は、尽く雨男、雨女揃いとも言われている。
子孫が嬉しいと、”勝姫”さまも嬉しいのだ。
だから、つい、身に蓄えた”水”が”雨”となって降り注いでしまうらしい――――――。